攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

夜 の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【鳥取・島根編】

… しかも朝も早くから夜まで営業しているようで、朝米子駅から出発する人も、米子駅に夜たどり着いた人も、みんなに優しい営業時間。なかなかこういう多様な城攻めスタイルに適用可能な営業時間の城もなかの購入場所は少なく貴重な存在。米子駅を利用する際には、是非お買い求めください! おみやげ楽市シャミネ米子店 (鳥取県米子市弥生町2)営業時間 6:45~20:00 / 定休日 日曜日 / 電話 0859-31-6630 collection.kojodan.jp 「御抹茶体験の甘味-もなか…

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…日 上田城 御城印 夜景版 上田城(長野県上田市) 上田市観光会館、ゆきむら夢工房 550円 印刷 2023年11月1日 聚楽第 御城印 ご当地ぼんてん・まる版 聚楽第(京都府京都市) 京都市考古資料館 400円 印刷 A6 2023年11月1日 岩殿城 御城印 猿橋バージョン 岩殿城(山梨県大月市) 大月市観光協会 大黒屋 300円 2023年11月1日 春日山城 御城印 福崎町辻川観光交流センター 200円 印刷 はがき大 2023年10月28日 福井城 重ね捺し御城印 …

2023年に訪問して良かったお城

…材のついでに訪問)※夜と昼の2回訪問 玄蕃尾城(11月に城たびのイベントで団員といっしょに訪問) 小田原城と江戸城(11月にトーハクを見学するついでに訪問) このほか二条城は学芸員解説会と、「NAKED 夏まつり2023 世界遺産・二条城」の取材で2回訪問していました。初めて訪問したお城は前橋城と玄蕃尾城だけで、あとは再訪ですね。 合計すると9城(11回)という結果で、「攻城団の団長がその数字でいいの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ぜんぜんOKです。むしろこれ…

【家康の謎】家康の辞世の句は? 家康の遺訓は本物か?

…。この世で見る夢は、夜明けに見る空のような鮮やかさであるなあ。こちらはいかにも死を覚悟した人、やるべきことを全てやり尽くした人らしい、爽やかな句である。 一方、もうひとつの句には当時の武家社会の事情が透けて見える。「先にゆき 跡に残るも 同じ事 つれて行ぬを 別とぞ思ふ」――先にあの世へ行くのも、後から行くのも、変わりがない。私にとっての別れとは、誰も連れて行かないことだ。連れて行かない、というのは殉死の巻き添えにしない、ということである。主君と深い関係を結んだ家臣は、主君が…

【家康の謎】家康の死因は?

…いで食中毒を起こし、夜には具合が悪くなってしまった、という。 その後、家康は侍医の片山宗哲(かたやま そうてつ)による治療が功を奏して一時的に回復、駿府城へ戻って療養を続ける。ところがその後もなかなか良くならず、あるいは歩けるくらいまで回復しても悪化し、ついに家康はこの世を去るに至るのであった。なお、天ぷらによる食中毒説については、近年では間違いであると考えられるようになっている。では本当の死因は何かといえば、胃癌であろうというのが近年の有力説だ。 あるいは、別に想像する余地…

城葱さんの「城もなか」道中記【福山城編】

…だ、この光の祭りは、夜がメイン。夜にはいかなかったので、その作品の本質を楽しむことはできませんでしたが、相当幻想的な福山城が見られる空間だったようです。次に機会があればぜひ夜も楽しみたいところです。 さて、福山城の美しさに惚れ惚れしつつ、天守内に潜入。新しい天守内の展示は、無学な私に水野勝成について詳しく教えてくれる内容で、勉強になること間違いなし。新しい知的好奇心を刺激してくれる尊い存在でした。天守のミュージアムショップでは、面白い城菓子のお土産も買えるのでぜひお買い求めく…

二条城で開催された学芸員解説会に参加してきました(遠侍・勅使の間)

