攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

本多忠勝 の検索結果:

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…王として名を轟かせる本多忠勝、榊原康政らを先鋒として諏訪原城を攻めました。徳川家臣のうち、諏訪原城周辺出身の従者を多く抱えていた鳥居元忠は、斥候※として進軍した際、武田軍から銃撃を受け、生涯歩行困難になったと伝わります。じつは、この徳川家康による諏訪原城攻めには、旧駿河・遠江の国主・今川氏真が徳川方の将として従軍していました。家康は、氏真を徳川軍の将として従軍させることで、自身の駿河・遠江支配は「旧国主のお墨付きを得ている」とアピールしていたのだと考えられます。 徳川軍による…

【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?

…とまで言い張ったが、本多忠勝に説得されて脱出を図ることになった。 この時、家康ら一行が伊賀を超えてのルートを選択したので、後世「神君伊賀越え」と呼ばれるようになったわけだが、上方から三河・遠江へ戻るルートは別に伊賀越えだけではない。東海道を通るなり、堺から海路で紀伊半島をぐるっと回るルートなりもあったろう。歴史において「どうしてこの選択肢を取らなかったか」を探るのは難しいが、大きな道については明智の追手や街道封鎖を恐れたのだろうと考えられる。海路についてはこの時期の堺は織田軍…

【家康の謎】徳川四天王は誰が決めたの?

…川四天王」といえば、本多忠勝・酒井忠次・榊原康政・井伊直政の4人である。「四天王」というのは仏教世界観の話で、持国天(じこくてん)・増長天(ぞうちょうてん)・広目天(こうもくてん)・多聞天(たもんてん)という東西南北=四方を守護する天(仏の一種)のことである。ここから転じて、なんらかのグループにおける傑出した4人の実力者のことを「四天王(○○四天王)」と呼ぶようになった。徳川四天王という名付けも、その流れを受けてのものである。しかしこの呼び名、戦国時代からあったのだろうか。 …

細川玉子さんによる「どうする家康 岡崎 大河ドラマ館」レポート

…能仕様の展示です! 本多忠勝 衣装 (複製品) スタッフ様と、平八郎様とても格好良いですよね、お衣装がボロボロな所も含め良いですよね、とお話も盛り上がりました😊 貴重な小道具も撮影可能とのことで、たくさん収めさせていただきました。 小道具を眺めておりますと、ドラマ内での場面が思い出されますね。さらに、実際に俳優の皆様がご着用されたお衣装の展示もあり、撮影も可能という大盤振る舞いでした! 瀬名 衣装 (蜂蜜色地むら染麻小袖に 宍色地むら染麻細帯) 織田信長 衣装 (真紅色絹朱子…

細川玉子さんによる「京田辺伊賀越えスタンプラリー」参加レポート

…さいませ。 家康様や本多忠勝様、穴山梅雪様のパネルや、家康様の甲冑も展示してあり、とても華やかでした。 京田辺市の歴史を知り、名所を巡ることも出来る、とても充実したスタンプラリーでした。 京田辺市観光協会 事務局次長 兼 観光案内所所長の、西川俊之様も、此度のスタンプラリーや伊賀越えのPRに、力を入れているとお話しになっていらっしゃいました。 これまでの大河ドラマでも、様々な描き方をされてきた、神君伊賀越え。「どうする家康」では、どのように描かれるのか楽しみですね! と、観光…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…結します。井伊直政や本多忠勝などの直臣も尾張に在陣し、駿府から清須までの東海道筋の諸城に兵を入れて守らせ、清須城を最前線の城としました。家康軍は遠国の外様大名、東海道筋の外様大名、徳川家臣団の3つのグループから構成されていましたが、外様大名はあくまでも豊臣の家臣であり、家康の家臣ではありませんでした。 一方の三成方は伊勢、美濃へ兵を進め、三成自身は大垣城に在城します。織田秀信の岐阜城、石川貞清の犬山城、竹ヶ鼻城を前線として軍勢が集結しました。このように尾張・美濃の境目で対陣し…

細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

…忠次様、榊原康政様、本多忠勝様、井伊直政様らを筆頭に、石川数正様や服部半蔵殿ら、総勢34名ほどしかおらず、このわずかな手勢で、この危機を逃れられるのか?明智軍は1万3000とも聞く、織田家と同盟国である徳川が狙われないわけがない!一揆の襲撃や、落ち武者狩りもある、これは逃げ切れない! と、京都の知恩院にて自刃も考えられたそうですが、本多忠勝様の説得により家康様は自刃を改め、三河国への帰還を決意されたそうです。(家康様は何度か自刃騒ぎをおこしています) そんな中、家康様たちとは…

【家康の謎】大高城の兵糧入れってそんなに大変だったの?

