攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

花 の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯6】

…チューリップのような花の下の部分にも見える。 模様がはっきり見えないところを見ると、これは見せるためではなく、何かの破片を利用しているものではないか?そしてたぶん何かの役割(食べる時の食感の変化? チョコレートやアーモンドを詰める時に働く?)があるのではないかということを考えました。ひとつの説はチョコレートが溶けて中で固まっているようなので、何かそのチョコレートを詰める際に役割があるのではというもの。もし片面ずつ皮にチョコレートを流し込み、アーモンドのついたもなかのかけらを挟…

城葱さんの「城もなか」道中記【鳥取・島根編】

…あり、季節感のある生花(百日紅と柿)が手水鉢に。これだけでも和の雰囲気と粋な感じがとても気に入りました。 店内はカフェの利用客と上品なお菓子をお買い求めになる奥様方で大混雑でした。あらかじめ取置きを頼んでありましたし、それなりの生産量があるようだったので売り切れの心配はその時点ではありませんでしたが、時間帯によっては無くなるかもというお客さんの数でした。また城もなか以外にも生菓子をはじめ、美味しそうな和菓子が並び、洋菓子やケーキなどもたくさんあり、食べたいものがありすぎて困り…

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…024年3月20日 花倉城 御城印 花倉城(静岡県藤枝市) 葉梨西北活性化施設 白ふじの里 300円 印刷 縦16cm、横10.5cm 2024年3月20日 三床山城 御城印 北陸新幹線開業記念版 浅葱色 三床山城(福井県越前町) 豊公民館 300円 印刷 2024年3月16日 砕導山城 御城印 若狭高浜駅×砕導山城 砕導山城(福井県高浜町) 若狭高浜観光協会 無料 印刷 2024年3月16日 石山城 御城印 若狭本郷駅×石山城 石山城(福井県おおい町) 若狭本郷駅 無料 印…

城葱さんの「城もなか」道中記【九州編】

…Pによれば、例年の開花時期は2月中旬頃で、白色の八重で非常に気品ある梅だそうです。(私が攻めた時は5月なので、お目にかかることはできていません) その月知梅にちなんだもなかが「梅干しもなか」です。これは「梅もなか」ではなく、「“梅干し“もなか」という点が特徴的です。梅の花の皮のもなか、または梅あんのもなかなのかなと思っているとびっくり! もなかの中に本当にカリカリの小梅の梅干しがまるごと入っています。 粒あんの甘さを、梅干しによる梅のさわやかな塩味が際立たせて、梅干しもなかの…

二条城で開催された学芸員解説会に参加してきました(遠侍・勅使の間)

…。下段の間の天井画は花菱紋。 以下の写真は上段の間の天井画で、唐草紋の中に徳川家の裏紋である「六葉葵」がデザインされています。なぜここに裏紋があるのかはわからないそうです。 次に対面所の向きです。 二条城には奥から白書院、黒書院、大広間と3つの部屋で家臣と対面しました。常に将軍は北側に(南を向いて)座るというレイアウトになっています。しかし勅使の間は勅使が東側に(西を向いて)座るという、明らかに配置を変えているのですが、これも現時点では理由がわからないそうです。 また床の間、…

二条城で開催中の「NAKED 夏まつり2023 世界遺産・二条城」の見どころを写真と動画で紹介

…ェクションマッピング花火大会 今回のいちばんの目玉がおそらくこのプロジェクションマッピング花火大会です。去年もここでは同じようにプロジェクションマッピングで花火が上がる仕掛けがあったのですが、今回は手拍子や「たーまーやー」という掛け声に反応して、花火の数が変わるようになっています。 考案されたディレクターの山王堂さんは「ようやく声を出せるようになったので人の賑わいを作品に反映させたい」というような話をされてました。ぼくは恥ずかしくて声は出さなかったんですけど、ここにいるスタッ…

