攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

北条早雲 の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯6】

…。小田原駅からだと、北条早雲像のある広場から、同じく北西に向かいます。やがて道は北に向かうようになり、小田原市役所を通り過ぎ、小田原市立病院を過ぎたところで、山王川という小さな川を渡るところに来るので、左に曲がり川沿いに歩くと、600mほどでお店に着きます。(住宅地の中を斜めに行くこともできます) 名前が城もなかという名前でないことに加え、この小田原城から離れた位置関係により、これまで発見されてこなかったのではないかと思っています。小田原城城もなか総構えを更新してみます。 更…

攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました

…いろいろありました。北条早雲の素浪人説などもそうですが、歴史研究家の先生方のおかげでどんどんアップデートされるので定期的に整理するのは大事ですね。 今回は大名家シリーズのテストとして収録しましたが、伊達氏とか島津氏とかほかの大名家についてもやりたいなと思いました。江戸までは続かなかったですが千葉氏とかも知らないことだらけですし、全国各地の歴史を知って、そこへ出かけるきっかけにもしたいです。盛岡と弘前には行ったことがあるのですが、根城や聖寿寺館にはまだ行ったことがないので、「学…

攻城団テレビで「家康はなぜ名字を松平から徳川に変えたのか」という話をしました

…姉小路良頼のケース 北条早雲のケース 津軽為信のケース 松前慶広のケース 徳川家康のケース もちろんこれはほんの一例で、たとえば毛利元就は毛利家を継ぐ前は多治比元就を名乗っていたし、真田昌幸も武藤氏の養子となって武藤喜兵衛を名乗っていました。毛利元就や真田昌幸はいろいろあって実家を継ぐために名字を戻していますが、それ以外にもいろんな理由で名字を変えることがありました。 詳しくは動画を見ていただきたいのですが、ざっとこんな感じになります。 権威を借りる、あるいは奪う 独立したこ…

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

…る伊勢宗瑞(いわゆる北条早雲)が岩津松平を攻めるという大事件が起きている。この時に岩津城が攻められているということ自体が「つまり攻撃ターゲットの岩津松平こそが本家だったのでは?」と考えられている。 この戦いがもたらしたものは大きかった。岩津松平家の、親長の系統の血筋が数多く討死してしまった。結果として宗家の力が失われ、安城松平家が宗家扱いになっていったし、パワーバランスが安城松平へ偏ったのではないだろうか。ここから分かれたうち、十四松平に数えられるのが、・福釜(ふかま)…次男…

「三管四職」の延長戦(復習回)を攻城団テレビで生配信しました

…る→同年、伊勢宗瑞(北条早雲)の伊豆侵攻この結果、将軍家が2系統に分裂した→「義稙系(義材/義稙-(義維)-義栄)」と「義澄系(義澄-義晴-義輝-義昭)」 1507年(永正4年)永正の錯乱(えいしょうのさくらん) 室町幕府管領・細川政元が暗殺された事件。政元はエキセントリックな人だった。→突然諸国放浪の旅に出てしまうとか、烏帽子を嫌って被らなかったとか生涯独身で養子が3人いた。関白・九条政基の末子の澄之、細川一門の阿波守護家から澄元、京兆家の分家の野州家(やしゅうけ)から高国…

城葱さんの「城もなか」道中記【小田原編】

…まいちわからないが、北条早雲のお城という意味で、早雲城と名前がついているとすると、小田原城で売ってるし、おそらく小田原城の城菓子としています。もしかすると、川の合流にある早雲寺かもしれません。相変わらず謎。 こちらについては、製造のお店(河内屋製菓舗さん)には行ってないのですが、先述の本丸広場売店で売っています。小田原城帰りにぜひ立ち寄ってみてください。 本丸売店 (神奈川県小田原市 城内6-1 小田原城址公園 本丸広場)営業時間 9:00 ~ 17:00 / 定休日 12/…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑥――武田信玄・上杉謙信を撥ね除けた城・小田原城

