攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

柴田勝家 の検索結果:

2023年に訪問して良かったお城

…賤ヶ岳の戦い」の際に柴田勝家が本陣とした陣城として知られていますが、さすがに即席で整備するには大規模すぎるので、それより前、清州会議で長浜城が秀吉から柴田方に譲渡された際に、勝家の居城・北ノ庄城とのつなぎの城として整備されていた可能性が指摘されていて、ぼくもそっちに一票です。ただつなぎの城に大規模な曲輪は必要ないので、「賤ヶ岳の戦い」の前に急ピッチで改修したのも事実だと思います。 中腹にある駐車場から約30分ほど急勾配の登山道をのぼっていくと、あとはほぼ平坦なので山城としての…

【家康の謎】家康は信長の姉妹を娶ったのか?

…の死後に織田の重臣・柴田勝家のもとへ再嫁するも、その柴田が滅亡する際に運命を共にした、という女性だ。彼女と長政の間に生まれた3人の娘がそれぞれ有力大名のもとに嫁ぐなど、お市は戦国時代を語るにあたって欠かせない存在ではある。しかし、家康とお市の間の接点は少なくとも史実的には見出せない。……かと思いきや、糸口が何もないわけではないのである。 ここにもうひとり、ルイス・フロイスという登場人物が顔を見せる。キリスト教布教のために日本へやってきた宣教師で、信長との親交が深かったことでよ…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…たれたものの、秀吉と柴田勝家が敵対し、賤ケ岳の戦い、つづく北ノ庄城の戦いで柴田勝家が自害。勝家と共謀した信長三男の信孝も自害しました。こののち、織田家旧領のうち信長の次男・織田信雄が尾張・伊賀・伊勢の三か国を領有し、美濃は池田一族に与えられ大垣城に池田恒興、岐阜城に息子の元助、美濃金山城に森長可が入りました。 一方で家康は、安土城を訪れたのちに立ち寄った堺で、本能寺の変の報せを受けました。危機を感じた家康は伊賀経由で岡崎城へ急ぎかえりました。家康三大危機のひとつにも挙げられる…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…権力争い 織田信孝・柴田勝家 vs 織田信雄・羽柴秀吉の対立。勝家の誘いを断り、家康は信雄・秀吉方に →戦勝祝いとして秀吉に初花肩衝を贈っている(このとき石川数正が初めて秀吉と会うと、その後も使者に) 賤ヶ岳の戦いを経て、今度は信雄と秀吉が対立 翌年正月、家康は信雄と会見 信雄を支持する? 北条と同盟を結んだ家康に関東惣無事の役目は果たせない 佐竹氏や宇都宮氏など反北条の大名は直接秀吉に取り入ろうとする 1584年(天正12年)、43歳 小牧・長久手の合戦で家康は信雄方に 当…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…むしろ北陸方面担当の柴田勝家に押し返されている)。結果として武田は追い詰められた。 ●まとめ ・本拠地を舞台にしたものでもない限り、決戦で負けて即滅亡はしない。→敵が一気に本拠地へ踏み込んでくる可能性もなくはない(朝倉のケース)・滅亡する前には何らかの理由で家臣団の信望を失っていることが多い。敵の攻撃から守れなかったり(武田のケース)、方針が衝突したり(大内のケース)、そもそも内部対立があったり(蘆名のケース)→物語的に「愚かな君主」としてキャラクター付けされることも多いが、…

徳川将軍家の正室(御台所)の出身を調べる

…たお市の方と再婚した柴田勝家が滅んだ後は秀吉の庇護下に入り、羽柴秀勝と結婚するが死別。その前に別の男性と結婚していたという話もある。その後、秀忠と再婚した。実質的に将軍正室=御台所は彼女からと言っていいだろう。秀忠とお江の結婚の背景は、お江を庇護する秀吉が、徳川家との関係を強化する意図で計らったものと考えていいだろう。嫉妬深い女性というイメージが強いのは、秀忠が表立った側室を基本的に持たず、寵愛したお静の方も秀忠との間に生まれた保科正之(ほしなまさゆき)を秀忠の息子として育て…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

