攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

外様 の検索結果:

【家康の謎】三河譜代ってなに?

…親藩大名、譜代大名、外様大名だ。このうち、親藩大名はざっくりいえば家康の「親」族、すなわち徳川一族の大名だから明確に別物である。 一方、譜代大名と外様大名は家康(ひいては歴代徳川将軍の)家臣という意味では同じだ。違いは「いつから徳川家に仕えていたか」にある。これもざっくり言ってしまえば、関ヶ原「以前」が譜代で、関ヶ原「以後」が外様である。つまり、天下人になる前の戦国大名・織田大名・豊臣大名だった頃から家康を支えていたのが譜代大名で、関ヶ原の戦いに勝利して江戸幕府を開き天下人に…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場-

…主・松前崇広 のちに外様の身でありながら幕府老中・陸海軍総裁を務めるまでになる崇広ですが、その初仕事が本拠地・福山館の福山城(松前城)への改築でした。これは、開府以来200数十年に渡り無城大名に甘んじてきた松前藩にとって未曾有の快挙でした。 kojodan.jp 崇広はこれと並行して、弾薬の5ヶ年計画での増産・備蓄、砲類の材料となる金属の買上と備蓄、台場群の改修、諸武芸の振興などの海防強化策を推進(『湯浅此治日記』などに遺る当時布達群より)。さらにその一環として、藤原重太(ふ…

【家康の謎】家康は倹約家だったの?

…幕政にかかわらせない外様大名は所領を大きくして不満を持たせない)とも考えられる。 とはいえ、同時代やその少し後を生きた人々が、家康のことを倹約家と考えていたのは間違いない。例えば、座敷で相撲をするということになった際、家康はわざわざ畳を裏返しにさせた。なぜかというと、表にしたままだと畳が痛むからである(『駿河土産』)。また、厩が壊れたから建て替えようと家臣に言われた際には「その方が馬が強くなるからやめろ」と言ったという(『明良洪範』)。 同時に、家康はただのケチではないと考え…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…国中北条一門が30、外様御家人22、守護不設置5。この中で頼朝以来になるとさらに減って、足利や千葉、佐々木、大友、島津など八氏十国。→この時代の守護はその地域の軍事を統括する役職であり、行政面ではともかく軍事面では大きな力を持っていた。北条が独占にかかったのもそのためでは? ・建武年間の守護はどんなものだったのか?→時期が短いこともあって詳しいことはよくわからないが、足利尊氏や新田義貞、楠木正成といった鎌倉幕府打倒で活躍した有力武士に守護職を与える(北条氏の所領を分け与える、…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…した。家康軍は遠国の外様大名、東海道筋の外様大名、徳川家臣団の3つのグループから構成されていましたが、外様大名はあくまでも豊臣の家臣であり、家康の家臣ではありませんでした。 一方の三成方は伊勢、美濃へ兵を進め、三成自身は大垣城に在城します。織田秀信の岐阜城、石川貞清の犬山城、竹ヶ鼻城を前線として軍勢が集結しました。このように尾張・美濃の境目で対陣したのが、関ヶ原の戦いの始まりです。しかし、このとき家康は井伊直政や本多忠勝を軍目付として派兵してはいますが、まだ江戸にいて動きを見…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…拶に下向していた ・外様大名に課された御手伝普請が免除されていた →徳川幕府として扱いに困っていた 朝廷との関係が切れていない以上、関白秀頼の可能性は十分残されていた →滅亡させるかはさておき、大坂城から退去させて並の外様大名にしておきたい 1614年(慶長19年)、73歳 方広寺鐘銘事件。呪詛の意図はなかったにせよ、事前に相談し承認を得なかった豊臣方の落ち度 福島正則、黒田長政、加藤嘉明は江戸に留置 1611年(慶長16年)に加藤清正死去、1613年(慶長18年)に浅野幸長…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…正、福島正則らの西国外様大名28家に石垣に用いる石材調達を命じます。石材は伊豆半島や相模湾沿岸の地域から運び込まれました。このような分担による工事は名古屋城築城にも引き継がれる国家プロジェクトで、公儀普請のシステムとなったのです。本丸の工事は1606年(慶長11年)から開始され、1611年(慶長16年)には西の丸の石垣工事が実施されました。縄張りは築城の名手と言われた藤堂高虎です。高虎は家康の信頼が厚く、これまでに天下普請の近江膳所城や家康在城の伏見城の再建などを担当してきま…

