攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

水堀 の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【九州編】

…う) ここは小倉城の水堀とそびえる石垣、南蛮造りを模している模擬天守がすべてフレームに収められます。案内図にも紹介されていますが、小倉城一のフォトスポットだと私は思います。次に、趣深い八坂神社との間(北の丸と本丸の間)にある堀。 個人的な趣味ではありますが、堀内に生える草に苔むす&草茂る石垣と白い塀が、なんともいえない趣を感じます。山奥にある城のような、神社の立木に隠されていて、隙間からそっと覗くと広がる、緑に覆われた白い塀と立派な石垣をもつ城の存在。うまく言い表せないのです…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯5】

…白く美しい御三階櫓と水堀の構図が写真映えする。天気が良ければさらに良い。必ずと言っていいほど、写真を撮るポイント。 行田市郷土博物館の一部でもあるこの櫓。郷土博物館に入館すれば、櫓の中にも行けます。ただし、櫓の中ではあるけれど博物館の展示室ですのでご留意ください。展示室ではあるけれど、本館に対する離れ的な別館なので、渡り廊下を渡っていくところが、渡櫓を進むようで、ちょっとワクワクします。 石垣の石の展示は、御三階櫓とは反対側にあるので博物館の片隅にひっそりと並んでいます。立て…

福井城へ重ね捺し御城印スタンプラリーの取材に行ってきました

…城にふさわしい見事な水堀と石垣と桜がとても美しかったです。 福井城の本丸跡には県庁と県警本部が建てられているのですが、週末でも自由に散策できますし、とくに天守台跡は花見に来られている地元の方も多く、地域に愛されているお城だなと感じました。(観光客目線だと全面を公園化してほしいと思うのですが、そもそも江戸時代の城は政庁であったことを踏まえれば、いま県庁があるのは自然なことですよね) 丸岡城周辺のスタンプ設置場所をまわる 今回スタンプは以下の5か所に設置されています。台紙御城印の…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…これらを堀(北と西は水堀、東と南は空堀)で囲って中堀としています。さらに台地が連なる東面と南面を大きく囲っているのが三の丸です。城の北側は低湿地帯であるため、敵の侵攻のリスクは低いと考えられ、南側の防御を強化する作りです。名古屋城の縄張りの特徴はいくつかあります。そのひとつは、曲輪を方形にしてずらすように配置していることです。曲輪と曲輪の間は細い通路=鵜の首(うのくび)と呼ばれ、敵の侵入を容易にさせない工夫がされています。全部で6か所の鵜の首があります。特徴の二つ目は馬出です…

【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

…単郭で、周囲を石垣と水堀が取り囲んでいました。現在の二条城の二の丸東側部分にあたると考えられており、天守は北西隅にありました。単郭とは長方形の本丸のみからなるもので、城の本質部分だけのきわめて単純な構造です。東側には巨大な櫓門がありますが、これが東大手門で堀川に面しています。洛中洛外図屏風は複数あって細かい描写が異なりますが、おおむね、北側にも櫓門があってこの西に土塀が続き、北西隅に五重天守が描かれています。この天守は大和郡山城天守を移築したものです。徳川氏の京都における本拠…

【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

…府城公園には二の丸の水堀や本丸の堀の一部、石垣などが良好な状態で残されており、輪郭式縄張りを体感することもできます。さらに、1989年(平成元年)には巽櫓が、1996年(平成8年)には二の丸東御門が、2014年(平成26年)には坤櫓がそれぞれ復元されました。これにより駿府城の本来の姿が見える化され、当時の姿を体感することができます。 復元された東御門は二の丸の東側の出入り口であり、いわゆる「枡形(ますがた)」の門となっています。つまり、方形の区画を石垣と堀で囲み、中堀にかかる…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…と中枢部の南側の堀は水堀ですが、その中央には堤防上の中土手が設けられていて、この城の特徴の一つです。家康時代に作られたものかどうかまではわかっていませんが、武田築城術を取り込んだ家康の先進性と考えてもよいかもしれません。 遺構は地中に眠る 家康時代の遺構は地中深くに眠っているのだろうか いまの浜松城公園などにある浜松城の遺構のほとんどは、堀尾吉晴時代以降のものです。野面積みの天守台や本丸の石垣も堀尾吉晴時代のものと考えられています。残念ながら家康時代の遺構が表出しているものは…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編】

