攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

大坂冬の陣 の検索結果:

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…ったわけですから。 大坂冬の陣-激闘 大坂夏の陣図屏風。大坂冬の陣、夏の陣の2回の激戦で、豊臣大坂城は灰燼に帰した 9月7日、家康は西国の大名50名に命じて徳川幕府に対する誓詞を出させました。これで裏切りを許さなくします。10月1日、秀忠に出陣を通告するとともに、全国の大名に派兵を命じて大坂へ集結させました。大坂城の南西方面からの進入路である天王寺口に藤堂高虎を配置、家康は10月11日に駿府より出陣、秀忠は10月23日に江戸を出陣しました。二条城に入った家康は11月15日に京…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…川方が大坂城を包囲、大坂冬の陣 大坂冬の陣で和睦する? 和睦後も大坂からの退去(大和・伊勢が提案)、浪人の召し放ちを迫る @外堀?総堀? 大坂方も納得していたと思われる 1615年(元和元年)、74歳 5月、大坂夏の陣 5/8、秀頼・淀殿が自害して豊臣家滅亡 秀頼と千姫には二人の子がいたが、嫡男・国松(8歳)は六条河原で斬首、長女(7歳)は鎌倉の東慶寺に出家 閏6月、一国一城令 @一国一城令は元々法令として交付されたものではなく、毛利・島津・黒田など西国大名に対して酒井忠世・…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…伐)や豊臣氏が滅んだ大坂冬の陣・夏の陣などが典型だ。→そのようなケースでは、戦いの舞台が敗北した方の本拠地になっている。そしてまた、逃げる場所(単に大名が生き延びるだけでなく、勢力を復活・再興させられるような場所)がなかったり、敵による包囲が現状で逃げようがなかったりという事情も大きい。→小田原城にせよ、大坂城にせよ、大名たちが包囲を切り抜けて再興を目指せたとはちょっと思えない。それゆえに滅亡するしかなかったわけだ。・他のケースではどうか。意外に、有名な戦いで負けてそのまま滅…

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

…てまず第一の戦い、「大坂冬の陣」を戦うことになる。 さて、実際に戦端が開くと、豊臣軍と浪人衆は幕府の大軍を相手にして互角以上に戦ってみせる。特に幸村は真田丸という砦を大坂城に築き、ここに立てこもって幕府軍を蹴散らした。ちなみに、この時真田丸が作られた場所は、秀吉が生前に「ここだけが大坂城の欠点だ」と言っていたところだという話がある。 そうこうしているうちに幕府軍は、兵糧の欠乏や冬という状況による士気の低下が目立つようになり、和平交渉を始める。一方の豊臣軍も大筒で天守を攻撃され…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…えつつ始まったのが「大坂冬の陣」である。当初、籠城側は大坂湾からの攻撃にも警戒し、城の西方にある木津川口に砦を築いて敵を迎え撃つ準備をしていた。この砦は緒戦で落とされ、大坂城は四方を包囲されてしまったものの、籠城側の抵抗は強く、なかなか決着は付かなかった。特に激戦となったのが、城の南方である。というのも、大坂城はそのほとんどを広大な水堀で囲んでいたのだが、南方だけは空堀となっていて、ここが弱点であったからだ。もちろん、幕府側はこちらに主力を配置して、激しく攻めかかった。秀忠や…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史④――必要とあればその場で城を作る

…んしょ)」とそれぞれ呼んだ。臨時で城を築くのは攻城側だけではない。籠城側が城に隣接する形で防御のために築いたものを「出城(出丸)」という(隣接しない場合でもこの名で呼ばれることもある)。もっとも有名な出城は、大坂冬の陣における「真田丸」だろうか。 ちなみに、よく使われる「砦」という言葉はここまで触れてきた城の分類とはちょっと違い、定義についてもあいまいな部分が大きいのが実際のところ。統治機能を削って軍事機能だけに絞った、小規模で臨時の城というのが一般的なイメージであるようだ。