…のである。ちなみに、本多忠勝の初陣はこの戦いであるという。 家康と松平家臣団の活躍はまだ続く。もうひとつの任務として与えられていた丸根砦を落とすことについても成功し、さらに鷲津砦攻撃へも参加する八面六臂の働きぶりだった。この武勲と身を挺しての貢献が、家康の命を救うことになる。家康は義元に命じられて大高城へ入り、兵を休ませることになったのだ。この時、戦いは今川方有利で展開しており、もう大高城は前線ではなくなっていた。結果、家康は戦いの中心地から離れたまま、義元の死を聞くことにな…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…正に対し、酒井忠次や本多忠勝など強硬派が家中では圧倒的多数を占める →同じことが大坂の陣の片桐且元にも言える そもそもは家康が上洛しないから 秀吉との対決を覚悟して、岡崎城など領国内の城を改修する、軍制を武田家のものに改める、三河国衆の人質(妻子)は岡崎から浜松へ避難させる 11月、秀吉による家康成敗が計画された(翌年正月に実行予定) しかし11/29天正大地震により中止 三河より畿内・尾張・美濃・北陸など秀吉の勢力圏内の被害の方が甚大だった(三河では松平家忠が城普請を継続し…

【戦国軍師入門】本多正信――武断派に嫌われながら幕府を守った、家康の懐刀

…などと呼ばれた猛将・本多忠勝などと比べると、彼の徳川臣下としての経歴はかなり紆余曲折を経たものになっている。 その最大の原因は、正信が家康の部下でありながら、同時に熱心な一向宗(浄土真宗)門徒だったことだ。1563年(永禄6年)に三河(現在の愛知県東部)で一向一揆が勃発し、多くの一向宗門徒の臣下が家康に逆らって一揆に参加した時、正信もまたその中にいた。この一揆自体は翌年には鎮圧され、多くの臣下が家康の元に戻る中、彼はそのまま三河を出奔してしまった。正信は一揆勢の中で軍師を務め…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

…花宗茂の項で紹介した本多忠勝がいる。そして、定正系の代表こそが正信・正純親子である、といっていいだろう。 この正信もまたなかなかに数奇な運命をたどった人物である。彼は家康の幼い頃からの側近であったが、三河一向一揆では一揆側について、反乱鎮圧後に出奔。各地を渡り歩いた末に家康の元へ戻り、以後は謀臣としてさまざまな場面で活躍した、という。1582年(天正10年)に本能寺の変が起きて同盟者である織田信長が死んだ際、家康は京にいた。そのために苦労して伊賀を通過して本拠地へ戻ることにな…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…めたことがある。東は本多忠勝――徳川家康の下で50を超える戦いに参加し、1度も手傷を負わなかったという豪傑だ。これほどの男と並び称されたのは、その頃20代の若武者ながら、忠義の心と武勇の両方をそろって称えられた傑物――それこそが宗茂だ。 ちなみにこのふたりは秀吉によって引き合わされて意気投合し、年長者の忠勝がさまざまな話を聞かせるようになった、と伝わる。その中に「上の立場の人間は下の人間の短所がよくわかるが、だからといってそのまま責めてしまっては相手の逃げ場がなくなってよくな…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…本多正信・井伊直政・本多忠勝・平岩親吉・榊原康政ら重臣を集め、「後継者を誰にしたものか」と聞いた。能吏・本多正信は次男の秀康を推した。知略と武勇が理由であった。徳川四天王のひとり・井伊直政は四男の忠吉を推した。関ヶ原の戦いで活躍したことを挙げたのだろう。これに対して、大久保忠隣の挙げた名前が秀忠だった。 昔から秀忠に仕えてきた彼は、武勇を理由とするほかの候補者に対して「乱世なら確かに武勇が一番ですが、これからは平和な時代なので、必要なのは文の徳です。秀忠さまは文と武を兼ね備え…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…将としては酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の「徳川四天王」がおり、特に本多忠勝は50を超える戦いに挑んで一度も手傷を負わなかったという。もちろん、勇猛な武将だけでは天下は取れない。能吏・謀臣として知られる本多正信は三河一向一揆において家康に背き、その後多くのものたちが徳川家に戻ったのに長く放浪を続けた変り種であるが、家康とは深い信頼関係で結ばれ、息子・正純とともに活躍した。 一方、家康も彼らの信頼に応えていたことがよくわかるエピソードが『徳川実紀』にある。豊臣政権時代、…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…658)が徳川重臣・本多忠勝の娘の小松殿(稲姫)を正室として迎えている。与力大名を支配下に組み込むための常套手段であった。 沼田問題から秀吉の天下統一ヘ 真田氏関連ではもう一つ、片付けなければならない問題があった。北条氏と長年争ってきた沼田の所有問題である。1589年(天正17年)、秀吉の裁定の結果、沼田の3分の2を北条、名胡桃城(群馬県みなかみ町)を含む3分の1を真田が取ることになった。秀吉としては本来沼田をすべて北条側に渡すつもりであったようだが、昌幸が「名胡桃は先祖代々…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…ようになった虎松は、本多忠勝や榊原康政といった譜代の武将とともに徳川軍の先鋒を預かるようになり、やがてこの二人に酒井忠次を加えた四人が「徳川四天王」と呼ばれるようになっていくのだ。 あまりの家康による寵愛ぶりに、小瀬甫庵の『甫庵太閤記』をはじめとして家康・直政の男色関係を疑う声は強い。寵童が側近として出世するのは当時としては別に珍しいことではないが、特別な証拠があっての説ではないようだ。それよりも、煎本増夫の『幕藩体制成立史の研究』の説の方に説得力があるようだ。これは『井伊年…