徳川将軍家の正室(御台所)の出身を調べる

…軍になるにあたって「外様大名の娘では慣習に反する」と問題視されたが、右大臣・近衛経熙(このえつねてる)の養女になることでこの問題をクリアしている。彼女の結婚により、島津重豪が江戸時代初めての「外戚になった外様大名」になり、大きな発言力を獲得。「高輪下馬(たかなわげば)将軍」とも呼ばれた。 楽宮喬子 【生年1795年〜没年1840年、結婚1810年】十二代将軍家慶の正室は「楽宮喬子(さざのみやたかこ)」。院号は「浄観院(じょうかんいん)」。有栖川宮織仁(ありすがわのみやおりひと…

【戦国軍師入門】真田幸隆――謀略に長けた「攻め弾正」

…として活躍した彼は、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受けており、家中でも「攻め弾正」の異名で一目置かれていた。 真田氏は信濃(現在の長野県)小県郡(ちいさがたぐん)の豪族・海野氏(うんのし)から分かれたとされ、真田郷を領有するようになってからこの名前を名乗ったという。このあたりは幸隆の父の名前も含めてかなり諸説あってハッキリとしていないところがある。 ところが、1541年(天文10年)に武田信虎(たけだ のぶとら)・諏訪頼重(すわ よりしげ)・村上義清(むらかみ よし…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑧――名将が命をかけて立て籠もった城・岩屋城

…その多くは戦意の低い外様の部隊で、数どおりの実力は発揮できない状態だった。事実、岩屋城に至るまでにも大きな損害を出してしまっている。その上で、立ちはだかるのが名将・紹運となれば――彼らがじっくりと戦う気になったのも、無理はない。 実際、紹運は強かった。周辺を焼き払うことによって足場を安定させた島津軍は、盾で身を守り城に突進したが、高橋軍の銃撃によって撃退され、多くの兵を失ってしまう。その後も島津軍は何度か攻撃を仕掛けたが、その度に失敗を繰り返すことになった。それでも、数の差は…

【10大戦国大名の実力】最後に――「家を守る」ために

…が、池田家のケース。外様大名である池田家は督姫の血(つまり家康の血)を継いだことで厚遇され、領地は姫路という交通の要所でこそなくなったものの、二系統が大藩として残りました。 「家」を残すことは戦国大名という組織にとって最大の目的でした。そのために時の権力者との距離を測るのは絶対に必要だったのです。政権が豊臣家から徳川家に移り変わり、多数の大名が取り潰された江戸初期、戦国大名が必死に生き残りを図ったことがここからわかりました。 ――と、このような戦国大名の生き残り術を満載した本…

【10大戦国大名の実力】織田家⑥――天下人の資質とセルフプロデュース

…せている。光秀(彼も外様である)のケースだけが例外だったわけだ。 これを実現させたのは、信長が持つ恐怖のイメージだったのではないだろうか。織田家臣は等しく信長を畏怖していた。それはそうだ、裏切ったら一族もろとも皆殺し、などと言い出しそうな主君に軽々しく背けるはずがない。 となると、信長のエキセントリックな振る舞いもある程度は計算ずくだったのかもしれない。若き日の信長は「大うつけ」とさげすまれた。その振る舞いにも信長なりの計算はあったのだろうが、一方で家臣たちの反発を買い、反乱…

