攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

関東管領 の検索結果:

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑥――水攻めに耐えた城・忍城

…ある。 この忍城は、関東管領・山内上杉氏に仕える成田親泰が、この地域を支配した武将を攻め滅ぼして築城したのが始まりといわれている。忍城は荒川と利根川が氾濫を繰り返した結果として自然に生まれた忍沼という巨大な湖沼地帯の只中にあり、城とその城下町はその中に浮かぶ島のような場所にあった。いわゆる「浮島」と呼ばれるタイプの城だったわけだ。 もちろん川や沼は天然の防壁であったし、城自体も土塁・池沼・深田によって区分けされた複雑な構造を有して、非常に守りやすい城であった。そのため、「関東…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ①――夜襲で決着した「後詰決戦」・ 河越城(川越城)

…上杉氏の本家筋にして関東管領(室町幕府において東国を実質的に統括する役職)を継承する山内上杉氏に匹敵するほどの勢力にまで成長していた。 河越城はこの扇谷上杉氏の本拠だったのだが、1537年(天文6年)に北条氏によって奪われてしまう。その後、北条氏が滅亡してからは徳川氏の城となる。ここは本拠地である江戸を守護する重要な拠点だったため、江戸時代には譜代大名が入って北の守りを担うことになった。 1545年(天文14年)、この城をめぐって北条氏と関東地方諸勢力との間で行われた戦いは「…

【10大戦国大名の実力】北条家④――関東に覇権を築いた氏康の時代

…現れる。山内上杉家と関東管領を継承した上杉謙信が、関東遠征を敢行したのである。 特に1560年~1561年(永禄3年~4年)に行われた最初の関東遠征は大規模で、関東中の反北条勢力が結集され、11万3000という大軍で関東を南進、ついに居城・小田原城を包囲してしまう。しかし氏康はこの攻勢を1ヵ月余りにわたって耐え、ついに上杉軍を士気減退と兵糧切れに追い込んだ。 小田原城が包囲されたのはこの時だけではない。今川義元の死によって今川氏が衰退すると武田信玄によって三国同盟が破られ、こ…

【10大戦国大名の実力】北条家②――関東に進出する北条早雲

…、その補佐役である「関東管領」を代々上杉氏が継承した。室町時代の各所で見られたことだが、上杉氏が次第に力をつけていくと鎌倉公方と対立するようになり、ここに幕府の思惑も絡んで、関東地方はしばしば三つ巴のパワーゲームの舞台となった。 そうして訪れた決定的な破局が、1454年(享徳3年)の鎌倉公方・足利成氏(あしかが しげうじ)による関東管領・上杉憲忠(うえすぎ のりただ)謀殺に端を発する享徳の乱である。たちまち関東の各地で成氏側と上杉氏側の戦いが行われたが、成氏側が有勢だった。そ…

【10大戦国大名の実力】上杉家⑤――謙信の死から始まる内乱

…の外部勢力や、謙信に関東管領の地位を譲って越後にいた上杉憲政などが味方した。 この二人はそれぞれに謙信の跡を継ぐだけの力を持っていたが、「軍神」ほどのカリスマは持たず、また上杉家を構成・支持する勢力のどれかと深い関係があったため、それと対立する別の勢力との仲が悪かった。これでは「謙信の代わり」はできないのだ。結果、春日山城で景勝の攻撃を受けた景虎は憲政の住む「御館」と呼ばれた館に逃げ込んで戦ったため、この内乱を「御館の乱」と呼ぶ。 この内乱に勝利したのは景勝だった。そして半自…

【10大戦国大名の実力】上杉家④――謙信は神がかりか

…接近し、上杉の家督や関東管領の地位と名声などに固執したのも、父・為景が中央の権威によって国人たちを統率しようとしたのと同じだったのではないか。 それから、謙信はまだ27歳と若いころに高野山で出家して隠退しようとし、家臣団らの説得で取り消したことがある。この原因を元々の信心深さや心労、理想と現実のギャップと見ることもできる。しかし、その一方で謙信は復帰の条件として国人たちに誓紙と人質を出させており、これによって度重なる遠征により分裂しかけていた越後国内を取りまとめることに成功し…

【10大戦国大名の実力】上杉家③――関東出兵の目的は?