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

…印刷) 発売日未定 本多忠勝ほんだただかつ 忠勝 岡崎城公園? 不明 不明 武将印 書置き(印刷) 発売日未定 榊原康政さかきばらやすまさ 康政 岡崎城公園? 不明 不明 武将印 書置き(印刷) 発売日未定 井伊直政いいなおまさ 直政 岡崎城公園? 不明 不明 武将印 書置き(印刷) 発売日未定 稲姫いなひめ 稲姫 岡崎城公園? 不明 不明 武将印 書置き(印刷) 発売日未定 織田信秀おだのぶひで 織田信秀 城山八幡宮(愛知県名古屋市) 神社・寺院 300円 御朱印 書置き(…

けっきょく江戸時代に藩はいくつあったのか

…。井伊直政が高崎藩、本多忠勝が大多喜藩といった具合ですね。 井伊家や本多家は江戸時代に入って彦根藩(正確には佐和山藩)や桑名藩に加増移封されますが、そのまま引きつづき同じ領地を藩主として支配した場合もあります。この場合、藩の成立は1590年(天正18年)なのか、あるいは江戸に入ってからちゃんと朱印状が発給されて記録として残っているのかがわかりません。今後ちゃんと調べていけばわかるのかもしれませんが、とりあえずこのケースでは1590年(天正18年)を立藩年として入れています。 …

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…井伊直政、伊勢桑名に本多忠勝という、譜代大名の中でも特に重鎮とされる2人が配置された。佐和山は関ヶ原の戦いにおいて西軍の旗印だった石田三成の本拠地である。豊臣家はまだ健在で、そちらへの備えが必要だった。豊臣政権の重要人物だった三成の居城を押さえ、東軍の勝利を知らしめる必要があったのだ。一方の桑名は東濃地方有数の商業都市で、木曾木材の集散地と東海道の宿場町を兼ね、堺や博多と並ぶほど発展していた。徳川家が全国支配の基礎を固めるためには必要不可欠な都市だった。 こうして徳川家は旧来…

武勇に彩られた本多忠勝の生涯

…徳川四天王のひとり・本多忠勝がいる。彼を賞賛する言葉や逸話は数多く、それは忠勝が戦場でいかに華々しい活躍をしたかを証明するものに他ならない。そこで、今回は本多忠勝の剛勇を示すエピソードと言葉をいくつか紹介したい。 代々松平家(のちの徳川家)に仕えてきた忠勝の初陣は13歳とほんの少年のときのことだが、その2年後のエピソードとして「手柄を譲ってくれようとした叔父を制し、手柄は自分で取るものと大言して敵へ突っ込むと、言葉通り武将首を持って帰ってきた」というものがあるため、この頃から…