…で一番の実力者だった柴田勝家をやぶり、信長の後継者の地位を確実なものとする。また「小牧・長久手の戦い」では徳川家康相手に苦戦しつつも、その後に家康が旗印としていた織田信雄を懐柔して相手を押さえ込み、さらに朝廷に近づいて関自の座を得る。こうして着々と天下統一の道を進む豊臣秀吉は、ちょうどその頃土佐(現在の高知)の長宗我部元親がほぼ統一したばかりの四国に矛先を向けるのだった。 長宗我部家は以前から秀吉に敵対する動きが目立ち、この時も阿波・讚岐・伊予(それぞれ現在の徳島・香川・愛媛…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話①――秀吉の一夜城・墨俣城

…戒して妨害が激しく、柴田勝家など名だたる重臣が築城に失敗していた。 これに挑んだのが秀吉である。彼は川上交通で活躍する蜂須賀小六(はちすか ころく)ら近隣の野武士たちの協力を受けた上で、奇想天外な作戦に出た。普通ならば木材を現地に持ち込んだ上で工事をするところ、あらかじめ各種の部材に切り分けた木材を、小さいものは担いで運び、大きなものは筏にして川に流す、という手法をとったのだ。現地に届いた木材はすぐさま組み立てられた。さすがに1日ではできないが、2~3日で工事は完成し、敵方を…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台⑤――お市の方が殉じた城・北ノ庄城

…て織田氏の重臣である柴田勝家が1575年(天正3年)に築いた城だ。信長は朝倉氏・越前一向一揆を滅ぼした後に勝家を北陸方面の司令官とし、越前を与える。この地方には朝倉氏の居城だった一乗谷城があったが勝家はそこに入らず、新たに北ノ庄へ平城を築いた。信長の安土城に勝るとも劣らぬ壮大な城であったと伝わるが現存せず、のちに結城秀康によって築かれた北ノ庄城(福井城)は勝家の城から北方へ200メートルほどの場所に築かれたらしい。 本能寺の変による織田信長の死後、勝家は羽柴(豊臣)秀吉との後…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑩――内部分裂で落ちた城・七尾城

…は、北陸方面司令官の柴田勝家を主将とする部隊が七尾城の救援のため出陣した。うまく彼らが七尾城にたどり着いていれば、能登畠山氏にも生き残りのチャンスがあったかもしれない。しかし、この軍団にはトラブルが絶えなかったらしい。 まず加賀に入った辺りで、羽柴(豊臣)秀吉と勝家の意見が対立し、秀吉が勝手に抜けてしまう。しかも、七尾城の情報が全く入らなかったので、なかなか迅速な行動に移れなかった。これは謙信が街道をすべて封鎖してしまったからである。そうこうしているうちに肝心の七尾城では、謙…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ③――武将の気迫で持ちこたえた城・長光寺城

…うちのひとり、重臣の柴田勝家が入ったのが長光寺城だった、というわけだ。古い城であったから、勝家はこの城を修復しなければならなかったようだ。 その年のうちに、長光寺城は大きな戦いの場となった。信長に敗れて領地を追われていた六角氏が、朝倉・浅井氏らと手を組んで南近江奪還のために動き出したのである。その標的になったのが、勝家の守る長光寺城であったわけだ。籠城側は攻城側に対して明らかに小勢で、すぐに本丸だけが孤立する状況になったが、勝家の活躍もあって、なかなか落ちなかった。 もともと…

【10大戦国大名の実力】織田家④――信長の息子たち

…て一番の重臣であった柴田勝家が三男の信孝を推したのに対し、秀吉は織田家当主だった信忠の嫡男でわずか3歳の三法師を推し、結果として三法師が家督を継ぐことになった――というのが広く知られている通説である。 しかし、近年では別の見方も出ている。すなわち、筋論よりも大名としての実力が優先されがちな戦国の世において、血筋的正統性では勝っても幼児の三法師が家督を継ぐことになったのは、次男・信雄と三男・信孝の二人が家督をめぐって激しく対立しており、この争いを収めるためだった、というのである…