【10大戦国大名の実力】長宗我部家④――負のスパイラルを止められず

…4年(慶長19年)に大坂冬の陣が勃発する。盛親は旧臣をひきつれてこれに参加し、真田幸村らに匹敵する活躍を見せるが、翌年の大坂夏の陣で豊臣方は敗北。盛親も逃げ延びて山城国へ潜伏したところを捕らえられ、処刑されてしまった。盛親の五人の子どもたちもみな殺され、こうして長宗我部家は滅亡したのである。四国ほぼ統一から約30年、あっという間の夢のようなできごとであった。 元親の蓋は…… 土佐の戦国時代が始まってから、大坂の陣で盛親が死ぬまで、約百年。長宗我部家はまさに戦国時代を「ジェット…

【クーデターで読み解く日本史】天下泰平のための犠牲――大坂の陣

…。 こうして始まった大坂冬の陣においては、天下の堅城・大坂城と戦いになれた浪人衆の活躍で兵力に劣る豊臣氏がかなりの善戦を見せた。そこで家康は城に大砲を打ち込んで豊臣方をおびえさせる一方で和睦を申し込む。戦いは終結したかと思ったが、ここに家康の作戦がある。和睦の条件に大坂城の二の丸・三の丸の破壊があり、二の丸を豊臣方、三の丸を幕府方が破壊する手筈となっていた。豊臣方としてはできるだけ時間をかけて二の丸はそのままにさせようという狙いがあったようだが、三の丸を早々に壊した幕府方が手…

【殿様の左遷栄転物語】伊達政宗の長男が設立 宇和島藩伊達家

…として江戸で暮らし、大坂冬の陣では政宗とともに出陣して戦功をあげ、伊予国宇和島郡に10万石を与えられて、ここに宇和島藩を設立することになった――そう、秀宗は伊達本家を継承できなかったのである。 その原因は、すでに述べたような豊臣家との深い関係があったのでは、と考えられている。伊達家は東北の大大名であり、幕府から警戒される存在だ。その当主が豊臣家ゆかりの人物では、余計ににらまれるだけだ。かくして、政宗は徳川家康に配慮して、秀吉の猶子である秀宗ではなく、次男で正室の子である忠宗に…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…する。正則は一度目の大坂冬の陣において「江戸城留守居」を命じられ、実質的な人質になった。これは、豊臣恩顧大名の生き残りである正則を警戒し、戦場に登場させたくなかった幕府の思惑が働いたものと考えられる。 正則自身がこのことをどう思ったかはわからないが、豊臣家を救えないことに忸怩たるものを感じつつ、自らの家を守ることを優先したのではあるまいか。 福島家の命取りになった広島城 豊臣家は大坂城とともに滅んだが、豊臣恩顧大名である正則が幕府から危険視されている状況は変わらなかった。そし…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…阪市中央区)に入り、大坂冬の陣・夏の陣の二度の戦いを浪人衆の代表的人物として戦っている。冬の陣では大坂城に「真田丸」と呼ばれる出城を築いて幕府の大軍を防ぎ、そして夏の陣では三度に渡る突撃によって家康の本陣まであと一歩と迫った末に討ち死にしてしまう。その奮戦ぶりには幕府方の諸将も感嘆し、「真田日本一の兵なり」(『後編薩藩旧記雑録』)、「古今にこれなき次第に候」(『細川家記』)と大いに讚えた。 一方、信幸はもともと自分が持っていた沼田2万7千石に父の上田3万8千石、さらに小県で3…

黒まめさんのオンライン研究会「躍動する熊野の武士団」参加レポート

…1614)北山一揆 大坂冬の陣で新宮城主浅野忠吉が出陣した隙をついて、北山地方の土豪が蜂起。新宮城を目指すも、熊野川を渡れず撃退、一揆は鎮圧される。 秀吉の紀州侵攻で押さえつけられた在地勢力は、支配者側が領地をあけた隙をついて、一揆を起こしていますが、どれも鎮圧されています。 白浜町教育委員会 佐藤純一氏の報告「熊野水軍と史跡安宅氏城館跡」 白浜町の概要 旧白浜町と旧日置川町とが合併して、現在の白浜町となりました。日置川の河口は、瀬戸内海航路と太平洋航路が接続する地点で、重要…

戦国時代、最大規模の合戦は?

