攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

冬 の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯6】

…ちでした。 ちなみに冬の間の限定販売ということですが、売れ行きによっては早くになくなってしまうというものらしいので、ぜひお早めにお求めください。と言いたくてこの投稿をまとめていたところでしたが、2024年3月3日に訳あって小田原城を再び攻めたのですが、すでに販売期間終了していました。ごめんなさい!次の冬を待って攻めてみてください! その代わりに登場していた季節限定の城もなかが「珈琲(コーヒー)最中」です。 皮は三層正面型。いうまでもなく、福来すずめさんの城もなかの皮です。 色…

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

… 御城印 令和五年 冬バージョン 上田城(長野県上田市) 上田市観光会館 500円 直書き 2024年1月1日 津山城 御城印 2024年元旦限定版 津山城(岡山県津山市) 津山城 入場券売場 400円 印刷 2024年1月1日 人吉城 御城印 令和6年正月限定版 人吉城(熊本県人吉市) 相良護国神社 500円 印刷 はがき大 2024年1月1日 湯前城 御城印 令和6年正月限定版 湯前城(熊本県湯前町) 市房山神宮里宮 500円 印刷 はがき大 2024年1月1日 奥平城 …

攻城団テレビで来年の大河ドラマ「光る君へ」の予習を兼ねた特別講義をしていただきました

…す。この内麻呂の子が冬嗣で、さらにその子が「応天の門」に登場する良房です。つまり平安京に都が移ってからは北家が中心になっていくのですが、ここはちゃんと平安京以前と以後でわけて話したほうがよかったかもしれないなと思いました。 藤原氏略系図 ぼくなんかはどうしても藤原氏=平安時代の印象が強いのですが、いわゆる摂関政治は良房にはじまっており、略系図でも下半分です。また摂関政治の最盛期は藤原道長・頼通親子の時代と言われるのですが、同時にこれは最終期でもあります。頼通の死後は院政時代に…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

…ます。 Q.数年前の冬に北海道の城巡りをした際、とくに大雪が降ったわけでも無かったのに、雪の壁に阻まれてしまいほとんど何も見えませんでした。陣屋を使っていた当時、雪が本格的に積もった場合はどのように対処していたのでしょうか?(jjianjieさん) 戸切地陣屋は現在除雪しておらず、土塁に囲まれ雪の逃げ場が無い上に木々の陰になるため融雪が進まず、一度積もり始めると、冬季の間はおいでいただいた時のように基本的に雪に閉ざされてしまいます。申し訳ありません。 ただ、これは雪国にお住い…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯5】

…の袋がクール。なお、冬は、ホワイトチョコがかかった冬の忍城バージョンがあるようです。 箱買いする時には、ぜひこの5枚入りハンディーBOXを選んで欲しいです。 ハンディーBOX 5枚入り 忍城の形っぽくかつ手提げとなる箱に、忍城が味のあるタッチのイラストで描かれており、サブレが5枚入っている。お土産にするとインパクトがあります。箱は壊れやすいサブレを保護してくれるので優れたパッケージです。 秩父鉄道行田市駅から徒歩8分。行田市駅からだと南に中央通りを進み、県道128号線で左折。…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…民俗)の様子。会津の冬を感じられる 5.福島県立博物館【住所】会津若松市城東町1-25【電話】0242-28-6000【営業】9:30~17:00(最終入館は~16:30)【定休日】毎週月曜日 ※月曜が祝日または振替休日にあたる場合は開館【駐車場】あり【HP】https://general-museum.fcs.ed.jp/ さて、歴史に触れた後は、人気の観光スポット・七日町へ。レトロな建物が立ち並ぶ通りに2022年6月にオープンしたのは、商家の蔵をリノベーションした日本酒バ…

