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1579年(天正7年)、徳川家中で悲劇的な事件が起きた。家康が嫡男で岡崎城主の信康に切腹を強要して死に至らしめるとともに、その母で正室の築山殿を殺害させたのである。 通説では、家康は同盟者・織田信長の要求によってやむなく妻と息子を殺さざるを得なかったという。というのも、信康が正室として迎えた徳姫(信長の娘)と、家康(当時は浜松城を本拠)との不仲から岡崎にいた築山殿の関係が悪化した末、徳姫が父・信長に不満を訴えることになってしまったからだ。その内容が単に義母への不信、あるいは夫…
結局、徳川家康は三方ヶ原の戦いに敗れた。命からがら生き延びた家康は浜松城へ逃げ込むと、その時の自分の憔悴しきった顔をわざわざ絵として描かせた。己の慢心を戒めるためのものであり、以後生涯を通してその絵を持ちつつづけた、という。 この絵は現在徳川美術館に収蔵されており、正式名称は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」だが、家康が顔をしかめていることから「しかみ像」と呼ばれるのが一般的である。なお、この話については「絵に描かれた時、家康は恐怖のあまり脱糞していたが、部下にはそれは焼き味噌だと…
三方ヶ原の戦いで敗れた家康はどうにか浜松城へ戻った。大敗した後だから武田軍が追撃してきそうなものだが、実際にはそうはならなかった。その説明として、よく語られるのが「家康が空城計(空城の計)を仕掛けた」という話だ。 曰く、家康は浜松城に入るや、松明を焚かせ、門を開かせ、城内を静かにさせた。いかにも罠がありそうな風情を演出したのである。これを見た武田軍は「ここに攻め込んでは危うい」と攻撃を控え、浜松城は責められずに済んだ……という。この作戦を古代中国の軍学書『兵法三十六計』に第三…
1573年(元亀4年)、武田信玄の軍勢が徳川領への侵攻を開始した。この戦いは信玄がいわゆる「信長包囲網」の一翼を担うべく、織田の同盟者である徳川を攻撃したものとして理解されている。しかしそもそも徳川(および織田)と武田は美濃や遠江を介して武田領国と接していた。また、かつて家康は対今川・対北条で武田と手を組んだことがあるのだが、約束を破って今川・北条に融和的な姿勢を示したということもあった。つまり、徳川と武田はそもそも戦わざるを得ない関係であったのである。 この時、2万5千と呼…
戦国武将たちは総じて信仰心が篤い。織田信長は桶狭間へ出陣するにあたって熱田明神へ参詣したし、上杉謙信は毘沙門天を信仰するあまり自らをその化身と信じるに至った。謙信自身やそのライバル・武田信玄をはじめとして出家後の名前で広く知られている武将・大名も多い(それぞれの出家前の名は「上杉(長尾)景虎」と「武田晴信」)。また、この頃には「天道(てんどう)」と呼ばれる、世界の摂理を司どる存在も広く信仰されていたようだ。 では、家康はどんな宗教を信仰していたのだろうか。松平氏の菩提寺は今で…
徳川家康は学問・剣術・薬学と、非常に多趣味・多芸の人として有名だ。その中でもよく知られているのが鷹狩である。鷹狩と言っても、鷹「を」狩るのではない。鷹「で」狩る、日本古来のスポーツだ。猛禽類(鷹以外にも鷲や隼なども使う)を育てたり馴らしたりして、人間の命令を聞くようにし、小動物や鳥などの獲物を捕獲させる。これを専門的に行う職人を鷹匠と呼ぶ。 ルーツはハッキリしないが、おそらくは遥かな古代に中央アジアの遊牧民たちの編み出した技が広まったものであろう。一方、日本で初めて行われたと…
三河を統一した家康は続いて東へ勢力を伸ばし、遠江一国を手中へ収めた。三河国主としての家康は先祖伝来の岡崎城を拠点にしていたが、領国が広がるとこれでは不便になる。結果、家康は新たな居城として浜松城を築いた。三方原台地の東南端に築かれた城で、家康は駿府へ移るまでこの土地を拠点とした。 しかし、家康はまったくイチから浜松城を築いたわけではない。この場所はもともと「曳馬(引馬。ひくま)」と呼ばれていて、曳馬城という城があった。最初の築城は15世紀、吉良氏の家臣だった巨海新左衛門尉(お…
