攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

一向一揆 の検索結果:

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…證寺城 御城印 三河一向一揆 本證寺城(愛知県安城市) 本證寺、愛知県国際展示場 300円 印刷 A6 2023年3月18日 烏山城 御城印 烏山和紙版 烏山城(栃木県那須烏山市) 小森武夫酒店 350円 印刷 はがき大 2023年3月14日 大阪城 登閣証 通年販売版 大阪城(大阪府大阪市) 大阪城天守 300円 印刷 A6 2023年3月13日 高越城 御城印 高越城(岡山県井原市) 井原市観光協会事務局、井原市観光案内所、井原市文化財センター「古代まほろば館」 300円…

【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?

…三大危機」として三河一向一揆と三方ヶ原の戦いと並べられることになった。 本能寺の変が起きた時、家康は堺にいた。安土城の信長に挨拶をした後、上方を見物していたのである。わずかな供(34人とされるが、大名の正式な行動だから数千人の兵を引き連れていただろうとも)だけを連れて孤立した家康は一時、「ゆかりの知恩院(浄土宗)で切腹する」とまで言い張ったが、本多忠勝に説得されて脱出を図ることになった。 この時、家康ら一行が伊賀を超えてのルートを選択したので、後世「神君伊賀越え」と呼ばれるよ…

【家康の謎】家康は戦に強かったの?

…てしまうのも無理がある。家康は三河一向一揆によって家臣団が切り崩されても、そこから立て直すことができた。武田信玄や勝頼らに圧されても、ギリギリのところで領土を守り、最終的な逆転に繋げた。また、羽柴秀吉(豊臣秀吉)とは小牧・長久手の戦いで互角以上の戦いを演じ、それは豊臣政権における優位(ひいてはのちの天下取り)に繋がった。このように、家康は決して戦に弱い武将ではなかったろうが、「強かった」かどうかと言われると「歴史の彼方のことであってよくわからない」というのが正直な答えである。

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…戦国時代初期には加賀一向一揆によって一時的に越後へ追いやられ、またこの戦いに介入していた越後長尾氏が新川地域を領有。こういう流れの中で越中遊佐氏が弱体化し、椎名・神保が二大勢力化していく。【主に『下村史』】 ・この長尾氏ののちの姿である戦国大名・上杉氏が越中を圧迫し、越中守護代三家が戦国大名として強大化することはなかった(戦国大名にはなったとする資料も多い)。最終的にはまず椎名氏が上杉に与し、神保氏も武田と結んで対抗したがやがて内紛を起こす。その後、今度は椎名が武田に裏切って…

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

…た。 大草松平は三河一向一揆に加担したせいで一度所領を奪われてしまうが、松平康安(やすやす)の時に家康の嫡男・信康の家臣として復帰する。しかしこの家系は家光の弟・忠長付きになった際で連座して所領を没収されてしまい、今度は水戸徳川の家臣になるも最後には後継なく断絶ということになった。 五井松平は天正年間の関東入部の時に下総国印旛郡2000石、のちに5500石になって代々受け継いだ。 深溝松平は三河吉田藩3万石を与えられたあと、最後には肥前島原藩7万石になった。能見松平の本家は千…

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…事もあったものの三河一向一揆がひとまとめになっていたり、そのまま紹介しづらいなと思い、Amazonで「カラー版 徳川家康の生涯と全合戦の謎99」 (かみゆ歴史編集部、イースト新書Q)を購入しました。この巻末に「徳川家康 合戦リスト」が掲載されています。 カラー版 徳川家康の生涯と全合戦の謎99 (イースト新書Q) ちなみにこの表で計算するなら「51戦33勝11敗7分」になりました。ただ敗北にカウントされている「桶狭間の戦い」はあくまでも織田vs今川の合戦であり、家康(当時は松…

【家康の謎】家康の旗印にある「厭離穢土欣求浄土」の由来や意味は?