…ドブックの中身 前日夜の「NAKED 夏祭り 2023」の取材に続けて24時間に2回も二条城を訪問することになりましたが、二条城は何度訪問しても新しい発見があるし、おもしろいです。ぼくが感じたおもしろさをみなさんにシェアするためのガイドツアーなので再開したらご参加ください。 あと大久保ヤマト先生に描いていただいた「マンガでわかる二条城」もオススメです。寛永行幸のことも大政奉還のことも二条城の歴史をコンパクトにまとめてあるのでこちらもぜひ! kojodan.jp kojodan…

二条城で開催中の「NAKED 夏まつり2023 世界遺産・二条城」の見どころを写真と動画で紹介

…023」ですが、前日夜に開催された報道陣向け内覧会にお誘いいただいたので参加してきました。去年に続いてありがとうございます。去年は感染対策を強く意識した構成でしたが、5類に移行したこともあり今回は声を出すことを前提にしたインタラクティブアートが用意されるなど、今年ならではの取り組みがあってお子さんはもちろん大人も楽しめるイベントになっています。 まずは写真を使って各スポットを案内しつつ、最後に一周まわって撮影した動画でご紹介します。 写真で紹介する「NAKED 夏まつり202…

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(2日目)

…城跡のガイドと「城山夜明けだプロジェクト」のマネージャーをつとめられておられます。此度は、坂口様のご出身地でもある南丹市八木町の、八木城の歴史や見どころについて、ご講演くださいました。 八木城は、日本でも最大級の山城であるとのこと。兵庫県丹波市にございます黒井城や、兵庫県篠山市にございます八上城と共に、丹波三大山城のひとつといわれております。 内藤氏が足利尊氏より八木の地を賜り、八木城を築城したと伝えられています。室町時代になると、細川氏が丹波を領国として守護するようになり、…

【家康の謎】家康が信仰していたのは何宗?

…)という僧侶に七日七夜に渡って念仏を唱えてもらったことでこの声から解放され、その後彼に大樹寺を開かせた、という。 だから家康のもともとの宗派は当然浄土宗である。彼と大樹寺にも有名なエピソードがあるが、これはのちのち紹介することにしたい。注目したいのは、どうも家康は晩年になって宗旨替えをしたらしい、ということだ。 そもそも、戦国大名や戦国武将はブレーンや外交担当として、しばしば僧侶とのつながりを持っているものだ。中でも晩年の家康のブレーンとして活躍した僧侶として、天台宗の南光坊…

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

2月27日(月)の夜、攻城団テレビでたかまる。さんとライブ配信をおこないました。前回の「家康の城」は全6回、今回の「家康の合戦」はそれを上回る8本の記事を書いていただきましたが、あらためて全8回で取り上げた〈徳川家康の合戦〉を振り返りつつ話しました。今回は3人でのトークのテストもしたかったので榎本先生にも参加していただきました。 www.youtube.com ちょっと音がハウリングしてて聞きづらいところもあるかもしれませんが、個人的にはかなりおもしろい話をしていると思うので…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…抗争 関ヶ原の戦い前夜、武将たちは尾張に集結していた 1600年(慶長5年)9月15日、いまの岐阜県不破郡関ケ原町で徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍による天下分け目の決戦が勃発。関ヶ原の戦いはわずか1日で東軍勝利という形で決着がついた戦いです。関ヶ原の戦いといえば、戦国史に残る有名な合戦のひとつです。家康vs三成として描かれ、テレビドラマや映画、書籍など数えきれないほどあります。私たちが以前から知っている関ヶ原の戦いは、先にも示したような徳川家康と石田三成による天下分…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…かし、11月29日深夜、尾張地方や近畿地方、北陸地方を大地震が襲いました。天正地震です。家康の領地・三河や遠江などの被害は比較的小さかったようですが、秀吉は大打撃を受けました。坂本城にいた秀吉は大坂城へ急いで帰っていくほどの恐怖だったようで、大垣城や長浜城が大きな被害を受け、戦どころではなくなってしまいました。当初の予定では2か月後に家康を征伐することにしていましたので、家康にとっては危機を回避できたということになります。この大地震がなければ徳川征伐が行われていたわけですが、…

