攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

真田 の検索結果:

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…山口観光案内所、岩櫃真田忍者ミュージアム 500円 印刷 2024年4月6日 勝間田城 御城印 銀文字限定版 勝間田城(静岡県牧之原市) 勝間田城跡 第1駐車場 400円 印刷 2024年4月6日 岩倉城 御城印 一豊公5城コラボ御城印 尾張岩倉城(愛知県岩倉市) 岩倉市生涯学習センター、岩倉市観光情報ステーション 300円 印刷 縦16cm、横10.5cm 2024年4月1日 栗崎館 御城印 通常印 Ver.1.0 お食事処心喜、中林歯科 500円 印刷 A6 2024年4…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いで何割くらい勝てると思ってたの?

…でいたものの、途中で真田昌幸らとの戦いに足止めされて進軍が遅れ、ついにこの決戦に間に合わなかったのである。戦力面でも家康は不安だった、というわけだ。これらの通説に基づくなら、家康はかなり不安な思いで当日を迎えたはずだ。勝敗は五分五分と思っていたのではないか――となるのだが、実際のところ、近年の説では「家康はかなりの部分で勝ちを確信していたのでは」と考えられる。 まず、最大の不安要因である小早川秀秋については、「実は秀秋は関ヶ原の決戦前日には西軍を見限っていて、実質的に東軍側の…

【家康の謎】家康はなぜ上田城の戦いで自ら出陣しなかったのか?

真田氏は小規模な大名ながら、家康をはじめとする戦国時代末期の人物を主役とする大河ドラマでは欠かせない勢力になっている。2016年の『真田丸』の記憶がまだ新しい人も多いだろうし、今回の『どうする家康』でも、真田昌幸役には佐藤浩一氏が割り当てられているあたりからも、その役の大きさがよくわかるというものだ。では、どうして真田氏はここまで大きく扱われるようになったのか。それは三度にわたって徳川氏を痛い目に遭わせたからであり、その一度目が先週の放送回でも扱われた、いわゆる第一次上田城の…

【家康の謎】家康はなぜ石川数正に出奔されたのか

…と徳川支配下にあった真田や小笠原などが秀吉側についている。しかし、数正ほどの重臣が寝返る例はちょっと覚えがない。数正はなぜこのような振る舞いに走ったのか。明確なきっかけとして考えられているのが、秀吉から家康への人質要求だった。この頃、秀吉は越中の佐々成政攻めを進めていたが、家康が成政に味方するという噂が流れる。そこで秀吉は家康に「家老の中から人質を出せ」と要求し、家康の動きを抑え込もうとしたのである。 「秀吉何するものぞ」と燃え上がる徳川家中において、ただ秀吉との交渉担当(取…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

…教育委員会2015『真田宝物館収蔵品目録 近山家旧蔵佐久間象山関係資料』長野市教育委員会文化財課中村 正勝/編著2016『種田家文書』北海道出版企画センター箱館区役所/編 1911『函館區史』(1973名著出版による復刻本を参照)濱口 裕介 2022『「星の城」が見た150年: 誰も知らない五稜郭』現代書館深瀬 春一 1925「戸切地の松前陣屋考」『歴史地理』第66号藤原 正蔵 1813『亜魯西亜書翰』国立公文書館蔵藤原 正蔵 1817『尾薩漂民私記草稿』同志社大学附属図書館…

攻城団テレビで「家康はなぜ名字を松平から徳川に変えたのか」という話をしました

…就を名乗っていたし、真田昌幸も武藤氏の養子となって武藤喜兵衛を名乗っていました。毛利元就や真田昌幸はいろいろあって実家を継ぐために名字を戻していますが、それ以外にもいろんな理由で名字を変えることがありました。 詳しくは動画を見ていただきたいのですが、ざっとこんな感じになります。 権威を借りる、あるいは奪う 独立したことを対外的に示す 家臣への権威付けとして名跡を継がせる 毎度のことですが台本にない話もたくさん出ました。斎藤義龍が一色を名乗ろうとしたとき、全国の一色さんからの苦…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)-

