攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

江戸城 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】徳川家宣の時代 間部詮房

…は将軍の後継者として江戸城の二の丸に移るまでは甲斐国甲府藩主として江戸の桜田御殿にいたのだが、この時の家臣たちが家宣に付き従って江戸城に入り、直臣となったのである。綱吉が神田御殿から江戸城に入ったときとまったく同じ図式であるが、このときには綱吉のときのようなワンクッションはおかず、そのまま御目見以上だけでも数十人の甲府藩士が直臣になったようだ。 その中でも特に代表的な存在が、側用人として活躍した間部詮房(まなべ あきふさ)と新井白石(あらい はくせき)の両名である。このふたり…

【殿様の左遷栄転物語】第5章 地方から中央へ! 本社に栄転、成り上がる

…団の一部を引き連れて江戸城に入り、彼らを直臣として取り立てる、ということがしばしば見られるからである。 こうしたケースは江戸時代における数少ない陪臣からの出世ルートであったといえよう。現代でいえば「地方支社から中央の本社に栄転して、ついには専務にまで成り上がるようなもの」である。支社と本社ではまったく扱いが違うのだから、これは大変な栄誉だったろうが、それだけに苦労することも多かったに違いない。 初期政治をめぐる事情 徳川綱吉の時代 5代将軍・徳川綱吉は3代目の徳川家光の四男に…

【殿様の左遷栄転物語】柳川一件

…い。時の将軍・家光は江戸城内に柳川・宗の両者を召喚して対決させ、その結果を受けて裁定を下した――国書偽造の一件は柳川家の暴走によるものであり、宗家に罪はない、としたのである。調興は弘前藩預かりとなってしまい、独立の夢は破れたのである。 大きな力を持ち、かつ独自の拠点まで(それも、本拠地から海を隔てた場所に!)有した部下と、本拠地との縁が薄く、都会的な価値観を備えた上司。両者が並び立った時、衝突するのは自明の理といえる。このような衝突は古今東西どんな組織でも発生しうるものであり…

【殿様の左遷栄転物語】付家老の宿願ーー独立

…らが大名たちのように江戸城内に詰間(つめのま=待機場所)を与えられることはなく、公式記録にもあくまで「家老」としか記述されない。もちろん、老中に代表されるような公的な役職につくこともない――石高や血筋のことを考えれば、老中になってもおかしくない格の者もいるのに、である。 実際、幕末の混乱期に活躍した老中である安藤信正を輩出した磐城平藩安藤家は、紀伊藩付家老の祖である安藤直次の弟・重信から始まった家系である。つまり、直次の子孫のほうが嫡流なのに、傍流から老中が出てしまったわけだ…

【殿様の左遷栄転物語】無念の長府藩主 毛利秀元

…6年(寛永13年)、江戸城の普請役をめぐって、本家との間にトラブルが起きた時のことだ。この時、秀就は秀元に普請役の助役を命じたのだが、秀元は輝元の配慮によってそれは免除されていると命令を拒否。この時も幕府が間に入り、結果的に秀元が秀就の補佐役を辞退することを条件として、普請役の助役を免除するという形でおさまった。その以前から辞任の意思を見せていたので、秀元にとっては一石二鳥だったといえるかもしれない。 こうして秀就補佐の立場を退いた秀元は、以後、長府藩の藩政に専念して力を注ぐ…

【殿様の左遷栄転物語】「忠臣蔵」が同情を呼んで再興 赤穂藩浅野家

…4年)、上皇の特使が江戸城にやってくることになり、その接待役を命じられた長矩は幕府高家(各種の儀式を司る役職。主に名門武家がこの地位に置かれた)の吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしひさ)に典礼の指導を求めた。ところが義央はそれに対し、賄賂を求めてきたのである。長矩はそれを断ったために、両者の関係は著しく悪化した。このことで義央への恨みを募らせた長矩は、ついに江戸城中にて彼を斬りつけてしまう。すぐさま長矩は取り押さえられ、改易と切腹を命じられた、というのがまずは事件の第…