【10大戦国大名の実力】佐竹家③――優れたバランス感覚

…う江戸から近い位置に外様大名を置きたくない、という幕府の意図があったことは間違いない。 ただ、一方で佐竹家は関東の大名として厳しい罰を下されてもおかしくない立場にありながら(中央より遠い島津家などとは立場が違う)、うまく立ち回って家を存続させた、と見ることもできる。親族関係で結ばれた周辺の名門のうち、宇都宮氏は秀吉によって潰され、結城氏には家康の次男・秀康が入り(しかも彼はのちに松平姓に復姓した)、蘆名氏はついに復興を許されなかった。明確に敵対しなかった大大名をつぶすのはさす…

【10大戦国大名の実力】戦国大名と「家」の基礎知識

…こそ、地元の国人衆や外様の家臣団もついてきて、初めて戦国大名という武力集団が形成されるのだ。 そのため、一族衆や譜代家臣などの「直属の部下」たちは代々の恩義や信頼関係、情や筋論などで動くことがある(この辺りの感覚は江戸時代の武士がもつ「忠義」の観念に近い)。これに対し、国人衆や外様家臣はあくまで当主の提示する利益に価値を見いだすからこそついてくる。これは鎌倉時代の「御恩」と「奉公」の価値観そのままである。すなわち、見返りとして領地を認めてくれるからこそ、当主のために働くのだ。…

【殿様の左遷栄転物語】綱吉の独裁、牧野成貞

…の重職に就けるような家格ではなかった。さらにその後も外様大名家から側用人が選ばれており、従来幕政を独占していた名門譜代大名から政治を取り戻そうという綱吉の強い意志が感じられる。――が、結局のところ彼らはみな早い時期に職を辞してしまい、長く側用人として権勢を振るったのは成貞・吉保という神田御殿出身のふたりだけであった。 このあたりに、人事を駆使して自らの思う運営をしたいワンマン社長と、それについてこれない部下たち、というこれまた現代でもありがちな光景が見て取れるような気がする。

【殿様の左遷栄転物語】北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家の付家老たち

…は秀康時代に雇われた外様家臣団で、本多派はもちろん譜代の武士たち。徳川家の命で外様の家臣たちが一掃され、代わって入ってきたのが成重たちだから、もちろん彼ら新参者たちも譜代だ。つまりこれは、家康の命を受けた富正が事件を起こし、幕府がそれにエコヒイキの裁決を下して今村たちを一掃することで、藩内部の勢力を譜代側有利=幕府がコントロールしやすいようにするのが目的の、マッチポンプ的な事件だったのではないか、というわけだ。 また、忠直は関ヶ原の戦いにおいて功績をあげたにもかかわらず評価さ…

【殿様の左遷栄転物語】紀伊藩付家老ーー水野忠央という怪物

…容堂)といった西南の外様雄藩の藩主たちも加わっていた。慶永、斉彬、宗城、豊信の四人はそれぞれに開明派的な人物であり、後世に「幕末の四賢侯」と呼ばれている。 一橋派は彼らのように幕府と日本の行く末を憂い、しかし親藩や外様であるために幕政に直接関与できない(要職に就けるのは特殊ケースを除いて譜代の名門大名のみ)状況から、英才と名高い慶喜に望みをかけた部分が大きかったと考えられるこのような一橋派に対し、南紀派としては忠央が作り上げていた人脈が有効に機能し、大奥からの支持を取り付けて…

【殿様の左遷栄転物語】第3章 廃嫡される跡継ぎ 派閥争いのとばっちり左遷

…豊臣家に臣従していた外様大名たちとしては、お取り潰しを免れるために「豊臣家の味方をするなどの形で謀反をする気はありませんよ」とアピールしていかなければならなかった。 その視点で考えれば、たとえば秀吉と親しく付き合った過去のある人間を跡継ぎにしたりすると幕府に警戒されるのでは、と思えてくる。また、家康の娘を妻に迎えて、彼女が産んだ子を跡継ぎにすれば徳川との縁が深まって取り潰される危険も減るというものだが――そうなれば当然、本来は跡を継ぐはずだった若者がひとり、放り出されてしまう…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名① 小田原藩大久保家