…5年(明応4年)には北条早雲が当時この城を居城としていた大森氏を攻め滅ぼし、以後小田原城は戦国時代を通じて北条氏の居城となった。 北条氏の時代、小田原城は幾度にもわたって拡張と整備が行われ、その規模は天正年間に最大級に達した。石垣ではなく土塁と空堀の「土の城」ではあるが、当時としてはまれに見る巨城であり、城下町を丸ごと包みこむ約12キロの大外郭が特徴であった。のちには豊臣秀吉の率いる大軍の前に白旗を揚げることになるが、戦国時代を代表する城のひとつといえるだろう。 そんな小田原…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ①――夜襲で決着した「後詰決戦」・ 河越城(川越城)

…そもそもの始まりは、北条早雲を祖とする北条氏が関東地方においては新興勢力であったにもかかわらず、急成長を遂げていたことである。 この勢力は、元は駿河・今川氏に一城を与えられたに過ぎなかった。しかし、伊豆に攻め込んで堀越公方(室町幕府における東国統括の象徴的役職、鎌倉公方の継承を主張した勢力の片方)を倒し、相模に進出して小田原城を奪い、二代目の氏綱の代には武蔵に出て扇谷上杉氏の本拠である河越城まで奪ったのである。しかも、氏綱は古河公方・足利晴氏に接近し、「あなたを関東管領にする…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城をめぐる戦いの様相⑥――落城したその後は?

…行うケースもあった。北条早雲や伊達政宗、織田信長などが行ったことがあった。何らかの怨恨関係があったり、あるいは周辺の諸勢力に対する「逆らったら同じ目にあうぞ」という見せしめをするために行ったようで、結構効果的だったようだ。誰も死にたくはないから、それも当然かもしれない。 それでは、城のほうはどう扱われたのだろうか。奪った城を修復して再利用するケースはもちろん多かったが、そのまま放棄して廃城にしてしまったり、あるいは「城割(しろわり)」といって破壊してしまうケースもあった。特に…

【10大戦国大名の実力】斎藤家①――下克上の行く末

…上の代表格といえば、北条早雲に並んで名前が挙がるのが「美濃の蝮(まむし)」こと斎藤道三ではないだろうか。一介の油商人から謀略を駆使して一介の主へ成り上がり、人生の最後には息子に背かれて戦場に倒れる様は「乱世の奸雄」としてあまりにも劇的である。また、彼が才能を認めた娘婿・織田信長が後に天下人へと成長していくのも、道三の物語を壮大なものにしている。「道三自身の野望は絶えたが、信長に受け継がれた」というわけだ。 しかし、近年になって新しい史料が発見されたことで、ドラマや小説でおなじ…

【10大戦国大名の実力】北条家③――誰が北条を名乗ったのか

…た? 早雲は一般に「北条早雲」の名で呼ばれ、本連載でもこれを踏襲している。しかし、実は生前の早雲がこのように名乗ったことは一度もなく、「伊勢」を名乗り続けた。「北条」を名乗るようになったのは氏綱の時代、1523年~1524年(大永3年~4年)のこととされる。家紋が有名な「三鱗」になったのもこの頃だ。 ただ、早雲自身が「北条」家にこだわっていた、とする見方はいくつかある。「源平交替思想に目をつけた早雲が、庶民の間に『実は早雲は前北条氏の末裔なのだ』といううわさを広めさせた」とす…

【10大戦国大名の実力】北条家②――関東に進出する北条早雲

混乱する関東地方 ここから先の北条家の歴史を理解するためには、当時の関東情勢について知っておく必要がある。上杉家の章で触れたように、室町時代の東国は鎌倉に置かれた「鎌倉府」によって統治されていた。この組織の長官は代々足利氏が継承して「鎌倉公方」と呼ばれ、その補佐役である「関東管領」を代々上杉氏が継承した。室町時代の各所で見られたことだが、上杉氏が次第に力をつけていくと鎌倉公方と対立するようになり、ここに幕府の思惑も絡んで、関東地方はしばしば三つ巴のパワーゲームの舞台となった。…