【クーデターで読み解く日本史】覇王の夢を打ち砕いた三日天下の野望――本能寺の変

…ます)、北陸地方には柴田勝家(しばた かついえ)が、中国地方には羽柴秀吉(はしば ひでよし=後の豊臣秀吉)、そして近畿地方には明智光秀(あけち みつひで)、といった具合である。 1582年(天正10年)、信長は中国にいる秀吉から「毛利の大軍が攻め込んできたため援軍がほしい」との要請を受けて自ら出陣するべく安土城を出て、京で定宿としている本能寺に入った。この時、彼の周囲にいたのはわずかな供の者だけだった。そして6月2日の明け方、突如として本能寺を兵が囲む。同じく秀吉の援軍として…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…」に同じく重臣だった柴田勝家の「柴」を組み合わせたものだという話もある。また、築城術に長けた人物でもあったようで、織田政権を象徴する存在ともいえる安土城は信長が長秀に命じて築かせたものである。 主君である信長が死ぬと、その仇を討った羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に味方し、同僚である柴田勝家を打ち破るにあたって大きな戦功をあげた。秀吉が短期間で旧織田政権を掌握できたのには、長秀の協力が大きかったといえるだろう。ただその一方で、長秀は信長が死んだ際には四国の長宗我部家征伐の準備中だった…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…らの織田氏重臣である柴田勝家を倒し、信長の息子たちも封じて、一気に勢力を伸ばしていった。これに対し、家康は武田と織田が相次いで倒れて空自地域になっていた甲斐と信濃(東部・南部)に進出してこの地域を獲得。さらに1585年(天正13年)には信長の次男・織田信雄を担いで秀吉と対峙した。この「小牧・長久手の戦い」は家康有利に進んだが、秀吉が信雄を抱き込んでしまったので大義名分がなくなり、戦いは終わった。 その後、秀吉は自身の妹・朝日姫をわざわざ元の夫と離縁させてまで家康の継室として押…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府15代・足利義昭――信長に縛られた、最後の将軍 1537年~1597年

…後継者の地位を争った柴田勝家に義昭が味方したため、結果的に秀吉は敵に回ることとなってしまう。 やがて秀吉は義昭を京都に呼び寄せた。義昭の猶子となり、征夷大将軍の座につくのが目的だったと思われる。義昭がこれを認めなかったために、秀吉の将軍就任は実現しなかったが、1588年(天正16年)には義昭は帰京しており、出家して昌山(しょうざん)と号した。この頃にはすでに、義昭と秀吉の間に敵対心のようなものはなかったようで、1592年(文禄元年)の文禄の役にも、出家した身でありながらも従軍…

バカバカしいけどおもしろい、もしもYahoo!ニュースで「本能寺の変」が紹介されたら

…くるんでしょうけど、柴田勝家だったら入らないのかとか、誰くらいが見出しに名前を入れるボーダーラインなのかも知りたいところ。 123456789⑩⑪⑫⑬本能寺火災 織田信長氏死亡か本能寺襲撃 織田信長氏死亡か 前者だと火事で亡くなったように見えるから「本能寺襲撃」に変更というくだりも勉強になるというか、そこまで考えて言葉を選んでいるのかと感心します。(いちおう攻城団もそういうことは考えながら言葉を選んでいるのですが、複数の視点で指摘しあうのは大事かもと思いました) とまあ一段落…

明智光秀と森蘭丸――あるいは本能寺の変という終わり

…け継がれ、重臣たちも柴田勝家や羽柴秀吉、明智光秀といった世代から新しい世代へ切り替わることがあったなら、森兄弟は信忠を支えて働くことになったろう。信長もそれを期待し、彼らを育てようという思惑があったはずだ。しかし、残念ながらそうはならなかった。蘭丸や長可らが領地をもらったのと同じ年、本能寺の変が起きてしまったからだ。この時、蘭丸は弟たちとともに本能寺にいた。「信長もの」フィクションでは、彼が本能寺に迫る軍勢の旗を光秀のものと信長に知らせるのがある種、お決まりのシーンになってい…

