攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

薩摩藩 の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【九州編】

…73年(延宝元年)に薩摩藩主・島津光久が上洛の途中で立ち寄った際に「植えられてどれだけの年月を経たのか、その最初は月だけが知っている」という内容の詩を作り、月知梅と命名したのがその由来らしい。 かつてはひと株だったものが、いまでは70株ほどになっているようです。枝が伏して根を張り、四方に繁殖した姿が、あたかも龍が地を這うようであることから、臥龍梅とも呼ばれているらしいです。かっこいい名前ですね。宮崎市HPによれば、例年の開花時期は2月中旬頃で、白色の八重で非常に気品ある梅だそ…

徳川将軍家の正室(御台所)の出身を調べる

…、彼女たちはいずれも薩摩藩出身でした。このことにより薩摩藩は幕末に主導的立場を獲得していくという点もおもしろいです。ついつい男系で歴史を見てしまいますが、女性たちが歴史に与えた影響の大きさをあらためて実感することになりました。 さらにこの島津家の女性たちがいずれも近衛家の養女になっている点を不思議に思って調べてみたら、もともと島津家(当時は惟宗家)は近衛家の家司(けいし=執事のような存在)で、平安時代からの関係だったことがわかりました。おまけに現在の大河ドラマ「鎌倉殿の13人…

【10大戦国大名の実力】島津家⑥――島津家の歴史

…。 その後、島津家は薩摩藩主として江戸時代の終わりまで残った。幕末期には英才として名高い島津斉彬を輩出、さらに薩摩藩からは西郷隆盛ら多数の維新志士が現れ、長州藩と共に倒幕・明治維新への原動力となった。 複数リーダーは諸刃の刃 戦国大名・島津家は華々しい活躍に飾られた一族である。しかし、その背景には一族の内乱や兄弟の反日、中央権力による干渉などの度重なる苦難があった。むしろ、島津家の凄まじいまでの戦闘能力はそのなかで磨かれたのだ、と思えば納得もいくというものだ。 たとえば、関ヶ…

【10大戦国大名の実力】島津家②――島津忠良の相州家継承と貴久の島津宗家継承

…して後世に伝えられ、薩摩藩の武士が学ぶべき教養の根本として親しまれることになった。彼から島津氏の躍進が始まる。 この時期、島津本家・奥州家の忠兼(のちの勝久)は三ヵ国守護の地位は保持しながらもそれにふさわしい力を失っている現状を憂い、立て直しを図っていた。そこで当初は薩州家の実久(さねひさ)の補佐を受けて権力の再構築を図ったのだが、次第に対立するようになると(原因は実久が守護職を得ようとしたためとも)今度は忠良を頼り、彼の息子である貴久(たかひさ)を養子とし、1526年(大永…

【10大戦国大名の実力】島津家①――リーダーシップはどうあるべきか

…終的には義弘の血筋が薩摩藩主として残ることになった。ここからは「当主以外の実力者がいる体制は乱世には向いていても安定期には向かない」という結論が見えてくるような気はしないだろうか?そこで本項では、島津氏の歴史と四兄弟の活躍を追いかけながら、リーダーシップのあり方と権力集中の意味についてみていくことにしたい。 鎌倉以来の名門 島津氏の系図によると、その祖は鎌倉幕府を創設した源頼朝の庶長子・忠久(ただひさ)であり、彼が近衛氏の下家司(しもけいし。家政をつかさどる家司のなかでも下級…

【クーデターで読み解く日本史】慶喜の奇策を鮮やかに葬った薩長の逆王手――王政復古

…力討幕の機会を失った薩摩藩・長州藩、そして一部公家ら討幕派は、新たな方策を模索することになる。それが「王政復古(おうせいふっこ)」クーデターであった。 1867年(慶応3年)12月、旧幕府方の軍勢との衝突を警戒して薩摩藩らの兵が周辺を固める中、御所で王政復古の大号令が発せられた。これによって徳川氏と幕府を排除した新政府の設立が宣言されたのである。さらにその夜、新政府の重職についた人々による小御所会議(こごしょかいぎ)が開かれ、慶喜に辞官納地(じかんのうち)――役職と領地の一部…

【クーデターで読み解く日本史】逆転の発想で徳川の復権を狙った慶喜の一手――大政奉還

…明白となり、長州藩や薩摩藩を中心に討幕の動きがさらに進んでいった。 一方、薩長同盟の締結にも尽力した土佐藩の坂本龍馬は武力ではなく平和的な形での幕府体制の解体と新体制の構築を模索し、船上で作ったことから「船中八策(せんちゅうはっさく)」と呼ばれる提案書をまとめた。ここで示された思想が、幕府が長年保持してきた政権を朝廷に返却し、新政府を発足させる「大政奉還(たいせいほうかん)」である。 この大政奉還案は土佐藩の重鎮である後藤象二郎(ごとう しょうじろう)から前土佐藩主である山内…

【クーデターで読み解く日本史】幕府の威信が失墜した鎮圧失敗劇――長州征討(長州征伐)