四百年遠忌記念特別展「大名茶人 織田有楽斎」のプレス内覧会に参加してきました

…022年3月の「京の冬の旅」で正伝永源院が特別公開された際に「蓮鷺図襖」を見ましたが、今回は室中と同じ配置で展示されています。有賀学芸員に案内された際、その演出の素晴らしさに自然と「すごい」と口にしてました。 そして最後の第5部は現在の正伝永源院ということで、現役の茶道具などが展示されています。茶事に関する秘伝のマニュアルとも言える「正傳集」なども必見です。 ということで、ポイントを絞って紹介しましたが、これはほんの一部です。書状も茶道具も障壁画もまだまだたくさん展示されてい…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…わけですから。 大坂冬の陣-激闘 大坂夏の陣図屏風。大坂冬の陣、夏の陣の2回の激戦で、豊臣大坂城は灰燼に帰した 9月7日、家康は西国の大名50名に命じて徳川幕府に対する誓詞を出させました。これで裏切りを許さなくします。10月1日、秀忠に出陣を通告するとともに、全国の大名に派兵を命じて大坂へ集結させました。大坂城の南西方面からの進入路である天王寺口に藤堂高虎を配置、家康は10月11日に駿府より出陣、秀忠は10月23日に江戸を出陣しました。二条城に入った家康は11月15日に京を出…

細川玉子さんによる「京田辺伊賀越えスタンプラリー」参加レポート

…んでしまいました。 冬季限定とのことなので「熟成焼きいもの玉露おしるこ」を注文いたしました。 玉露を使用したお濃茶が添えられており、お好みでおしるこに混ぜて食べられるとのこと。 おいもを使用していると聞くと、紫色の印象がありますが、真っ白なおしるこで、とても珍しいですよね。まずはそのままいただきましたが、おいもの自然な甘さがとても美味しく、ほっと温まりました。 次は玉露を混ぜてみましたが、大変鮮やかな緑色が目にも楽しかったです。 瞬く間に緑色に染まり、お味もお茶の味が一気に広…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#3】

…美しく輝くシーズンの冬を暗示しているのか? 椿と言ったら確かに寒い季節、むしろ雪の中で咲いているイメージがある。椿と冬、雪は相性が良い。それともあんが白あんであることから、白あんを雪に見立てているのだろうか。そのあたりの経緯を聞いてくれば良かったなーと少し後悔していますwどなたか行かれることがあったら聞いてみて教えてください〜。 皮は、いわゆる定番の三層角右寄り型。ここまで城もなかの皮を担う、この型すごいよなー。もういくつこのタイプの皮で城もなかが存在しているのかもわからない…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…が大坂城を包囲、大坂冬の陣 大坂冬の陣で和睦する? 和睦後も大坂からの退去(大和・伊勢が提案)、浪人の召し放ちを迫る @外堀?総堀? 大坂方も納得していたと思われる 1615年(元和元年)、74歳 5月、大坂夏の陣 5/8、秀頼・淀殿が自害して豊臣家滅亡 秀頼と千姫には二人の子がいたが、嫡男・国松(8歳)は六条河原で斬首、長女(7歳)は鎌倉の東慶寺に出家 閏6月、一国一城令 @一国一城令は元々法令として交付されたものではなく、毛利・島津・黒田など西国大名に対して酒井忠世・土井…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…や豊臣氏が滅んだ大坂冬の陣・夏の陣などが典型だ。→そのようなケースでは、戦いの舞台が敗北した方の本拠地になっている。そしてまた、逃げる場所(単に大名が生き延びるだけでなく、勢力を復活・再興させられるような場所)がなかったり、敵による包囲が現状で逃げようがなかったりという事情も大きい。→小田原城にせよ、大坂城にせよ、大名たちが包囲を切り抜けて再興を目指せたとはちょっと思えない。それゆえに滅亡するしかなかったわけだ。・他のケースではどうか。意外に、有名な戦いで負けてそのまま滅亡と…

