攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

征夷大将軍 の検索結果:

攻城団テレビで「家康はなぜ名字を松平から徳川に変えたのか」という話をしました

…のはいつか。従来説は征夷大将軍に任官される少し前(慶長年間)と考えられていたが、笠谷先生によればもっと早くおそらく天正16年の聚楽第行幸の頃、その直前に足利義昭が鞆から京に戻って出家して源氏長者としての足利氏が消滅したから これは関白である秀吉が源姓への改姓を容認していることを示している(ちなみに秀吉の関白就任の際は近衛前久の猶子になっている) 家康が源氏を名乗ったタイミングが秀吉の死後か存命中かというのはかなり重要ですよね。もしかすると秀吉はかつての鎌倉公方のように東国支配…

【家康の謎】家康は源氏なのか

…っている。だからこそ征夷大将軍になれたのだ、というわけだ。しかし、実際のところは別に征夷大将軍になるのに源氏である必要はなかった(織田信長が朝廷から将軍職を提案されたことなどが根拠)とされている。それどころか、家康が本当に源氏だったかどうかさえ怪しい、という話をご存知だろうか。 徳川氏、ひいては江戸幕府が正史として伝える徳川氏の由緒話は以下のとおりである。そもそもの祖は「源義家の孫・新田義重の四男・義季(よしすえ)」だ。この人が上野国新田荘世良田郷徳川村に腰を落ち着け、「得川…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…(慶長8年)に家康は征夷大将軍となりました。すぐに豊臣を追い払おうとしたかというと、そうではありません。自身が将軍になると豊臣秀頼を大納言から内大臣に昇進させ、徳川秀忠の娘、つまりは自分の孫である千姫(7歳)を秀頼(11歳)と結婚させました。さらに2年後の1605年(慶長10年)に将軍職を秀忠に譲ると秀頼を右大臣に昇進させました。このように豊臣公儀と徳川公儀の二重体制を維持し、豊臣と徳川の一体化を図る動きさえ見せていたのです。 しかし、家康がなくなったあとの徳川家を考えたとき…

【家康の謎】家康はなぜ「家」の字を選んだの?

…る。なるほど、のちに征夷大将軍となる家康の名前の由来としては説得力がありすぎるくらいだ。 ただ近年、これらとはまた違う面白い説が提唱されている。まず、「元」の字を捨てたことにさほどの意味は無かったのでは、という考え方だ。証拠として、鳥居元忠や松平真乗(まつだいら さねのり)らは義元の「元」や氏真の「真」を偏諱でもらったと推測されるが、松平が今川から離反しても名前を捨てた様子がない。確かに、江戸時代になると敵対したから偏諱でもらった文字を捨てるという価値観も出てくるが、この時代…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…慶長8年)、62歳 征夷大将軍に任官、右大臣に昇任 それまでは諸大名の年始の挨拶も大阪城の秀頼が先で、伏見城の家康へはその後 家康自身も前年までは大坂城へ訪問していたが、将軍就任後は行かなくなった。諸大名も秀頼への挨拶を控えるようになっていった 7/28、家康の孫娘・千姫(7歳)が秀頼(11歳)に嫁ぐ 1605年(慶長10年)、64歳 秀忠に将軍職を譲る。徳川氏による世襲を天下に知らしめる 隠居する? 1607年(慶長12年)、66歳 駿府城に移り、大御所政治開始 →二元政治…

【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

…8年)2月に伏見城で征夷大将軍の宣旨を受けましたが、3月に竣工したばかりの二条城に入城し、ここから参内して将軍拝賀の礼を行いました。さらに、朝廷からの勅使を迎えて将軍宣下の賀儀を終え、親王、公家衆などが表敬訪問してお祝いを表しています。この将軍就任に伴う儀式は家康から始まり、2年後の1605年(慶長10年)に二代将軍秀忠、1623年(元和9年)に三代将軍家光まで二条城で行われました。1611年(慶長16年)に二条城二の丸御殿にて家康と豊臣秀頼が会見したのは有名な話です。このと…

