攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

平城 の検索結果:

【現在1764城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…024年1月1日 奥平城 御城印 通常版 壱 奥平城(群馬県高崎市) JAファーマーズ 高崎吉井店 400円 印刷 はがき大 2023年12月23日 猿掛城 御城印 猿掛城(岡山県矢掛町) やかげビジターセンター問屋 300円 印刷 2023年12月18日 墨城印 太田道灌屋敷跡 自家焙煎のあべちゃんコーヒー 330円 印刷 2023年12月13日 墨城印 蒔田城 蒔田城(神奈川県横浜市) 旅館松島 330円 印刷 2023年12月13日 檜田城 御城印 通常版 ブックマンズ…

攻城団のみんなが今年訪問したお城と高評価だったお城

…以内) 方角 山城・平城などの立地条件 人気度や平均評価 といった条件を適当に選ぶと「このお城に行ってみたらどう?」と提案してくれる「城ガチャ」を作る予定です。参考情報を提供するんじゃなく、丸投げオッケーにしてゲーム性も加えてみようかなと。 お城めぐりにかぎらず、趣味が長続きするのって新鮮さとか刺激が大事だと思うので、来年はツアー(城たび)やセミナー(城がたり)などのイベントを開催したりして、また新しい展開ができるといいですね。そしてみなさんとまた年末に「このお城が良かったよ…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…お城は「平山城」や「平城」という種類の城で、主に戦国時代末期から江戸時代にかけて作られた形態の城です。 それに対して、諏訪原城は「山城」という種類に分類される城で、天守閣や石垣はありません。代わりに、土を掘って作る「堀」や、土を盛って造成した「土塁」を持ち、自然地形を巧みに活かした土の城です。 城は、敵の侵入を阻むために堀や土塁を設けて区画した砦を起源に持ち、吉野ケ里遺跡(佐賀県)のような弥生時代の環濠集落も城の起源と言われています。1467年(応仁元年)から始まった応仁の乱…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…幻の巨城」と呼ばれる平城土塁の遺構が点在する。戦国期の慶長3(1598)年、越後から百二十万石で移封された上杉景勝が、執政の直江兼続に築城を命じた城『神指城(こうざしじょう)』である。完成すれば日本有数の規模を誇る平城となるはずだった。方形二重の輪郭式平城で「回」の字状の縄張りに、本丸と二の丸、各郭外側を堀が囲む。大手口は石垣を産する慶山へ続き、人夫らが切り出された石を運び出したという。景勝がこの地に城を求めた理由は諸説あるが、水運に適した阿賀川をすぐ西に、周辺の13村を移転…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#3】

…ンガンの石垣と巨大な平城・江戸城と双璧を成す、東京都の山城です。そして甲斐上野城(椿城)のほうは、山梨の武田信玄のお母さんの実家といわれ、今も椿がたくさんある椿城という別名のとおりの城跡です。このふたつの城と城もなかは、どちらも印象的で心震える出会いとなりました。 八王子城の城もなか 「八王子城最中」(千松園) 八王子城もなかは、以前(かなり前の2019年)に、オススメの「城もなか」ベスト5(第2位)として紹介させてもらった城もなかです。また、お店にお邪魔して、この大好きな城…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…郭式(または輪郭式)平城 家康にまつわる出来事 公儀普請(天下普請)によって徳川家康が築いた城で、築城技術の最高到達点ともいえる。 歴代城主 尾張徳川家 まとめ 徳川家康による築城技術の最高到達点として、また大坂包囲網の最終形態として名古屋城を築城しました。それまでの尾張の中心地・清須城から、減災や交通の利を考慮して名古屋台地に築城して移転するなど、将来を見据えた築城を見るとき、名古屋城の存在の大きさを改めて感じます。木造復元に向けて課題の多い名古屋城ではありますが、本丸御殿…