【殿様の左遷栄転物語】再興運動が展開された 徳山藩毛利家

…州藩に割り当てられた江戸城の普請について、秀就が就隆に手伝ってくれ、と頼んだことだとされる。これを「財政が厳しい」と就隆が断ったので、以後両者の関係が悪化し、兄弟の縁を切るにいたった、というわけだ。 これについては、もともとふたりの間にわだかまりがあった――江戸で暮らすことの多かった兄と本国で過ごした弟、生真面目な兄と自由奔放な弟、という育ちや性格の違いからすでに決裂にいたる要素があって、それがこの事件で爆発したのでは、という見方がある。 また、就隆は同じ支藩の藩主で親戚にあ…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

… 家康の死後、正純は江戸城に入って引き続き幕政に大きな発言力を持ち続けた。これは首相が代わって内閣もほとんど総入れ替えになったのに、官房長官だけは引き続き居座り続けるようなもので、もとから江戸城にいた同僚たちから敵視されるのはごくごく当たり前だった。 このように正純が軋轢を起こすのは、どうも父・正信にとっては予想済みであったらしい。というのも、遺言として「私の三万石を継ぐのはかまわないが、それ以上の所領を得てはいけない」と言い残しているからだ。彼らのような立場の人間が大きな所…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

…まり、外様大名たちに江戸城をはじめとする徳川家の城作りをさせるのは、彼らの力をそぐための幕府の政策であり、徳川家に従う以上はどうにもならない。この状態を脱出するためには幕府と戦うしかないが、そんなことはできるはずもない、勝てないのだから、諦めろ、というわけだ。この時期の幕府と大名の力関係がしのばれるエピソードといえよう。 だからといって、清正が豊臣家への忠誠心を捨てたわけでもなかった。1611年(慶長16年)には、やはり豊臣恩顧の大名である浅野幸長(秀吉正室・おねの義弟で五奉…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…大坂冬の陣において「江戸城留守居」を命じられ、実質的な人質になった。これは、豊臣恩顧大名の生き残りである正則を警戒し、戦場に登場させたくなかった幕府の思惑が働いたものと考えられる。 正則自身がこのことをどう思ったかはわからないが、豊臣家を救えないことに忸怩たるものを感じつつ、自らの家を守ることを優先したのではあるまいか。 福島家の命取りになった広島城 豊臣家は大坂城とともに滅んだが、豊臣恩顧大名である正則が幕府から危険視されている状況は変わらなかった。そして、福島家にとっての…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府15代・徳川慶喜――武家政権の最後を飾った英才 1837年~1913年

…勝海舟の会談によって江戸城の攻撃は免れ、慶喜は水戸で謹慎、ということになった。徳川家自体は、将軍就任時に対抗馬として名前が挙がった田安亀之助が「徳川家達(とくがわ いえさと)」として継承しているが、もちろん征夷大将軍ではもはやない。その後も江戸や東北諸藩には旧幕府側勢力が存在し、彼らと新政府が激突する戊辰戦争がしばらく続くことになる。それらの戦いに、慶喜はまったくかかわっていない。 その後の徳川家と慶喜 家達は新政府によって駿河に70万石を与えられ、これが廃藩置県まで続いた。…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府14代・徳川家茂――血筋で選ばれた貴族的将軍 1846年~1866年

…まじい生活は、和宮が江戸城において京風の生活をすることを許し、また「天皇の娘」である彼女のことをきちんと立ててあげた家茂の度量の大きさによる部分が大きいように思われる。家茂が将軍には珍しく側室を持たなかったのも、そうした器の大きさ、優しさの一面であろうか。しかし、過激な尊王攘夷論者の中には両者の結婚そのものを「不敬」と見るものもいて、1862年(文久2年)に和宮が降嫁する直前、これを主導した信正が襲撃を受け、命は助かったものの失脚してしまう。「坂下門外の変」である。 こうして…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府10代・徳川家治――田沼時代の将軍は無能か名君か 1737年~1786年

