攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

細川忠興 の検索結果:

【家康の謎】家康はなぜ石田三成を匿った? 七将襲撃事件は事実なのか?

…のだが、有力な説では細川忠興、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、加藤清正、浅野幸長、黒田長政であるとされる。彼らは三成を武力によって襲撃はしなかったが、その代わりに訴訟を起こした。 内容については「朝鮮出兵時、三成の讒言によって黒田・蜂須賀・加藤・藤堂らが秀吉によって強く叱責を受けた」というものである(これに関係のない細川・福島らは別の件で訴訟を起こしたともいう)。この時、三成が自分の屋敷に立てこもって睨み合うなどの出来事はあったようだが、少なくとも後世言われるような武力襲撃は…

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(2日目)

…しましたら、我が隊の細川忠興様(わたくしの旦那様)も、マイクを持ち突然、舞台へ上がってこられて!話すことの内容を全く決めていなかったのですが、即興のトークショー(?)のようなことになり、二人で一時間以上、お話しておりました😊 此度のサミットで販売される御城印であったり、各市町にゆかりのある武将様や歴史、お城やキャラクターさんについてなど、二人で賑やかに様々なお話をさせていただきましたが、多くの方がステージ前に座ってくださったり、並んでおられる中こちらに視線を向けてお聞きくださ…

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(初日)

…明智光秀、細川藤孝、細川忠興、明智光慶、松井康之、わたくし細川玉子の六名にて、出陣させていただきました! 此度の開催にいたるまで、主催である森の京都DMO様や、攻城団のこうの団長や、川勝様、本当にご準備など大変だったかと思います。どれだけの方がお越しくださるのか、そもそも来てくださるのか等、不安に思われていたかと思います。さらに、開催日であった25日、26日はお天気も優れなくて、初開催のうえ、天候の不安……様々ございました。ですが、蓋を開けてみますと、大盛況にございました! …

細川玉子さんによる「京田辺伊賀越えスタンプラリー」参加レポート

…。わたくしの夫である細川忠興様も、利休七哲のおひとりなので、細川家ともゆかりのあるお寺にございますね。 そして、可愛い一休さんもおられました。 癒されますね‪(^_^)‬‬‬ そろそろ、お腹も空いて参りましたので、昼食のため「手打ちそば 藤与志」様へ参りました。 collection.kojodan.jp 店内は美味しそうな出汁の香りが。献立表にはたくさんの商品名が並んでおりましたが、玉子は"海鮮カレーそば"にいたしました。 海鮮がごろごろと入っており、海の出汁が効いた、とて…