【10大戦国大名の実力】北条家①――築き上げた組織力がもたらしたもの

…最初の戦国大名」こと北条早雲の名が特に有名だが、その後に続く氏綱・氏康・氏政・氏直もそれぞれに個性を持つ優れた大名たちで、関東支配と地盤固めに奔走した。そして北条家が得たのは、関東に根付いた強大な組織力であった。戦国時代末期の北条家は名実ともに「関東の支配者」といっていい。にもかかわらず彼らが滅びたのは、別の方法論で形成されたより強力な勢力が中央より現れたからだ。その経緯を紹介するのが本章である。 また、戦国時代の北条家は、源平合戦の時代に源頼朝を支援して鎌倉幕府創設に大きな…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…は衰退し、伊勢宗瑞(北条早雲)の関東地方進出の端緒となった 室町時代 1489年(延徳元年) 山名新九郎・小太郎の乱 山名新九郎、小太郎が伯耆守護・山名尚之に対して起こした反乱。裏で赤松氏が支援 戦国時代 1502年(文亀2年) 第一次伊庭氏の乱 近江守護・六角高頼と守護代・伊庭貞隆(いば さだたか)の間で行われた内紛。高頼は観音寺城を追われるが和解 戦国時代 1507年(永正3年)〜1518年(永正15年) 永正の乱 関東・北陸地方で発生した一連の戦乱の総称。長尾為景の謀叛…

戦国時代のはじまりと終わり

…り詳細には「東国では北条早雲による伊豆平定(堀越公方の滅亡)、西国では明応の政変(将軍排除)で戦国時代へ突入」とある 小和田先生監修の「戦国史」では「応仁の乱」から「足利義昭の追放」まで。ただしこれは義昭追放後を「安土桃山時代」としているため。また「一般的には」とことわりがあり始期と終期に諸説あることを補足しつつ、巻末の年表では1438年(永享10年)の「永享の乱」から「島原天草一揆」までになっている 「クロニック戦国全史」では「享徳の乱」から「大坂の陣」まで といった感じで…

【クーデターで読み解く日本史】父の無念を晴らすべく子が起こした騒動――享徳の乱

…。両者の争いが一段落するには、1482年(文明14年)の和睦を待たなければならなかった。 しかしその混乱の中で上杉氏のうち扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)が本家筋である山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)に匹敵する勢力にまで成長。関東の地は四つの勢力が合い争う舞台になってしまったのである。結果、全国に先駆けて戦国時代が到来した関東の地には、やがて北条早雲(ほうじょう そううん)を祖とする後北条氏が出現し、四つの勢力を撃破・支配してほぼ統一にまでこぎつけることになるのだった。

戦国時代の足利将軍についてざっくり理解する

…丸はのちに伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められ、堀越公方家は滅亡しています。還俗して将軍についた義澄ですが、基本的には細川政元の傀儡でした。そのため「永正の錯乱」で政元が暗殺されるとスポンサーを失うこととなり、周防の大名・大内氏を味方につけた義稙の上洛を許し、義澄は京から近江に逃亡しました。おもしろいのがこのとき義澄が頼ったのは義尚や義稙が討伐した六角氏で、「敵の敵は味方」みたいなことがよくありました。義澄はその後も京への復帰を目指しますが叶うことなく病死し、ふたりの息子が播磨の赤…

【戦国軍師入門】5.戦わずして勝つ、軍師の手腕

…たのは、そうした結果を出すための統治能力、判断力と戦略・戦術能力だったわけだ。例えば、織田信長や毛利元就、北条早雲といった人々はそのすべてをかねそなえていた。 しかし、大名がそのすべてを高い水準で持っていなくてもよい。統治能力と判断力を高い水準で持ち、ある程度の戦略能力を持てば、それ以外の高度な戦略能力や戦術能力というのは、信用できる部下に任せてもよかったからだ。当然ながら、その意見を理解するための最低限の能力と判断力は必要だが、それを補うスペシャリストこそが軍師だったのだ。