1566年(永禄9年)、家康は三河から今川氏勢力を駆逐し、三河を(一部の織田方の所領を除いて)おおむね統一することに成功した。そしてちょうどこの頃、関白・近衛前久(このえ さきひさ)を通して朝廷から従五位下(じゅごいのげ)・三河守(みかわのかみ)の官位をもらい、さらには「松平」から「徳川」へ改姓したのである。 では、家康はどうしてわざわざ苗字を改めたりしたのだろうか。これはかつて祖父・清康が対今川氏を見据えて「世良田(せらだ)」を名乗ったのに倣ったものであろうと考えられている…
徳川家といえば本姓(ほんせい。一般的な姓、苗字とは別にルーツを示す名前)は清和源氏、ということに現在ではなっている。だからこそ征夷大将軍になれたのだ、というわけだ。しかし、実際のところは別に征夷大将軍になるのに源氏である必要はなかった(織田信長が朝廷から将軍職を提案されたことなどが根拠)とされている。それどころか、家康が本当に源氏だったかどうかさえ怪しい、という話をご存知だろうか。 徳川氏、ひいては江戸幕府が正史として伝える徳川氏の由緒話は以下のとおりである。そもそもの祖は「…
現代日本人は普通、生涯においてひとつの名を使い続ける。ここで言う「名」は「姓名」と言った時の「名」、俗に言うところの「下の名前」のことだ。自分が所属する家(この感覚も現代日本人にはもう希薄かもしれない)を指し示す「姓」、上の名前は結婚や養子入りなどで変わる可能性がそれなりにある。しかし、個人を識別する名については、特に事情のある人が家庭裁判所に申し出をして認められた上で役所に届け出なければいけない。だが、武士はそうではなかった。生涯の中で何度も変えるケースが珍しくなかったので…
徳川家康は元服当初「松平元信」を名乗ったが、これを「元康」と改名した。そして、今川氏と決別した後の1563年(永禄6年)に、「元」の字の方も変えてしまって「家康」を名乗るに至ったのである。元康の「元」の字は今川義元からもらったもの(偏諱)であり、松平と今川の強い関係を示すものだ。その偏諱の文字を捨てるというのは両者の決別を示すものだ――というのが通説的理解だ。 では新しく選んだ「家」の字は何に由来するのか。それは「八幡太郎」こと源義家である、というのが知られている説だ。義家は…
戦国時代ものエンタメで欠かせない要素の一つが、各大名や武将が自分の居場所を知らせるために用いた旗印だ。織田信長といえば永楽通宝の旗印、武田信玄といえば風林火山の旗印、というあたりが有名だろう。そしてもうひとつ、よく知られているのが徳川家康の「厭離穢土欣求浄土(おんりえど ごんぐじょうど)」の旗印である。 これは浄土宗の考え方(思想)で、汚れた現世から離れたい、浄土へ生まれ変わりたい、という意味合いだとされる。では、どうして家康はこのような言葉を旗印として掲げるようになったのか…
桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、家康は大高城を引き払って故郷の岡崎へ向かった。ところが父の城であった岡崎城には入らず、まず松平氏の菩提寺である大樹寺へ入る。当時の岡崎城には今川方の城代が入っていて、家康がそのまま入ることはできなかったからだ。その城代が駿河の方へ引き上げていく。つまり「捨てた」ということだ。捨て城であるなら拾ってしまっても構わないだろう――そのように理論武装、言い訳を用意した上で、家康は岡崎城に戻った……以上が、いわゆる通説における家康の岡崎城への帰還…
「大高城の兵糧入れ」とは、桶狭間の戦いに関連して家康(当時は元康)がこなしたとされる任務のことだ。これは非常に危険な任務であったとされ、神君・家康の武勲史における輝かしい最初の1ページとして長く親しまれてきた。なお、この出来事は桶狭間の戦いの前年にあたる1559年(永禄2年)であったとする説もあるが、同年であったとするほうが一般的であるようだ。 桶狭間の戦いに先立つ今川義元による一連の尾張圧迫において、大高城は熱田にも近い重要な前線基地と見なされていた。逆に言えば敵(この場合…
「徳川家康は幼少期に今川氏の人質だった」という話は、歴史にあまり詳しくない人でも聞いたことがあるレベルの知識であり、ほとんど常識と言ってもいいだろう。竹千代と呼ばれた頃の家康は故郷の岡崎から引き離され、今川氏お膝元の駿府で苦難の幼少期を過ごした。これが忍耐多き家康の人生の始まりである……というのが「徳川家康物語」の定番だ。 しかし近年の研究では「家康は人質ではなかった」というのが通説になりつつあるのをご存知だろうか。個人的には、これは「人質」という言葉の定義の問題であるように…