…こちらはいわゆる三河一向一揆の時の出来事であるという。これによると、登誉は一向一揆と戦う家康に自ら人々を率いて味方した、というのである。そして家康から貰った旗に「厭離穢土欣求浄土」と書いた。ここでの意味合いは「生を軽んじて死を幸いにする」ということであり、そもそもは一向一揆側が「進めば極楽、下がれば地獄」と言った意味のことを鎧に書いていたことに対抗するものであったらしいのだ。 どちらが本当であるかはわからない。しかし、戦国乱世に生きるだけに、人を殺し、自分も殺されるかもしれな…

【家康の合戦】桶狭間の戦い 家康の大きな転機となった戦い!

…から家康に改名。三河一向一揆が勃発するもこれを半年で制圧。さらには東三河に侵攻し、今川方の拠点である吉田城や田原城、牛久保城などを攻め取り、1565年(永禄8年)ごろまでに制圧して三河をほぼ平定することに成功したのです。 桶狭間の戦いの後、すぐに今川から独立したかのように語られることが多いですが、今川から独立して三河を平定するのにおよそ5年の年月がかかっています。今川と織田に挟まれた状態でどちらに組するべきかに奔走しながら、時間をかけて三河を手中に収めていったのが本当の姿なの…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…プチ炎上する) 三河一向一揆 ただし一向宗(浄土真宗)の中でも本願寺派の門徒に限られた(他の派閥は参加していない) 一揆の原因は2説あるがおそらく1のほう。わざわざ家康から争いを起こす理由がない 1)一向宗寺院への兵糧米の徴収=不入特権を侵害した 2)家康が水運など本願寺教団の既得権益に介入した 家臣団が二分されて戦うことに 本多正信を除き、基本的に各家の嫡流は家康方についた(これも一族内の下剋上か?) @一向一揆像の見直し 現在伝わる「死をも恐れぬ」といった過激派のイメージ…

【戦国軍師入門】本多正信――武断派に嫌われながら幕府を守った、家康の懐刀

…現在の愛知県東部)で一向一揆が勃発し、多くの一向宗門徒の臣下が家康に逆らって一揆に参加した時、正信もまたその中にいた。この一揆自体は翌年には鎮圧され、多くの臣下が家康の元に戻る中、彼はそのまま三河を出奔してしまった。正信は一揆勢の中で軍師を務めていたため、他の者と同じようには戻りにくかったのだろう。 その後、一向宗が「百姓の国」を実現していた加賀の国などを経て、正信は家康の元に帰還する。帰還の時期については諸説あり、1569年(永禄12年)もしくは1570年(永禄13年)とも…

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

…天正2年)の伊勢長嶋一向一揆討伐、1578年(天正6年)からの中国地方攻め、そして1582年(天正10年)の中国大返しと「山崎の戦い」、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」、そして1585年の四国征伐と、秀吉の配下として各地を転戦したのだ。 また、こうした連戦の中で信長の居城として有名な安土城の築城にも関わっていたのだから、彼が大変に重宝がられていたことがよくわかる。そんな正勝の働きは実際にはどんなものだったのだろうか? 元「野党の親分」というイメージからは、合戦や諜報…

【戦国軍師入門】朝倉教景――犬畜生と蔑まれても勝ちが大事

…」での勝利だったが、一向一揆勢との戦いのあとも、教景の活躍は続く。丹後(現在の京都府北部)に出陣して武田氏を救援し、近江(現在の滋賀)小谷へ出陣して六角氏と浅井氏の間を調停し、また当時の将軍・足利義晴の要請に従って上京し戦ったこともある。特に浅井氏とは関係が深くなり、朝倉家と浅井家は同盟を結ぶに至る。この関係がのちに浅井長政の信長に対する裏切りへとつながっていくわけだ。 しかし、1555年(天文24年)に一向一揆が再び蜂起すると、上杉謙信と協力して再び出陣し、連戦連勝で一揆勢…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台⑤――お市の方が殉じた城・北ノ庄城