細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

…智光秀、ガラシャ姫、細川忠興らの武将や姫が、殺陣(たて)や詩吟、舞を織り交ぜた演武や甲冑劇を行い、長岡京市の歴史・魅力を発信しております。また、福知山市や舞鶴市、亀岡市、京田辺市などの京都府をはじめ、岐阜県、滋賀県、福井県、愛知県、兵庫県などの歴史イベントも盛り上げ、明智家や細川家ゆかりの市町との架け橋となる活動も行っております。 Twitter Facebook 京都と家康様のゆかりの地といえば、二条城などが有名かと思いますが、今回ご紹介させていただきますのは、二条城ではご…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…を人質として江戸へ 細川忠興(嫡男・忠隆の正室は利家の娘)も嫌疑をかけられ起請文を提出、翌年に三男(のちの忠利)を江戸へ送る 五大老五奉行体制は形骸化。家康は大坂城において単独で権限をふるい、前田・増田・長束の三奉行が支える体制 4月、家康は上杉家に上洛と弁明を求める最後通告。その返事が直江状とされる @直江状はあったのか?→捏造説も 6/16、家康が大坂城から出陣。7/2に江戸に入る 7/19または20に上方で三成挙兵の報告が入るが予定通り21日に江戸城から出馬 7/25、…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…拠地にしていた本流が細川忠興に滅ぼされた。庶流からは家康側近として活躍した僧侶・以心崇伝が出た。彼の従兄弟の家は信長・家康・秀吉と仕えたが、結局断絶している。ただ、庶流の中には大名になった家もあり、甲斐武田家に仕えて土屋を名乗った家は武田滅亡後徳川家に仕え、老中も輩出した。 山名氏 ・山名氏は戦国大名としては織田・毛利らに圧されて衰退し、本流は滅亡。しかし山名豊国(とよくに)が信長・秀吉・家康らに仕え、大名に満たないながら所領を与えられ、明治までのこった。なんと明治元年に大名…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…福島正則、黒田長政、細川忠興、池田輝政、加藤嘉明(資料によっては蜂須賀家政)、浅野幸長ら七将が三成の大坂屋敷を襲撃したのだ。そこで三成は奇策に出る。なんと、最大の政敵である家康の屋敷に逃げ込んで庇護を求めたのだ。豊臣政権を弱らせることを考えていた家康にとって、今はまだ武断派と文治派に対立してもらわないと具合が悪かった。そこで家康は彼を匿って七将を思いとどまらせた。 この策を考えたのが、実は三成ではなく勝猛だったという説がある。大義名分や建前を重視する、良い意味ではキッチリとし…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…常は「松平筑前守」、細川忠興は「羽柴越中守」、池田輝政は「羽柴三左衛門」と「名字+官職名」で書かれています。(上述のとおりじっさいに忠興は名古屋に来ていないのですが、あくまでも藩主の名が記載されるのでしょう) 秀吉や家康は上下関係を明らかにして、自らのファミリーに取り込むために「羽柴」や「松平」の名字を与えているのでこの絵図には大量の羽柴さんと松平さんがいます。かなり字が細かいので単眼鏡などを持参するといいと思います。 絵図の横の壁に実名と記載名の一覧がありますので、これを確…

明智光秀と細川忠興――あるいは太平のための裏切り

細川忠興は光秀の盟友・細川藤孝の嫡男であり、光秀の娘のたまを娶った男でもある。幼少期、忠興は父と別れて暮らしていた時期がある。足利義輝の死後、藤孝が覚慶(のちの義昭)を連れて畿内を離れていたので、幼い忠興は家臣に匿われて京に潜んで暮らすことになったのだ。 その後、藤孝が畿内へ戻ると忠興もその手元に戻り、長じると父とともに織田家臣として活躍するようになる。忠興の名は信長の嫡男・信忠から一字もらったものであり、将来は信忠を支えることを期待されていたのだろう。また、忠興は有名な馬揃…

明智光秀とたま(ガラシャ)――あるいは父譲りの激動の運命

…明智光秀の娘であり、細川忠興の妻であり、そしてキリシタンであった。この三つの要素がガラシャを激動の運命へ投げ込むことになる。 ガラシャは明智光秀の次女(三女とも)で、玉あるいは玉子としてこの世に生まれる。1579年(天正7年)に彼女が光秀の主君である信長の斡旋によって細川藤孝の嫡男・忠興と結婚することになったのは、光秀と藤孝の繋がりを思えば当然のことであったろう。両者はともに元幕臣であり、織田家の同僚としても付き合いが深い。この婚姻は家臣同士の結束を強める意味で信長にも役立つ…

【お城の基礎講座】76. 江戸時代・慶長期(けいちょうき)の築城ブーム

…(くまもとじょう) 細川忠興が作った小倉城(こくらじょう) 毛利輝元の萩城(はぎじょう) などが挙げられます。 徳川幕府による天下普請の城としては、 江戸城 駿府城(すんぷじょう) 彦根城(ひこねじょう) 名古屋城(なごやじょう) 加納城(かのうじょう) 福井城(ふくいじょう) などがあります。 これらの多くは今でも城跡として残されており、近世城郭として我々は目にすることができます。 加納城跡(岐阜県)には当時の石垣が残されている 福井城跡(福井県)は天下普請で作られた城で、…

五三の桐、五七の桐は知ってるけど、九七の桐とか五五の桐とか知ってた?