…したものの、会津藩・薩摩藩らと激突した禁門の変(きんもんのへん)で敗れ、ついに「朝敵」とされてしまった。 朝廷の命を受けた幕府は長州藩を攻撃するべく諸大名に通達し、朝敵を打ち倒すために長州へ向かわせた。これが第一次長州征伐である。しかし、長州藩は戦闘を行う前に降伏し、家老二人の首を差し出した。検分の後、幕府は兵を撤退させている。 ところが、この直後に長州藩内でクーデターが発生し、討幕派が主導権を握ったことで事態は大きく動き出す。攘夷は無理と悟った彼らはむしろイギリスと積極的に…

【クーデターで読み解く日本史】2代続けて襲われた幕府の重鎮――坂下門外の変

…城へ逃げ込んだことなどが問題視され、信正は失脚してしまったのである。 これによって幕府主導の公武合体運動は頓挫せざるを得なかった。しかし、この後も薩摩藩をはじめとする雄藩主導によって幕府と朝廷の接近は進められ、また政略結婚であった家茂と和宮の関係は良好であり、後に家茂が病没した後も彼女は幕府に残り、徳川氏存続のために奔走することになるのだった。 暗殺の幕末維新史 桜田門外の変から大久保利通暗殺まで (中公新書) 作者:一坂太郎 中央公論新社 Amazon kojodan.jp

【殿様の左遷栄転物語】紀伊藩付家老ーー水野忠央という怪物

…さざるを得なくなり、薩摩藩や水戸藩などの雄藩がこれに着手している。 さて、ここに目をつけたのが忠央だ。この時、紀伊藩は財政難から大型船の建造などできず、苦心惨憺の末に資金を調達して海外より船を購入していたのに対し、忠央は自らの新宮領で軍艦を造り上げようとしたのである。これは他藩への対抗意識というのもあったと考えられているし、新宮領の存在感をアピールしようという意図もあったに違いない。わざわざ同じ御三家の尾張藩士を江戸から連れてきて技術指導を頼み、新宮領の鍛冶たちに「一之丹鶴丸…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府14代・徳川家茂――血筋で選ばれた貴族的将軍 1846年~1866年

…体路線は頓挫するが、薩摩藩など雄藩の藩主が幕政に介入し、この路線は継続されていく。徳川慶喜が将軍後見になったのもそうした介入の一環である。 自ら出陣しながら…… 一方、長州藩を中心に尊王攘夷運動が盛り上がり、朝廷での主導権を得ていた。こうした運動の背景には、開国の影響で物価が高騰し、庶民に不満が募っていたこともあるようだ。1863年(文久3年)には家茂が自ら上洛して朝廷の体制を変えようとしたがかなわず、むしろ攘夷の期限を定められてしまう始末だった。その後、薩摩藩・会津藩の尽力…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府13代・徳川家定――趣味は料理の「癇癖将軍」 1824年~1858年

…しまった。そのため、薩摩藩島津家から3人目の正室を迎えている。これが幕末の動乱期において徳川将軍家存続に奔走した篤姫(天璋院)である。 しかし、先述したように彼は病弱で、「実子は生まれないだろう」と見られていた。ならば御三家や御三卿から後継者を選ばなければいけないのだが、ふたりの有力候補それぞれに支持者がいて、国内を二分する争いになってしまった。ひとりめの候補者は先にも名の上がった一橋慶喜で、「一橋派」と呼ばれた人々は彼の英明さに期待して支持した。一橋派の特徴として、江戸時代…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府8代・徳川吉宗――幕府を大改革した、強運の将軍 1684年~1751年

…が問題になってかなわず、竹姫は薩摩藩主・島津継豊(しまづ つぐとよ)の継室となった。 1728年(享保13年)には「吉宗のご落胤」を名乗る怪人物が現れ、江戸を騒がしている。これが「源氏坊改行事件(げんじぼう かいぎょう じけん)」だ。名奉行・大岡忠相が解決した事件として世に知られる「天一坊事件(てんいちぼうじけん)」というのは、これを元にした創作である。このときは結局「証拠もなく吉宗の子を騙った」として獄門に処されたが、吉宗としては覚えもあったようで、ゾッとしたのではないか。

【戦国時代の境界大名】伊東氏――二大勢力との死闘で滅亡するも……

…は病に倒れており、後継ぎの祐慶(1589―1636)が九州において徳川方の東軍として活躍した。そのため戦後も旧領を安堵され、飫肥藩5万7千石余の外様大名として江戸時代に入っている(のち5万1千石)。 江戸時代後期には極度の財政危機に苦しんだ。林業の開発に成功し、飫肥杉ブランドを確立、またこれを貧民の救済に結びつけたもののやはり根本的な解決にはならず、幕末になって藩士の家禄3分の1を削減している。幕末の動乱では近隣の薩摩藩より布告を受けて新政府側についた。 kojodan.jp