三管四職の延長番組(復習回)をやります

…任した場合 南朝や直冬方など抵抗勢力の守護職も併記してある 空白は空位または不明を示す ざっと俯瞰してみてもけっこう空欄があります。以前「将軍の日本史」の番組を収録した際にも将軍不在の時期がかなりあったことを確認しましたが、守護も常に必ずいたわけじゃなかったようです。 せっかくこれだけの一覧表ができたので、この表を使ったライブ配信(復習回)を今週金曜日の夜にやります。 www.youtube.com 通知をオンにしておくと放送開始直前にメールが届くようです。 「明徳の乱」や「…

城葱さんの「城もなか」道中記【小田原編】

…ジのグラデーション。冬は、クリスマス、お正月の赤と白のグラデーション。やっぱり、赤系が欲しいところですねー青という青い薔薇じゃないけど、食品にはなかなか現れない青い城もなかが出てきたらニュースだなぁ。まぁ正直いつも小田原城に行くのは夏ばかりなので違うシーズンなら他にどんなの出てくるのか調べたいな。また行かねば! 今回、「小田原城最中」を購入させていただいたのは、製造元の小田原種秀さんではなく、その販売専門の直営店で小田原駅に隣接するミナカ小田原店にある「福来すずめ」さんです。…

【戦国軍師入門】片倉景綱――独眼竜の右目をまっとうした生涯

…きなかった。しかし、冬の陣への出陣前の息子・重綱(しげつな)に「おそらく初めは和睦して堀を埋めるが、その後に本当の合戦が待っているだろう。決して猪突猛進になってはいけない」と伝えている。 実際に徳川と豊臣は一度は和睦したものの、謀略によって大坂城の堀が埋められ、続く夏の陣で豊臣家は滅亡する。病床にあっても景綱の目は確かだった。そして冬の陣が行われた1615年(元和元年)、彼はそのまま息を引き取ってしまったのだ。その死を聞いた政宗はすぐさま家臣を派遣して名馬を贈り、弔意を示した…

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

…ず第一の戦い、「大坂冬の陣」を戦うことになる。 さて、実際に戦端が開くと、豊臣軍と浪人衆は幕府の大軍を相手にして互角以上に戦ってみせる。特に幸村は真田丸という砦を大坂城に築き、ここに立てこもって幕府軍を蹴散らした。ちなみに、この時真田丸が作られた場所は、秀吉が生前に「ここだけが大坂城の欠点だ」と言っていたところだという話がある。 そうこうしているうちに幕府軍は、兵糧の欠乏や冬という状況による士気の低下が目立つようになり、和平交渉を始める。一方の豊臣軍も大筒で天守を攻撃され、城…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑤――飢えて落ちた城・鳥取城

…たのは7月だったが、冬になり鳥取が雪に埋もれれば秀吉は退却せざるを得ないだろう、と予測していたのである。しかし、その冬が来るよりもかなり前、9月頃から城内の兵糧が尽き始めてしまう。秀吉の事前の策が功を奏したのだ。城内では最初は木の皮や草などを食べ、それもなくなると馬を殺して食べた。しかし、やがてそれも尽きてしまうと、今度はすでに死んでしまった仲間の肉を食べるという地獄絵図のような光景が繰り広げられることになる。 ここに至り、ついに経家は開城を決意。城兵たちの助命を条件として、…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…つ始まったのが「大坂冬の陣」である。当初、籠城側は大坂湾からの攻撃にも警戒し、城の西方にある木津川口に砦を築いて敵を迎え撃つ準備をしていた。この砦は緒戦で落とされ、大坂城は四方を包囲されてしまったものの、籠城側の抵抗は強く、なかなか決着は付かなかった。特に激戦となったのが、城の南方である。というのも、大坂城はそのほとんどを広大な水堀で囲んでいたのだが、南方だけは空堀となっていて、ここが弱点であったからだ。もちろん、幕府側はこちらに主力を配置して、激しく攻めかかった。秀忠や家康…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史④――必要とあればその場で城を作る