徳川将軍家の正室(御台所)の出身を調べる

…から徳川慶喜まで歴代征夷大将軍15人の正室(御台所)という視点から江戸時代を見てみました。 youtu.be 結論として3代・家光以降、大半が京都の皇族(宮家)や摂関家から嫁入りしていましたが、なかには皇女もいたり、その時々の幕府と朝廷のパワーバランスが垣間見えます。皇族も途中までは天皇との血筋が遠い伏見宮家からでしたが、10代・家治の正室には当時の天皇と非常に近しい血筋の閑院宮家から来ているなど、時代によって違いが見られます。 あるいは急遽将軍職に就くことになった者は藩主時…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…だよしおう、後南朝の征夷大将軍)の兄弟を討って神璽を持ち去った事件 室町時代 1467年(応仁元年)〜1477年(文明9年) 応仁の乱(応仁・文明の乱) 細川氏率いる東軍と山名氏率いる西軍に分かれ、幕府の主導権をめぐり約11年間にわたって継続した内乱。1493年(明応2年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる 室町時代 1476年(文明8年)〜1480年(文明12年) 長尾景春の乱 関東管領上杉氏の有力家臣・長尾景春による反乱。鎮圧した太田道灌も1486年(文明18…

戦国時代のはじまりと終わり

…は鎌倉時代は源頼朝の征夷大将軍就任の1192年(建久3年)ではなく、それより前の1185年(文治元年)からスタートしているので幕府成立と時代区分も一致しないのですが、この点も考慮しはじめるとさらにややこしくなりますね。 始まりと終わりはややこしい そもそも権力の移り変わりは一日で完了するものではないことも大事なポイントです。たとえば鎌倉時代の滅亡は1333年とされますが、これは5月7日に足利高氏(尊氏)が後醍醐天皇側に味方して六波羅探題を攻め落とし、さらに5月21日頃に新田義…

【クーデターで読み解く日本史】天下泰平のための犠牲――大坂の陣

…頼 江戸幕府を開き、征夷大将軍となった徳川家康だったが、豊臣秀頼が目の上のたんこぶとして立ちはだかっていたのは事実である。家康は征夷大将軍になってからわずか2年でその地位を息子の徳川秀忠に譲りつつ、自らは大御所として実権を掌握する体制を構築する。これは名目だけでもトップが交代することで「天下人としての家康の立場は、幼い秀頼の代わりに預かっているのではなく、徳川氏のものだから息子に譲るのだ」というアピールにほかならない。 逆に言えば、そのように示さなければならないほど、「秀頼が…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…3年(慶長8年)には征夷大将軍となって江戸幕府を開き、天下をほぼその手中に収めた。 しかし、この時点で豊臣秀頼がまだ健在だったのも事実である。所領だけを見れば65万石の一大名であっても、「豊臣政権の継承者」という権威は小さくなく、また秀吉が残した天下の名城・大坂城と莫大な遺産、加藤清正や福島正則といった東軍方についたおかげで生き残った豊臣恩顧の大名の存在も家康にとっては脅威であった。家康としては幕府安定のためにどうあっても豊臣氏を滅ぼさねばならず、それが二度にわたる大坂の陣と…

【クーデターで読み解く日本史】北条氏の残党討伐をめぐる足利尊氏の思惑とは?――中先代の乱

…でひと悶着があった。征夷大将軍・総追捕使(そうついぶし)に任命するよう願った尊氏に対して、天皇は首を縦に振らなかったのだ。これは、建武の新政の失敗で武士たちの心が離れ始めていた天皇に比べ、尊氏はまさに武士の代表としての立場を確保しており、その野心を警戒したものと考えられる。もし尊氏を征夷大将軍としてしまえば、鎌倉幕府の再来を招くのではないか、と恐れたのだろう。 結局天皇の許可を得られぬままに鎌倉へ向かった尊氏は、途中で直義と合流し、時行の軍勢と戦う。途中、激烈な抵抗にてこずる…