…。信長は朝倉氏・越前一向一揆を滅ぼした後に勝家を北陸方面の司令官とし、越前を与える。この地方には朝倉氏の居城だった一乗谷城があったが勝家はそこに入らず、新たに北ノ庄へ平城を築いた。信長の安土城に勝るとも劣らぬ壮大な城であったと伝わるが現存せず、のちに結城秀康によって築かれた北ノ庄城(福井城)は勝家の城から北方へ200メートルほどの場所に築かれたらしい。 本能寺の変による織田信長の死後、勝家は羽柴(豊臣)秀吉との後継者争いを演じることになった。信長の妹を娶ることになったのも、そ…

【10大戦国大名の実力】斎藤家③――下剋上から滅亡まで

…の苦境に立たされると一向一揆とも連動して信長に戦いを挑んでいる。しかし、結局のところ龍興が信長に勝つ日は来なかった。越前の朝倉家のもとに身を寄せた龍興は、信長の越前侵攻に立ち向かうも、敗れて討ち死にしている。1573年(天正元年)のことであった。 地盤が弱いからこそ……? なんともはや、斎藤三代(もしくは四代)の生涯はそれぞれに劇的でドラマチックである。僧侶から身を興し、地盤を築き上げた新左衛門尉。それを引き継いで美濃一国を盗み取った道三。父殺しの汚名を着た義龍。国を追われた…

【10大戦国大名の実力】織田家⑥――天下人の資質とセルフプロデュース

…比叡山焼き打ちや長島一向一揆の皆殺しなどの虐殺エピソードも多い。火縄銃で暗殺を狙った犯人を鋸引きでじっくりと処刑した、なんて恐ろしい話もある。このイメージは現代もなお有効で、フィクションの類では時に「本物の魔王」として大暴れさえする(人気ゲームシリーズ『戦国無双』などでのオーラをまとった信長がその好例だ)。 その一方で、信長には「裏切られた男」というイメージも付きまとう。家督を継ぐと同時に父に従っていた勢力のほとんどは離反し、弟も謀反を企んだ。中央へ進出して多くの大名を傘下に…

【10大戦国大名の実力】上杉家②――長尾為景の成功と失敗

…ながお よしかげ)が一向一揆との戦いで戦死したことからその跡を継いだ為景は、翌年には越後守護・上杉房能(うえすぎ ふさよし)打倒の兵を挙げる。その原因は「房能が家臣の讒言を信じて為景を倒そうとしたので、為景が先手を打った」とも「房能の政治が苛酷であったため、これを止めるために為景は兵を挙げた」とも伝わるが、定かではない。父・能景の時代に房能がそれまでの慣例を無視して国人たちの領地を没収したことから、能景ら越後国人に不満が募っていたとされるため、そうした対立構造の結果としてこの…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

…側近であったが、三河一向一揆では一揆側について、反乱鎮圧後に出奔。各地を渡り歩いた末に家康の元へ戻り、以後は謀臣としてさまざまな場面で活躍した、という。1582年(天正10年)に本能寺の変が起きて同盟者である織田信長が死んだ際、家康は京にいた。そのために苦労して伊賀を通過して本拠地へ戻ることになり、これを「神君伊賀越え」というのだが、その背景には正信の奔走があった――などという話まであるのだ。 そんな正信が亡くなったのは1616年(元和2年)のこと。家康の死からわずか49日の…

【殿様の左遷栄転物語】名将の息子の愚かさが潰した 会津藩加藤家

…嘉明の父・教明が三河一向一揆に加担して徳川家康に反旗を翻したため、国を離れることになった。その後は将軍である足利義昭、そして秀吉へと主君を替えた。しかし秀吉の死後、徳川家康に急接近、関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦っている。 1627年(寛永4年)、陸奥国会津藩の藩主・蒲生忠郷が子のないままに死去したため、代わって嘉明が40万石を与えられ、会津に入ることになった。この地はかつて秀吉が五大老の1つである上杉家を配置し、また徳川家が家康の孫にあたる忠郷を配置したことからわかるように…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…)には三河で大規模な一向一揆が勃発し、この際には松平家臣団の半数が信仰上の理由から一揆側として挙兵したので、大変に苦労することになった。1572年(元亀3年)、武田軍がいわゆる「信長包囲網」の一員として攻勢に出た際には、信長の同盟者としてその攻撃の矢面に立たされ、三方ヶ原の戦いで散々に打ち破られてしまう。このとき、家康は明らかに劣勢でありながら無理に出陣して敗北してしまい、命からがら逃げ延びた際にその屈辱の姿を描かせて自らの戒めにした、という。ただ、家康が出陣した理由について…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府15代・足利義昭――信長に縛られた、最後の将軍 1537年~1597年

