攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

大坂城 の検索結果:

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

…藤先生復元案と、豊臣大坂城を参考に復元された宮上先生復元案、松江城天守を参考にされた中村先生復元案、均整のとれたシンメトリーな塔建築及び宣教師の記録を重視された兵頭先生案、ウィンゲのスケッチを参考にされた西ケ谷先生案・森先生案、といったようにそれぞれの特色が見受けられます。 安土城天主は外観に関する記録が乏しく、その中で外観を復元するためには何らかの参考資料をもとに推定復元を行うのが合理的だと思われますが、何をどの程度参考にして復元に反映すべきかが今後の復元の鍵になると思われ…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…、秀吉が聚楽第や伏見城、大坂城に大名屋敷をつくらせて大名を集住させたのも、のちに江戸幕府が参勤交代制を取り入れたのも守護在京制の効果を認めていたということなのかも。 今回の動画ではあくまでも一例として「畠山氏における遊佐氏」を取り上げましたが、もう少しいろいろ勉強した上で、あらためて守護代をテーマに撮り直してもいいかなと思ってます。学べば学ぶほどわからないことが増えて、いろんな関連テーマに興味がわいてくるので、歴史はほんとうにおもしろいですね。 www.youtube.com

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(初日)

…は、山崎の戦いの後、大坂城を築城されるまで、秀吉様が本拠地とされており、別名「天王山宝寺城」や「天王山城」とも呼ばれております。現在の山崎城跡は、最後の城主となった豊臣秀吉様の時代のものが多くあらわれているとのことで、秀吉様の個性が強く出たものだと考えられるそうです。現在も、多くの遺構をご覧いただけます。 さらに福島館長は、山崎の戦いの際に、大山崎に伝わる民の動きなどもご研究されておられ、此度のご講演も大変興味深いお話をお聞きいただけたと思います。 大山崎町歴史資料館は、JR…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…復元された石垣。豊臣大坂城は絢爛豪華だったという 関ケ原の合戦ののち豊臣政権はしばらくは存続していましたが、1603年(慶長8年)に家康は征夷大将軍となりました。すぐに豊臣を追い払おうとしたかというと、そうではありません。自身が将軍になると豊臣秀頼を大納言から内大臣に昇進させ、徳川秀忠の娘、つまりは自分の孫である千姫(7歳)を秀頼(11歳)と結婚させました。さらに2年後の1605年(慶長10年)に将軍職を秀忠に譲ると秀頼を右大臣に昇進させました。このように豊臣公儀と徳川公儀の…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…題は毛利輝元の処遇と大坂城の受け取りでした。毛利輝元は大坂城を退去せずに居座ったため、家康が正式に公儀に復帰することができていませんでした。家康からすれば敗軍の毛利輝元を追い出し、大坂城西の丸に自分が入ることが理想です。毛利輝元の処遇について何度も協議を重ねた結果、9月25日に輝元の領国を安堵するという条件で大坂城を退去させ、西の丸を受け取ることに成功しました。大津で待機していた家康はやっとの思いで大坂城に入城しました。しかし、受け取ったのは家康ではなく、福島正則・黒田長政・…