…」と話しかけられた。江戸城に住む将軍に隣人がいるわけはないから御三家や御三卿のことなのかと思えばあにはからんや、家治のいう隣は外国――中国、インド、朝鮮、オランダ(ヨーロッパ)のことだったのである。鎖国が定まって久しいこの時代にこれなのだから、その器の大きさと視野の広さは相当なものというべきだろう。 ――にもかかわらず、家治が幕政の第一線に立つことはなかった。初期は家重時代から引き続き松平武元(まつだいら たけちか)が実権を握り、やがて田沼意次がこれに代わった。いわゆる「田沼…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府5代・徳川綱吉――生類憐みの令を発した犬公方 1646年~1709年

…として死んでしまう。江戸城内で若年寄・稲葉正休(いなば まさやす)に襲われ、殺されてしまったのである。幕府の重鎮同士であり、また親族関係にあった彼らがなぜこのような事態に至ったのかは不明だ。 治世の後半は側用人政治 正俊を失った綱吉は、館林藩時代からの側近である牧野成貞(まきの なりさだ)を「側用人」という新設の役職に置いた。彼が政治の一線から退くと、同じく昔からそばにいた柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)を側用人とし、重用した。この側用人は将軍と老中の間の連絡役のようなもので…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府4代・徳川家綱――安定期の病弱将軍「左様せい様」 1641年~1680年

…ら、尋常ではない。振袖火事という別名は「病死した娘の振袖を寺で燃やして供養しようとしたら、その炎が燃え上がって火事の原因になった」という話からきているのだが、これはあくまで伝説であろう。この大火によって江戸城もすっかり焼けてしまい、特に天守閣は燃えたまま後々まで再建されることはなかった。これは保科正之が「今はもう戦乱の時代ではなく、天守閣を作り直しても役に立ちません」と進言したためだという。そのため、今は皇居となっている江戸城にある城風の建物は櫓であって、天守閣ではないのだ。

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府3代・徳川家光――江戸幕府を完成させた生来の将軍 1604年~1651年

…。これを受けた家康は江戸城に向かい、秀忠・お江夫婦に「竹千代を三代将軍にするべきだ」と伝え、これで家光の立場は安泰となった、というわけである。この際のエピソードとして、江戸城で2人の孫に対面した家康は家光を上段に座らせ忠長をはるか下に座らせ目に見える形で忠長とは差を付けて扱った。また菓子を渡す際にも家光へは自ら渡したが忠長にはせず、お付きの者に対しても家光側と忠長側ヘの扱いに差を付けさせた、というものが伝わっている。 家康がわざわざ口出しをしてまで年長の家光を立てたのは、泰平…

【歴代征夷大将軍総覧】徳川将軍――江戸時代

…特に別格の存在として「御三家」と呼ばれた。御三家はときに幕政へ介入するようなこともあり、また宗家が途絶えた際にはこの中から新たな将軍が選ばれたのである。 この御三家に準じる存在として江戸時代半ばに立てられたのが、8代将軍・徳川吉宗のふたりの子(田安・一橋家)と9代将軍・家重の子(清水家)の「御三卿」である。彼らは独立した藩というよりも将軍の身内という扱いで、江戸城内に屋敷を与えられ、領地も明確ではなかった。家臣には幕臣からの出向者が多く、家臣構成からみても特殊な存在であった。

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…家に分かれ江戸時代に入ったが、沼田真田家はのちに領内騒動で改易されている。松代藩は江戸城帝鑑間詰の譜代大名扱いで、とくに幕末に養子に入り家督を継いだ真田幸貫は、寛政の改革で知られる松平定信の実子であることもあってか、老中になっている。幸貫は洋学者・佐久間象山を登用するなど佐幕派のなかでも開明的だったが、彼の病没後に松代藩は迷走して尊王思想へと偏り、象山も京で尊攘過激派に暗殺されてしまう。結局、松代藩は早期に倒幕派へと与し、戊辰戦争でも新政府軍に参加した。 kojodan.jp