…て山内上杉家の家督と関東管領の地位を継承した。ここから江戸時代の米沢藩につながる上杉家の歴史が始まるため、以後を「米沢上杉家」とも呼ぶ。ちなみに、彼が「謙信」を名乗るのは出家後なので、さらに先のことである。 関東出兵に隠された思惑? 通常、戦国大名の遠征は土地を得るために行われるものである。それは大名の勢力を拡大するものであると同時に、家臣団を満足させるための褒美でもあったからだ。にもかかわらず、謙信は度重なる遠征によってあまり領地を獲得していない。得たのは信濃や上野の一部程…

【10大戦国大名の実力】上杉家②――長尾為景の成功と失敗

…内上杉家の当主として関東管領の地位にあったのは、越後上杉家出身で房能の兄に当たる顕定(あきさだ)だった。1509年(永正6年)、弟の復讐に燃える彼の攻撃と国人衆の離反に耐えかねた為景は一時越中に逃れたが、翌年には舞い戻って顕定を打倒。弟と同じく自害させてしまった。さらに自身が守護とした定実とも対立し、実権を奪い取った。 こうして見事に下克上を達成したにもかかわらず、為景による越後統治はなかなか安定しなかったようだ。その原因は、越後国内に大小存在する勢力がすべて為景の忠実な家臣…

【10大戦国大名の実力】上杉家①――カリスマの功罪

…杉家が代々継承した「関東管領」である。これはいわゆる関八州(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野)に甲斐・伊豆を加えた十力国を統治する「鎌倉府」の役職で、長である「鎌倉公方(足利氏が継承する)」を補佐するのがその役日だ。 山内上杉氏の他にもいくつか有力な家があったが、本章で注目するのは越後守護職を継承する越後上杉家だ。この家は元々山内上杉家から分かれたもので、非常に密接な関係にあった。さて、その上杉氏に代々仕えたのが長尾氏である。桓武平氏の流れをくむ。発祥には諸説あ…

【10大戦国大名の実力】佐竹家②――戦国大名・佐竹家として

…対し、上杉氏の名跡と関東管領の座を受け継いだ越後の上杉謙信が1561年(永禄4年)頃よりたびたび関東遠征を繰り返す。関東は謙信と氏康の対決の場となっていたのである。義昭はこの謙信の力を借りて小田氏を圧迫した。一度はせっかく攻め取った本拠地の小田城を奪い返されることもあったが、謙信が再び関東へやってくると再奪還し、以後は小田氏を抑え込んだ。佐竹家の勢力は常陸南部にまで及んだのである。義昭の勢力拡大はこれに留まらず、北に向いては金山をめぐって衝突のあった陸奥の白河結城氏を圧迫して…

【10大戦国大名の実力】佐竹家①――動乱の中でいかに立ち回るか

…、鎌倉公方・足利氏、関東管領・上杉氏の三者による政戦を駆使した争いが続き、それが佐竹氏の内乱にも大きな影響を与えた。上杉氏より入った佐竹義人から続く本家が足利公方を背景にしたのに対し、分家の佐竹山入家は幕府を背景にして、時に本家を上回るほどの力を発揮したのである。 特に、鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を殺害したことから始まる享徳の乱は、佐竹氏にも大きな影響を与えた。佐竹本家の義俊が成氏側についたのに対し、山入家と義俊の弟・実定が上杉側について、なんと本家まで分裂してし…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…) 上杉禅秀の乱 前関東管領・上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方・足利持氏に対して起した反乱。鎌倉公方と関東管領の対立に加え、幕府と鎌倉府の対立もあり、関東の動乱のきっかけに 室町時代 1422年(応永29年)〜1423年(応永30年) 小栗満重の乱 上杉禅秀の乱で禅秀に味方したため所領を没収された小栗満重が鎌倉公方・足利持氏に対して起こした反乱 室町時代 1423年(応永30年)〜1426年(応永33年) 応永の乱(越後応永の大乱) 越後守護・上杉頼方(うえすぎ よりかた)と守護代…

戦国時代のはじまりと終わり

…持氏を将軍・義教と前関東管領・上杉憲実とともに討伐 1454年(享徳3年)〜 享徳の乱→鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺。幕府は山内上杉家・扇谷上杉家側についたため、成氏は鎌倉を追われる 1493年(明応2年) 伊勢盛時(北条早雲)による伊豆討入り→堀越公方(ほりごえくぼう/ほりこしくぼう)茶々丸の討伐=明応の政変で新将軍の座についた義遐(よしとお、のちの義澄(よしずみ))が母と弟の敵討ちを命じたとも こうした出来事が連鎖的・複合的に起こっていく中で、「室町幕府が…