知ってる? 水野勝成

…ぱり自ら先陣に立ち、大坂城に一番乗りを果たしてしまう。このとき敵方に鬼日向の異名が知られていたようで、勝成の馬印を見るや退却していったという逸話も。ちなみに当時勝成は51歳。もう、無茶をするのもほどほどに……。 その11. ホトトギスも待てる家康がおこ 命令違反した勝成に家康は、大和郡山6万石への加増転封を命ずる。正直言って20〜30万石くらい貰えるだろうと期待していた勝成は憤慨したというが、家康はもっと怒っていたであろう。 その12. 破天荒が一転、福山で名君へ 家康が亡く…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…。坂本城にいた秀吉は大坂城へ急いで帰っていくほどの恐怖だったようで、大垣城や長浜城が大きな被害を受け、戦どころではなくなってしまいました。当初の予定では2か月後に家康を征伐することにしていましたので、家康にとっては危機を回避できたということになります。この大地震がなければ徳川征伐が行われていたわけですが、秀吉は和睦政策へと転換したこともあり、家康は最終的には臣従することになりました。 まとめ 後年、小牧・長久手の戦いは徳川家にとっては非常に大きな戦いと位置付けられることになり…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…出産したため、秀吉は大坂城へ帰る 家康を含む渡海しなかった大名が伏見城の普請を担当 家康も翌年上洛し、10月に江戸へ戻った 1595年(文禄4年)、54歳 7月、豊臣秀次が高野山へ追放、切腹(秀次事件) @自ら切腹したのか、秀吉の命によるものかは諸説あり 病の秀吉が起請文を提出させる 秀頼を頂点とした体制の構想=在京を原則とした体制=室町幕府を踏襲 →江戸幕府が当初、豊臣政権ほどの支配力がなかった証拠か 1596年(慶長元年)、55歳 秀吉の推挙により内大臣に任ぜられる。これ…

【サイン本プレゼントあり】「ぶらり真田家ゆかりの31城跡めぐり」のご紹介

…/九度山 ■大阪府/大坂城 ・真田丸御城印を通常販売している城跡の御城印情報も掲載しております。大河ドラマ真田丸以降に新たに分かった発掘調査結果(沼田城、岩櫃城)の新情報も掲載。城跡古地図(戸石米山城、沼田城、松代城、上田城、岩櫃城、真田丸)を随所に掲載しているので、実際に現地へ行った際には、本を見ながら痕跡探しを楽しめます。取材班が現地で見つけた、おすすめのグルメや温泉、博物館や観光施設なども掲載。珍しい城の軍編成を記載した『八幡山番帳』、『九度山からの真田昌幸書状』、『沼…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…向けており、安土城や大坂城の天守も最上重は正面に入母屋破風を向けていました。そのような天下人の天守の格式を名古屋城天守は継承しているのです。 名古屋城の基本情報 築城者 徳川家康 築城年代 1609年(慶長14年) 別名 金鯱城、金城、柳城、亀屋城、蓬左城 分類 梯郭式(または輪郭式)平城 家康にまつわる出来事 公儀普請(天下普請)によって徳川家康が築いた城で、築城技術の最高到達点ともいえる。 歴代城主 尾張徳川家 まとめ 徳川家康による築城技術の最高到達点として、また大坂包…

【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

…築城当時は豊臣秀頼が大坂城にいたこともあり、防備と格式の両方を備えたつくりであったと考えられます。 将軍の城・二条城 将軍の城としてふさわしい巨大城郭だ 先にも述べた通り、現在みられる二条城の姿は家光が三代将軍だった寛永期に、後水尾天皇の行幸を迎えるために大改修されたものです。天守台も残されていますが、この天守台も寛永期天守の天守台で、慶長期天守台よりも大きいものです。徳川家康時代の二条城の遺構を明確に見ることはできませんが、二条城は初代将軍である家康から三代将軍家光までが将…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…黒鉄門や、秀吉の豊臣大坂城本丸桜門などに使われた形式で、これを連続させて用いて防御機能を高めていることがわかります。最後は馬出です。馬出は城門の前の堀の対岸に橋でつないだ一定の区画のことを言い、甲斐の武田氏や関東の北条氏などが用いた出入り口の形態です。主に東日本で発達しました。江戸城の本丸北側ではこの馬出を三つも連続させて防御している様子がわかります。このように、「江戸始図」の発見によって本丸と天守の構造が明らかとなり、家康の築城術を目の当たりにすることができるようになりまし…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…。→小田原城にせよ、大坂城にせよ、大名たちが包囲を切り抜けて再興を目指せたとはちょっと思えない。それゆえに滅亡するしかなかったわけだ。・他のケースではどうか。意外に、有名な戦いで負けてそのまま滅亡という例は多くない。→武田・上杉の川中島の戦いは、結局のところ両勢力にとって本国ではない信濃で行われているものであり、どちらかの滅亡につながるものではなかった。武田勝頼が織田信長・徳川家康に敗れた長篠の戦いは非常に派手なものであり、実際「武田の滅亡の遠因は長篠では?」と思えるところも…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…康がいうには「豊国は大坂城に人がいないと考えているようだった、そんなことをしたら被害が大変なことになる」ということで、少なくともこのエピソードでは名門生まれの戦場を知らない人扱いをされているのかなと感じた。 京極氏 ・京極氏は六角氏との対立や内紛、また本来家臣であった浅井氏によって衰退し、大名としては滅亡した。ただ京極高次は信長に仕え、本能寺の変では明智に味方したので秀吉の怒りを買ったが、秀吉の側室になった妹の縁で許され、浅井三姉妹のうち一人と結婚し、豊臣政権で厚遇された。 …