…してかっこいいです。水堀から高く立ち上がる石垣のどっしりした感じも好きですね。 そのほかの諏訪高島城の城菓子 甲子堂菓子店さんの「湖の浮城」 こちらは日本三大湖城のひとつでもあり、かつては諏訪湖に突き出した水城だった諏訪高島城の別名「諏訪の浮城」にちなんだ城菓子で、手作りタイプのもなか。なお、湖とかいて「うみ」と読ませるようだ。正方形の皮には、諏訪湖の水面だろうか、渦巻きのような文様が彫り込まれています。 1個 160円 餡は粒あん。別包装されていて、食べる時に餡を皮の上に絞…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…り、かつ巨大な石垣と水堀、全体を大きく取り囲む惣構の堀によって難攻不落の城が作り上げられた。これに加えて、「象徴の城」としても大坂城はすさまじかった。地下も含めて七層(諸説あり)になる天守閣は外装にも内装にも金銀をふんだんに使い、かつ黒漆で外壁を漆黒に染めたとされる。黒と金に輝く大坂城は、現代の白亜の城とはまた違う威圧感を放っていたのだろう――九州の大名、大友宗麟は大坂城について「天下無双の城」と語っている。 秀吉の死後はその跡継ぎである秀頼が入り、ここを居城とする。しかし関…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城をめぐる戦いの様相④――戦わずに勝つための長囲と調略

…飲料水や防備のための水堀、交通のための川や海など、城にとって「水」は非常に重要な要素だ。それを逆利用するのがこの水攻め――具体的には土木工事で近くの川の流れを変え、堤防を築いて、城を水浸しにしてしまう戦法だ。結果、その城は孤立し、援軍が後詰決戦に挑むのも難しくなる。川に面していて窪地にある城などに、特に効果があると考えられる。しかし、これも大規模な土木工事を必要とするから、通常の兵糧攻め以上に経済力が必要であったろう。 なんにせよ、城を攻めるのは大変なことだ。人が死ぬし、兵糧…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】本城の場所は「四神相応」であるべき?

…引き込むことで簡単に水堀を用意することが可能で、また水によって守られた方向は攻めるのが難しかったので、守りやすかったとされる。防御面だけでなく、統治や流通という面でも、水に面していれば移動がしやすく、かつ人が集まって栄えやすい、というのも繰り返しておきたい。 同種の存在として、主に瀬戸内海の水軍(海賊)が築いた「水軍城(海賊城)」がある。これは海に面した半島に築いたり、小島をひとつの城に仕立ててしまったり、といったものである。ここを拠点に、彼らは海を荒らしまわったわけだ。川や…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり

…から継承された石垣・水堀をはじめとする築城の技術を加藤清正をはじめとする子飼の諸大名に教え、各地で壮麗な近世城郭を築かせたとされる。秀吉の死後、関ヶ原の戦いで天下の実権を握った徳川家康は、江戸城、名古屋城、二条城といった城々を、諸大名たちを動員する「お手伝い普請」「天下普請」によって石垣の城として築く。 またこの江戸時代初期には、全国の諸大名も本拠地の拡張・支城の建設に励み、ある種の築城ラッシュの時代が訪れる(ただし、東国では石材の確保が難しく、石垣の城は珍しかった、とも)。…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化②鉄砲が登場して戦い方が変わった?

…と、合戦の大道具としての城も姿を変えざるを得ない。敵兵の侵入を阻むための広い水堀や急傾斜の石垣が利用されるようになり、私たちのよく知る近世城郭につながっていく。このような大規模な城を築くのには、山の頂上は向かない。平地や小高い丘のほうがよい……ということなのだろう。また、先述したようにそもそも山城が普及したのには「騎兵に有利」という点があったからだ。騎兵が戦場の主役でなくなったのであれば、山城のセールスポイントそのものが色あせていく、というのも納得できる見方ではないだろうか。

【お城の基礎講座】87. 三大海城(さんだいうみじろ)