…経緯は象山から藩主・真田幸貫(さなだ ゆきつら=松代藩8代藩主)にあてた嘉永4年12月付書簡「大砲鋳造の件に関し松前藩へ情実を報ぜられんことを感応公に請う」に詳述されています。 この象山の書簡には、師に対し重太が語った言葉が次のように遺されています。「先生御手(おんて)にて筒(つつ)・台(だい)ともに西洋法則通りの物出来候様(できそうろうよう)、第一国の為左様致し度(たく)。」(象山先生自ら西洋の技術通りの大砲・砲台ができるように願っています。なにより、国のためにそれを実現し…

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(2日目)

…、群馬県沼田市の上州真田武将隊の皆様とコラボレーションされたことがあるとのことで、その場で武将様方に文字を入れてもらう御城印を作られたそうです。 実は、我が隊の武将印や姫印は、全てわたくしの弟の明智光慶が、文字を書いてくれています。 光慶ならその場でも対応が可能かもしれないですが、わたくしは文字に自信がないなぁと思いながら、お話を聞かせていただいておりました😊ただ、もしもまた御城印サミットが開催されるのでしたら、ステージ上で我々が各々その場で文字を書き、会場の皆様へ進呈すると…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…もっとも有名な戦いが真田丸の攻防です。家康は茶臼山に、秀忠は岡山に着陣し指揮を執りました。家康は前田利常に仕寄せを築かせ(塹壕を掘って土塁を築くこと)、軽々しく攻めるなと戒めていましたが、真田丸からの妨害と挑発に呼応する形で戦闘が始まってしまいました。この戦いでの徳川方の死者は数千人に上ると言われています。 一方で、11月23日ごろより始めた淀川の堤防築造が12月9日ごろ完了したのを受けて、家康は大坂城の南方および北の備前島から大砲による砲撃を始めました。一説には淀殿の近くで…

【サイン本プレゼントあり】「ぶらり徳川家康ゆかりの城跡+忍びめぐり」のご紹介

…ます。 書籍『ぶらり真田家ゆかりの31城跡めぐり』、『ぶらり明智光秀の城&史跡めぐり』に続く、城跡を中心に史跡を楽しむ歴史ガイドブック。 徳川家康は運ではなく、情報(忍者)を持っていたから天下を取れた。まるで現代の情報化社会を先にいっていたような話だが、家康の「城」と「忍び」を通して、家康の実像が見えてくる。本書は、徳川家康に関連した城や忍びの各地スポットや史跡の情報ガイドブック。 NHK大河ドラマ「どうする家康」時代考証・忍者考証陣による「城」と「忍者」特別コラム・小和田哲…

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

…撃戦の中、山県昌景、真田信綱ら武田方の主だった武将が戦死し、勝頼は命からがら退却していったのでした。こうして、長篠城と設楽原で起こった激突は織田・徳川連合軍の勝利で幕を閉じたのです。 長篠の戦いでは「鉄砲三段撃ち」や「武田騎馬軍団vs鉄砲隊」という話が良く出ますが、近年の研究の成果によってこれら従来説が見直されてきています。詳細は別の機会に譲りますが、一つだけ話をするならば、この戦いはあくまでも家康の領国・三河への武田勝頼の侵攻に対しての戦いであり、その主役は家康と勝頼である…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

… →この和睦の条件で真田氏が支配する沼田領を北条氏の領土としたことがのちに問題に 家康の次女・督姫を氏直の正室として同盟を結ぶ 家康は甲斐と南信濃を加えて五カ国大名に 多くの武田旧臣も取り込む →井伊の赤備えなど軍事面の強化、大久保長安などの有能な代官も獲得 北条氏と同盟を結ぶ? 織田家内での権力争い 織田信孝・柴田勝家 vs 織田信雄・羽柴秀吉の対立。勝家の誘いを断り、家康は信雄・秀吉方に →戦勝祝いとして秀吉に初花肩衝を贈っている(このとき石川数正が初めて秀吉と会うと、そ…