【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

…二条城 分類 輪郭式平城 家康にまつわる出来事 1601年(慶長6年)に上洛時の宿泊所として築城を開始。公儀普請(天下普請)によって西国大名に築城を命じた。 歴代城主 城主は歴代の徳川将軍であったが、江戸にいて不在だったため城代などを置いていた まとめ 二条城は、徳川家康が築いた将軍のための宿泊所であり、儀式典礼の城です。家康が築いた当時の二条城は大きく改修されているため目にすることはできませんが、資料などによりさまざまなことがわかります。単郭というきわめてシンプルな城の構造…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…代田城 分類 輪郭式平城または平山城 家康にまつわる出来事 太田道灌が築いた城を、1590年(天正18年)に江戸に入った家康が改修。天下普請で築城がすすめられ、慶長期、元和期、寛永期と続いた。 歴代城主 家康→秀忠→家光→家綱→綱吉→家宣→家継→吉宗→家重→家治→家斉→家慶→家定→家茂→慶喜 まとめ 家康は将軍宣下ののちに公儀普請(天下普請)によって江戸において大規模な土木工事を進め、江戸城を総石垣で信長・秀吉の城づくりである「織豊系城郭」と、武田流や北条流である東国の城づく…

【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

…静岡城 分類 輪郭式平城 家康にまつわる出来事 天正13年に近世城郭として築城。天守も建造したか。その後に江戸へ移るが、慶長期に入り将軍職を譲った後に隠居城として移る。 歴代城主 家康→中村一氏→徳川頼宣→徳川忠長→天領となり城代を置く まとめ 駿府城は家康が築城した近世城郭ですが、小牧・長久手の戦い直後に築城したことや立地を考えると対秀吉戦略の一つと考えられます。また、発掘調査によって発見された天正期の天守台石垣は家康築城期のものとも考えられる遺構で、当時を知ることができる…

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

…を次々と落とした末に平城ながら堅城として名高い新発田城を攻め落とし、新発田重家を自刃させることに成功する。 その後も佐渡で起きた反乱の鎮圧や小田原攻めなどで活躍し、景勝を支えた。また、文禄の役では朝鮮征伐にも参加し、この戦いを無益なものと考えた兼続は自軍に略奪の禁止を厳しく言い渡し、また夥しい数の書物を収集して持ち帰ったという。 そんな彼をひどく気に入った人物がいる。当時の天下人、豊臣秀吉だ。「天下の政治を安心して任せられる数人の中のひとり」と絶賛し、「豊臣」姓を与えて何度も…

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

…によって取り囲まれた平城で、城に行くためには数本の道しかなかった。これは守るのにも向いていたが、同時に周囲の川を増水させれば簡単に水浸しにできるということでもあった。 こうして工事が始まった。現地の農民たちに法外な額の給金を与えて突貫工事をさせ、農業のための溜池工事の技術が駆使され、川は11日で堰き止め終わる。しかもこの時がちょうど梅雨時であったために、溢れた濁流はすぐに城を水没させてしまった。これが「高松城の水攻め」だ。 どうにか本丸だけは残ったが、備蓄した食糧はすべて水没…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台⑤――お市の方が殉じた城・北ノ庄城

…らず、新たに北ノ庄へ平城を築いた。信長の安土城に勝るとも劣らぬ壮大な城であったと伝わるが現存せず、のちに結城秀康によって築かれた北ノ庄城(福井城)は勝家の城から北方へ200メートルほどの場所に築かれたらしい。 本能寺の変による織田信長の死後、勝家は羽柴(豊臣)秀吉との後継者争いを演じることになった。信長の妹を娶ることになったのも、その延長線上のことである。両者とその支持者による争いが激しくなる中、1583年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」が起こる。この戦いに敗れてしまった勝家…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑥――水に沈んだ城――備中高松城