家康の母親は於大の方(おだいのかた)という女性で、三河刈屋城主・水野忠政(みずの ただまさ)の次女にあたる。そんな於大の方がなぜ広忠に嫁ぐことになったのか。これは(当時の戦国大名なら当然のことだが)全くの政略結婚である。 水野氏は尾張・西三河の南に伸びた知多半島に根を張る国衆であり、地理的な事情から松平――ひいてはその裏にある今川につくか、あるいは織田につくかを迫られる立場にあった。この時、忠政は松平を、その嫡男の信元(のぶもと)は織田を選んで両者に対立が生まれたものの、最終…
徳川家康の父は松平家の当主・松平広忠である。ただ、彼の生涯について語るにあたっては、その父(つまり家康の祖父)・清康について語らないわけにはいかない。清康の行動とその死が広忠の人生に与えた影響は非常に大きいからだ。清康はもともと三河の安城城を拠点にしていたが、同族の岡崎松平氏を攻めて岡崎城を奪い、ここを拠点とした。以来、合戦を繰り返して勢力を拡大し、もともとの西三河だけでなく東三河、さらには尾張にまで進出。織田信秀(信長の父)とも戦っている。 ところが、清康はその戦いの中で突…
「竹千代」と呼ばれた幼き家康が、苦難の日々を過ごしていたことはよく知られている。彼が生まれた松平氏は、祖父・清康(きよやす)の頃には勢力を大いに拡大したものの、清康が暗殺されたせいで衰退し、家康誕生当時は東の今川・西の織田の両勢力によって激しく圧迫されている状況だったからだ。当時、家康の父・松平広忠(まつだいら ひろただ)は基本的に今川寄りの姿勢をとっていたようだ。しかし、織田に味方する勢力が増える中で広忠はこれまで以上の援助を今川氏に求めざるを得ず、その代償として嫡男の家康…
昨夜は榎本先生の最新刊「超約版 家康名語録」を紹介する番組を攻城団テレビで生配信しました。来年の大河ドラマの主人公でもある徳川家康の名言を集めた本ですが、その大半は江戸時代中期や幕末にまとめられた書物で紹介されているので、ほんとうに家康が語ったセリフかはわかりません。わからないのですが、ただ「みんなが求める家康像」というか、まさに偶像としての家康の輪郭が見えてくるような名言録になっているので、個人的にはとてもおもしろく読めましたし、また紹介するのも楽しかったです。 本書に掲載…
…を連載いただいている榎本秋先生の新刊「超約版 家康名語録」(ウェッジブックス)が11月22日に発売されます! 艱難辛苦に打ち克ち、戦国の世を終わらせた徳川家康。 その名言を60個ほど厳選し、ドラマで描かれる場面と重ねつつ、平易な現代語で解説する名言集。 来年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の主人公、徳川家康には多くの名言が残されています。もちろんその中には神格化した家康を賛美するため、のちの時代に創作されたエピソードも多数含まれているのですが、そうした「みんなが求める家康像…
本多正信といえば、家康の戦いを支えた譜代の名門・本多家の出身であり、彼自身も家康の腹心として内政や謀略の分野で大いに活躍した人物だ。「徳川の知恵袋」「家康の懐刀」などと呼ばれ、家康が彼を「友」と呼んだことからも、彼が徳川家の中で重要な人物であったことがよくわかる。 家康が正信を寵愛したことを物語る、こんな話がある。家康が大御所として天下を支配していた時代、町で「雁どの、佐渡どの、於六どの」という言葉が流行った。これは家康が愛した3つのものを示していて、雁とは鷹狩りのこと、於六…
軍神・上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝は、最大で120万石にも達する所領を治めた大大名だ。この時、4分の1にあたる30万石を領していた家臣がいた。それが文武兼備の智将と讚えられた直江兼続(なおえ かねつぐ)である。この人は兜の前立てに「愛」の1文字をあしらっていたことでも有名だ。 兼続は景勝を支えて軍事・内政・外交といった各分野で活躍し、豊臣秀吉からは「天下の器」と絶賛された。一方で当代一流の文化人であると同時に蔵書家としても知られ、さらに秀吉の側近・石田三成や、前田利益(慶次郎…