【クーデターで読み解く日本史】寵臣も後ろ盾を失えば孤立無援――梶原景時の変

…倉幕府 ×梶原景時 征夷大将軍として鎌倉幕府を開いた源頼朝が亡くなったのは1199年(正治元年)のことである。源氏の家督と将軍の座を継いだのは嫡男の頼家(よりいえ)だったが、彼はまだ若冠18歳で騎慢な性格が目立つ部分があり、また妻の実家である比企氏(ひきし)ばかりを重用するなど、その統治者としての力量には疑問符がついた。 そこで頼朝の妻・政子の父である北条時政(ほうじょう ときまさ)をはじめとする老臣たちは裁判で判決を下す権限を頼家から取り上げ、重臣たち12人が会議をして判決…

【クーデターで読み解く日本史】源平合戦の背後で蠢く地方武士の思惑とは?――治承・寿永の乱

…ても義経であった。敗れた平氏一族は次々と入水自殺を遂げ、その中にはまだ幼い安徳天皇(あんとくてんのう)の姿もあった。ここに平氏政権は滅亡したのである。 平氏政権滅亡後の主導権を握ったのは頼朝だった。独断専行が目立った弟の義経を排除し、その義経と手を結ぼうとした後白河法皇に圧力をかけて全国に守護(各国の地方行政を担当する)と地頭(荘園を管理する)を設置することを認めさせた。さらに頼朝は征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府を開く。時代は貴族政治から武家政治へとはっきりと転換したのである。

【クーデターで読み解く日本史】悪女に惑わされた兄に反発した弟の戦い――薬子の変

…せる。この桓武天皇は征夷大将軍・坂上田村麻呂らを派遣して東国の蝦夷を討伐させた人だ。しかも一方で、従来の平城京からまず長岡京へ、そしてこれが上手くいかなかったので改めて平安京へと遷都することによって新しい政治基盤を作るという二大事業を敢行した人物である。これらの事業は財政的負担が大きすぎたせいでともに中断という結末を迎えたが、以後蝦夷による武力反乱はほぼ抑えられ、また平安京は千年にわたって首都であり続けることになった。 このような新しい政治の時代に大きな勢力を獲得した藤原式家…

【クーデターで読み解く日本史】神の言葉にすがった皇位簒奪の陰謀――宇佐八幡宮神託事件

… かりたまろ=のちの征夷大将軍・坂上田村麻呂の父)による「道鏡は皇位を簒奪しようとしていた」という密告を受けて下野の薬師寺に流されてしまった。これは実質的に罪人の扱いであり、772年(宝亀3年)に亡くなった際の葬儀も庶人としてのものだった。一度は巨大な権力を握った男の失脚と死は驚くほどあっけないものだったのである。この事件を裏で画策していたのは藤原式家(ふじわらしきけ)の藤原百川(ふじわら の ももかわ)だといい、以後彼と藤原式家は政治のメインストリームに躍りだしていくことに…

征夷大将軍は源氏じゃなきゃなれないのか

征夷大将軍に就任できるのは源氏のみという話を聞いたことがある方はけっこういらっしゃるんじゃないでしょうか。ゆえに家康は将軍になれたとか、ゆえに秀吉は将軍じゃなく関白を選んだとか。ただこれは結論からいうと正しくありません。 具体的な例を見ていきましょう。まずは織田信長ですが、いわゆる「三職推任問題」において朝廷側から征夷大将軍・太政大臣・関白のうち、どれでも自由に選んでいいと提案されています。これは信長側から要求したという説もありますが、いずれにせよ平氏の子孫である(しかも信長…

攻城団TVに初の対談番組を公開しました(榎本先生の最新刊「将軍の日本史」についての対談)

…した。 今回は歴代の征夷大将軍を紹介する本ではありますが、表紙の装丁が示しているとおり、3つの武家政権の話でもあるので、それぞれの武家政権ごとに将軍の在任期間や略系図を用意しています。 将軍の日本史 (MdN新書) 作者:榎本 秋 エムディエヌコーポレーション Amazon 個々人のエピソードなどは本を読めばわかることなので、番組ではメタ視点といいますか、少しだけ視野を広げて将軍同士の関係性や、死去に伴わない将軍交代のケースが意外と多いことなどを可視化しました。 こういうのを…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…ことである。この年に征夷大将軍となった家康は、前述した前田利長に加え、やはり以前から長重と親交のあった自らの嫡男・秀忠からの働きかけに応えて、彼を常陸国は古渡1万石の大名として取り立てる。この国には江戸時代を通じて基本的に親藩・譜代大名が多く配置されており、その中で丹羽家という外様大名が一時的ながらも置かれたところに、家康の長重に対する評価を垣間見る向きもある。 その後の長重は大坂の陣で活躍し、陸奥国は棚倉5万石、さらに陸奥国白河10万石余ヘとたびたび加増・転封を受けた。こう…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府15代・徳川慶喜――武家政権の最後を飾った英才 1837年~1913年