…どったのは豊臣恩顧の外様大名ばかりではない。ここからは譜代大名――それも、政争に敗れた家のドラマを追いかけたい。 大久保家は下野国の宇都宮家から分かれた血筋であるという。この一族は特に兄弟が多く、「大久保党」と呼ばれる集団として代々徳川家に仕え、活躍した。そうした数々の功績に報われる形で、1590年(天正18年)にはかつて北条家の本拠地であった相模国小田原に大久保忠世が4万5千石を与えられ、大名となっている。4年の在任ののち、忠世が病気のためこの世を去ると、彼の息子である忠隣…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

豊臣系外様大名たちの苦しい立場 福島正則と並んで秀吉子飼いの部下の代表格とされるのが、加藤清正である。彼はまた、築城術の名手としても名高く、熊本城はその代表作のひとつといえる。 藤原北家道長を祖とする加藤家は、その子孫が美濃に下った際に「加藤武者」と称したのが始まりとされているが、確証はない。その後、11代・清忠が秀吉の母の従姉妹と結婚したため、息子の清正が秀吉のもとに預けられ、子飼いの家臣となったという。秀吉との姻戚関係についてもハッキリとわかっているわけではないのだが、清…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…臣だったことや西国の外様大名らと親交があったことから、警戒されて取り潰しにあったものと考えられている。逆にいえば、彼ら外様大名たちに対する牽制のために、正則は利用されたともいえる。「みせしめ」であったわけだ。 改易の翌年に息子の忠勝が亡くなって所領のうち2万5千石を返上し、1624年(寛永元年)には正則も亡くなった。その際、幕府から正則の遺体を調べるため検使が送られてきたが、家臣である津田四郎兵衛が到着を待たずに火葬してしまったことが問題になった。これにより福島家は領地をすべ…

【殿様の左遷栄転物語】第2章 目指せ「お家再興」 失職したけど地位を回復

…との縁が深かった有力外様大名が次々と改易されている。彼らの多くは関ヶ原の戦いで東軍についた。また、大坂の陣において豊臣方に味方した大名はいなかった。それでもなお、幕府から見れば「危険要素」であったのだろう。そのような危険要素を排除するにあたって、何らかの理由(「武家諸法度」違反)をつけての改易処分というのは非常に都合がよかったはずだ。そのような幕府の魔の手から逃れるために諸藩は大いに気を使って、たとえばすでに決まっていた嫡子をわざわざ廃したりした また、改易されたのはそうした…

【殿様の左遷栄転物語】本領にこだわり続けた執念 相馬利胤

…は基本的に、関東から外様大名を排除する方針であったから(そもそも佐竹が秋田に移されたのもその一環と考えられている!)、これが本当なら破格の特別扱いと考えてよい。にもかかわらず、利胤は「相馬家は鎌倉時代からこの地にいて、長く親しく付き合ってきた領民と別れるのが忍びないので」と断っている。結果、相馬家は近隣の大藩である伊達家のプレッシャーを感じつつも、明治維新までこの地に定着し続けたのである。 もしこの時、将軍の申し出を受けて江戸の近くに転封していたら、どうなっていただろうか。少…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…その中で丹羽家という外様大名が一時的ながらも置かれたところに、家康の長重に対する評価を垣間見る向きもある。 その後の長重は大坂の陣で活躍し、陸奥国は棚倉5万石、さらに陸奥国白河10万石余ヘとたびたび加増・転封を受けた。こうして加増を受ける中で、長重はかつて離散した家臣団を呼び戻した、とされる。ちなみに、棚倉・白河両藩の藩主は丹羽家の後はずっと譜代・親藩大名しか入っていない。この点にも、丹羽家への(及び、丹羽の前に棚倉藩主だった立花家への)幕府の姿勢が見えてくる。 丹羽家は長重…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府13代・徳川家定――趣味は料理の「癇癖将軍」 1824年~1858年