…を取り入れた幅の広い水堀が本丸や二の丸、三の丸を巡る海城になっています。城跡には月見櫓(つきみやぐら)や水手御門(みずのてごもん)、艮櫓(うしとらやぐら)が現存しています。 現存する月見櫓と水手御門。船の到着を関するための櫓で「着見櫓」(つきみやぐら)とも呼ばれる。装飾性の高い櫓だ 今治城(いまばりじょう) 今治城は、瀬戸内海の海水を取り入れて三重の堀をめぐらせた海城です。慶長7年(1602)に藤堂高虎が築城を開始し、慶長13年(1608)に完成しました。本丸には日本初の層塔…

【お城の基礎講座】86. 三大平城(さんだいひらじろ)

…ています。 松本城は水堀と縄張りが素晴らしい 二条城(にじょうじょう) 二条城は徳川家康が慶長6年(1601)に京都の儀礼施設として築城したのが始まりとされる。三代将軍家光のときに総塗籠の白亜の五重天守が造られました。しかし、寛永3年(1750)に落雷で焼失してしまいました。現在は二の丸御殿が現存しています。 二条城は二の丸御殿が現存しているのでぜひ見てほしい 広島城(ひろしまじょう) 広島城は天正17年(1589)に毛利輝元が島普請(しまぶしん)と言われる太田川のデルタ地帯…

【お城の基礎講座】75. 織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)

…うかく)というのは、水堀で囲まれて天守がそびえ立つというのが一般的なイメージです。これは織田信長(おだのぶなが)が築いた安土城(あづちじょう)によって完成されたと考えられています。安土城は天正4年(1576年)に築城されました。織田信長の出身地である尾張(おわり)には濃尾平野(のうびへいや)が広がっており、平地に城が築かれていました。一方で、近江(おうみ)などを中心に石垣を用いた山城が作られており、また松永久秀(まつながひさひで)の多聞城(たもんじょう)で初めて多聞櫓(たもん…

【お城の基礎講座】58. 石垣の構造

…み上げていきます。 水堀の場合 水堀の場合は当然水を張るため、石垣の基礎には工夫が必要です。不同沈下(不揃いに沈下を起こすこと)を抑えるために、まずは堀の底に太い松の胴木(どうぎ)を敷きます。そしてこの胴木がずれないように、短い松丸太の杭を打って止めます。胴木の上に直接根石を固定し、この上に石を積んで行きます。こうすることによって、まちまちに沈んでいく不同沈下を防ぐことができるのです。 石垣の構造 積石(つみいし)の積み方 根石が出来上がったら積石(つみいし)を積み上げていき…

【お城の基礎講座】57. 土塁(どるい)の種類

…も低くなっています。水堀の中から土塁が立ち上がるところに多く作られているのが特徴です。 彦根城の堀にある腰巻石垣 江戸城の堀にある鉢巻石垣 まとめ 土塁にはその作り方によって、たたき土居、芝土居、鉢巻石垣、腰巻石垣などの種類があります。それぞれのお城を訪れた際は土塁の種類についても注目してみましょう。ということで、土塁の種類というお話でした。じゃあね🖐️ このコラムが毎日メールで受け取れます 以下のページからメールマガジン(無料)に登録すれば、このコラムの第1回からメールで読…

【お城の基礎講座】55. 堀底(ほりぞこ)の形

…もの。近世城郭の広い水堀はこの箱堀です。そこが平らで両側の壁が急斜面になっています。断面が箱型なので箱堀と呼ばれます。 堀底がU字になっている 堀障子(ほりしょうじ)・障子堀(しょうじぼり) 空堀を箱堀にすると敵が容易に歩くことができてしまうため、進化した堀があります。後北条氏がよく用いたこの堀が、堀障子(ほりしょうじ)です。障子堀(しょうじぼり)とも呼ばれます。田畑の畦(あぜ)のように幅の狭い土手を造り、堀底を数間ごとに細かく仕切ったものです。こうすることで敵の動きを封じる…

【お城の基礎講座】54. 空堀(からぼり)