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

…、十二畳敷、御絵有、花鳥の間と申也。別ニ一段四畳敷、御座之間有。同花鳥之御絵有。次南八畳敷、賢人間、へうたんより駒の出たる所有。東麝香之間、八畳敷。十二畳、御門之上。次八畳敷、ろとうびんと申仙人杖なけ捨たる所。北廿畳敷、駒の牧之御絵有。 絵のふりたる所、是ふゑつの図と申。次十二畳敷、せい王母の御絵有。西御絵ハなし。御縁二段ひろ縁なり。廿四畳敷之御物置の御なんと有。口に八てう敷之御座敷在之。六重目、十二畳敷、墨絵ニ梅之御絵を被遊候。同間内御書院有。是ニ遠寺晩鐘景気被書、まへに盆…

細川玉子さんによる「瀬名様と信康様の軌跡を辿る、岡崎の旅」

…ことはできると思います。寄り添おうとすることで見えるもの、見える歴史があるのではないかと、そのように感じた旅でした。 藤の花が豊かに咲く季節に、岡崎市を巡らせていただきました。どうする家康で描かれていた築山は、花々が美しい土地でしたね。どうか、瀬名様、信康様が築山のような穏やかな場所にて、心安らかに過ごされていることを願います……。 此度も長文をお読みくださり、本当にありがとうございます。それでは、京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの、細川玉子でした。ありがとうございました。

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯5】

…れています。春の桜の花吹雪がまとう忍城のようです。イチゴチョコは半分だけなのがまたいい!半分はサブレとイチゴチョコ、半分はサブレのみと一つのサブレで2度の味わいを楽しめる。 サブレも形だけでなく、表面にも凹凸で城を表現しているところも手が込んでいる。パッケージにある忍城イラストの一部透明になっているところからのぞく城サブレ。清々しいブルーの袋がクール。なお、冬は、ホワイトチョコがかかった冬の忍城バージョンがあるようです。 箱買いする時には、ぜひこの5枚入りハンディーBOXを選…

細川玉子さんによる「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」レポート

…、そちらにも岡崎城と花火が描かれていたのが素敵でした。 岡崎城を目指し歩いておりますと、美味しそうなお食事処がお迎えしてくださいました。到着したのが丁度お昼時だったので、昼食を「いちかわ」様にていただくことにいたしました。 いちかわ様では、岡崎市の名産である八丁味噌を使用したお食事や、武将様を題材とした甘味(パフェ等)がいただけます。 わたくしは、田楽定食をいただきました。八丁味噌の深みのある甘さと香ばしさが、とても美味しかったです! 次は武将様のパフェをいただきたいな😊お腹…

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館へ行ってきました

…です。というのもこの花壇を見ておいたほうがいいからです。この笏谷石で囲われた花壇は来客が見る側は整形された石で囲われています。反対側だけ不整形なのは水はけを考えてのことらしいです。 これが現地の花壇です。来客が見るのと反対側ですね。 ちなみにこの花壇の花はすべて造花で、生花だと虫が入り込んで隣の出土品などに被害が出るかもしれないからとのことでした。これほどまでに細心の注意を払って計画・設計されているんですね。 庭園の石も3D測量でデータを取っているので完全に同じ形になっている…

福井城へ重ね捺し御城印スタンプラリーの取材に行ってきました

…ので、天気が良すぎて花見とお祭りが優先されたのかもしれません。そんなわけで、ほとんどぼくとカメラマン(山口さん)のふたりで5か所のスポットをまわった記録となりますが、ぜひご覧ください。関係者なので贔屓目に見ちゃいますが、やっぱりこの重ね捺し御城印はすごくきれいで楽しい仕組みなので、多くの人に試していただきたいです! 福井城は桜が見頃 訪問した4月1日(土)は朝から快晴で、32万石(かつては67万石)を誇る越前藩の居城にふさわしい見事な水堀と石垣と桜がとても美しかったです。 福…