…は、湿地帯に囲まれた平城である。永禄年間に豪族・石川久弐が備前の字喜多直家に備えるために築いたとされ、彼の死後はその娘婿である清水宗治が毛利氏に取り立てられて新たな城主となった。毛利氏は備中と備前の国境に七つの城を連ねて防衛ラインを敷いた。これが「境目七城」と呼ばれるもので、高松城はその中のひとつである。羽柴(豊臣)秀吉の中国侵攻におけるクライマックスの舞台となり、長い戦いの末に開城。備前の字喜多氏の武将がこの城に入っている。この時に城は大きな改築が施され、さらに関ヶ原の戦い…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく④――支城を漬され、大名の逃げた城・有岡城

…丹氏の拠点であった。平城であり、城下町全体を取り囲む惣構えを備えていた。『日本史』で知られるポルトガル人宣教師のルイス・フロイスが「壮大にして見事なる城」と書き残していることから、結構な規模であったらしい。 村重は信長に忠実で、彼の近畿支配構想において重要な人物だった。そのため、村重の謀反を聞いた信長は最初、その報せを信じなかったといわれている。なぜ謀反に踏み切ったのか、その理由ははっきりとはわかっていない。しかし、彼が信長の敵である石山本願寺に内応していたことは明らかとなっ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台②――信玄と家康、虚虚実実の駆け引きが繰り広げられた城・浜松城

…康がその西に大規模な平城を築いたのが始まりだ。 浜松城に迫った最大の危機、それは1572年(元亀3年)の武田氏による侵攻だった。信玄は軍をいくつかに分けて遠江・三河を蹂躙した。そして信玄の本隊が浜松城に接近したのだが、なぜか攻撃しようとはせず、城をかすめるように三方ヶ原を西へ進んでいった。この時の信玄の思惑について、二つの説がある。ひとつは「西上して織田信長と戦うことが主目的であったので、家康は放置した」というもので、もうひとつは「家康を浜松城からおびき寄せるのが目的だった」…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ④――後詰決戦と野戦築城で守られた城・長篠城

…氏の居城となっていた平城である。この城は二つの川の狭間の断崖に存在し、川を堀代わりにした、いかにも戦国時代風の城であったようだ。菅沼氏はもともと奥三河山岳地帯に勢力を持つ豪族たちのリーダー的存在であり、信濃と三河を結ぶ交通上の要所であるこの地に城を築いたのも、それゆえであろう。とはいえ、一国を支配するレベルの大名の視野に立ってみると、菅沼氏も小豪族に過ぎない。その運命は過酷というしかないものだった。 まず、今川氏が三河に進出するとこれに従う。次に、今川義元の死後に徳川家康が三…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ②――徳川の大軍を押し返した城・上田城(第一次上田城の戦い)

…ものだ。山を背にした平城で、かなりの規模であったと考えられるが、詳細はわからない。 しかし、上田城は完成してすぐに戦火に晒されることになる。この時期、武田氏の滅亡に本能寺の変での織田信長の死と大事件が頻発し、中部地方は実質的な空白地帯となってしまったからだ。結果、上杉氏・北条氏・徳川氏の三勢力がこの地域に手を伸ばしてくる。これに対し、昌幸は丁々発止のやり取りを繰り広げながら自らの領地を守り、それどころか隙あらば拡張する離れ業を見せた。 それだけ目立てば、やはり危機に陥ることも…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ①――夜襲で決着した「後詰決戦」・ 河越城(川越城)

…築かせたと伝えられる平城だ。扇谷上杉氏は東国に広く影響力を誇った名門・上杉氏の一門にあたる。本来は分家筋に過ぎないのだが、戦国時代初期には関東地方の動乱に乗じて大いに勢力を伸ばし、上杉氏の本家筋にして関東管領(室町幕府において東国を実質的に統括する役職)を継承する山内上杉氏に匹敵するほどの勢力にまで成長していた。 河越城はこの扇谷上杉氏の本拠だったのだが、1537年(天文6年)に北条氏によって奪われてしまう。その後、北条氏が滅亡してからは徳川氏の城となる。ここは本拠地である江…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】地形に合わせて縄張をする

…を描いたようだ。ただ平城はともかく、山城は立体的な存在であり、地形に合わせて複雑な構造になるので、絵で表現するのは当時の技術では難しかった。そこで、土砂や木を使ってミニチュアの城を作ってみて、それを設計図代わりに使うことも多かったようだ。 築城過程は、主に土木工事である「普請」と建築工事である「作事」という二つの言葉で表される。普請は地面を削ったり盛ったり均したりして平らにし、さらに堀を掘って土塁や石垣を築くのが主な作業だ。土台工事、と考えればほぼ間違いないだろう。その上に各…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化④兵農分離のせいで?