【戦国軍師入門】片倉景綱――独眼竜の右目をまっとうした生涯

…、その後に本当の合戦が待っているだろう。決して猪突猛進になってはいけない」と伝えている。 実際に徳川と豊臣は一度は和睦したものの、謀略によって大坂城の堀が埋められ、続く夏の陣で豊臣家は滅亡する。病床にあっても景綱の目は確かだった。そして冬の陣が行われた1615年(元和元年)、彼はそのまま息を引き取ってしまったのだ。その死を聞いた政宗はすぐさま家臣を派遣して名馬を贈り、弔意を示した。また、6人もの伊達家臣が殉死(後を追って死ぬこと)し、彼が家中でも慕われていたことがよくわかる。

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

…・秀頼と天下の堅城・大坂城は未だ残っていた。幕府を作って日本全体を支配しようという家康の企みにおいて、やはり豊臣家は最大の障害として残っていたのだ。 一方の豊臣側としても、本来臣下であるはずの家康が我がもの顔で采配を振るっているのは我慢のならないことだった。しかも徳川側はあの手この手の方法で豊臣家を挑発し、合戦をそちらから起こさせようとする。 こうした謀略の中で最も有名なのが、1614年(慶長19年)の方広寺の鐘銘事件だ。徳川家は豊臣家が再建したこの寺の鐘に刻まれた「国家安康…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…(輝元の養子。輝元は大坂城に残って出陣しなかった)は南宮山。関ヶ原の盆地に布陣した東軍に対し、西軍は鶴翼の陣(鳥が翼を広げたような横に広がった陣形)ですっかり包囲する形に取り、最初に述べたように陣形としては有利だった。 実際、おりからの濃霧が薄まってきた頃に、松平忠吉(まつだいら ただよし)と井伊直政が本来の先鋒を差し置いて抜け駆けしてからの序盤の2時間、西軍は戦況を優位に進めていた。この時、島津・小早川・毛利がそれぞれ戦闘に参加していなかったにもかかわらず西軍有利だったこと…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく①――「力の差」に圧倒された城・小田原城

…エピソードである。 大坂城と同じく「難攻不落の城」といわれた小田原城だが、どれだけの名城でも、それ以上の力で押し込まれれば守りきれないものである。ことの始まりは、1588年(天正16年)に豊臣秀吉が発した上洛命令に、北条氏が背いたことにある。姻戚関係にあった徳川家康の仲介があり、北条氏政・氏直父子のどちらかが上洛するという約束を取り付けたものの、同年北条氏が上野の名胡桃城を真田氏から奪ったという報せが入る。これは秀吉の定めた惣無事令を違反しているとして、ただちに諸大名に北条氏…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑦――囮としての役割を果たした城・伏見城