【江戸時代のお家騒動】米沢騒動 幕閣重鎮の後ろ盾でお家断絶を回避する

…が大火に見舞われたり江戸城の石垣普請を命じられたりと、藩財政を逼迫させる出来事が続いていた。その上で綱勝がこのような振る舞いをしたために、財政は苦しくなる一方だったのである。 ところがこの時期に、のちの上杉家を救うような出来事も起きている。綱勝の結婚だ。綱勝は、米沢藩に入る前年の1654年(承応3年)に、会津藩主・保科正之の娘である媛姫(はるひめ)を娶った。彼女は1658年(万治元年)に亡くなってしまうが、この結婚によってできた保科家との繋がりが、上杉家改易の危機において重要…

【江戸時代のお家騒動】生駒騒動 バカ殿様と家臣団の対立に幕府が絡む複雑怪奇な構図

…永12年)に生駒家が江戸城の普請を命じられたのが、ことの始まりだ。普請の依頼を命じられ、前野と石崎はその総奉行となった。ところが財政が逼迫していたために、普請を行うことができない。前野と石崎は相談し、江戸の富商から金を借りることで、金銭面の問題を解決することにした。 問題が生じたのは、その借金の返済を巡ってのことだった。前野と石崎は石清尾山の林を伐採し、それを借金の返済にあてようとした。ところがこの松林は、高松城の要害として伐採はおろか足を踏み入れることすら禁じられていたのだ…

【江戸時代のお家騒動】柳川一件 日朝を揺るがす前代未聞の「国書改竄事件」

…に尋問が行われた後、江戸城にて直接取り調べがなされ、裁定がくだされた。その結果、非があるとされたのは調興の方で、彼は弘前藩へと預けられることになったのである。 一方の義成は、罪に問われなかった。幕府の朝鮮に対する認識が充分でなかったこと、それにより宗氏が国書の改竄という手段をとらざるをえなかったことが、無罪となった理由である。しかしその他にも政治的要素が絡んでおり、幕府の創世期に家臣を罰することで主従支配の強化を図ろうとしたことや、柳川氏よりも中世から朝鮮との関わりが深い宗氏…

【お城の基礎講座】79. 江戸時代の築城

…、二条城の拡張工事、江戸城の増築工事などです。 現在の大阪城の堀や縄張は江戸時代になってから徳川幕府によってつくられたものだ 外様大名(とざまだいみょう)による築城 今までのものは外様大名への備えのための幕府としての築城でした。しかし一方で、外様大名による築城もいくつかあったようです。例えば、丹羽長重が寛永4年(1627年)から白河小峰城(しらかわこみねじょう)を建てました。また慶安元年(1648年)には浅野長政が赤穂城を着工しています。 丹羽長重によって建てられた白河小峰城…

【お城の基礎講座】76. 江戸時代・慶長期(けいちょうき)の築城ブーム

…普請の城としては、 江戸城 駿府城(すんぷじょう) 彦根城(ひこねじょう) 名古屋城(なごやじょう) 加納城(かのうじょう) 福井城(ふくいじょう) などがあります。 これらの多くは今でも城跡として残されており、近世城郭として我々は目にすることができます。 加納城跡(岐阜県)には当時の石垣が残されている 福井城跡(福井県)は天下普請で作られた城で、徳川家康の子・結城秀康の居城だ 彦根城跡(滋賀県)も天下普請で作られた城 駿府城跡(静岡県)は徳川家康の隠居城 名古屋城(愛知県)…

【お城の基礎講座】65. 枡形(ますがた)

…メディア: 単行本 江戸城の枡形。高麗門(左)と櫓門(右)が四角い空間に直角に配置されている 金沢城の枡形内。高い石垣と多門櫓に囲まれる 金沢城の枡形内。枡形内で右に折れ曲がった先には厳重な櫓門が構える 左折れと右折れ 枡形虎口には左折れと右折れというのがあります。虎口を厳重に守ろうとする場合は通路を折り曲げますが、枡形の場合も同じです。枡形は二つの門で厳重に守りますが、枡形内で敵が直進できないように二つの門を直角に配置するのが通例です。敵から見て右に折れ曲がる枡形、いわゆる…

