攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

上杉謙信 の検索結果:

攻城団テレビで「家康はなぜ名字を松平から徳川に変えたのか」という話をしました

…りましたが、たとえば上杉謙信ももとは長尾ですし、ほかにも名字を変えた戦国大名・戦国武将はたくさんいます。現代では結婚や養子縁組などかぎられた機会でしか名字が変わることはありませんが、この時代の人たちにとって名字が持つ意味とか役割を知りたくて、榎本先生に教えていただきました。アフタートークを含めると2時間を超える動画になっていますが、少しずつでもご覧いただけるとうれしいです。 www.youtube.com 氏名と家名 そもそも名字が生まれた歴史についてのおさらいから。氏姓制度…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…定した家康は、越後の上杉謙信と同盟を結びました。宿敵である謙信と家康の同盟を知った信玄は、1571年(元亀2年)に徳川領への侵攻を開始し、両氏は約10年にわたり戦闘を繰り広げます。 1572年(元亀3年)の三方ヶ原の戦いで、信玄は家康に圧勝しますが、1573年(元亀4年)に病により急死してしまいます。信玄の跡を継ぎ、武田家新当主に就任した勝頼は、父・信玄の遺志を継ぎ、徳川領への侵攻を継続しました。1573年(天正元年)、徳川領である遠江へ侵攻するための戦闘拠点として、勝頼が大…

【家康の謎】家康が信仰していたのは何宗?

…田明神へ参詣したし、上杉謙信は毘沙門天を信仰するあまり自らをその化身と信じるに至った。謙信自身やそのライバル・武田信玄をはじめとして出家後の名前で広く知られている武将・大名も多い(それぞれの出家前の名は「上杉(長尾)景虎」と「武田晴信」)。また、この頃には「天道(てんどう)」と呼ばれる、世界の摂理を司どる存在も広く信仰されていたようだ。 では、家康はどんな宗教を信仰していたのだろうか。松平氏の菩提寺は今でも愛知県岡崎市にある成道山松安院・大樹寺(だいじゅじ)だ。この寺は当然仏…

【家康の謎】家康は桶狭間の戦いのあと、なぜ駿府に戻らなかったの?

…三国同盟履行のため、上杉謙信と戦う武田や北条への支援に力を割く必要があり、西三河へ援軍を送ることができなかった。孤立した家康はすでに織田と結んでいた伯父・水野信元の縁も辿って織田信長と外交交渉をはじめ、おそらく1561年(永禄4年)には織田との同盟を成立させたものと考えられる。これは当然、主君であった今川との断絶を意味していた。 なお、通説では翌年(永禄5年)に尾張の清洲城で家康と信長による直接会談が行われて同盟が成立したとされているが、これは後世の創作であり、同盟の時期はよ…

【家康の合戦】三方ヶ原の戦い 家康惨敗!信玄にコテンパンにやられた戦い

…元年)に家康は越後の上杉謙信と同盟を結んで武田との対立をあらわにします。そして、信玄の遠江侵攻へとつながっていくのです。 しかしそれほど簡単な話ではなく、もっと複雑な事情があります。つまり、武田を取り巻く状況の変化です。信玄の宿敵である上杉謙信と北条氏政が1569年(永禄12年)に越相同盟を、織田信長と上杉謙信が1572年(元亀3年)に濃越同盟を、そして織田信長と徳川家康が同盟関係になりました。このように刻一刻と状況が変化していくなかで、上杉謙信と同盟を結んだ徳川に白羽の矢が…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…元の娘) 今川氏真は上杉謙信との同盟を模索 家康は今川と武田が同盟を維持している間は攻められなくなった(織田の同盟相手の同盟相手なので) 12月、信玄の駿河侵攻にあわせて家康も遠江に侵攻。この背景には密約があったと考えられている おそらく織田武田同盟の流れで交渉と了解があったのではないか 12月を選んだのは謙信が出陣できないから 信玄の駿河侵攻は当初は順調だったが、北条が援軍を送ったため撤退 家康の遠江侵攻は順調に進み、井伊谷三人衆や高天神城の小笠原氏などを服属させた さらに…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…できたのも武田信玄や上杉謙信が病死したからですよね。徳川家康が天下人になれたのも運によるところが大きいと思います。「成功する上で重要なのは才能よりも運である」というような発表が今年のイグノーベル賞でされていましたが、歴史がそれを証明していると思います。 あと個人的には榎本先生がおっしゃった姉川の戦いは家康の活躍をアピールするために盛られてる?(じっさいはそこまで大規模合戦ではない?)という指摘が印象的でした。このあたりもいわゆる徳川史観に引っ張られてしまっている部分もあると思…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…紛から実権を奪われ、上杉謙信に攻められ滅亡している。ただ、生き残った血筋がやはり高家になっている。→奥州管領になった後没落した東北の畠山氏の流れが、国衆としては残って二本松氏になった。この家は伊達政宗によって滅ぼされている。 赤松氏 ・赤松氏は六代将軍・足利義教を暗殺した嘉吉の乱後一度再興したが、戦国時代には浦上氏に勢力を乗っ取られた。本流は秀吉に保護されたが跡継ぎなく絶え、庶流(播磨龍野城主から但馬竹田城主に)の赤松広通(ひろみち)も関ヶ原で西軍について滅んだ。→赤松の庶流…