…。一度は再建された(大坂城を包囲する城のひとつとしてだったようだ)が、豊臣氏が滅亡すると役割を失い、廃城となる。そしてこの伏見城こそは、関ヶ原の戦いの序盤の舞台となった場所である。家康が「五大老のひとり、上杉景勝が謀反を企んでいる」として出陣し、大坂を空けると、これを受けて石田三成が挙兵。細川藤孝の丹後田辺城に続き、徳川方の拠点として鳥居元忠が留守を守る伏見城を取り囲んだのである。 伏見城はかつて秀吉が築いた堅城であり、地の利にも恵まれていた。わずかな兵で籠もった元忠もよく戦…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

摂津の大坂城(大阪府大阪市、現在は大阪城と呼ばれる)は、豊臣秀吉が石山本願寺の跡地を利用して築いた壮大な平山城である。この地は秀吉の旧主である織田信長も注目した要地であり、京とは淀川で結ばれ、大坂湾も近くと、政治経済の中心地となれるだけのポテンシャルを備えていた。実際、秀吉の支配化で大坂の地は大いに栄え、江戸時代になっても「経済面の首都」的な地位を保持し続けることとなったのだから、本願寺・信長・秀吉の目は正しかった、ということになる。 防衛拠点として見ても、この地は三方向を川…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり

…と黒に飾られた壮大な大坂城も燃えてしまい、江戸時代に築かれた城は天守閣に白漆喰の壁という画一的な形で、信長・秀吉の華麗な城作りは受け継がれなかったらしい。それでも、「象徴の城」という発想、外見が大きな意味を持つ城という思想は受け継がれ、信長以外にも各地の統治者たちが模索していた「象徴の城」の工夫の流れが続いていくこととなったのである。 この傾向が決定的になったのは、大坂の陣で豊臣氏が滅亡して後のことである。秀吉は信長から継承された石垣・水堀をはじめとする築城の技術を加藤清正を…

【10大戦国大名の実力】毛利家⑤――元就の呪縛

…関ヶ原へは出陣せず、大坂城にいた。代わって兵を率いたのは輝元の養子(元は従子弟)の秀元だったが、南宮山に陣取ったままついに動かず、小早川秀秋が東軍に寝返ったのと合わせて、東軍勝利の大きな要因となった。こうした行動の背景には、毛利家存続のために徳川家康と内通した吉川広家(元春の三男、病死した兄に代わって吉川家を継承)の暗躍があったとされる。 戦後、輝元は「毛利の領国には手をつけない」という約束を信じ、速やかに大坂城を出て家康への恭順を示す。ところが、家康は「輝元が積極的に西軍側…

【10大戦国大名の実力】織田家⑤――衰退する織田家

…た大坂の陣の直前まで大坂城にいたのだが、信雄は豊臣側の旗印にされそうなことを察知して合戦前に城を脱出。戦後、これを評価されて幕府より五万石を与えられている。一方の信益は冬の陣の勃発後も和平に奔走したがかなわず、夏の陣直前に城を脱出。以後は京にとどまった。 江戸幕府の支配下において、織田氏は大名四家・旗本十家が残り、幕末まで続いた。だがそれらも小大名ばかりで、名門としての形式上の優遇があっただけであったという。近年アイススケーターとして有名になった織田信成は旗本のうち一家、織田…

【クーデターで読み解く日本史】天下泰平のための犠牲――大坂の陣

…幕府も諸藩に命令して大坂城を包囲した。この時、実際は豊臣氏に味方する大名は一人もおらず、すでに江戸幕府の支配体制がかなり確立していたことをうかがわせる。 こうして始まった大坂冬の陣においては、天下の堅城・大坂城と戦いになれた浪人衆の活躍で兵力に劣る豊臣氏がかなりの善戦を見せた。そこで家康は城に大砲を打ち込んで豊臣方をおびえさせる一方で和睦を申し込む。戦いは終結したかと思ったが、ここに家康の作戦がある。和睦の条件に大坂城の二の丸・三の丸の破壊があり、二の丸を豊臣方、三の丸を幕府…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…臣政権の本拠地である大坂城の西の丸に移住し、天守閣を築造した。このことは「家康は秀頼と匹敵する力を持つ存在だ」と周囲に知らしめる効果があった。しかし、家康が真に自らの天下取りを行うためには、武力によって対立する勢力を打破する必要があった。そのために最初は前田氏に謀反の疑いをかけ、これが失敗すると今度は上杉氏をそのターゲットとした。これに対して上杉景勝は強硬的な姿勢で望んだため、1600年(慶長5年)、家康率いる軍勢が会津の上杉氏を討伐することになった。 このことは謹慎中の石田…