…った豊臣秀吉に継承され、以後のスタンダードとなっていく。 防御側はそれまで持っていたアドバンテージを失い、もう籠城をし続けても援軍が来なければ(その結果として後詰決戦の形に持ち込めなければ)勝てないことになってしまったわけだ。山城がその価値を失い、平城や平山城に移り変わっていったのもわかる話である。 こうの補足 兵農分離についてはこんな本もあるみたいです。未読ですが、おもしろそうなテーマですね。 兵農分離はあったのか (中世から近世へ) 作者:平井 上総 平凡社 Amazon

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化③後詰決戦に備えて?

…信長公記』を分析し、平城の方が後詰決戦での救援が成功しやすい(他が5割や6割なのに対し、平城は10割)ため、落ちにくいと解説する。 これは実際のところ非常に頷ける話だ。つまり、山岳部の兵が展開しにくい場所にあるということは、敵が攻めにくいのと同時に、味方も助けにくいのが当然。広い平地が近くにあれば一気に攻撃できるのに、狭い場所ではそうもいかず、結果としてにらみ合った末に引き揚げざるを得なくなる、という可能性が高かったのだ。もちろん、この場合、城に立て籠もった兵たちは見殺しだ。…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化①経済・政治上の都合から?

…った山城に代わって、平城や平山城が一般的になってくるのだ。この流れの延長線上に、私たちがよく知る「天守閣を持つ白亜の城」としての近世城郭がある。 どうして山城が姿を消し、平城や平山城ばかりになっていったのだろうか?そこには、いくつかの理由を見出すことができる。これらのうちどれが正解というよりも、様々な要素が絡み合って変化していった、と考えるべきだろう。 もっとも一般的な理解は、「政治・経済上の都合から、山城は使いにくくなった」というものである。先述したとおり、領国を統治するた…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史②――統治拠点と防衛拠点

…かれる。前者の場合は平城、後者の場合は平山城と呼ばれる(丘にある城を「丘城」と呼ぶことも多い)。丘や平地では地形効果を期待できないために、防御能力としてはやや劣りがちだ。しかし、戦国時代も終わりに近づいた時代の平城は、無数の堀や石垣、櫓によって強固な防御を形成しており、その守りの堅さはけして山城に劣るものではなかったのでは、という見方もある。城とは呼ばれずに「館」あるいは「城館」などと呼ばれるケースが多いものの、本書では城のひとつとして数える。 もうひとつは高地性集落、朝鮮式…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…仁元年) 薬子の変(平城太上天皇の変) 嵯峨天皇と平城上皇(へいぜいじょうこう)の対立=二所朝廷(にしょちょうてい)。平城上皇は自ら東国に赴き挙兵することを決断するが、嵯峨天皇は坂上田村麻呂を派遣してこれを阻止 平安時代 842年(承和9年) 承和の変 藤原北家の藤原良房が自分のおいにあたる道康(みちやす)親王(後の文徳天皇(もんとくてんのう))を擁立するために恒貞親王(つねさだしんのう)を廃太子にした。藤原氏による最初の他氏排斥事件 平安時代 866年(貞観8年) 応天門の…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…いと思います。とくに平城は広大な敷地を利用できることから、広島城や駿府城などが陸軍に使用されたのは有名ですね。そしてこの名古屋城にも陸軍第三師団の司令部が置かれていました。 狩野派の障壁画が飾られた立派な御殿があり、明治時代には離宮にもなったことで二条城とよく似ている名古屋城ですが、この陸軍所管の歴史の有無が最大のちがいかもしれません。まあ二条城には復元天守もないのですが。 話を戻すと、名古屋城(=尾張藩)にあった資料が愛知県、さらに陸軍(名古屋鎮台)に引き継がれ、それがのち…