細川竜太郎さんの姫路城攻城レポート

妻と花見に行ってきました。あいにくの曇りでしたが桜が満開でした。知る人ぞ知る世界遺産、日本3名城のひとつですね。その形から別名、白鷺城と呼ばれます。黒田官兵衛が小寺氏から任されていたお城でしたが、当時は小さな城でした。家康が豊臣包囲網において西国大名を牽制するときに、池田氏を城主にして城を立派なものにしたということです。 城内には怪談で有名なお菊井戸があり、ちょっとしたホラーが楽しめます。お城に入る前に広場があるのでそこで花見がてらお弁当を食べました。最近では彦根城の「ひこに…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#4】

…ーン的な? 打ち上げ花火や狼煙のような、ここに城があったよマークというべきか。 まずはそこから。建物のない土の城もある、そういう城も城なんだ! と城好きの門戸を開いていただける人が増えてほしいなと思っているのです。城もなかは城好きへの扉を開ける鍵となりうると信じているのです。 さらにいえば、地域から愛されている城ならば、保存や歴史的な調査などにも前向きに、積極的になってくれる、そんな気もするわけです。想いですけどね、想い。 おっと……。もっと自由な発想で城もなかが生まれてほし…

城葱さんの「城もなか」道中記【岩村編】

…子表面を上から見ると花のようにも見えなくない、ちょっとお洒落な感じもします。 大黒屋商店さんの「お城煎平衛」 1袋330円 岩村城へ向かう城下町にある大黒屋商店さんのオリジナル商品として、店頭で販売されている手焼き味噌風味の煎餅。何より特徴的な岩村城の石垣のイラストが「岩村城」という文字とともに焼印されていて、愛らしい岩村城オリジナル商品となっています。煎餅の形も変わっていて、薄く丸いものを折りたたんだような扇型をしている。また一袋でかなりの量が入っていて、ひとりで買うとなか…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…勝祝いとして秀吉に初花肩衝を贈っている(このとき石川数正が初めて秀吉と会うと、その後も使者に) 賤ヶ岳の戦いを経て、今度は信雄と秀吉が対立 翌年正月、家康は信雄と会見 信雄を支持する? 北条と同盟を結んだ家康に関東惣無事の役目は果たせない 佐竹氏や宇都宮氏など反北条の大名は直接秀吉に取り入ろうとする 1584年(天正12年)、43歳 小牧・長久手の合戦で家康は信雄方に 当初は北伊勢あたりが戦場になると予想されたが、美濃の池田恒興らが秀吉方についたため(犬山城を攻略)、尾張が戦…

城葱さんの「城もなか」道中記【犬山編】

…ともあるように、桜の花を手前にその向こうに犬山城があるという構図をもなかの皮にしているところです。城もなかの中でもかなり異色のデザイン。城もなかといえば城のみというのが普通なんですが、このもなかの皮だけは、桜がある。さらに桜の方が前という斬新なデザイン。 桜の花と城の位置関係には、見方を変えると、桜の花に城が乗っている様子を表現しているようにも見える。こうなると、若干「天空の城ラピュタ」のようなものにも見えなくない。というわけで、かなり特徴的で面白いデザインなのです。 細部に…

「戦国合戦の基礎知識」の動画を公開しました

…基本 つづいて合戦の花形とされる「城攻め」についてです。味方の存在がも大きい「力攻め」はできれば避けたかったようで、ただ専業兵士ではなく農民が兵士だった時代は田植えや収穫期に戦ができないとか、雪国の場合は道が通れるうちに帰国しなければならないとか、時間的な成約もある中で選択せざるをえない状況もあったようです。逆に大規模な軍勢で長期戦ができるようになれば水攻めなどの兵糧攻めが可能になるわけですね。 【戦国合戦の基礎知識】軍師の役割 軍師というと奇襲を成功させたり、少数の兵で大軍…