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

軍神・上杉謙信の跡を継いだ上杉景勝は、最大で120万石にも達する所領を治めた大大名だ。この時、4分の1にあたる30万石を領していた家臣がいた。それが文武兼備の智将と讚えられた直江兼続(なおえ かねつぐ)である。この人は兜の前立てに「愛」の1文字をあしらっていたことでも有名だ。 兼続は景勝を支えて軍事・内政・外交といった各分野で活躍し、豊臣秀吉からは「天下の器」と絶賛された。一方で当代一流の文化人であると同時に蔵書家としても知られ、さらに秀吉の側近・石田三成や、前田利益(慶次郎…

【戦国軍師入門】宇佐美定満――軍神・謙信に兵法を授けた謎の軍師

…のひとりに数えられる上杉謙信の軍師にして越後流軍学の祖……だが、まずはその前に定満本人について見ていこう。 宇佐美定満は元々、父の房忠(ふさただ)とともに越前(現在の福井県の一部)守護の上杉家に仕える武将だった。上杉家と越後(現在の新潟県の一部)守護代の長尾為景(ながお ためかげ。謙信の父)の間が険悪になると為景と戦い、父は壮絶な自刃を遂げるが、彼は長尾家に仕えるようになる。 為景の死後、長尾景虎(謙信のこと)が家督を継ぐと、1551年(天文20年)に一族の長尾政景(ながお …

【戦国軍師入門】朝倉教景――犬畜生と蔑まれても勝ちが大事

…揆が再び蜂起すると、上杉謙信と協力して再び出陣し、連戦連勝で一揆勢数千を討伐するも陣中で病に倒れる。どうにか本拠地の一乗谷に戻るが結局快復することはなく、ついに死去するのだった。この時に朝倉家は義景の時代だったが、結局朝倉家そのものも、義景の代で滅びてしまう。 朝倉を滅亡させたのは織田信長だが、ある伝承には教景が臨終の床で信長のその後の活躍を予言した、とある。おそらく後に朝倉が織田に滅ぼされたことから創作された話なのだろうが、逆に言えば彼はそのくらい先見の明がある人物と見られ…

【戦国軍師入門】真田幸隆――謀略に長けた「攻め弾正」

…、敗れた義清が越後の上杉謙信を頼ったため、信玄と謙信はその後何度も川中島において戦うことになる。幸隆は上杉家との最前線で戦い続け、1556年(弘治2年)には信濃尼巌城(あまかざりじょう)を攻略し、小山田昌行とともに城番を務める。また、「啄木鳥戦法」や信玄と謙信の一騎打ちで世に名高い「第4次川中島の戦い」にも出陣し、この時は別働隊に参加した。 「第4次川中島の戦い」のあと信濃北部の戦況が落ち着くと、信玄は上野吾妻郷の斎藤憲弘(さいとう のりひろ)という武将を攻撃する。この場所が…