【クーデターで読み解く日本史】摂関政治誕生のきっかけ――承和の変

…ことだ。彼の兄である平城上皇(へいぜいじょうこう)の子・阿保親王(あぼしんのう)の下に、伴健岑(とも の こわみね)と橘逸勢(たちばな の はやなり)という二人がやってきた。健岑は恒貞親王(つねさだしんのう=嵯峨上皇の弟・淳和上皇と嵯峨上皇の娘の間に生まれた子であり、時の仁明天皇の次に天皇となる皇太子)の護衛官で、逸勢は橘奈良麻呂の孫である。彼らは嵯峨上皇の死を契機に恒貞親王を立てて東国に入り、国家に反乱しようではないかと持ちかけた、とされる。 しかし阿保親王は話に乗らず、こ…

【クーデターで読み解く日本史】悪女に惑わされた兄に反発した弟の戦い――薬子の変

…年) ○嵯峨天皇 ×平城上皇 壬申の乱以降長く続いた天武天皇系の皇統だったが、称徳天皇の死後に天智天皇系の皇統から光仁天皇が出て久方ぶりの交代ということになった。その背景には道鏡の失脚にも関与したとされる藤原式家(ふじわらしきけ)の藤原百川(ふじわら の ももかわ)の策動があったという。 さらに百川は光仁天皇の子を桓武天皇として即位させる。この桓武天皇は征夷大将軍・坂上田村麻呂らを派遣して東国の蝦夷を討伐させた人だ。しかも一方で、従来の平城京からまず長岡京へ、そしてこれが上手…

【クーデターで読み解く日本史】藤原氏のはみ出し者が起こした悪あがき――藤原広嗣の乱

…に聖武天皇は都である平城京から出て、しばらく放浪をすることになってしまう。 しかし、その短絡的な行動には藤原氏内部でも批判が強かったのか、同調者は現れなかった。そもそも、性格のせいか広嗣は藤原氏の中でも孤立しがちな人物であったようだ。元は一族の中でも期待を寄せられていて、一時は大和の知事的立場である大養徳守(やまとのかみ)に任命されていた。ところが、親族の誰かを讒言したとして九州を統括する大宰府のナンバー2である大宰少弐(だざいのしょうに)に左遷される、という経歴の持ち主だっ…

【歴代征夷大将軍総覧】文室綿麻呂――蝦夷征伐の最後を飾った将軍 765年~823年

…を弟に譲ったばかりの平城太上天皇(へいぜいだいじょうてんのう。乱の名前は彼の寵愛を受けた藤原薬子に由来する)と、譲られた当人である嵯峨天皇が天皇の地位をめぐって争った際、綿麻呂は太上天皇派で、あっさり逮捕、投獄されてしまった。 ところが、追い詰められた太上天皇が東北に逃げようと企んだ際、嵯峨天皇の命を受けて追撃にかかったその腹心・坂上田村麻呂が特に赦免と同行を願ったのが彼、綿麻呂であった。実は綿麻呂はこれ以前の蝦夷征伐に際して田村麻呂の下で戦ったらしく、また時の桓武天皇からも…

【お城の基礎講座】87. 三大海城(さんだいうみじろ)

…城(ひらやまじろ)、平城(ひらじろ)という分類がありますが、それとは別の概念として海城(うみじろ)というのがあります。湖や海に接するところに築かれた城です。三大海城と呼ばれるものに、高松城(たかまつじょう)、今治城(いまばりじょう)、宇和島城(うわじまじょう)があります。今回は、この三大山城をご紹介します。 三大海城 三大海城と呼ばれているのは 高松城(たかまつじょう、香川県高松市) 今治城(いまばりじょう、愛媛県今治市) 宇和島城(うわじまじょう、愛媛県宇和島市) です。 …

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