城葱さんの「城もなか」道中記【小田原編】

…。 パッケージの梅の花が可愛らしい。城もなかの中でも、城ではなく、城と共にある城下町をネーミングにしているところがまた城と共に発展する小田原を表現しているかのようです。 あんは粒あん。ぎっしり詰まってる。粒立ちがしっかりしてます。粒多めでしょうか。 今回購入させていただいたのは、風月堂さんのお店。小田原城から一回り外の大通り国道1号に面しており、城から南東の方角です。 店内には、食品サンプルの城もなかもあり、看板商品であることを物語ります。個人的にはこの食品サンプルうちにも欲…

名古屋城で開催中の企画展「初公開 門外不出 巨大杉戸絵」取材レポート

…之廊下と上洛殿の間 花車図杉戸絵(重要文化財)=上洛殿の廊下の途中 の仕切りとして使われました(これは前期のもので、後期は入れ替えです)。具体的にはここです。 たとえば最後の杉戸は建物間ではなく廊下の途中という珍しいケースですが、上洛殿の廊下にあるあの見事な欄間彫刻の下にはめられてました。 つまり単に建物間のドアや仕切りとしての意味合いだけでなく、杉戸の両側が別空間であること、杉戸そのものが視覚的に境界(その向こうがより格式の高いエリアであること)を示していたのではないかとい…

二条城で開催される「NAKED 夏まつり 2022」の見どころを写真と動画で紹介

…グです。今回は「内堀花火大会 -NAKED FIREWORKS-」と題して、約75mの石垣をスクリーンとして花火の映像が投影されるのですが、これまでになかった試みとしてQRをかざすことで花火を作成して打ち上げることができます。 しかもイベントのために用意されたメタバース内でも花火が上がるそうで、リアルとバーチャルのクロスオーバー体験という今回のテーマに沿った作品となります。人が多い場合に自分が上げた花火をどこまで認識できるのかわかりませんが、この試みはおもしろいなと思いました…

【戦国軍師入門】立花道雪――輿で戦場を駆けめぐった、雷神の生まれ変わり

…活躍する。その名は立花道雪(たちばな どうせつ)。しかし、これは名門立花家の門跡を継いで、さらに出家した後の名前で、それ以前の名前は戸次鑑連(べっき あきつら)という。 彼はその生涯において九州各地を転戦し、様々な戦いを繰り広げているが、その姿は実に特徴的なものだった。道雪は馬ではなく輿(こし)に乗って戦場を往来したのだ。これについてはひとつのエピソードが伝えられている。 それはとある夏の日のこと、道雪は急に降り出した雨を避けて大樹の下で雨宿りをしていた。この時、突然雷鳴が轟…

【戦国軍師入門】角隈石宗――秘伝を火中に投じて散った軍配者の無念

…家を支えた名軍師・立花道雪は彼の弟子で、師弟で大友家のために尽力した、ということになる。 彼の仕えた宗麟は有名なキリシタン大名だが、石宗はすでに述べたとおりに出家していた。さらに軍配者であったことから、陰陽道などの古い日本の伝統を重視していたこともあって、キリスト教には反対の姿勢を貫き続けた。その結果、宣教師のルイス・フロイスは彼のことを「不明の徒」と評し、かなり敵視していたという。 こうして様々な逸話を持つ石宗にまつわる最も大きな事件は、彼にとっての最後の逸話でもある。15…

【戦国軍師入門】鍋島直茂――野心なくして遂げた下克上

…くま せきそう)や立花道雪(たちばな どうせつ)が仕えた大友家、秀吉の九州征伐に頑強に抵抗した島津家、そして龍造寺(りゅうぞうじ)家だ。龍造寺家は隆信(たかのぶ)が当主の頃に全盛期を迎え、肥前(現在の佐賀県及び長崎県の一部)・肥後(現在の熊本県)・筑後(現在の福岡県南部)・豊前(現在の福岡県東部及び大分県北部)に勢力を伸ばした。そして、その隆信を支えた軍師が鍋島直茂(なべしま なおしげ)なのだ。 直茂は龍造寺家家臣の鍋島清房(なべしま きよふさ)の息子として生まれる。隆信の従…