【戦国軍師入門】山本勘助――すべてが謎に満ちたオカルト軍師

…、実際には武田信玄と上杉謙信は何度も千曲川(ちくまがわ)と犀川(さいがわ)とが合流する三角地帯・信濃の川中島で戦っており、そのうち「啄木鳥(きつつき)作戦」や信玄と謙信の一騎打ちで有名なのが1561年(永禄4年)に行われた「第4次川中島の戦い」だ。 この時謙信は妻女山(さいじょさん)に籠もり、信玄は海津城に入った。この時、勘助が考案したのが「啄木鳥作戦」だ。彼は2万の軍勢のうち1万3千に妻女山の上杉軍を攻めさせれば、勝敗にかかわらず敵は山を下りて川を越えるだろうから、そこを8…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話③――「爆発炎上」した城?・信貴山城

…77年(天正5年)に上杉謙信の侵攻に呼応して挙兵した際には、さすがにそうはいかなかった。信貴山城に籠もった久秀は、瞬く間に織田軍に包囲され、追い詰められる。この際、信長からは「秘蔵の茶器・平蜘蛛の茶釜を差し出せば許してやる」という連絡があった。しかし、久秀はこれを受け入れない。 それどころか、茶釜ごと、そして自分ごと城を爆破・炎上させるというすさまじい最期を遂げて見せたというのだ。なんとも壮絶な幕切れである。残念ながら、近年ではこの説は信憑性が薄いと見られ、久秀は切腹したとさ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話②――秀吉の一夜城(その2)・石垣山城

…せた。しかし、かつて上杉謙信・武田信玄の攻撃を撥ね返したこの城が堅固なことは当然知っており、長期戦になるだろうとあらかじめ読んでいた。 そこで秀吉は、小田原城の西方に位置する丘に陣城を築くよう命じた――それが石垣山城であるわけだが、これは先の墨俣城のようなにわか作りのものでは断じてなかった。複数の曲輪と穴太衆による石垣を備えた、立派な城である。この城を80日余で仕上げたというのだから、すさまじい突貫工事である……塀や壁に紙を貼って白壁に見せかけた、といったある種のペテンはあっ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑩――内部分裂で落ちた城・七尾城

…も彼らは織田信長派と上杉謙信派に分かれており、中でも専横が目立っていた信長派の長氏(ちょう し)は、他の重臣たちから反感を持たれていた。このような状態の七尾城を狙って、1578年(天正4年)に上杉謙信が越後より侵攻してくる。最初は能登畠山氏との同盟を持ちかけてきたのだが、長氏がこれを拒否したことから、城は上杉軍に包囲されることになった。 上杉軍は七尾城の南方に本陣を置いて七尾城を囲んだが、4ヶ月包囲し続けても城は落ちず、謙信は一旦軍をひく。翌年、上杉軍は再び七尾城攻略のために…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑨――武田信玄に苦汁をなめさせ、内応であっさりと落ちた城・砥石城

…田方の武将である真田幸隆(さなだ ゆきたか=幸綱)が留守を守る武将に接近、寝返らせたのだという。信玄ほどの大名を退けた城が戦わずして落ちるのだから、運命というのはわからないものだ。 砥石城の落城をきっかけとして、村上氏は衰退の道をたどった。家臣団に次々と寝返られてしまった義清は翌年に葛尾城も放棄して、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後へ下ることになる。これがまた信玄と謙信の長年にわたる戦い、「川中島の戦い」のきっかけとなるのだが、それはまた別の物語である。 kojodan.jp

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく②――名将の死で落ちた城・箕輪城

…には越後の長尾景虎(上杉謙信)が上杉氏を継承し、たびたび関東に進出していたため、その援軍を期待したのである。 武田軍はまず、箕輪城の周囲に築かれた砦や支城を落としていき、それが終わると箕輪城を取り囲んで総攻撃を開始。しかし城の守りは堅固で、なかなか落とすことができない。箕輪城方としては上杉氏から援軍が送られてくることを信じて耐えたものの、3日目になっても助けが来る気配はなかった。援軍が来ないことを知ると、業盛はこの戦いに勝ち目はないと悟り、一族で自刃。信玄に苦戦を強い続けた箕…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく①――「力の差」に圧倒された城・小田原城