…」がありますね。 「大坂冬の陣」では徳川軍20万余騎、豊臣軍10万余騎とあり、両軍あわせて30万人。これが今回調べた中では最大規模の合戦ということになります。 半年後の「大坂夏の陣」では徳川軍20万余騎、豊臣軍5万余騎で、規模は小さくなっていますが、これはそのまま豊臣側の弱体化をあらわしているのでしょうね。 『大坂夏の陣図屏風』右隻(大阪城天守閣所蔵) 今回紹介した合戦を表にまとめるとこうなります。 合戦名 規模(両軍の合計) 桶狭間の戦い 2万7500人 山崎の戦い 5万6…

2.譜代家臣団の成立

…(慶長19年)には「大坂冬の陣」、翌年には「大坂夏の陣」があり、豊臣家が滅亡する。これにより、江戸幕府の支配体制は盤石なものとなった。以降、将軍職は徳川家の子孫によって世襲され、強固な支配体制が維持されていく。徳川家による統治は、実に265年の間にも及んだ。 時期による譜代大名の区分 家康が天下統一を果たしたことで、すべての大名は徳川家に臣従することとなった。その中で、古くから松平家、および徳川家に仕えてきた大名たちが譜代大名とされたわけだが、一口に松平(徳川)と言っても歴史…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…てて家康に戦いを挑み大坂冬の陣が始まります。 結果は大阪城に立て篭った豊臣方を徳川が連日連夜、城に大砲を撃ち込むことで恐怖した淀君ら豊臣方が和議を申し出ることで終結。 和議の成立後、伊達軍は和睦の条件の一つであった外堀を埋め立てる工事の任にあたりました。 その翌年、不当な扱いをされた豊臣家がまた家康憎しと兵を挙げ大坂夏の陣が始まります。 伊達軍は道明寺の戦いで後藤基次らと戦いました。基次は伊達家の片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれています。 道明寺口に布陣する後藤隊…

若武者・木村重成の討ち死に

…の陣である。1度目の大坂冬の陣の際、若干20歳とも23歳であったともいう若武者の重成であったが、後藤基次(又兵衛)とともに戦功を上げ、また和平交渉の使者となって徳川秀忠の前に現れ、堂々とした振る舞いを見せた、という。 和平が破れ、大坂夏の陣が勃発すると、重成も再び出陣することになる。 しかし、天下無双の大坂城に篭もることができた先の戦いと違い、幕府方の謀略によって城の濠を埋められてしまったこの戦いでは、豊臣方は積極的に打って出るしかない。結果、多くの犠牲者を出すことになる――…

大坂の陣、真田幸村の三段突撃

…ある。 まず幸村は「大坂冬の陣」で大活躍して見せた。大坂城の弱点ともされる南側に「真田丸」と呼ばれる出城を築き、幕府方の大軍を見事に防いで見せた。このときまで幸村はほとんど無名の存在であり、家康は「大坂城に入ったのは幸村で、父親の昌幸はすでに死んでいる」という報告を聞いて安心したというが、この活躍には心胆を寒からしめるものがあったのではないか。 しかし、ひとりの英雄の活躍で勝てるものではないのが合戦だ。両軍が講和して休戦になったところ、幕府方は講和の条件を無視して大坂城の堀を…

【戦国合戦こぼれ話】大坂の陣―浪人衆の意地

…陣」とし、一度目を「大坂冬の陣」、二度目を「大坂夏の陣」と呼ぶ。 「大坂夏の陣図屏風・右隻」(大阪城天守閣所蔵) 家康は今回も、入念な準備をもってこの戦いに挑んだ。関ヶ原の戦いから15年弱の歳月のなかで幕府による諸大名の支配は進行しており、彼らは誰ひとりとして豊臣家に味方しようとしなかった。 それでも堅固な大坂城と、戦慣れした浪人衆を擁する豊臣方が強いと見るや、家康は新たな工作に取り掛かった。和睦交渉を利用して城を取り囲む堀を埋め立て、防御設備を多く破壊してしまったのである。…

【戦国を彩る名軍師たち】いくさを取り仕切ることができなかった真田幸村

… 最初の戦いである「大坂冬の陣」において、幸村は大坂城に「真田丸」と呼ばれる特設の砦を作ると、ここに攻めかかる幕府軍に大きな損害を与えた。だが、彼はあくまで「臨時で味方になっている浪人」という扱いであり、豊臣家全体に意見を反映できるような立場ではなかった。そのような状況では兵の数における圧倒的な劣勢を覆すことはできなかったのである。 結局、冬の陣は和睦という形で終わり、その際に大坂城は堀を壊されてその防御力を失ってしまった。間も無く始まった夏の陣においては先の戦いのような善戦…