舅を追い返した小松姫

…りに数えられる猛将・本多忠勝の娘で、上野に勢力を持つ真田氏に嫁入りしている。そのきっかけは徳川氏の真田氏が争ったことだった。このときに徳川氏は小勢力である真田に随分手を焼かされ、結局講和で戦いが終わる、ということがあった。その後、小松姫は家康の養女になったうえで、昌幸の長男である信之の妻になったのである。背景には、真田氏を危険視した家康の、婚姻政策によって身内に取り込もうという思惑があったのではないかと考えられる。当時としては珍しくない政略結婚だったが、夫婦仲は非常に仲睦まじ…

【戦国を彩る名軍師たち】本多正信と徳川家康の「水魚」関係

…四天王のひとりである本多忠勝がいる。彼と同じく、正信も若い頃から家康に仕えていたのだが――その徳川家臣としての経歴は突如として途絶える。三河一向一揆の武力反乱が起きた際、多くの徳川家臣が主君への忠誠と信仰心の間で揺れた末に後者を取って反乱に参加したのだが、正信もそのひとりだったのだ。一揆が鎮圧された後、正信はすぐには帰参せず、各地を放浪している。一向一揆の重要拠点である加賀にいたというから、よほど信仰心が強かったのだろうか。 その後、時期は不明だが家康のもとに戻った正信は(1…

マンガでわかる島津義弘

…で知られ、上杉謙信や本多忠勝、立花宗茂などと並んで最強武将のひとりでもありますが、このマンガは有名な「島津の退き口」のシーンからはじまります。「繰抜(くりぬき)」や「捨て奸(すてがまり)」などじっさいに用いられたとされる島津軍特有の戦法が紹介されていますので、勉強にもなりますね。 マンガの画像をクリックすると拡大サイズで読めます 初出:『歴史魂vol.6』(2012年3月) なお、なぜ「関ヶ原の戦い」において島津軍がわずか1500しかいなかったのかというと(1000や3000…

上田城 徳川氏の猛攻を二度も凌いだ堅城

…の長男・信之に重臣・本多忠勝の娘を嫁がせた。一方、昌幸は次男・幸村に豊臣秀吉の重臣・大谷吉継の娘が嫁いでいる。その結果、1600年(慶長5年)に起きた「関ヶ原の合戦」では、信之が東軍に、昌幸と幸村が西軍に属し、親子で争う事態となった。このときにも、真田氏は徳川氏とぶつかっている。 家康は東海道を辿って、決戦の地となる関ヶ原へと向かった。家康の息子・秀忠は3万数千の兵を率いて中山道を通って関ヶ原を目指す。その道中、秀忠は昌幸と幸村が籠る上田城から降伏の申し出があった。ところが待…

沼田市で開催中の「上州沼田真田丸展」を見にいってきました

…といい徳川家の重臣、本多忠勝の娘です。上田合戦で真田の軍略を恐れるとともに真田信幸を気に入った徳川家康が自分の養女にして、嫁がせたと言われています。療養のため江戸から草津に向かう途中、武蔵国鴻巣宿で亡くなると、信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したそうです。小松姫のお墓がある正覚寺から、利根川やJR上越線を眼下に見ることができます。 そのまま駐車場を抜けて、まっすぐ広い道まで出ます。 どうやらこっちが正規の入口のようです。 なので、滝坂の途中にあった階段をのぼって、そ…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…かれます。信幸は妻が本多忠勝の娘であるため東軍につくことになりますが、この家族会議「犬伏の別れ」のシーンも楽しみです。 蟄居生活 西軍についた信繁と昌幸は、高野山のふもと九度山で蟄居させられます。 家康は死罪にしたかったようですが、信幸と忠勝の取り成しで九度山への配流にとどめてもらいました。このやり取りも「沼田裁定」のときみたいな会話劇で描かれそうですね。 なお蟄居生活は14年にもわたるので、どのくらい細かくやるんでしょうね。 大助誕生 蟄居生活中に信繁の嫡男、真田幸昌が誕生…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

…て大坂に出仕。信幸、本多忠勝の娘で家康の養女となった稲(小松姫)を妻にする。 秀吉、九州平定。 1588年(天正16年) 22 1589年(天正17年) 23 秀吉の裁定により沼田領問題はひとまず解決。利根川を境に真田家と北条家で分割統治することに。北条氏家臣の猪俣邦憲が名胡桃城を攻略(名胡桃城奪取事件)。惣無事令違反として、秀吉は小田原出兵を宣言。信繁、この頃に秀吉の家臣に取り立てられる。 1590年(天正18年) 24 信繁、昌幸・信幸とともに「小田原征伐」に参加。松井田…

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