…山城にも兵を集めた。上杉謙信や武田信玄を撃退した時のように、今回も籠城戦で対抗する作戦であった。しかし豊臣方の軍勢はあっという間に小田原城を取り囲んだ。持久戦に持ち込まれる中、城内では抗戦と和睦で意見が分かれ、いつまでも終わらない評定に、次第に城内の戦意は失われていき、兵糧も尽きてきた。余談だが、この時の評定の様子から「小田原評定」という、長引いてなかなか結論の出ない会議を意味する熟語ができた。 これで立て籠もり続けることによって情勢の変化が起こればまだよかったのだが、豊臣方…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑥――武田信玄・上杉謙信を撥ね除けた城・小田原城

大規模な後詰のあてがなくても、攻城側がもう戦えない状況になるまで持ちこたえてしまえば、それは籠城側の勝ちとなる。北条氏の居城・小田原城はその形で二人の大大名の攻撃を撥ね返した天下の名城である。かつての相模の小田原城、今も神奈川県小田原市に残るこの城の歴史はなかなか古い。1180年(治承4年)に小早川遠平(こばやかわ とおひら)という早川荘の地頭となった武将が築城したのが始まりだといわれている。戦国時代の黎明期、1495年(明応4年)には北条早雲が当時この城を居城としていた大森…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ①――夜襲で決着した「後詰決戦」・ 河越城(川越城)

…方陣地に突入する。これに呼応して河越城内の兵も一気に攻めに出た。激しい戦いの結果、数に劣る北条軍は10倍を超える関東連合軍を撃ち破ったのである。この戦いで当主が討ち死にした扇谷上杉氏は減亡し、堀越公方も完全に北条氏の支配下に収められてしまうことになった。そして、連合軍の中心であった山内上杉氏も勢いを失ってこの数年後には居城を奪われ、憲政は越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って落ち延びることになった。河越夜戦は関東地方の命運を決める一戦となったのである。 kojodan.jp

【10大戦国大名の実力】毛利家④――元就の死後

…利義昭の要請に応じ、上杉謙信や石山本願寺と足並みを合わせての包囲網形成をはかる。毛利氏と織田軍の中国方面司令官・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の戦いは、ここから6年にわたって続いた。毛利軍は元春・隆景の「両川」が指揮をとり、各地の要害に籠もって秀吉軍の攻撃を撥ね返そうとしたがしだいに押し込まれ、備中の高松城も危機に陥った。 他の反信長勢力に目をやれば、上杉謙信は織田軍を破るも病に倒れ、石山本願寺は毛利水軍による補給を受けるも、その水軍が織田の鉄甲船に敗れたことなどもあって窮地に追…

【10大戦国大名の実力】武田家④――源氏の名門のプライド

…乱」への介入である。上杉謙信の死後に景勝・景虎という二人の養子によってその後継者の座が争われた際、勝頼は同盟者だった北条氏政の要請を受けて景虎に味方していた。だが、のちに景勝側に寝返ったことから、北条氏との同盟を決裂させる。結果として、三方向から攻撃を受けることになった勝頼は遠江の領地を失い、駿河や上野でも北条氏の圧迫によって領地の維持が難しくなった。 そして1582年(天正10年)、いよいよ武田氏を取り巻く状況は悪化する。一門衆の木曾義昌や穴山信君といった重臣たちが次々と裏…

【10大戦国大名の実力】武田家③――クーデターにより家督を継承した信玄

…である。北には宿敵・上杉謙信と五度にわたる川中島の戦いを繰り広げ、謙信の信濃進出を防ぐ。南では北条氏康・今川義元といった名だたる大大名たちと丁々発止のやり取りを繰り広げた末、甲相駿三国同盟を結んで安全を確保した。そうかと思いきや、義元が織田信長に敗れて今川家がその勢力を減じるとこの同盟を破り、新興勢力の徳川家康と手を結んで侵略し、駿河を手に入れる。また、これに加えて西上野・飛騨・東美濃といった地域も手に入れており、その勢力はさらに巨大なものとなっていった。 そして1572年(…