しぇるふぁさんによるJR福山駅から見る福山城の検証レポート

…ました。 (おまけ)夜のホームから 以上、福山駅から見える福山城の景色をご紹介してきましたが、せっかくなのでおまけとして各ホームから見た夜のライトアップの景色も紹介します。写真撮影日はいずれもリニューアル開城日前日の2022年8月27日です。この日はリニューアル開城記念のライトアップイベントが開催されていました。撮影地点は山陽本線5・6番ホームと山陽新幹線1・2番ホームからです。では、写真をご覧ください。 まずは山陽本線ホーム。福山城のライトアップ姿を最初見た印象としては、ま…

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

…いる中、5月14日の夜に城を出て豊川を泳いで下り、翌朝に雁峰山でのろしを上げて脱出成功を知らせ、すぐさま岡崎城に向かいます。夜には岡崎城に無事到着。家康・信長に呼ばれて現状を報告すると「長篠に必ず救援に向かうので、いましばらく城を保持せよ」と言われ、急いで長篠城に戻っていきました。実際に5月14日には家康と信長が岡崎城にいたので、この話は本当のようです。 長篠城に戻った強右衛門ですが、城に入れずに武田軍に捕縛されてしまいました。勝頼は強右衛門に「援軍は来ないと城に伝えれば、助…

【家康の合戦】三方ヶ原の戦い 家康惨敗!信玄にコテンパンにやられた戦い

…になりながら敗走し、夜陰に乗じてようやく浜松城に逃げ帰りました。徳川軍は1,000人余りの死者を出したと言われ、夏目吉信、鳥居忠広、中根正照、本多忠真などの家臣を失いました。武田軍の圧勝、徳川軍はまさに惨敗。これが三方ヶ原の戦いです。 信玄が遠江を侵攻したワケは上洛ではない 遠州味方原御合戦絵図(浜松市博物館蔵)による推定。国土地理院地図をもとにたかまる。が作成 家康の話とは少しずれますが、なぜ信玄は遠江に侵攻したのか? について探ってみましょう。時代は少しさかのぼって156…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

…義景 -姉川の戦い前夜- 浅井長政の肖像画(高野山持明院像)と朝倉義景の肖像画(心月寺所蔵) まずは、姉川の戦いに至るまでの状況をおさらいしておきましょう。1570年(元亀元年)2月、信長は足利義昭を奉じて京へ出発、3月5日には上洛を果たします。このとき29歳となった家康も上洛しました。一方で、それまでは畿内を支配していた三好は阿波に逃れました。この上洛を機に、信長は各地の大名に上洛を命じますが一向に従おうとしない大名がいます。それが朝倉義景です。これに対し信長は4月に入り3…

【家康の合戦】桶狭間の戦い 家康の大きな転機となった戦い!

…攻撃 桶狭間の戦い前夜の情勢(国土地理院地図をもとにたかまる。が作成) 1560年(永禄3年)、今川義元は駿河・遠江・三河を支配していました。5月になると尾張を目指して大軍を進軍させますが、その先陣となったのが19歳の松平元康(のちの徳川家康)です。 家康は幼少は竹千代と呼ばれ、1549年(天文18年)、8歳の時に今川家の人質として駿河へ渡り、元服して松平元康と名乗っていました。松平家は今川家の家臣として尾張と接する西三河を領有していましたが、元康は今川家を支える武将候補とし…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