石田三成が何よりも頼りにした彼もまた、様々な名前で知られた戦国武将のひとりだ。最も有名な名は島左近(しま さこん)だが、他にも清興(きよおき)・友之・昌仲など。出身地も諸説ある。 彼は最初、大和(現在の奈良県)の国の戦国大名・筒井家の家臣だった。まず筒井順昭(つつい じゅんしょう)に仕え、彼が早死にすると同僚の松倉勝重(まつくら かつしげ)とともに順昭の子・順慶(じゅんけい)を養育する役目を務める。ここから島は左近・松倉は右近という通称で並び称せられるようになった。 勝猛(か…
戦国時代の武将の中には、真田幸村や武田信玄のように本名ではない別の名前の方が有名な人物が数多くいるが、この片倉景綱(かたくら かげつな)もまたその中のひとりだ。彼のもうひとつの名前は「片倉小十郎(こじゅうろう)」。そう、「独眼竜」の名も高き隻眼の名将・伊達政宗の、右腕ならぬ右目として活躍した軍師だ。 彼は元々武士の出身ではなく、出羽(ほぼ現在の山形県と秋田県)米沢の成島八幡宮(なるしまはちまんぐう)の宮司・片倉景重の子として生まれた。彼の腹違いの姉(姉ではなく母とも)が政宗の…
「秀吉の両兵衛」と呼ばれた2人の名軍師のうち、竹中半兵衛は病によって若くして倒れたために秀吉に惜しまれた。一方、もうひとりの黒田官兵衛も調略や外交折衝を得意とし、秀吉の天下取りに大いに貢献したのだが、彼はその才知の鋭さと野心ゆえに秀吉に警戒され、晩年は不遇だった。半兵衛と同じように官兵衛という名前も通称で、本当の名前は孝高(よしたか。何度か名乗りを変えている)だが、こちらの通称、もしくは出家後の如水(じょすい)という名前の方が有名だ。 播磨(現在の兵庫県南西部)の小大名・小寺…
角隈石宗(つのくま せきそう)は占いによって合戦の吉凶を占うタイプの軍師だったが、大友家にはもうひとり高名な軍師がいた。彼は石宗の弟子だったが、軍師としては兵を動かし策略を練るタイプだった。部下の心を掴んでその実力を引き出すことが上手く、当時の大友家当主・大友宗麟(出家後の名前。その前は大友義鎮)を支えて大いに活躍する。その名は立花道雪(たちばな どうせつ)。しかし、これは名門立花家の門跡を継いで、さらに出家した後の名前で、それ以前の名前は戸次鑑連(べっき あきつら)という。…
すでに紹介したとおり、戦国時代の軍師にもいろいろなタイプが存在した。戦場での戦略を立てることに長けた者、忍者を使った情報工作などに長けた者、謀略を巡らせて合戦を有利に運ぶ者など、実に様々だ。 その中でも、九州の大名・大友宗麟に仕えた角隈石宗(つのくま せきそう)はちょっと異色な軍師だ。彼は「軍配者(ぐんばいしゃ)」と呼ばれる、軍配を持って占いなどを行うタイプの軍師だった。とにかく石宗の存在は際だっており、なんと彼は兵法や天文学・気象学といった知識に加え、妖術を駆使して合戦で活…
本連載で繰り返し触れてきたが、戦国時代の九州には三強と呼ばれる強力な戦国大名が存在した。角隈石宗(つのくま せきそう)や立花道雪(たちばな どうせつ)が仕えた大友家、秀吉の九州征伐に頑強に抵抗した島津家、そして龍造寺(りゅうぞうじ)家だ。龍造寺家は隆信(たかのぶ)が当主の頃に全盛期を迎え、肥前(現在の佐賀県及び長崎県の一部)・肥後(現在の熊本県)・筑後(現在の福岡県南部)・豊前(現在の福岡県東部及び大分県北部)に勢力を伸ばした。そして、その隆信を支えた軍師が鍋島直茂(なべしま…
豊臣秀吉の「両兵衛」と言えば、彼の両腕として活躍した軍師として大変に有名だ。その一方、黒田官兵衛には外交折衝や謀略などで活躍しているイメージがあり、もうひとりの竹中半兵衛は痩せ形で長身、優しい顔立ちといった外見や、病で死んだことなどもあって知性派の策士、というイメージがある(もちろんこれはフィクションで積み上げられたイメージであるわけだが)。 半兵衛は幼少の頃から武芸よりも学問や読書を好んで兵法書にも通じ、長じては秀吉の軍師として活躍する。その知略は様々な古代の英雄にたとえら…
豊臣秀吉の軍師といえば、まず誰を連想するだろうか? 病に倒れた竹中半兵衛と野心を秘めた黒田官兵衛の「両兵衛」が最も有名だが、ちょっと渋好みの人だったら主に内政面を担当して兄を支えた豊臣秀長(とよとみ の ひでなが) を挙げるかもしれない。しかし、秀吉を支えた家臣団の中にはもうひとり、軍師的な役割を担った重要な人物がいる。彼の名は蜂須賀正勝(はちすか まさかつ)。蜂須賀小六、という名前の方が通りがいいだろうか。 彼は尾張国(現在の愛知県西部)海東郡は蜂須賀村の出身で、木曾川筋を…