…下賜したり、九曜紋を細川忠興に下賜したりしています。その九曜紋を伊達政宗が忠興に使わせてくれと頼んだとか、家紋の授受や使用許諾の話だけでいろいろエピソードがありますが、それは別の機会に。 また秀吉が「太閤桐」という独自の桐紋を考案した背景に、桐紋を諸大名にばらまいてしまったためブランド価値が暴落したからという説もあり、家紋というものはその大名家の象徴であると同時に、必ずしも先祖代々ひとつのものを使い続けているわけではありませんでした。たとえば政宗はメインとなる定紋の「仙台笹」…

細川藤孝と麝香のなれそめについて調べたら足利将軍が出てきた

…リフの中で登場済みの細川忠興ですが、ということは細川藤孝は結婚しているわけですね。忠興のお母さん、藤孝の奥さんである沼田麝香(じゃこう)とはどんな人だったのか、またふたりのなれそめについておもしろいエピソードがあったので紹介します。 正室・沼田麝香との結婚は生まれる前から決まっていた? 細川藤孝(1534年〜1610年)は1562年(永禄5年)頃に、若狭国熊川城主・沼田光兼(みつかね)の娘、麝香と結婚します。翌年には嫡男・細川忠興が誕生。ちょうど藤孝が足利義輝の御供衆(奉公衆…

田辺城 栄光と転落

…ドとして、幽斎の子・細川忠興とその妻ガラシャ夫人の話が有名だ。このエピソードは関ヶ原の合戦が起きる少し前のことになる。 村の芳ちゃん | 大手門[田辺城] 豊臣秀吉が亡くなった豊臣政権では、徳川家康が遺命を無視することが多くなり、秀吉の忠臣・石田三成らとの間に軋轢が生じていた。家康が上洛命令に応じない上杉景勝討伐のために大坂を発って会津を目指すと、佐和山にいた石田三成が挙兵し、両者は東軍西軍に分かれて関ヶ原で雌雄を決することとなる。その決戦の少し前、西軍・石田三成は東軍の家康…

家のためか、信仰のためか? 細川ガラシャの死

細川忠興夫人・ガラシャ(玉子)もまた波乱万丈の生涯を生きた一人である。父は明智光秀――本能寺の変で主君・織田信長を死に追いやったことであまりにも有名な明智光秀だ。そのせいもあって、彼女は少なからず日陰の生活を送らなければならなかった。本能寺の変後、本来は縁が深かった明智につかず羽柴(豊臣)秀吉についた細川忠興としては妻である彼女をそのままそばにおいておくわけにいかず、2年にわたって丹後の味土野に閉じ込めてしまったのである。 それでは忠興からガラシャへの愛情は薄かったのかといえ…

一泊二日で大河ドラマ「麒麟がくる」ゆかりの地をめぐってきました

… 細川藤孝の正室で、細川忠興の母の麝香(じゃこう)はこの地にあった熊川城主・沼田光兼の娘です。麝香の名字が沼田であることは勝龍寺城に「沼田丸」という曲輪があることで知っていましたが、若狭の人だとは知りませんでした。 少し時系列を整理すると、藤孝と麝香の結婚は1562年(永禄5年)頃とされており、1563年(永禄6年)には忠興が生まれています。藤孝は幕臣として仕えていた将軍・足利義輝が三好三人衆により殺害されたため、興福寺に幽閉されていた覚慶(のちの足利義昭)を救出するのですが…

紅葉の名所、大徳寺高桐院にいってきました

…の塔頭である高桐院は細川忠興(三斎)が建立した細川氏の菩提寺です。江戸時代初期の武将で茶人としても有名で「利休七哲」のひとりにも数えられる忠興ゆかりの寺院だけあって、書院は利休の邸宅を移築したものといわれています。 境内はすべて撮影オッケーなのもうれしいですね。この客殿南庭(本堂前庭)もあと少しで真っ赤になります。 室中にある木像はちょっと暗いのですが、中央に開祖である玉甫紹琮(細川幽斎の弟)、左側に忠興のものがあります。 忠興の木像はちょっと小さめでした。 これがかつて聚楽…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原前哨戦に隠された真実―上杉征伐と幻の前田征伐