【クーデターで読み解く日本史】父の無念を晴らすべく子が起こした騒動――享徳の乱

…としては父の仇である関東管領・上杉氏への憎しみを抑えきれなかったようで、また鎌倉公方派と関東管領派で関東の武士たちが対立するようになり、むしろ混乱は加速した。1450年(宝徳2年)には上杉氏の家臣たちが成氏を襲撃、江ノ島で合戦が行われる事態にまで発展したのだが、この時には和睦が成立した。 破滅が訪れたのは1454年(享徳3年)の12月だ。成氏は関東管領・上杉憲忠(うえすぎ のりただ)を自分の屋敷に招き寄せると、謀殺してしまったのである。これに対して憲忠の弟・房顕(ふさあき)が…

【クーデターで読み解く日本史】関東管領への反発が招いた公方残党の結集――結城合戦

…を及ぼすことになった関東管領・上杉氏だったが、すぐさまこれに対する反発が具体的な形を取った。結城合戦である。 発端は1440年(永享12年)、足利持氏の遺児である春王(はるおう)・安王(やすおう)兄弟が持氏派の残党に担ぎ出される形で挙兵したのだ。そして彼らの呼びかけに応え、反上杉勢力を結集させる役目を担ったのが下総国の国人・結城氏朝(ゆうき うじとも)である。さらに少なくない数の関東武士が氏朝に味方したが、やはり関東管領に、そして幕府に対抗するにはあまりにも非力だった。 それ…

【クーデターで読み解く日本史】鎌倉公方の夢の先には戦国の扉あり――永亨の乱

…か取り持っていたのが関東管領・上杉憲実(うえすぎ のりざね)だったが、その憲実と持氏の関係も険悪になる。ついに1438年(永亨10年)、憲実は上野へ脱出し、これを追おうと持氏も出陣した。永享の乱の始まりである。 義教は各地の勢力に打倒持氏のため出陣するよう命じた(本人は自ら出向いて持氏を滅ぼしたかったらしいが、さすがにこれは重臣たちにより止められている)。しかも鎌倉公方の勢力基盤であるはずの関東でも幕府方・管領方につくものが続出する始末で、これでは持氏に勝ち目などあるはずもな…

【クーデターで読み解く日本史】足利幕府のアキレス腱、関東の内乱――上杉禅秀の乱

…方と争うこともあった関東管領(上杉氏が代々世襲)らが火種になって内乱につながることが何度もあったのである。 4代将軍・足利義持(あしかが よしもち)の時代の1416年(応永23年)には、前関東管領・上杉禅秀(うえすぎ ぜんしゅう、氏憲(うじのり))が時の鎌倉公方・足利持氏(あしかが もちうじ)を打倒するべく挙兵した。事件の発端は禅秀の家人が持氏によって所領を没収されたことだった。これに抗議した禅秀が関東管領の職を解かれると、代わって上杉憲基(うえすぎ のりもと)がその地位につ…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府6代・足利義教――偶然で将軍になり、「万人恐怖」と呼ばれる 1394年~1441年

…年(永享10年)から関東管領(かんとうかんれい)である上杉憲実(うえすぎ のりざね)と持氏が対立し始め、関東の情勢が危うくなってくると、このチャンスを見計らって義教は鎌倉に軍を送り込んだのである。幕府軍に援軍が送られ、さらに鎌倉方からそちらに寝返る者まで出始めると、持氏は一気に不利になった。そこで持氏は敗北を悟って降参を申し入れたものの、その子の義久もろとも自害に追いこまれ、鎌倉府は一時消滅してしまった。これを「永享の乱(えいきょうのらん)」という。 そのほか、義教は九州の統…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府4代・足利義持――父を否定し、政策を転換 1386年~1428年

…である。そんな中、前関東管領・上杉禅秀(氏憲)が謀反に踏み切る。禅秀は家人が所領を没収された問題で、鎌倉公方の足利持氏と対立し、関東管領を辞職した。 さらに、持氏は禅秀の後任として、彼のライバルである上杉憲基を置いた。これでは禅秀が黙っていられるはずもなく、大規模な反乱に発展したのである。しかも、この一件はこれだけではすまなかった。義持の弟・義嗣がかかわっているとの疑惑が生じたのである。義嗣は仁和寺興徳庵に幽閉され、2年後の1418年(応永25年)に、義持の命を受けた近臣の富…

【歴代征夷大将軍総覧】足利将軍――室町時代

…い対立を繰り広げた。また、中央と地方の対立もあった。関東八ヶ国+伊豆・甲斐(これはそのまま建武の新政の鎌倉将軍府の範囲である)を統括する地方機関として鎌倉府が設置され、その長である鎌倉公方は尊氏の子である基氏の末裔が代々務めた。これを有力武家である上杉氏が関東管領として補佐したのだが、将軍と鎌倉公方はたびたび対立し、そこに関東管領も加わって、混乱を巻き起こすことにもなった。 代々の足利将軍はこのような有力者たちと渡り合いながら、自らの政治を進めていかざるを得なかったのである。

明智光秀と近衛前久――あるいは「本能寺の変朝廷陰謀説」?