…げた。同時期に各地で一向一揆も起こり、情勢は大いに混乱した。これに対し、信長は使者を送り、義昭との和議を申し入れる。しかし義昭はこれをすんなりとは受け入れず、使者が到着してから5日が経過しても和議は一向に進む様子がなかった。そのために信長の使者が「和議を受け入れなければ京都を焼き払う」との脅しをかけるほどだった。 やがて1ヶ月が経ち、ついに信長が直接京まで足を運んだ。信長は義昭に、頭を剃り武器を捨てて謁見するとまで申し入れたが、これも聞き入れられず、ついに脅しを実行に移した。…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府9代・足利義尚――遠征の末に倒れた将軍 1465年~1489年

…奉公人による内紛や、一向一揆の平定のために戦線を離脱する者が現れるなど、さまざまなハプニングが重なって戦いは思うように進まなかった。 義尚は鈎に滞陣する間も、一般の政務に加えて和歌会や連歌会などを陣中で開催していたが、長期にわたる戦いに疲れが出たのか、次第に寝込むことが多くなっていった。何度か病気になっては回復を繰り返したものの、1488年(長享2年)にはついに重病を患い、陣中に医師を呼ばなければならないほどになった。 翌年、義尚は危篤状態に陥る。母の富子が鈎まで駆けつけたも…

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

…天正2年)の伊勢長島一向一揆攻めでは織田信雄の陣に加わっている。 そして、天正3年、破滅的事件が起きる。佐久間信盛が信長に「水野信元は信用できぬ」と報告したのだ。その根拠は水野氏の領民が美濃の遠山・岩村(ともに岐阜県恵那市など)の地に塩を送ったことだった。この頃、遠山や岩村は武田信玄の支配下にあり、織田と武田は激しくにらみ合う間柄だった。信長はこれに激怒した。そもそも、村木合戦の頃から信元の能力を疑間視していたらしいこと、また信元が「三方ヶ原の戦い」で勝ち目なしと見るや勝手に…

明智光秀と朝倉景鏡――あるいは誰のための裏切り?

…(天正2年)、越前は一向一揆の攻撃を受ける。もともと越前は長年にわたって隣接する加賀の一向宗と戦い続けていた。のちに、互い織田信長と戦っているという事情もあってか戦いをやめているが、信長の支配地域になったなら攻めるのは当然である。信鏡はたちまち危機に陥った。平泉寺とともに戦ったが敗れ、ついには自決へ追い込まれたのだった。 裏切り者としての彼を、光秀と比べるとどうだろうか。明確な違いは、裏切った原因が想像しやすいことだ。なぜ裏切ったのか諸説入り乱れる光秀と違い、景鏡(信鏡)は「…

【戦国軍師入門】九頭竜川大会戦――30倍の勢力差を逆転

…年(長享2年)の加賀一向一揆(一向宗の信者が起こした反乱のこと)で守護の富樫氏を追い出した本願寺は加賀を百姓の国とし、さらに他の国にも勢力を広げようと虎視眈々と狙っていたのだ。 こうした事情から、越前で一揆が起きると加賀、越中(現在の富山県)、能登(現在の石川県北部)の一向宗門徒たちが続々と越前の国に流れ込んで合流する。ここにかつて朝倉家に敗れた越前甲斐氏の残党まで参加し、軍勢は30万を超える規模にまで膨れあがったという。 これに対して朝倉軍の総大将となったのが教景だった。彼…