…んしょ)」とそれぞれ呼んだ。臨時で城を築くのは攻城側だけではない。籠城側が城に隣接する形で防御のために築いたものを「出城(出丸)」という(隣接しない場合でもこの名で呼ばれることもある)。もっとも有名な出城は、大坂冬の陣における「真田丸」だろうか。 ちなみに、よく使われる「砦」という言葉はここまで触れてきた城の分類とはちょっと違い、定義についてもあいまいな部分が大きいのが実際のところ。統治機能を削って軍事機能だけに絞った、小規模で臨時の城というのが一般的なイメージであるようだ。

【10大戦国大名の実力】長宗我部家④――負のスパイラルを止められず

…(慶長19年)に大坂冬の陣が勃発する。盛親は旧臣をひきつれてこれに参加し、真田幸村らに匹敵する活躍を見せるが、翌年の大坂夏の陣で豊臣方は敗北。盛親も逃げ延びて山城国へ潜伏したところを捕らえられ、処刑されてしまった。盛親の五人の子どもたちもみな殺され、こうして長宗我部家は滅亡したのである。四国ほぼ統一から約30年、あっという間の夢のようなできごとであった。 元親の蓋は…… 土佐の戦国時代が始まってから、大坂の陣で盛親が死ぬまで、約百年。長宗我部家はまさに戦国時代を「ジェットコー…

【10大戦国大名の実力】毛利家⑤――元就の呪縛

…た。それが戦国の動乱がまだ治まりきっていなかった秀吉の時代にあっては家の隆盛をもたらし、時代が安定を迎えつつあった家康の時代にあっても家を存続させることには成功した。それはちょうど、企業が時々に合わせて方針を変え、規模も変える――バブル期には人を増やして積極的に各方面に手を伸ばし、冬の時代にはリストラを行って出費を減らしつつ本業を守る――ことと似ている。言ってしまえばそれだけのことであるのかもしれない。時代状況の変化にどれだけ対応できるかで苦労するのは今も昔も変わらないのだ。

【10大戦国大名の実力】織田家⑤――衰退する織田家

…たのだが、信雄は豊臣側の旗印にされそうなことを察知して合戦前に城を脱出。戦後、これを評価されて幕府より五万石を与えられている。一方の信益は冬の陣の勃発後も和平に奔走したがかなわず、夏の陣直前に城を脱出。以後は京にとどまった。 江戸幕府の支配下において、織田氏は大名四家・旗本十家が残り、幕末まで続いた。だがそれらも小大名ばかりで、名門としての形式上の優遇があっただけであったという。近年アイススケーターとして有名になった織田信成は旗本のうち一家、織田信長の七男・信高の家系である。

40年ぶりの特別公開、古田織部ゆかりの興聖寺を見学してきました

現在「京の冬の旅」で特別公開中の興聖寺に行ってきました。行ってきたといってもうちから徒歩10分くらいの場所なので、散歩がてら立ち寄ってきたのですが、とても大きなお寺でした。 興聖寺は1603年(慶長8年)、古田織部(古田重然)によって建立された寺院です。マンガ「へうげもの」で有名ですね。「織部寺」とも呼ばれているのでそのこと自体は知っていたのですが、通常非公開ということもあり、散歩する際に気にはなっていたものの参拝したのは今回がはじめてです。 京都の町並みの特徴でもあるのです…

【10大戦国大名の実力】上杉家③――関東出兵の目的は?

…信の関東遠征は「秋か冬に出発して年内もしくは春・夏に帰ってくる」という農閑期に合わせたものが多かったこと、また越後のような二毛作ができない地域では、春から夏にかけては常に飢饉状態であったという点に着目する視点である。合戦に動員された兵たちは近郊の村まで出かけて作物や牛馬、人間の略奪をおこなうのが普通であった。つまり、謙信は作物が取れない時期に農民たちを兵士として動員し、口減らし&出稼ぎをさせていたのではないか――というのである。 従来の「義の人」「聖将」という謙信のイメージと…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…)が、筑前守護・少弐冬資(しょうに ふゆすけ)を暗殺した事件 室町時代 1380年(天授6/康暦2年)〜1382年(弘和2/永徳2年) 小山義政の乱 下野守護・小山義政(おやま よしまさ)が鎌倉公方・足利氏満に対して起こした反乱。地方の豪族が独立を求めて起こした、日本史上初めての大規模戦争とも 室町時代 1386年(元中3/至徳3年)〜1397年(応永4年) 小山若犬丸の乱 義政の死後、小山若犬丸(おやま わかいぬまる)によって継続された反乱。結果、小山氏嫡流は滅亡 室町時代…