【10大戦国大名の実力】北条家⑤――小田原評定の行方

…。北条側としては先の上杉謙信による関東遠征の際のように兵糧切れを期待したかっただろうが、秀吉はその莫大な経済力によって物資も充実させており、かつ兵農分離によって農業の時期に左右されず長期間遠征できる軍勢を調えていた。 一方の北条軍は兵農分離が済んでおらず、また物資や士気の問題からも長期の籠城に耐えきれない事態に追い込まれてしまった。また、土地に根付いた組織力を築くということは、裏面から見れば官僚化を招き、不意の事態・許容量を超える事態への適応力を失うということでもある。北条家…

【10大戦国大名の実力】北条家④――関東に覇権を築いた氏康の時代

…後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って逃げ延びた。また、氏康は古河公方・足利晴氏(あしかが はるうじ)に圧力をかけてその子の義氏(晴氏と氏綱の娘のあいだにできた子)に代替わりをさせ、これも手中に収めた。まだ北関東・常陸の佐竹氏や房総半島・安房の里見氏などが残ってはいたが、この氏康の時期に関東はほぼ北条家の手に落ちたといえる。 武田・今川・上杉との複雑な因縁 氏康の代には甲相駿三国同盟が締結された。甲斐の武田信玄・駿河の今川義元、そして相模の北条氏康は以前から何度も各地で合戦と…

【10大戦国大名の実力】上杉家④――謙信は神がかりか

…かな戦国大名としての上杉謙信の素顔が見えてくる。そして、謙信が一方で神がかりな側面を見せつつ、もう一方で現実的な戦国大名として振る舞わねばならなかった理由――それがなかなか従わなかった国人たちの存在であるとすると、パズルのピースがぴったりはまるのである。 経済に明るい軍神 意外かもしれないが、謙信は財政面にも積極的だった。そもそも当たり前の話として、財政的に豊かでなければ五回の信濃遠征と十数回の関東遠征などできるはずがない。さらに謙信は二度にわたって上洛し、その際に将軍や寺社…

【10大戦国大名の実力】上杉家③――関東出兵の目的は?

上杉謙信、周辺大名を脅かす 為景の跡を継いだのは嫡男の晴景だったが、彼は病弱で混乱する越後を治める力がなかったようだ。そこで浮上してくるのが弟の長尾景虎――のちの上杉謙信である(本コラムでは謙信で統一)。国人反乱の鎮圧などで武名を上げた彼は次第に兄と対立するようになるが、守護・上杉定実(うえすぎ さだざね)の仲介によって兄の養子となり、居城・春日山城に入って長尾家の家督を継ぐことになる。 定実が死んで越後上杉家が断絶した後に幕府の承認を得て守護と同格の地位を獲得した謙信は、さ…

【10大戦国大名の実力】上杉家①――カリスマの功罪

軍神か? 人か? 上杉謙信という戦国大名のイメージを簡潔に言い表そうとすれば、「神がかり的な戦の天才」となるだろうか。その意味で、「軍神」という異名は完全に的を射ているように思える。 このあたりは近年のフイクションに登場する「上杉謙信」の姿に顕著だ。たとえばコーエーのゲーム『戦国無双』に登場する謙信は「闘争」という独自の価値観に従って戦い続けるバトルマシーンのように描かれている。同じ戦国時代を題材にしたゲームであるカプコンの『戦国BASARA』においては謙信は性別不詳の美形で…

【10大戦国大名の実力】佐竹家②――戦国大名・佐竹家として

…座を受け継いだ越後の上杉謙信が1561年(永禄4年)頃よりたびたび関東遠征を繰り返す。関東は謙信と氏康の対決の場となっていたのである。義昭はこの謙信の力を借りて小田氏を圧迫した。一度はせっかく攻め取った本拠地の小田城を奪い返されることもあったが、謙信が再び関東へやってくると再奪還し、以後は小田氏を抑え込んだ。佐竹家の勢力は常陸南部にまで及んだのである。義昭の勢力拡大はこれに留まらず、北に向いては金山をめぐって衝突のあった陸奥の白河結城氏を圧迫している。 「鬼義重」の活躍と苦難…

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