【戦国時代の境界大名】柳生氏――めまぐるしく変わる情勢の中、一芸に活路を見出す

…代は不明だが、信長と柴田勝家・滝川一益・佐久間信盛といったそうそうたる織田家の重鎮が大和国にやってきた際、その案内役を務めたという逸話が『寛政重修諸家譜』に記されている。 しかし、戦国乱世の事情はすぐに変わるものだ。翌元亀2年、松永久秀は仇敵・筒井氏を攻め、この頃以降は信長に反する動きを見せていく。柳生氏は以前からの付き合いの故か、それとも筒井氏への旧怨を忘れられなかったためか、久秀に味方して戦に敗れたばかりか、宗厳の嫡男で将来の後継ぎとなるはずだった厳勝が重傷を負い、一生ま…

【戦国時代の境界大名】小笠原氏――名門武家、宿願のために三英傑の元を渡り歩く

…て羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家が争っている頃だ。 紆余曲折の末の悲願達成 長時が信濃を追われた時、息子の小笠原貞慶(1546―95)もこれに付き従っていた。摂津までは父とともにいたのだが、長時は謙信を頼らず、代わりに諸国を回って小笠原氏再興の道を探った。といってもこの親子は決別したわけではない。のち、会津に父を訪ねた貞慶に、長時は代々の家宝を授け、己の家督を継ぐ小笠原氏の当主として認めたという(『寛永諸家系図伝』)。 その後、1575年(天正3年)に織田家臣から「来年には信長自…

明智光秀と朝倉景鏡――あるいは誰のための裏切り?

…である。弟側についた柴田勝家らも許したし、松永久秀も差別していない。そもそも、光秀や細川藤孝なども将軍・足利義昭を裏切って信長についたと言える立場と言えるが、それを理由に光秀らを退けたという話はない。景鏡もそのようにして受け入れられたのであろう。 であるから、景鏡が織田家に降伏してから土橋信鏡(つちはしのぶあきら)と名乗ったのも、信長による強要、あるいは織田家中の無言の圧力に負けて……というのはちょっと考えられない。彼自身が望んでやったと考えるべきではないか。それが織田家中に…

戦国時代、最大規模の合戦は?

…せて5万6000人、柴田勝家をやぶって信長の後継者闘いに勝利した「賤ヶ岳の戦い(賤ヶ岳合戦)」では羽柴軍5万余騎、柴田軍3万余騎と両軍あわせて8万人とそれほど大規模ではありませんが、これは大名家同士の合戦だからでしょうね。 唯一、秀吉と家康が争った「小牧長久手の戦い(小牧長久手合戦)」は羽柴軍10万余騎、徳川軍3万余騎と両軍あわせて10万人をこえています。 家康といえば、秀吉亡き後の豊臣家との争いである「大坂の陣」がありますね。 「大坂冬の陣」では徳川軍20万余騎、豊臣軍10…

金沢城 武士が統治する証となった城

…て発達した。 金沢御堂は一揆の中心であり、本願寺と対立していた織田信長による一揆の鎮圧が行われた。1575年(天正3年)8月に3万を越える大軍で越前に出陣して総攻撃。その後、柴田勝家に加賀攻めを任せている。勝家は金沢御堂を陥落させ、一向一揆の指導者を討ちとって首級を信長に送っている。こうして100年に及んだ民衆による統治は終わった。その後、金沢城は盛政が統治したが、「賤ヶ岳の戦い」で戦死。1583年(天正11年)に前田利家が入った。江戸の終わりまで前田氏が代々居城としている。

明智光秀と柴田勝家ーーあるいは一線を引かれた同僚?