…な目にあいかけた大名がいる。家康は加賀の大大名・前田利長と、彼と親戚関係にあった丹後の細川忠興にも謀反の疑いをかけたのだ。彼らはそれぞれ家康に人質を送って恭順したが、そうでなければ「北陸征伐」をもって関ヶ原の戦いが始まっていた可能性も十分にある。 力をブラフに使って状況を自分の有利な方向へ動かして見せた家康の知略には現代の私たちも学ぶべきだが、巻き込まれるほうとしては迷惑千万ともいえよう。 初出:『歴史人』ウェブサイト(2011年10月31日) blog.kojodan.jp

「戦国武将細川藤孝とその周辺」参加レポート

…男で光秀の娘婿である細川忠興を要職につけることも約束していますが、藤孝はこの誘いを断っています。(当初、「出家して断った」と書いていましたが、どうも出家の時期は異なるようです) 「本能寺の変」についての話は、2013年に参加した「第5回信長学フォーラム」でも話されていました。 blog.kojodan.jp 最後に細川藤孝と松井康之のエピソードを紹介されました。ふたりはともに足利義輝に仕えており、「どちらかが先に城持ちになったら、もう片方はその家老になろう」と話していたそうで…

西国大名に対する抑えの城は複数ある?――「点」ではなく「線」で捉えると歴史はもっと楽しくなる――

…芸広島49.8万石 細川忠興 丹後宮津17万石 豊前小倉39.9万石 浅野幸長 甲斐府中22.5万石 紀伊和歌山37.6万石 田中吉政 三河岡崎10万石 筑後柳河32万石 堀尾吉晴 遠江浜松12万石 出雲松江24万石 山内一豊 遠江掛川5.1万石 土佐浦戸20.2万石 藤堂高虎 伊予板島7万石 伊予今治20万石 中村忠一 駿河府中14.5万石 伯耆米子17.5万石 京極高知 信濃飯田10万石 丹後宮津12.3万石 京極高次 近江大津6万石 若狭小浜8.5万石 仙石秀久 信濃小…

築城の名手(3)黒田官兵衛が築いた城

…前国小倉藩主であった細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた、1620年(元和6年)3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と書いていて、天守が存在していた可能性も出てきました。 このように新しい資料が発見されたりすることで、歴史の謎がひとつずつ解明されていくというのはほんとうに楽しみですね。今後の調査に期待しましょう。 ちなみにその福岡城ですが、同じく「築城の名人」と謳われる加藤清正が「自分の城は3~4日で落ちるが、福岡城は30~40日は落ち…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…近の陣では蒲生氏郷と細川忠興らとすき焼き(牛鍋)パーティをしていたそうです。いいですね。 pic.twitter.com/DFhuyUu8Hy — 攻城団 (@kojodanjp) 2016年6月12日 第24回「滅亡」 前回の最後に義兄である小山田茂誠が再登場しました。高木渉さん、ほんと最高ですよね。 信繁は茂誠に助けられ、なんとか氏政と対面します。 「......引き際をどうか、お考えください。徳川も上杉も真田も、皆、己の道に折り合いをつけ、生き残ってまいりました」 「教…

全国にある織田信長の墓所

…て尾張を所領とした織田信雄が父を弔う為に建立、江戸期に名古屋に移転 総見院 愛知県清洲町 供養塔がある 長興時 愛知県豊田市 一周忌に描かれた信長の肖像画と位牌がある 織田剱神社 福井県織田町 織田家が神官を勤めた神社 泰厳寺 熊本県八代市 細川忠興が丹後の宮津に建立し江戸期に移転 瑞龍寺 富山県高岡市 前田家の菩提寺で前田利家と並んで信長・信忠父子の供養塔がある 本門寺 静岡県芝川町 本能寺の変の際に信長の首が密かに持ち出され、この寺の柊の木の下に埋められたという伝説がある

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