昨夜は攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉を配信しました。年末の慌ただしい中で長時間視聴してくださったみなさん、ほんとうにありがとうございました。 長時間と書きましたが、なんと約9時間半もやってました。1年前の「日本100名城一気語り」が8時間半弱だったので記録更新です。事前の打ち合わせがだいたい2時間半だったので、榎本先生にはせいぜい倍の5時間くらいかなと話していたのですが(先生は8時間は覚悟してるとおっしゃってました)まさかそれをこえるとは。途中、披露…

たかまる。さんの連載「家康の城」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

11月30日の夜、攻城団テレビでたかまる。さんとライブ配信をおこないました。約1か月にわたって連載していただいた「家康の城」が無事に最終回を迎えたので、全6回を振り返りつつ〈徳川家康の城〉というテーマで話しました。 連載では家康生誕の城でもある岡崎城にはじまり、浜松城、駿府城、江戸城と歴代の居城に加えて、京都に築いた二条城と「清須越し」をおこなって城下町そのものから再構築した名古屋城を取り上げて、築城・改修の背景や縄張り、遺構の紹介などをとくに家康との関係を中心に書いていただ…

榎本秋先生の最新刊「超約版 家康名語録」の出版記念ライブを生配信しました

昨夜は榎本先生の最新刊「超約版 家康名語録」を紹介する番組を攻城団テレビで生配信しました。来年の大河ドラマの主人公でもある徳川家康の名言を集めた本ですが、その大半は江戸時代中期や幕末にまとめられた書物で紹介されているので、ほんとうに家康が語ったセリフかはわかりません。わからないのですが、ただ「みんなが求める家康像」というか、まさに偶像としての家康の輪郭が見えてくるような名言録になっているので、個人的にはとてもおもしろく読めましたし、また紹介するのも楽しかったです。 本書に掲載…

三管四職の延長番組(復習回)をやります

…習回)を今週金曜日の夜にやります。 www.youtube.com 通知をオンにしておくと放送開始直前にメールが届くようです。 「明徳の乱」や「嘉吉の変」で山名家や赤松家の領国数ががくっと減っているのも一目瞭然ですので、ぼくのように素人でもいろいろと気になるところを見ていくだけで楽しめますし、室町時代初期には仁木氏や朝山氏などぼくが知らない名前がたくさん出てくるので、榎本先生に教わろうと思います。 個人的には「マンガでわかる七尾城」を作った際に知った、畠山家の家督相続の件を思…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…「関ヶ原の戦い」の前夜に彼が語ったという形で伝えられている話なのだが、真偽はさだかではない。 順慶が死んで甥の定次(さだつぐ)に代替わりすると、彼と反りが合わなかった勝猛は数年後に筒井家を出奔。その後の彼の消息については、伊賀(現在の三重県西部)の上野に転封された筒井家に代わって大和の大名となった秀吉の弟・秀長に仕えたとも、また近江の高宮郷という場所に隠棲していたともいい、諸説ある。 そんな彼に誘いを掛けたのが、秀吉の重臣・石田三成だ。当時、近江水口4石の大名でしかなかった三…

【戦国軍師入門】片倉景綱――独眼竜の右目をまっとうした生涯

…これに気付いた政宗は夜にこっそりと彼の家を訪れ、改めてどうすればいいのかを尋ねる。すると彼は団扇で物を払う仕草をしてから、「夏の蠅は払っても来るもの。結局は疲れて敗れることは必定でしょう」と答えた。秀吉の軍は大軍だけに、一度破っても何度でも攻めてくるだろう、と示唆したのである。 こうして政宗は、北条の本拠地・小田原城を攻めている秀吉軍に合流することになったのだが、他国の勢力圏を迂回する必要もあって、どうにか辿り着いた頃には戦いももう終盤にさしかかっていた。秀吉は参戦が遅れたこ…