【2021/2022】年末年始にお城は営業してる?(全国のお城の営業状況調査)

…てこいですが、山城は冬期入山禁止になっているところも多いですし、暗い山道をのぼるのはかなり危険なので整備された場所だけにしておきましょう。国宝天守や現存天守も年末年始が休みのところはけっこうあるので注意してください。 また感染対策のために人数制限や抽選予約のお城も増えています。松江城(来年は先着20名限定)、岐阜城などは天守から初日の出を見ることができるお城として有名ですが、すでに定員に達しているようです。 マッシー | 門松を配した桜門[大阪城] 元日の入城料が無料になるお…

仇討ちの歴史について教わりました

… 仇討探索方控」(幻冬舎時代小説文庫)を書かれた際に、仇討ちがテーマということでいろいろと調べられたそうです。 まず「仇討ち(あだうち)」あるいは「敵討ち(かたきうち)」の定義から入ると、簡単には「家臣や家族、縁者による復讐のこと」を指します。もちろんこれは現代なら犯罪(私刑)ですが、公権力がさほど役に立たなかった時代には自分の力で仇を討つ必要があった、とも言えます。物騒な話だから戦国時代以前のことかと思いきや、とくに江戸時代が盛んだったそうです。法律が整理されるまでは「仇を…

【クーデターで読み解く日本史】逆転の発想で徳川の復権を狙った慶喜の一手――大政奉還

…上終わりを迎えたことになる。しかし、現実には数百年の間実際の統治を行ったことがない朝廷に政権担当能力はなく、引き続き幕府が行政を行うことになった。 そもそも、慶喜としては討幕派に白旗を揚げるために大政奉還したのではなくむしろ逆で、来るべき天皇を中心にした新政府において徳川氏が重要な役割を果たすために、自ら政権を返し、主導権を握ろうとしたふしがある。大政奉還は追い詰められた幕府による逆転の手だったのだ。 大政奉還―徳川慶喜 (人物文庫) 作者:童門 冬二 学陽書房 Amazon

【クーデターで読み解く日本史】天下泰平のための犠牲――大坂の陣

…こうして始まった大坂冬の陣においては、天下の堅城・大坂城と戦いになれた浪人衆の活躍で兵力に劣る豊臣氏がかなりの善戦を見せた。そこで家康は城に大砲を打ち込んで豊臣方をおびえさせる一方で和睦を申し込む。戦いは終結したかと思ったが、ここに家康の作戦がある。和睦の条件に大坂城の二の丸・三の丸の破壊があり、二の丸を豊臣方、三の丸を幕府方が破壊する手筈となっていた。豊臣方としてはできるだけ時間をかけて二の丸はそのままにさせようという狙いがあったようだが、三の丸を早々に壊した幕府方が手助け…

【クーデターで読み解く日本史】争いの発端となった二人が最後は共倒れ――観応の擾乱

…であったという足利直冬(あしかが ただふゆ=尊氏の実子で直義の養子に入っていた)を尊氏が討伐することになった。その出陣直前の1350年(観応元年)10月、直義は京を脱出して南朝方と連絡を取り、兄および師直に反旗を翻した。室町幕府を揺るがした内乱、観応の擾乱の始まりである。 こうしてぶつかり合うことになった尊氏・師直と直義だったが、合戦で優位に立ったのは直義だった。そこで「師直が出家する」という条件で講和が成立したのだが、間もなく師直は殺害されてしまう。これで兄弟の間に再び平和…

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