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

…駿府に公家風の文化を花開かせた義元の背景に、この時期の教育があったのは間違いない。 義元と雪斎を取り巻く状況が変わったのは父が死に、1536年(天文5年)、その跡を継いだ兄の氏輝(うじてる)も死んだ時のことだった。ここで勃発したのが「花倉の乱(はなくらのらん)」という今川家の内乱だ。寺から呼び戻された義元は異母兄で同じく出家していた玄広恵探(げんこうえたん)と家督争いをすることになる。 とはいっても、実質的に争っていたのは両名の母(義元の母は氏輝の母でもあり、実質的な当主とし…

【戦国軍師入門】耳川の戦い――受け入れられなかった主君への進言

…くま せきそう)と立花道雪を始めとする部下たちが強く反対する。占いによって合戦の吉凶を占う軍師である石宗は不吉を理由に、またその弟子である道雪も占いを無視することの危険さを理由に、主君を説得する。 この時に道雪は、島津を攻めることは時期尚早と見て、それも主君を制止する大きな理由となっていたようだ。それでも宗麟は結局総勢4万5千の大軍を動かして出陣してしまった。実際に両軍が衝突したのが耳川という川の周辺だったため、この戦いは「耳川の戦い」と呼ばれている。まず大友軍は高城という城…

【戦国軍師入門】北九州をめぐる戦い――小早川隆景・立花道雪の激突

…基地となる門司城や立花城をめぐり争うことになる。その中でも特に注目したいのは、1554年(天文23年)に起きた門司城をめぐる攻防戦と、1569年(永禄12年)の「多々良浜の合戦」だ。 まず前者において注目するべきことは、毛利側には小早川隆景(こばやかわ たかかげ)、大友側には立花道雪(当時は戸次鑑連(べっき あきつら)と名乗っていた)という、それぞれ戦国時代を代表する名軍師・知将が参加し、その知略を激しく戦わせていたことだ。小早川隆景は元就の三男で小早川家に養子として入り、「…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく④――支城を漬され、大名の逃げた城・有岡城

…まれた。町を焼きながら織田軍が本城に迫ってくると、城に残っていた老臣たちは信長との交渉にあたった。その結果、尼崎城と花隈城を明け渡し、村重が出頭するのを条件に、城兵たちの命は助かるということになった。 こうして有岡城は開城し、城兵たちの命は助けられた――で済めば美談なのだが、そうはならなかった。村重は結局、出頭しなかったのである。こうして村重の親族や家臣、さらにはその家族までもが虐殺されたのだが、村重自身はさらに生き延び、豊臣秀吉に茶人として仕えている。 kojodan.jp

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑧――関ヶ原の戦い当日まで持ちこたえた城・大津城

…、勇将として名高い立花宗茂をはじめとする西軍の大津城包囲部隊は決戦に参加することができなかった。これはある種の囮として立派な働きである、というものだ。家康もこれを高く評価し、戦いの後に高野山へ入っていた高次をわざわざ呼び戻し、若狭を加増している。 けなした家康と褒めた家康のどちらが真実でどちらが作り話なのかはともかく、客観的に見れば高次の働きが東軍の勝利に少なからず貢献したのは間違いない。敵勢力を惹き付け、決戦を有利にするのも、城の大事な役割なのである。 kojodan.jp

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は④――北九州の防波堤になった城・立花城

筑前の立花城(福岡県新宮町、久山町、福岡市にまたがる立花山)は豊後大友氏の一族にあたる大友貞載が築き、その子孫である立花氏が城主をつとめた。貿易で栄えた港町・博多を見下ろす位置にある筑前北部の要所であり、この堅固な山城をめぐってはたびたび戦いが行われた。 1431年(永享3年)には中国の大内氏が「一揆を鎮圧する」という名目で侵攻し、立花城を落とした。その後は大内氏と大友氏がこの城を奪い合っている。1539年(天文8)に両者が講和し、立花城が大友氏に返されることになったが、この…

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