【殿様の左遷栄転物語】伊達政宗の長男が設立 宇和島藩伊達家

…る。さらに幕府からは大坂城普請を命じられ、これに関する雇用、道具の調達などで、宇和島藩の出費はさらにかさんだ。 ここで強硬な態度に出たのが、藩の財政責任者である山家清兵衛公頼(やんべ せいべえ きんより)である。清兵衛は藩士の給与を半分に減じることで財政難を補おうとしたのだった。これにはもちろん不満の声を上げる藩士もおり、1620年(元和6年)にはついに清兵衛が一家もろとも皆殺しの目にあうという事件が起きる。 これは清兵衛の政敵である桜田玄蕃が首謀者とされる。両者は政宗からの…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…は関ヶ原の戦いの後、大坂城にいた毛利輝元が戦わずに城を出るように、また関ヶ原の決戦後に本拠地へ戻っていた島津家が無事幕府と和解できるように、骨を折ってそれぞれの関係を取り持っている。残念ながら毛利家は前述のとおり所領を大幅に減らしたが、島津家は本領を安堵したまま江戸時代に入っている。これらの行動に「家康を牽制するために、豊臣家と縁の深い大大名を残しておきたい」という正則の意図を見る説があり、私(筆者)もこれが妥当かと思う。 このほかにも、西国のほかの大名とともに豊臣秀頼に対し…

【殿様の左遷栄転物語】不本意な褒美を受けた男 吉川広家

…た。合戦に参加せず、大坂城で状況を静観していた輝元だったが城を退去した後に、彼が西軍の行動に深く関与していたことが発覚したからである。家康はこれを理由に毛利家から所領のすべてを没収し、うち二カ国を広家に与えることを決めた。広家の策動は実を結ばなかっただけでなく、意外な結果となったのだ。 ことここにいたれば、広家にできることはひとつしかなかった。自らに与えられる二カ国を輝元に与えるよう家康に頼み込み、所領大幅減ながらもどうにか毛利本家を存続させる以外に、道はなかったのである。そ…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…豊臣家の本拠地である大坂城に入り、徹底抗戦を主張したものの受け入れられず、やむなく九州へ戻って柳川城に籠もった。 九州では立花家の旧主人である大友義統(宗麟の子)が、西軍側について兵を挙げていたもののすでに敗れていた。宗茂の籠もる柳川城も加藤・黒田・鍋島といった東軍側諸大名の軍勢に囲まれて追い詰められる。結局、家康から所領を安堵する旨の手紙がついたこと、また以前から宗茂に友好的だった加藤清正の働きかけがあったことで、和睦となった。その後、宗茂は和睦条件にしたがって城を開け、西…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府15代・徳川慶喜――武家政権の最後を飾った英才 1837年~1913年

…・伏見の戦いで敗北。大坂城に戻るや、わずかなお供だけを連れて軍艦で江戸へ脱出してしまった。取り残された幕府軍としてもこれでは戦えるはずもなく、「300年の天下を3日で失った」と慶喜を責めるものもいた、と伝わる。 この時期の慶喜には新政府(朝廷)と戦うか否か大変に迷っていた節が見られ、それが最終的な江戸への逃走という形に表れたのだろう。やがて新政府軍が江戸に向かって進発する中、慶喜はひたすら恭順の姿勢を示した。小栗忠順に代表される抗戦派もいたし、彼を援助するフランス公使ロッシュ…

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