【江戸時代のお家騒動】鍋島騒動「猫化け話」に象徴される龍造寺家の悲劇

…びつきを強め、さらに江戸城や駿府城の手伝い普請も命じられている。どんどん勢いを伸ばしていく鍋島家に、高房は家の再興を絶望的に思ったのだろう。そして起こったのが、冒頭の自殺未遂事件だったのだ。 隠し子発覚! 龍造寺家再興に乗り出すも…… 高房、そして政家の死による龍造寺家断絶後、龍造寺家一門が江戸に集められ、相続人について話し合いが行われた。一門の者は鍋島家の功績を認め、直茂はもう高齢であるとして、子の勝茂に龍造寺家の家督を相続させることを提案。これが認められ、鍋島佐賀藩が成立…

【お城の基礎講座】62. 石垣の仕上げ

…られなくなりました。江戸城の天守台や、名古屋城の天守台などで見ることができます。 すだれ仕上げ すだれ状の縦筋に削っていくのを「すだれ仕上げ」と言います。すだれ仕上げは現在でもはっきりと見ることができます。江戸城の石垣などがよく分かると思います。 隅石の化粧 石垣の隅の稜線(りょうせん)は特にきれいに仕上げられているものがあります。石垣の積みの稜線が石垣の頂上から一番下まで一本の線に見えるように仕上げてあります。デジタル技術がない当時においてこの加工の技術はとても高い高度な技…

【お城の基礎講座】61. 算木積(さんぎづみ)

…に伸びている算木積 江戸城の算木積。石の大きさ、加工の精度など、どれも天下に誇る技術だ。ここまでくると芸術に近い まとめ 石垣の隅部の積み方である算木積は、石の加工技術や積み方の発達とともに進化してきました。石垣の強化のために、隅部の強化は欠かせなかったのです。ということで、石垣の隅部の積み方・算木積みについてのお話でした。じゃあね🖐️ このコラムが毎日メールで受け取れます 以下のページからメールマガジン(無料)に登録すれば、このコラムの第1回からメールで読むことができます。…

【お城の基礎講座】60. 石垣・石の積み方による分類

…ができる方法です。 江戸城天守台の石垣はきれいな布積み 乱積み(らんづみ) 乱積み(らんづみ)は、逆に横目地が揃っていない積み方のことです。 乱積み 不規則な形の積石(つみいし)を積み上げていくと横目地が揃いません。適当に積み上げたように見えるのですが、実は非常に高度な技術が必要です。石の大きさや向きなども合わせて崩れにくいように積み上げていくのが難しいからです。 松坂城の石垣。乱積み 石垣の分類 石垣は石の加工による分類3種類と積み方による分類2種類を組み合わせると、およそ…

【江戸時代のお家騒動】宇都宮釣天井事件ーー秀忠派が長安事件の復讐を果たす?

…家康が亡くなり正純が江戸城に戻ってくると、当然ながら秀忠の重臣たちとの確執が生まれることになった。江戸側の政権において力を持っていた父の正信がいればまた違っていただろうが、彼は家康の後を追うようにして同年に亡くなっていたのである。 江戸での政治は重臣たちの合議制によって執り行われていたが、駿府での政治は正純が側近の筆頭として独裁的に執り行っていた。しかも秀忠に将軍職を譲ったとはいえ、大名統制の実権は家康が握っていたようなものだから、駿府において彼に次ぐ権力者であった正純の存在…

【お城の基礎講座】59. 石垣・積石の加工による分類

…半に広まりました。 江戸城石垣の切込接 積み石の加工と年代 石垣の加工としては、野面→打込接→切込接という順番で発展してきました。しかし野面だからといって必ずしも古いとは限りません。石垣の加工は石の種類や採石状況、経済状況などによって異なってくるからです。逆に切込接を見たら、新しい年代の石垣ということはわかりますね。 まとめ 石垣の加工方法による分類は、野面、打込接、切込接の3種類があります。それにより加工の年代が分かる場合とそうでない場合があります。石垣の加工方法に注目して…

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