【戦国軍師入門】立花道雪――輿で戦場を駆けめぐった、雷神の生まれ変わり

…なんと、自分自身が毎夜酒宴を開いて酒に溺れたふりを始めたのだ。一説によるとこの時に京一番の白拍子(女性の踊り子のこと)まで呼んだという。 この噂を聞いた宗麟は「あの堅物の道雪がそんなことをするとは珍しい」と見物に出かけ、道雪はそこをつかまえて懇々と酒色に溺れることの害を説く。これにはさすがの宗麟も堪えたのか、そうした振る舞いを抑えるようになった。その後、宗麟は出家し、道雪もまたそれに従う。さらに「多々良浜の合戦」で毛利家を九州から追い払うと立花城に入り、廃絶していた大友一門の…

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

…を上げていた。墨俣一夜城のために秀吉が正勝に会いに行く……というのは後世の創作である。また、同じように少年時代の秀吉(日吉丸)を矢作橋(やはぎばし)で助けたという逸話も、その当時には矢作橋がないために創作であったと考えられる。この頃は橋が架かっておらず、渡し舟によって人々は行き来をしていたのだ。 1567年(永禄10年)の稲葉山城攻めの際に秀吉の配下となり(一説には秀吉摩下となったのは1573年(元亀4年)のこととも)、以後大きな戦いにはことごとく参加して活躍する。1570年…

【戦国軍師入門】山本勘助――すべてが謎に満ちたオカルト軍師

…見破られていた。彼は夜のうちに山を下りて川を下っていたため、翌朝に信玄の率いる8千の軍勢と謙信の軍勢が激突する。この戦いは上杉軍有利で進み、責任を感じた勘助は敵軍に突撃して奮戦するも討ち取られてしまう。しかし、そこにようやく武田の別働隊が間に合って上杉軍を挟撃したために謙信は軍を退き、ここに「第4次川中島の戦い」は終結する。 信玄の軍師として活躍し、川中島に散った勘助はどのようなタイプの軍師であったのか……といえば、これもやはり謎に包まれている。ある説では易や風水、陰陽道とい…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…打ち破られた。 この夜、島津義弘(しまづ よしひろ)らがさらなる夜襲を提案し、ここで一気に東軍を打ち破ろうとしたものの、三成はこれを認めなかった、という逸話が伝わっている。義や理を大事にする三成が夜襲という戦法を認めなかった、という彼らしいエピソードだ。ただ、この話は正確な資料の形で残っていないことなどから、架空の話ではないかという疑いもある。ともかく西軍が東軍に打撃を与え、しかし内部分裂の火種を抱え込んだまま、運命の9月15日、関ヶ原決戦の日がやってきた。 三成は笹尾山、宇…

【戦国軍師入門】今山の戦い――奇襲を成功させ、会心の勝利

…を提案する中、直茂は夜襲にうって出ようと呼びかける。籠城は援軍のあてがなければ無意味であり、降伏は問題外だというのだ。これに再び隆信も賛成し、僅か17騎の龍造寺軍は佐賀城を出発した。これほど人数が少なかったのは急な軍議に出席した重臣だけだったからで、移動中に数百騎にまで増えたが、やはり大友の大軍の前には多勢に無勢だ。 一方、勝利を目前とした大友軍は今山という山に陣を敷き、その中腹に本陣を置いて、酒に酔って深い眠りについていた。そこで直茂は敵を迂回しながら山の頂上まで登り、そこ…

【戦国軍師入門】厳島の合戦――策謀の限りを尽くした天才・毛利元就

…向かったのは30日も夜半になった暴風雨の夜だった。遅れていた援軍の村上水軍もこの直前に到着し、いよいよ二手に分かれて厳島に上陸する。一斉攻撃が始まったのは翌10月1日の早朝だ。突然の奇襲に対応できず、また大軍を動かすのには向かない厳島という地形に晴賢軍は激しく混乱し、さらに水軍同士の闘いも毛利側の勝利だったため、逃げ場もなかった。ついに晴賢は自刃して果て、「厳島の戦い」は毛利家の勝利に終わったのだ。 この戦いの後、大内の勢力は毛利によって吸収され、元就は一躍中国地方を代表する…

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