【江戸時代のお家騒動】お由羅騒動 幕末薩摩の後継者争いに幕府も介入

…(嘉永3年)【舞台】薩摩藩【藩主】島津斉興【主要人物】島津斉興、島津斉彬、お由羅の方、調所広郷 藩財政を背景に藩主・斉興と長男・斉彬の路線対立 このお由羅騒動は、近思録崩れの後に薩摩藩で起こった騒動である。藩主・島津斉興の側室であるお由羅の方が、自らの子を後継者にしようと画策したために起きた事件だ。しかしその背景には、近思録崩れの頃から揺れていた薩摩藩の財政事情などがあり、単純に「出世欲に駆られた側室が起こした後継者争い」と片付けることはできない事件となっている。 25代目当…

【江戸時代のお家騒動】近思録崩れ 隠居した父が息子の藩主を押込め。薩摩藩最大の大獄

…(文化5年)【舞台】薩摩藩【藩主】島津重豪、島津斉宣【主要人物】島津重豪、島津斉宣、樺山主税、秩父太郎 藩主・重豪は藩財政立て直しより開化政策に注力 近思録崩れ、または秩父崩れとも呼ばれるこのお家騒動は、処分者が総勢100名以上にものぼる、薩摩藩史上最大の大獄である。島津家の25代目当主・島津重豪(しげひで)は、父の死によって1755年(宝暦5年)に藩主になって以降、1787年(天明7年)までの32年もの間、藩主を務めた人物だ。重豪が藩主となったのは、薩摩藩が財政面の危機に瀕…

4.出世と譜代大名

…に新政府軍が迫る中、薩摩藩の西郷隆盛と交渉して江戸無血開城を達成したことで有名だ。その後、陸軍総裁をはじめとする役職は役目を終え、姿を消したのである。 京都守護職(きょうとしゅごしょく) 1860年(万延元年)、対立する派閥および尊王攘夷運動(朝廷を旗印に、諸外国を排除しようという動き)を弾圧していた大老・井伊直弼が「桜田門外の変」によって暗殺された。これ以後、尊王攘夷過激派が京都を中心に活動を活発化させ、畿内全域は急激に治安が悪化する。彼らに対し、畿内を守護するために置かれ…

1.譜代大名の定義

…田家(102万石)や薩摩藩の島津家(77万石)など、譜代大名よりはるかに高い外様大名が各地にいたが、徳川家は自分たちの手足となって働いてくれる譜代大名を政治の中心におき、幕政を安定させたのである。外様大名はいくら石高が高く、力が強かろうと――いやむしろ力が強いからこそ、幕閣への道は閉ざされていた。 江戸時代は高度な地方自治が成立していた時代であり、中央政権である江戸幕府が地方自治体である諸藩に過度の干渉をすることは少なかったが、一方で諸藩が中央政権の専権事項である諸外国との外…

5.支配者としての大名たちの苦悩

…た。たとえば天保期に薩摩藩の改革を進めた調所広郷と、長州藩の改革を進めた村田清風はともに下級武士出身で、それが藩主による抜櫂によって改革の主導権を与えられたものである。のちに雄藩の代表格となる両藩が、それぞれ下級武士による改革で力を蓄えた、というところが、封建社会の衰退を象徴しているかのように思えてならない。 改革の性質については、東国と西国で少なからず違いが見られた。東においては以前から行われていた藩政改革の手法が継承され、荒廃した田畑の復興。農村の再生といった農業方面重視…

4.江戸幕府のシステムに縛られた外様大名

…前田家は2千5百人、薩摩藩・島津家は1千2百4十人もの大行列で江戸と所領の間を移動したというから、相当の出費になったであろう。もちろん、これらは大大名の場合。より規模の小さい大名はそれなりの人数でよいことになっていた。にもかかわらず人数が少しずつ増加して財政が悪化する藩が続出し、幕府がこれをたびたび戒めている。大名たちの見栄が見え隠れするが、それで首を絞めているのだから世話はない。 金がかかって仕方がない江戸屋敷 江戸に屋敷を構えることも大名にとって大きな負担になった。江戸の…

かつての王都・浦添グスクと浦添ようどれを取材してきました(伊祖グスクも)

…ですが、1609年に薩摩藩の島津氏が琉球に侵攻すると焼き討ちにあい、浦添グスクは廃城となります。またこのとき首里城にいた尚寧王は将軍・徳川秀忠に謁見するために江戸まで連行されるという仕打ちを受けます。 西室再現コーナーは必見 この「浦添グスク・ようどれ館」最大の見所は「浦添ようどれ」の「西室(せいしつ)」の再現コーナーです。本物の浦添ようどれは内部が非公開となっていますが、ここにはかなり正確に西室内部が再現されています。 石厨子(いしずし)と呼ばれる石棺には福建省の石が使われ…

【鹿児島】鹿児島城跡にある黎明館のジオラマは必見(そしてカフェはおしゃれ)

… 「外城」というのは薩摩藩独自のいわゆる支城のことで、一国一城令後にも「外城」と称して地方支配の拠点を設置・運営していました。こうした外城は薩摩藩内に約100か所あったといわれていますが、中でも肥後国との国境にあったこの出水外城は藩内で最初に築かれた外城であり、またその規模も最大でした。 外城において役人(武士)の住居と陣地を兼ねた町を「麓」と呼び、出水麓には現在も武家屋敷など当時の町並みが残っており、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 おそらく役人が赴任して…

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