…。名門・上杉氏の名と関東管領の地位を継承して東国の混乱を治めようとしていた彼を助け、最終的には景虎に兵を率いての上洛をさせようとしていたのである。そうすることで戦国時代を終わらせることができると信じたのだろう。景虎を助けるために越後どころか上総・下総まで赴いているのだから相当な決心があったはずだ。しかし、景虎は武田氏や北条氏との戦いに忙しく、ついに上洛することは叶わなかった。1562年(永禄5年)に京へ戻る前久の心は失意に満ちていたであろう。 1568年(永禄11年)、前久が…

鉢形城 復讐のために造られた城

…鉢形城] 長尾氏は、関東管領となっていた上杉氏の家中で頭角を現し、山内上杉家の家宰となっていた。家宰は主人に代わり、家の管理をする役職だ。景春は父・景信から家宰職を受け継ぐはずと思っていたが、主君である山内上杉顕定は景信の弟・忠景を家宰に任じた。この理由は、若い顕定が、若い景春よりも熟練の忠景を頼ったという説など様々存在している。 いずれにしても、家宰になれなかった景春は主君に反旗を翻し、武蔵国鉢形城に入り、関東公方・足利成氏と協力することになった。関東公方は「鎌倉公方」とも…

斎藤道三と高政の親子がギスギスしていた頃、関東では北条家が圧倒的優位に立っていた

…て実権を掌握してきた関東管領の一族、山内上杉と扇谷上杉の両家、これらの争いの中に新勢力として殴り込んできたのが北条家で、伊豆の堀越公方を倒してから関東へ着実に勢力を伸ばしてきた、というのが大まかな状況だ。 さて、武蔵の河越城は扇谷上杉氏の本拠地であったが、北条氏に奪われ関東侵略の前線基地になっていた。これに対して山内・扇谷の両上杉氏と古河公方、そして関東の武士たちが連合を組み、未曾有の大軍をもって河越城を包囲したのだ。河越城の、ひいては北条の命運もここまでかと思われたが、父の…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…あるとの考えを強め、関東管領を追いやった北条氏を見逃してはおけませんでした。 越後から関東へと進出し、関東管領の上杉憲政を助けて北条の支城をいくつも陥落させながら、難攻不落とうたわれた小田原城にまで攻め寄せて取り囲みました。しかし、要塞のような小田原城は軍神・上杉謙信の知略をもってしても落城させることは出来ませんでした。 所在地 神奈川県小田原市城内6-1 アクセス 車の場合、小田原厚木道路「荻窪IC」から約10分、または西湘バイパス「小田原IC」から約5分、または東名高速道…

【戦国を彩る名軍師たち】才覚のあまり主君に討たれた太田道灌

…公方。その補佐をする関東管領を輩出する上杉氏の一族。そして中央の権力者である将軍……。 鎌倉公方は二つに分裂し、上杉一族からも本流である山内上杉と、傍流から躍進した扇谷上杉がそれぞれに台頭したからまたややこしい。その有り様は、「関東には一足早く戦国時代が到来していた」とさえ言えるくらいだ。 道灌はこれらの勢力の一つ、扇谷上杉氏の家宰を務める太田氏に生まれ、主家を支えて八面六臂の奔走をした。特に、山内上杉の重臣・長尾景春が反乱を起こした際には、上杉方の方針決定に大きく関与すると…

河越城 奇襲によって大軍を破った戦い

…倉公方の補佐を務める関東管領が世襲されている。将軍と近しい存在だった山内上杉氏だが、一族の一末流でしかなかった扇谷上杉氏が台頭したため、危機感を持つようになる。やがて同じ一族で内紛をするようになってしまったという背景がある。 さらに茨城県の最西端・古河を拠点とする古河公方(鎌倉公方が戦乱の中で古河に逃れて成立)足利晴氏もこれに加わり北条氏を討とうと企てた。晴氏は北関東の豪族からの支持を集め、関東の覇権を握ろうとして上杉氏らに対抗していた。北条氏との仲は姻戚関係を結んで良好であ…

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