…権の時代の最後を飾る征夷大将軍。幼少期から英明を謳われた人物ではあるが、衰退していく巨大組織を救うことはできず、また討幕に向かって突き進んでいく時代の流れを変えることも不可能だった。 彼は御三家の水戸藩・徳川斉昭の七男で、一橋家に養子として入って一橋慶喜を名乗った。本来は江戸で育てられるしきたりなのだが、斉昭の教育方針で水戸育ちになった。幼少期は大変な腕自坊主だった。その一方で厳しくしつけられており、「寝相の矯正のため、寝返りをしたら切れるよう、枕の左右に剃刀を置いた」などと…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府14代・徳川家茂――血筋で選ばれた貴族的将軍 1846年~1866年

公武合体の象徴として 父は御三家の紀伊藩主・徳川斉順(とくがわ なりゆき)だが、この人は11代将軍・家斉の子で、養子として紀伊藩に入った、という経緯がある。安政将軍継嗣問題で血筋を重視する譜代大名らが彼を担ぎ上げたのは、この将軍家との血筋の近さが理由だった。家茂は穏やかな性格の持ち主で下からの人気もあり、貴族的な容貌の持ち主だった。1858年(安政5年)に将軍として擁立されたが、このときは弱冠14歳だったため、御三卿の田安慶頼(たやす よしより)が後見人としてついている(3年…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府13代・徳川家定――趣味は料理の「癇癖将軍」 1824年~1858年

どうにも情けなかった将軍 12代将軍である徳川家慶には二十数名の子がいたものの、そのうちで無事成長して成人したのはたったひとりだった。それが家定である。そして正直なところ、その家定もまた、無事に成長したとはいいがたい所があった。彼は生まれつき病弱で、しかも人格のほうにもちょっと問題があった。父の後を継いで将軍になったとき、もう30歳になっていたのだが、その振る舞いは「鳥を追いかける」「銃の先につけた剣先で家臣を追い回す」など、総じて「児童のごとし」と称されるようなものだったの…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府12代・徳川家慶――幕政にかかわらなかった「そうせい」様 1793年~1853年

天保の改革――吉宗時代への回帰 幼名は敏次郎。幕府の衰退と外国からの圧迫にさらされた国難の時代の将軍ではあるが、性格は温厚であって積極的に幕政へかかわる人ではなかった。11代将軍・徳川家斉の次男として生まれ、1837年(天保8年)に将軍職を継承する。しばらくは大御所・家斉が実権を握ったため、彼の政治が始まったのは父の亡くなった1841年(天保12年)以降のことである。それ以前は将軍であるにもかかわらず幕政にかかわることができず、何をいわれても「そうせい」と返すしかなかったため…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府11代・徳川家斉――40人の側室、55人の子をもうけた好色家 1773年~1841年

寛政の改革――清すぎる水に魚は住めない 幼名は豊千代。将軍在職期間50年は代々の将軍の中でも飛び抜けて長く、その地位を退いた後も、大御所として実権を握った。家斉は御三卿・一橋家の治斉(はるさだ)の子として生まれ、1787年(天明7年)に15歳で将軍に就任した。それからしばらくは先代のころに権勢を誇った田沼意次の一派と、その失脚に奔走した松平定信の一派による勢力争いが続いたが、各地で打ちこわしが起こったことから田沼派が失脚。定信が老中首座に就任し、以後幕政の主導権を獲得する。 …

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府10代・徳川家治――田沼時代の将軍は無能か名君か 1737年~1786年