徳川美術館で「合戦図~もののふたちの勇姿を描く~」のギャラリートークを聞いてきました

…つ書いています。 「大坂冬の陣図屏風」の発注者は誰なのか 最後に今回の特別展の目玉でもある「大坂冬の陣図屏風」は誰が描かせたのかという話になりました。NHK「歴史秘話ヒストリア」でも特集していた内容ですね。 先に「歴史秘話ヒストリア」で見た情報を補足しておくと、こんな内容でした。 この屏風には大坂城が大きく描かれ、また「今福・鴫野の戦い」や「真田丸の戦い」など豊臣方の勝利のシーンが描かれていること、さらに徳川家康と秀忠は右端に描かれているから、発注者は豊臣方で、豊臣秀頼本人が…

西国大名に対する抑えの城は複数ある?――「点」ではなく「線」で捉えると歴史はもっと楽しくなる――

…14年(慶長19年)大坂冬の陣 1615年(慶長20年)大坂夏の陣 1618年(元和4年)明石城着工 1619年(元和5年)福島正則改易、福山城着工 という時系列で考えることが大事です。この期間の流れをパラパラアニメにしてみました。 とくに1619年(元和5年)は正月に明石城の築城が開始されると、同じ年に広島藩の福島正則が改易となり、その領地が分割されるかたちで福山藩が誕生して、水野勝成が福山城を築城することになります。わずか一年の出来事ですが、こうした前後関係をおさえておく…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…こなわれたのが、この大坂冬の陣です。 信尹が徳川方の使者として信繁のもとに派遣されているので、このふたりのやり取りは必ず出てくるでしょうね。 講和の条件として外堀を埋めるというのがあり、それを徳川方が約束を守らずすべての堀を埋めたとされますが、このへんの強引でむちゃくちゃなやり取りはコメディにもシリアスにも描けそうですね。 大坂の陣(夏の陣) そして信繁の最後の戦いです。 オープニングに出てくる赤備えで突進するのはおそらく茶臼山から家康の本陣めがけて突撃するシーンをイメージし…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

…もに大坂城に入城。「大坂冬の陣」では真田丸を築き(11月15日完成)、赤備えの軍を率いて奮戦する。 7月、方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化する。 1615年(元和元年) 49 信繁、家康から寝返りの条件として「信濃一国40万石を与える」と提示されるがこれを断る(諸説あり)。「大坂夏の陣」で家康本陣に突入するも5月7日、討死(安居神社)。幸昌は秀頼を警護していたが、5月8日に秀頼・淀殿母子とともに自刃。 ほんとはそれぞれの側室と結婚した年とか、子どもが生まれ…

リアル真田丸を見てきました(三光神社、心眼寺、安居神社などを訪問)

…康が大坂城を攻めた「大坂冬の陣」において、豊臣方についた真田信繁が築いた砦(出城)のことです。 ま、すでにみなさんご存知ですよね。 ここから少しだけ真田丸の説明をしますので、もう知ってるよという方はすっ飛ばしてください。 真田丸とは 豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地(うえまちだいち)と呼ばれる丘陵地の上にあるので、自然にできた地形の高低差がそのまま防御壁になっていました。おまけに東は猫間川・平野川、北に天満川、西に東横堀川などが流れており、文字通り天然の要害でした。 まあそう…

内郭と外郭

…周囲2里の長さで、「大坂冬の陣」で真田幸村が築いた出丸(通称「真田丸」)は外郭南門の外側に築かれたものです。 江戸城の外郭は史上最大の規模で、堀・石垣・塀が渦状に配されて江戸市街のすべてを囲んでいました。 kojodan.jp 豊臣秀吉が築いた京都の「御土居(おどい)」も典型的な総構えで、その総延長は5里26町余(22.4km)にもおよびました。 なお、現在判明している総構えの最古の遺構は、有岡城のものです。 天正年間に荒木村重により改修され総構えとなりましたが、10年ほどで…

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