【サイン本プレゼントあり】「ぶらり真田家ゆかりの31城跡めぐり」のご紹介

…ガイドブック「ぶらり真田家ゆかりの31城跡めぐり」(マコト出版)を佐藤強志さんから献本していただきました。抽選で5名の方にプレゼントいたします! 真田幸綱(幸隆)、真田昌幸、真田信之、真田信繁に関連した城や砦、城館、史跡のガイドブック。真田家の敵の城、真田家臣の城、真田家が人質を出した城など、真田一族が関係した城跡や史跡を掲載しています。■長野県/上田城・染屋城・矢沢城・砥石米山城・真田氏本城・真田氏館・松尾古城・小諸城 ・松代城■群馬県/沼田城・箕輪城 ・下小屋城 ・松井田…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…の戦いで死んでいる。真田昌幸の兄二人もこの時に死亡した。勝頼は人事の再編に奔走しなければならなかった。また、三河から追い出され、東美濃の岩村城を取り返され、遠江でも押し込まれ、と織田・徳川連合軍との戦いが厳しかったのも事実である。・しかし、勝頼は内政・外交の再編に奔走し、関東の北条氏(信玄時代の後期に同盟が復活していた)に加えて越後の上杉氏とも同盟を結んでいる。ただ、上杉謙信が亡くなった後の上杉内部での後継者争いにおいて、北条出身の景虎を支援するべく一時は出陣したものの撤退、…

城葱さんの「城もなか」道中記【小田原編】

…昌平堂さんの「上田城真田十万石」の皮と同じじゃないか! またここに城もなかの思いがけない関係を皮が導いてくれました。 特徴的な廻縁と高欄があり、破風の中も彫り込まれている。手が込んだ型で作られている。右側の入母破風の下からちょこんとくっついている小さな千鳥破風のようで、向唐破風のようでもある。そこも細部にこだわったこの皮の特徴的なところだ。 パッケージの梅の花が可愛らしい。城もなかの中でも、城ではなく、城と共にある城下町をネーミングにしているところがまた城と共に発展する小田原…

【戦国軍師入門】片倉景綱――独眼竜の右目をまっとうした生涯

…時代の武将の中には、真田幸村や武田信玄のように本名ではない別の名前の方が有名な人物が数多くいるが、この片倉景綱(かたくら かげつな)もまたその中のひとりだ。彼のもうひとつの名前は「片倉小十郎(こじゅうろう)」。そう、「独眼竜」の名も高き隻眼の名将・伊達政宗の、右腕ならぬ右目として活躍した軍師だ。 彼は元々武士の出身ではなく、出羽(ほぼ現在の山形県と秋田県)米沢の成島八幡宮(なるしまはちまんぐう)の宮司・片倉景重の子として生まれた。彼の腹違いの姉(姉ではなく母とも)が政宗の乳母…

【戦国軍師入門】真田幸隆――謀略に長けた「攻め弾正」

真田といえば、豊臣秀吉に「表裏比興の者(表裏があって信用ならない者の意味)」と呼ばれた謀将・真田昌幸(さなだ まさゆき)と、その子で徳川家康を後一歩までに追いつめ「真田日本一の兵」と讃えられた勇将・真田幸村が有名だ。しかし、ここで紹介する昌幸の父親・真田幸隆(さなだ ゆきたか。正しくは幸綱(ゆきつな))もその活躍では彼らに負けていない。忍者を使っての情報戦や裏切り工作などの謀略を得意とし、武田信玄の軍師として活躍した彼は、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受けており、家…

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

…衆が集結した。中でも真田幸村、長宗我部盛親(ちょうそかべ もりちか)、後藤基次(ごとう もとつぐ。又兵衛の通称で知られている)、毛利勝永(もうり かつなが)、明石全登(あかし てるずみ)の5人は五人衆と呼ばれた。 ただ、元から大坂城にいた豊臣臣下たちと浪人衆では意見が対立することも多く、その場合浪人衆の意見が却下されることが多かった。例えば、幸村は単純に大坂城に籠城するのではなく、まず近江の瀬田川まで軍を進めて幕府軍を迎え撃ち、諸大名が味方に付くよう状況を整えるべきだと提案し…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…信濃を進軍中に西軍・真田昌幸が籠もる上田城を攻撃したものの、昌幸とその子の幸村(これは通称で、実際の名は信繁)の知略に翻弄されて攻め落とせず、ここで時間を浪費したこともあって決戦に間に合わなかったのだ。 この遅刻に関しては、家康は最初から主力部隊を温存するつもりだったという説や、命令や天候のタイミングから考えて、元々間に合うはずがなかったといった秀忠を弁護する説もある。しかしいずれにせよ、大軍に囲まれながら真田親子が果敢に戦ったのは間違いない。 この時の戦いはまず、秀忠の軍が…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑨――武田信玄に苦汁をなめさせ、内応であっさりと落ちた城・砥石城