【戦国軍師入門】6.占い、勝利祈願をする軍師と、僧侶身分を活用した軍師

…、とするものがある。一向一揆を根絶やしにして本願寺を焼きつくした信長の背後に僧侶がいた、というのはなかなか興味深いものではないか。 M&Aを主導した戦国軍師 この連載の序盤で、戦国時代の武士勢力と現代の企業グループは似ているという話をした。そのことについて、ここで詳しく見ていきたいと思う。戦国大名の統治する国とは多数の豪族の集まりである。つまり、これは地場の中小企業が集まって地方組織を作っていると理解すればいいわけだ。 例えば、埼玉県の大名というのは、埼玉のいろいろな市町村に…

明智光秀と斎藤龍興ーーあるいは越前でニアミス?

…まず伊勢長島へ逃れ、一向一揆に加わった。敵手は美濃に次いで伊勢へ進出しようとしていた織田家だ。以後、龍興は各地を転々としながら生涯をかけて信長と戦い続けることになる。次に摂津へ逃れた龍興は三好三人衆と手を組んだ。このころの畿内では信長の支援を受けた足利義昭が反将軍勢力と戦っていたのである。やがて龍興は浅井家の元へ移った。浅井長政はじつは親戚関係(龍興の母・近江の方は長政の妹であるとされる)にあったので、その縁を頼ったのであろう。ここからさらに朝倉家に移り、信長と戦い続ける。 …

「細川幽斎『古今伝授』と『天下統一』」参加レポート

… 摂津、河内、大坂で一向一揆(百姓と武士の武力対立)と戦う中、古今伝授を受ける。 この頃の織田家はいわゆる包囲網状態にあり、四方に敵がいたので、京都西部を本拠としている藤孝は当然、大坂方面(=本願寺)との戦闘を求められます。その激動といっていい時期に、藤孝は古今伝授を受けているのです。これは代々一家で相伝されてきた三条西家において、三条西実枝(さねき)の子・公国が幼かったから、いったん藤孝に伝授して、のちに藤孝が子孫に伝授をおこなうという約束があったそうです。じっさいこの約束…

【戦国軍師入門】3.戦国大名以外の勢力

…に、加賀の国で起きた一向一揆は守護を追い出すほどに成功し、一向宗の国を作ってしまうほどだった。 しかし、こうした宗教団体の多くは、織田信長によって徹底的に滅ぼされてしまった。迷信深くて、仏相手には遠慮しがちな戦国大名が多かった中、信長は彼らも勢力のひとつととらえた。そして、武装している以上配慮をする必要はないと判定し、各地で虐殺を行ったのだ。 外国の存在も大きな影響を与えている。室町時代以前、日本にとっての海外といえば中国や朝鮮、それから当時は独立した国家だった琉球(沖縄)な…

明智光秀と山崎吉家ーーあるいは、越前時代に縁はありやなしや

…は朝倉氏の宿敵である一向一揆との戦いをはじめ、武将としても活躍したし、加えて外交官としての働きもめざましかった。一向一揆を追い詰めるためには越後国の上杉氏との関係が重要であるのだが、朝倉氏においてその外交を担当したのはもともと朝倉一族の重鎮・朝倉宗滴で、その死後には吉家に役目が受け継がれたのだ。ほかにも武田信玄との外交交渉も彼の担当になっているなど、家中における彼の重要度がよくわかる。 もちろん、織田信長との長年にわたる戦いでも吉家はたびたび出陣している。「金ヶ崎の戦い」で撤…

金沢城 武士が統治する証となった城

…佐久間盛政であった。一向一揆勢の拠点を奪った功によって、1580年(天正8年)に信長から加賀を任された。信長によって統治される前の加賀は「百姓の持ちたる国」と言われ、武士による統治は100年ぶりのことだった。 こうの | 三の丸広場から見た五十間長屋[金沢城] 加賀に浄土真宗が広まったのは、本願寺8代住持蓮如が加賀の国境に近い、越前吉崎で伝導を行ったためである。蓮如は元々、京都東山の本願寺にいたのだが、本願寺教団の勢力が大きくなったため危険視した山門延暦寺と抗争している。山門…

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