【戦国軍師入門】2.上への忠誠より一族の保護

…ているほどだ。 そこで家康は松平の源流にある(信憑性は低く、家康が口実に使っただけとされている)徳川の名字を名乗り、他の親族との差別化を図った。同格の松平のまとめ役ではなく、徳川という一段高い身分のものである、と示したわけだ。しかし、一度そうして権力を確立させても、代が変わる中でこの構造が崩壊してしまうこともある。例えば関東の雄・北条家などは、北条早雲という稀代の名将によって一代で確立されたが、その子孫たちはそれを維持し続けることができず、豊臣秀吉によって滅ぼされてしまった。

#コロナに負けるな御城印好き達 企画について、takubomayさんに聞いてみました

…していただきました。北条早雲の子供、北条氏綱が領主の権力を掌握するために使ったと言われている虎の印判で、小田原城の出入口で私も押した記憶があります! #コロナに負けるな御城印好き達11月3日、丸岡城、越前大野城!11月4日、一乗谷城!連休でギチギチに予定組んだ😅 pic.twitter.com/m78pcAbFe9 — NEMO (@YjibFFHQpgae4wH) 2020年5月4日 福井県三名城の御城印の写真を投稿していただきました。他にも二条城や天守閣再建60周年の金の…

明智光秀と今川義元――あるいは貶められたイメージ

…があり、叔父に当たる北条早雲(伊勢新九郎)の助けがあり、それがまた戦国大名・北条家の出発であったことはよく知られている。 氏親の代には隣国・遠江へ進出し、またやはり有名な分国法「今川仮名目録」を制定して戦国大名としての制度を整えるなど大きく勢力を伸ばしたが、彼が死ぬと再び内部が揉めた。後継者争いだ。これに勝利したのが、父によって僧侶にされていた幼き日の義元であった。以後、義元は今川家を繁栄に導いた。北と東に向かっては有力大名である武田・北条と丁々発止のやり取りを繰り広げてその…

「麒麟がくる」第9回に登場した那古野城と刈屋城、末盛城、妻木城はどんなお城か

…築いた城です。氏親は北条早雲(伊勢新九郎盛時)の甥で、北条氏が関東に勢力を拡大するキーパーソンでもあります。さらにこの地はのちに徳川家康が名古屋城を築く場所でもあり、出てくる名前がビッグネームばかりです。ちなみに場所はいまの名古屋城の二の丸あたりで城址碑が立てられています。 kojodan.jp 刈屋城――家康の生母の実家―― 刈屋城(刈谷城)は竹千代(家康)の母である於大の方の実家です。水野信元は於大の方の兄にあたります。家康が年上の女性ばかり好んだのは3歳で母親と引き離さ…

毛利元就ゆかりの地おすすめ19選

…斎藤道三や相模伊豆の北条早雲などがいます。信長や秀吉や家康と言った三大天下人が登場し名を馳せる頃には、すでに中国 地方に元就が築き上げた毛利王国が君臨しているわけです。 天下統一も可能だったほどの勢力を持っていたと言われますが、そんな野心や野望よりも家を守り家族や家臣を守るということに尽力した毛利元就。幕末の長州藩へと続く毛利の一大王国を築き上げた元就の偉業を紹介しつつ、彼が残した史跡も併せて案内してみたいと思います。 鈴尾城跡(元就誕生の城) まず毛利元就が同世代を生きた武…

明智光秀と斎藤道三ーーあるいは伝説に語られた男たち

… 道三といえば関東の北条早雲と並んで典型的な戦国大名と言われた謀将である。一介の油売りから一代で身を立てて美濃守護代・斎藤氏を乗っ取り、美濃守護・土岐氏を追い出して、ついに美濃の一国を手に入れたーーその伝説はあまりにも有名だ。司馬遼太郎『国盗り物語』やそれを原作とする大河ドラマで知ったという人も少なくないのではないか。なお、『国盗り物語』では道三を主人公とする前半と織田信長を主人公とする後半をつなぐ重要なキャラクターとして、道三の義理の甥という設定の明智光秀が登場する。このあ…

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