…大きな力を得ながら、外様大名であるために幕政へ参加できない西南雄藩の大名たちが多く参加していたことが挙げられる。 ふたりめの候補者は紀伊徳川藩主の徳川慶福(とくがわ よしとみ)で、「南紀派」たちは彼のほうが血筋が将軍家に近いことを根拠とした。彼らは血筋の権威によって国難に当たろうとしていたのだ。このふたつの問題は、井伊直弼が大老に就任し、豪腕を振るったことで解決する。任命したのは家定だ。それまでまったくリーダーシップを発揮しなかった将軍が、死を前にして初めて将軍らしい行動をし…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府12代・徳川家慶――幕政にかかわらなかった「そうせい」様 1793年~1853年

…る。しかし、前者は国難の時代に強力なリーダーシップを発揮できなかった。むしろ朝廷や諸大名に対外政策について意見を求めたため、幕府権威の低下と朝廷や外様大名らの積極的な政治参加を招いた。後者は強烈な攘夷論(外国を排除するべき、という思想)を展開し、幕政を大いに混乱させる。ふたりの行く末を、あの世の家慶が見ていたとしたらなんと言っただろうか。 また、この人は遺骨が発掘されている。それによると当時の一般よりも小柄な体格で、細長い顔をしており、印象に残る容貌だったろう、とされている。

【歴代征夷大将軍総覧】徳川将軍――江戸時代

…下に入った大名たちは外様大名と呼ばれ、長く幕政にかかわることを許されなかった。これもまた、大名統制のひとつの手段といっていいかもしれない。 巨大な官僚制度というべき江戸幕府体制は長く平和を維持させたが、やがて経済の成長に代表される社会システムの変化や諸外国による外圧、体制そのものの疲弊によって崩壊していく。これが幕末の動乱であり、時代は明治維新へと移り変わっていく。そうして、徳川将軍もまた歴史の表舞台から退場し、長かった征夷大将軍と武家政権の歴史に終止符が打たれるのである。 …

明智光秀と荒木村重――あるいは「織田を見限った男」たち?

…も紹介した明智の重臣、明智秀満と再婚したという。 信長は多数の配下に裏切られたことで知られ、最大の例こそ「本能寺の変」である。その理由を紐解いてみると、勢力の急激な膨張の中で従った外様の武将が、自分の立場が悪い、織田の情勢が不利だと見て裏切ったケースが多い。村重のケースはまさにそうであろう。光秀もまた、同じように織田政権の不利と己の立場の不安定さを見出したのではないか。譜代家臣のように長年醸成された信頼感のないことが原因だったのではないか。そのように考えるのだが、如何だろう。

【戦国時代の境界大名】伊東氏――二大勢力との死闘で滅亡するも……

…は病に倒れており、後継ぎの祐慶(1589―1636)が九州において徳川方の東軍として活躍した。そのため戦後も旧領を安堵され、飫肥藩5万7千石余の外様大名として江戸時代に入っている(のち5万1千石)。 江戸時代後期には極度の財政危機に苦しんだ。林業の開発に成功し、飫肥杉ブランドを確立、またこれを貧民の救済に結びつけたもののやはり根本的な解決にはならず、幕末になって藩士の家禄3分の1を削減している。幕末の動乱では近隣の薩摩藩より布告を受けて新政府側についた。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】有馬氏――内憂外患を周辺大勢力の力で乗り切る

…され、直純はのちに1万3千石を加増されて日向延岡へ移封された。延岡では後代の清純が藩主の際、農民一揆のため3千石減知で越後糸魚川に転封、さらに越前丸岡に移された。以後、有馬氏はここの藩主として続き、幕末、そして明治の廃藩置県を迎えている。 この間、外様から譜代格となっていた有馬氏は、幕末の藩主・道純が若年寄や老中と幕閣につき、2度の長州征討にも参加するなどしたが、戊辰戦争にあっては速やかに新政府側についた。気を見るに敏なところは先祖譲りといったところか。 kojodan.jp

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