…て武田氏の家臣である真田氏のものとなり、第二次上田合戦の記録の中にその名前が出てくる。 1548年(天文17年)に第一の敗北である「上田原の戦い」で義清に敗れた信玄はその2年後、義清が別の敵と戦っている隙を突いて、武田氏と村上氏の勢力の境目として重要な拠点である砥石城に進撃した。信玄はまず偵察隊を送り、城の様子を慎重に確認した後で、攻撃に踏み切った。これに加えて村上方の豪族に対する調略も行い、城攻めはうまくいくかと思われた。ところが砥石城の守りは堅く、1ヶ月にも及ぶ攻防戦で武…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく①――「力の差」に圧倒された城・小田原城

…氏が上野の名胡桃城を真田氏から奪ったという報せが入る。これは秀吉の定めた惣無事令を違反しているとして、ただちに諸大名に北条氏討伐のため出陣を命じた。 かくして1590年(天正18年)、秀吉の命を受けた西国や北陸の諸大名が出陣、いくつかのルートを経て関東にたどり着き、支城を落としながら小田原城に迫った。これに対して北条方は、主だった諸将らを小田原城に集め、また下田城や韮山城にも兵を集めた。上杉謙信や武田信玄を撃退した時のように、今回も籠城戦で対抗する作戦であった。しかし豊臣方の…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑨――徳川本隊を釘付けにした城――上田城(第二次上田合戦)

…軍を撃退した上田城と真田氏が、再び徳川軍とぶつかることになったのである。 京で挙兵した石田三成に対し、徳川家康は軍をいくつかに分けて中央へ進めた。諸大名は東海道を先発させ、自らは江戸に寄った後にゆっくりと進軍。そして、後継者と決めていた息子の秀忠には徳川氏の本隊ともいえる大軍を預け、中山道を西上させた。信濃方面の西軍派勢力を平定させたのちに、京に向かうのが秀忠の役目であった。 その前に立ちふさがったのが真田昌幸であり、上田城であった。昌幸は会津の上杉討伐軍には参加していたが、…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…勢の中、大坂城内では真田信繁(いわゆる「真田幸村」)など一部には打って出ることを主張するものもあった。しかし、大坂城を囲んだ兵だけでも20万弱という幕府の大軍に対し、豊臣方の軍勢はあくまで少数に過ぎない。この兵をさらに分けて迎撃してもただ敗れるだけ、それならば「大坂城の防御力を活かして籠城するべき」、ということで話が固まった。 籠城戦というものは本来援軍のあてがあってやるものではあった。しかし、頑丈に守り続けて幕府軍が攻めあぐねるようなことがあれば、「なんだ、幕府もたいしたこ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ②――徳川の大軍を押し返した城・上田城(第一次上田城の戦い)

…った。上田城を領する真田氏が俗に「徳川の天敵」などと称される所以であるが、まずここでは「第一次上田城の戦い」について紹介したい。 上田城は1583年(天正11年)、武田家臣の真田昌幸が城郭として整備したと伝えられる。それ以前にも昌幸の父である幸隆(砥石城の攻略で知られる)がもともとこの地にあった常田氏の居館を整備しているが、城郭としての上田城は昌幸の手によるものだ。山を背にした平城で、かなりの規模であったと考えられるが、詳細はわからない。 しかし、上田城は完成してすぐに戦火に…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史④――必要とあればその場で城を作る