…の平城の堀幅は広く、水堀が主ですが、大阪城や名古屋城の内堀の一部には巨大な空堀が残されています。 大坂城の内堀には大きな空堀がある 名古屋城内堀。堀幅の広い空堀が現存する。鉄砲の射程を考えた堀幅だ まとめ 中世城郭は山城が主だったため、空堀が多用されました。近世になって巨大な平城に変化していきましたが、それにあわせて空堀も進化していきました。ということで、敵の侵入を防ぐための空堀のお話でした。じゃあね🖐️ このコラムが毎日メールで受け取れます 以下のページからメールマガジン(…

【お城の基礎講座】53. 水堀(みずぼり)

…うかく)には幅の広い水堀が何重にも巡らされていました。近世城郭では平城(ひらじろ)が主となってきたためです。今回は平城に多く見られる水堀について学んで行きましょう。 近世城郭(きんせいじょうかく)の水堀(みずぼり) 近世になって平城(ひらじろ)が多く作られるようになってくると、堀は水堀(みずぼり)が中心になっていきました。山城や平山城では堀に水をためることがあまりできませんが、平地であれば川などから水を引いてくることができました。また、堀を掘れば自然に水が湧いてくることもあり…

【お城の基礎講座】49. お城の縄張(なわばり)

…である御殿や櫓、門、水堀などいたるところに作られ、城の周囲に城下町を構えるようになりました。江戸時代には縄張りを研究する「軍学」という学問が盛んになりました。儒学などの学問とともに大名の教養とされたのです。荻生徂徠(おぎゅうそらい)、山鹿素行(やまがそこう)という当時有名な儒学者によって大名たちに伝えられました。しかし、江戸時代に新たな城を造ることは武家諸法度(ぶけしょはっと)によって元和元年(1615年)から禁止されていたため、軍学は机上の学問だったようです。 まとめ 城の…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…土塁のような物もあり水堀が復元されています。本丸があった場所には「長谷堂城跡」の石碑もありました。 所在地 山形県山形市長谷堂城山 アクセス 「山形駅」からタクシーで20分 kojodan.jp 誉田林古戦場 関ケ原の戦いの後、徳川家康の許可を得た政宗は1601年、居城を仙台に移し、城と城下町の建設を始めます。 ここに伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生しました。石高は62万石で加賀の前田家、薩摩の島津家に次ぐ全国第3位の石高でした。 徳川幕府からは重宝され、松平の名字を与えられ…

二条城で開催された二の丸御殿大広間四の間特別入室と学芸員解説会に参加してきました

…堀がなく、城域を囲う水堀はひとつだけだった=単郭式」という意味だと思います) 寛永期に建てられた本丸御殿は天明の大火で焼けたので、現在の本丸御殿は明治時代に移築された宮家の住宅(桂宮家) 二の丸御殿の建物自体は家康時代のものだが、寛永期の大改修で間取りなどは大きく変更され、障壁画もすべて描き換えられた 現在、1016面が重要文化財に指定されている 天井画は美術工芸品ではなく「国宝建造物の一部」として扱われている 障壁画、天井画などぜんぶで3608面が現存している(江戸時代〜明…

国土地理院から戦前の古地図(複写)を入手する方法と「今昔マップ」の紹介

…っているほうですが)水堀が埋め立てられたりしています。 こうした公園化は明治時代からおこなわれていましたが、大規模な造成を伴うものは昭和に入ってからが大半です。逆にいえば、明治期の地図が手に入れば、それは江戸時代(少なくとも幕末頃)のお城の様子がわかるということです。 そうした地図の代表的なものが、大日本帝國参謀本部陸軍部測量局が測量した地図です。 1897年(明治30年)から1907年(明治40年)頃の地図が多く、国土地理院のサイトで検索すると明石周辺の地図もいくつかありま…

大津城 開城がわずかに早かった城

…で、外敵を防ぐために水堀(湖沼などを堀として利用する)がある城だった。城はその後、所有者を次々と変え、今回紹介する騒動が起きた「関ヶ原の戦い」のときは京極高次が城主となっている。 こうの | 城址碑[大津城] 高次は近江に生まれたが、幼い時は織田家の人質として岐阜にいた。その後、織田信長に仕えたが、「本能寺の変」で反旗を翻した明智光秀に味方している。光秀敗北後、高次も逃げる必要に迫られ妹の夫にあたる若狭の武田元明を頼った。秀吉に元明が討たれると、妹の松丸殿が秀吉の側室となった…

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