柴田勝家といえば、織田家の猛将としてその名を知っている人は多いはず。攻撃が得意なことから「掛かれ柴田(掛かれ、は攻撃の時の合図)」と呼ばれたとか、籠城戦で追い詰められた時にあえて水を溜めた甕を割って兵士たちに決死の突撃をさせた「甕破り柴田」のエピソードなどもその印象を強化する。 ところでこの柴田勝家だが、若い頃には信長と敵対していたことを今回の『麒麟が来る』で初めて知ったという人は、意外に多いのではないか。織田家と信長が重要なポジションで登場する大河ドラマでも、あまり頻繁には…

明智光秀と羽柴秀吉――あるいは「二人の余所者」

…ない。織田重臣たちは柴田勝家や丹羽長秀、佐久間盛政といった織田弾正忠家に代々仕えてきた譜代の武将が多く、少なからず冷たい目で見られることもあったはずだ。秀吉が「木下」姓から新しく名乗るにあたって、柴田の柴と丹羽の羽をとって「羽柴」と名乗った話などは、そのような立場の中での気遣いを思わせるエピソードである。 先のとおり二人は「金ヶ崎の退き口」でもともに戦っているし、また光秀が京都で代官を務めていた際に秀吉と連名で出した書状が残っているなど、同じ仕事をしたこともたびたびあったよう…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…jp 手取川古戦場 柴田勝家を総大将とする羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政ら3万の大軍を出兵させます。 越前北ノ庄城に結集した後、七尾城へ向けて越前から加賀へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍しました。 しかし途中で秀吉が総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど足並みの乱れが生じていました。 勝家率いる織田軍は手取川を渡り水島に陣を張ったが、既に七尾城が陥落していることすら知らなかったようです。 織田軍が手取川を越えて加賀へ侵入したことを知ると、謙…

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」キャスティング一覧

…ほうか 信長の叔父 柴田勝家 安藤政信 織田家家臣。筆頭家老。 斎藤道三 本木雅弘 斎藤家の当主。帰蝶の父。 斎藤義龍 伊藤英明 道三の嫡男。光秀とは学友。 深芳野(みよしの) 南果歩 道三の側室で元は土岐頼芸の愛妾。 小見の方 片岡京子 道三の正室 斎藤喜平次 犬飼直紀 道三の三男 斎藤孫四郎 長谷川純 道三の次男 土岐頼芸 尾美としのり 美濃国守護。 土岐頼純 矢野聖人 土岐頼武の嫡男 稲葉良通(一鉄) 村田雄浩 斎藤家家臣。のちに織田家家臣。 足利義輝 向井理 室町幕府…

明智光秀と織田信長、あるいは「逆算された光秀」

…だ。信長からしても、柴田勝家や丹羽長秀、あるいは羽柴秀吉といった以前からの家臣たちを差し置いて光秀を抜擢するには、何かしらの有用性を見出したことであろう。 2人にあったのは野心の合致であったのか、性格的な共通点(いわゆる「ウマが合う」)であったのか、それとも天下の行く末について理想や意見が共鳴したのか。今となっては答えがわからぬことだが、2人の関係が決裂したと知っている私たちは、それ故に想像の翼を無限に広げることができる。「本能寺の変」をクライマックスとする戦国時代ものエンタ…

加藤清正の虎退治

…を握ろうとする秀吉と柴田勝家が争った「賤ヶ岳の戦い」で活躍し、「七本槍」と讃えられたことはつとに有名だ。 その後も秀吉の天下統一戦で存在感を示してきた清正は肥後熊本に19万5000石を与えられる。1592年(文禄元年)から九州の諸大名を中心に大陸出兵が行われた際にもその主力として活躍し、朝鮮の二王子(臨海君・順和君)を捕らえ、朝鮮半島を踏破して兀良哈国(現在のロシア)にまで攻め寄せるなどの功績を残した。 そして、このころに彼が演じることになった大立ち回りこそ、「加藤清正の虎退…

【戦国合戦こぼれ話】柴田勝家の“瓶割”

織田信長の重臣・柴田勝家は『瓶割り柴田』という異名をもっている。その名がつくことになった戦いが、南近江長光寺城籠城戦だ。 1570年(元亀6年)、六角氏が信長の上洛戦によって奪われていた長光寺城を奪い返そうと奮起した。長光寺城には勝家が入っており、六角氏は城を落とすべく、水源を断つ作戦に出ることに。南近江は元々が六角氏の所領だったのだから、城の周辺住民は六角氏と旧知の間柄であり、水源の場所を教えてくれた。こうして長光寺城内は水不足になってしまったのだ。 不利な状況に追いやられ…

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