…んしょ)」とそれぞれ呼んだ。臨時で城を築くのは攻城側だけではない。籠城側が城に隣接する形で防御のために築いたものを「出城(出丸)」という(隣接しない場合でもこの名で呼ばれることもある)。もっとも有名な出城は、大坂冬の陣における「真田丸」だろうか。 ちなみに、よく使われる「砦」という言葉はここまで触れてきた城の分類とはちょっと違い、定義についてもあいまいな部分が大きいのが実際のところ。統治機能を削って軍事機能だけに絞った、小規模で臨時の城というのが一般的なイメージであるようだ。

【10大戦国大名の実力】長宗我部家④――負のスパイラルを止められず

…つれてこれに参加し、真田幸村らに匹敵する活躍を見せるが、翌年の大坂夏の陣で豊臣方は敗北。盛親も逃げ延びて山城国へ潜伏したところを捕らえられ、処刑されてしまった。盛親の五人の子どもたちもみな殺され、こうして長宗我部家は滅亡したのである。四国ほぼ統一から約30年、あっという間の夢のようなできごとであった。 元親の蓋は…… 土佐の戦国時代が始まってから、大坂の陣で盛親が死ぬまで、約百年。長宗我部家はまさに戦国時代を「ジェットコースターのように」駆け抜けた一族だった。その結末は残念な…

【10大戦国大名の実力】織田家①――後継者の実力で組織の命運は決まる

…歴史ファンなどには、真田幸村や伊達政宗、石田三成に直江兼続といった「ヒーロー風」キャラの人気が高い。 それでも、戦国武将人気ナンバーワン、もしくは仮に「戦国武将といわれて誰を思い浮かべますか」というアンケートをとった時のナンバーワンには文句なく織田信長の名前が出てくるはず。「戦国の覇王」「第六天魔王」「革命的先見の明の持ち主」あるいは「狂人」「戦国時代を終わりに導いた男」――信長の異名は数限りなく、それは同時に彼が戦国日本に与えた影響の大きさを表している。数多い戦国時代のカリ…

【10大戦国大名の実力】北条家⑤――小田原評定の行方

…正17年)、北条家が真田家と名胡桃城をめぐって領土問題を起こすと、これを大義名分として秀吉軍による小田原征伐が開始される。これは秀吉率いる本隊が西から、上杉・真田・前田らが北から、九鬼・長宗我部らが海から、と三方から総勢21万に及ぶ大軍が北条家を攻め立てる、史上まれに見る大規模な合戦であった。 この際の北条側の様子を示すものとして、「小田原評定」という言葉が残っている。北条側の諸将が集まって会議をしたがどうするか定まらず、時間ばかりが過ぎていって結局籠城に決まった――というわ…

共通テストで昔の人の名前に「の」が入るか問題が出てた

…うです。 数年前に「真田丸」で秀吉が「豊臣(の)秀吉」と名乗っており、このときに「の」が入るのは源平藤橘に代表される氏(うじ)だけで、豊臣も正親町天皇から秀吉に下賜された氏(うじ)なので「の」が入ると教わったものだから余計にややこしいのですが、まあ厳格なルールに基づいて呼び合っていたわけじゃないというのは歴史を振り返れば当然という気もしますね。(それに同じ脚本家である三谷さんがそのへんを確認せずに書いてるわけがない) それはさておき、先日おこなわれた共通テストの日本史Bを腕試…

【2021/2022】年末年始にお城は営業してる?(全国のお城の営業状況調査)

…日~1月3日は休業※真田宝物館は1月4日まで休業 岐阜城 岐阜県岐阜市 休みなしで営業 ※元日の早朝開館は抽選制(申込終了) ○ 駿府城 静岡県静岡市 城址公園は常時公開 ※坤櫓・紅葉山庭園・茶室・駿府城跡天守台発掘調査「発掘情報館 きゃっしる」は12月29日~1月3日まで休業 ○ 岡崎城 愛知県岡崎市 12月29日〜31日は休業 ○ 長篠城 愛知県新城市 城址は常時公開※長篠城址史跡保存館は12月29日~1月3日まで休館 ○ 伊賀上野城 三重県伊賀市 12月29日〜31日は…

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