稀有壮大な器と期待されたが 家治の父である先代将軍・徳川家重は体が弱く政治にも興味がなかった。しかし家治は幼いころより利発で知られ、学問に励むとともに武術にも熱心だった。祖父・徳川吉宗も彼の将来に期待するところ大で、孫の教育には自らかかわった、という。たとえば、こんなエピソードがある。あるとき、彼が吉宗の前で「龍」の字を書いていた。しかし、紙にはもう文字が収まらない。周囲の心配をよそに、家治は最後の点を紙からはみ出して畳に落とした。その壮大さには、名君・吉宗も大いに感心したと…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府9代・徳川家重――言葉が通じず、政治にも興味なし 1711年~1761年

名君の子ではあったが…… 家重は父・吉宗がまだ紀伊藩主だったころに生まれた子であり、1745年(延享2年)に父から将軍職を譲られた際にはもう35歳になっていた。にもかかわらず、彼の治世の初期は吉宗が大御所として政治にかかわり、父が中風など病気によって健康を損なってからは老中・松平武元(まつだいら たけちか)や側用人・大岡忠光(おおおか ただみつ)などが中心となって幕政を取り仕切っていたという。後期には、この次代に活躍する田沼意次(たぬま おきつぐ)も頭角を現した。 なぜそうな…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府8代・徳川吉宗――幕府を大改革した、強運の将軍 1684年~1751年

トントン拍子の大出世 幼名は源六・新之助、初名は頼方(よりかた)。御三家のひとつ紀伊藩徳川家からさまざまな奇縁が絡み合ってついに将軍にまでなりおおせた強運の将軍。 吉宗の父は紀伊藩主・徳川光貞(とくがわ みつさだ)だが、母・於由利の方の素性については諸説あって不明だ。ただ、両親の出会いは「藩主が城の湯番の女に目をつけた」というものだったらしいから、彼女は下女だったはずだ。あまり美人ではなく体が大きかったといい、その血を継いだか吉宗も健康的で頑強な体の持ち主だったという。 彼の…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府7代・徳川家継――最年少将軍も、治世は続かず…… 1709年~1716年

「幼児将軍」の格を高めるために 幼名は世良田鍋松丸(せらた なべまつまる)で、「世良田」は徳川氏発祥の地に由来する(他の兄弟たちにも徳川氏のルーツである「新田」の姓が与えられた)。家宣には7人の子がいたが、そのうち誕生まもなく死ななかったのは家継ひとりで、しかも家宣が亡くなった際にはまだ3歳だった。3歳での就任は徳川将軍として最年少。そのような事情から、亡くなる直前の家宣が御三家の尾張徳川家に将軍を譲ろうと考えたが、新井白石(あらい はくせき)によって止められた。 白石として…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府6代・徳川家宣――短い治世ながら、英才を活用した名君 1662年~1712年

綱吉時代の払拭から始める 家宣の父は甲斐国甲府藩主で3代将軍・徳川家光の子である徳川綱重だ。父が正室と結婚する前に生まれた子なので隠し子とされ、家老・新見(しんみ)備中守正信の子「新見左近」として育った。ところが、結局綱重と正室の間に男子は生まれず、家宣の出自が明かされて将軍家を継ぐことになった。 家宣は生真面目で礼儀正しい人であったようだ。学問に熱心で、後述する新井白石(あらい はくせき)からさまざまなことを学んだが、その際はどんなに暑くても正装で臨み、扇で扇いで涼をとろう…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府5代・徳川綱吉――生類憐みの令を発した犬公方 1646年~1709年

治世の前半は善政・「天和の治(てんなのち)」 綱吉は3代将軍・徳川家光の四男であり、上野国館林藩に25万石を与えられた親藩大名であった。1680年(延宝8年)、そんな彼が将軍となったのは、兄・徳川家綱が子を残さずにこの世を去ったからだ。家綱時代に権勢を振るった大老・酒井忠清は徳川家の血筋がいくつも残っていたにもかかわらず、あえて後西天皇(ごさいてんのう)の皇子・幸仁親王(ゆきひとしんのう)を擁立しようとした、という。これに対し、綱吉を擁立する老中・堀田正俊(ほった まさとし)…

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