攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

山城 の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【岩村編】

…ちょうど2022年の山城サミットの開催地が恵那市ということで、山城サミットへの参加も兼ねた岐阜・岩村への遠征となりました。地元の特産品を使った、その地域、その城ならではの城もなかは今までも、小豆にりんごや柿、栗などなどありましたが、このコラボは、そうきたかーという斬新な組み合わせ。 今回の城と城もなかとの出会いは、独創的な新風のコラボレーションが世の中へ醸し出す、城もなかのコラボの可能性をビシビシと感じるものとなりました。 岩村城の城もなか 1.「岩村城(岩村城もなか)」(か…

【家康の謎】家康のお父さんはどんな人だったの?

…んでしまう。尾張・守山城を攻めている最中、家臣・阿部弥七郎(正豊)に殺されてしまったのだ。これを「守山崩れ」と呼ぶ。弥七郎が突然主君を殺したのは、陣中で馬が逃げる事件があり、その騒ぎを「父が処刑される!」と勘違いしたのが原因であったという。なお、この事件の背景には、清安と松平の家督を争っている桜井松平氏の松平信定(清康の叔父)の陰謀があったという説もある。そもそもこの両者の争いは深刻で、清康が拡大行動を繰り返したのは、桜井松平氏との争いを外へ転嫁するという事情もあったともいう…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…改名) 高天神城と小山城以外はほぼ奪還 1578年(天正6年)、37歳 3月、上杉謙信死去、御館の乱 →甲相同盟が破綻 9月、家康は北条との同盟復活(相遠同盟) →北条と武田の関係が悪化したので、北条との同盟が結べた 1579年(天正7年)、38歳 信康事件。正妻と嫡男を失う →『家忠日記』を除いてほぼ記録が残っていないのは家康にとって汚点だからか 嫡男信康を殺す? 従来説は信長の娘の徳姫が父に密告し、使者の酒井忠次が弁明できずにやむを得ず殺した @近年の研究では信康の粗暴さ…

【サイン本プレゼントあり】「ぶらり真田家ゆかりの31城跡めぐり」のご紹介

…屋城・矢沢城・砥石米山城・真田氏本城・真田氏館・松尾古城・小諸城 ・松代城■群馬県/沼田城・箕輪城 ・下小屋城 ・松井田城 ・白井城 ・長野原城、丸岩城 ・羽根尾城 ・嵩山城 ・横尾八幡城 ・岩櫃城 ・雁ヶ沢城 ・中山城 ・尻高城 ・鎌原城 ・名胡桃城 ・猿ヶ京城 ・明徳寺城 ・小川城■新潟県/春日山城 ■和歌山県/九度山 ■大阪府/大坂城 ・真田丸御城印を通常販売している城跡の御城印情報も掲載しております。大河ドラマ真田丸以降に新たに分かった発掘調査結果(沼田城、岩櫃城)の…

城葱さんの「城もなか」道中記【犬山編】

…向かったのは国宝・犬山城の城下町。近年、犬山城下町はスイーツ通りと呼ばれるほど、和菓子洋菓子のお店が立ち並んでいるのですが、もちろん我らが「城もなか」もしっかり陣取っているようです。おいしそうな写真とあわせてじっくり楽しんでください!! 今回は犬山の城もなかと出会う旅に、城めぐりをしながら行ってきました。 犬山の城もなか、つまり犬山城の城もなかです。犬山城は城めぐりを始めたばかりの頃に、国宝犬山城というものをはじめて知って訪れた若かりし頃の思い出も甦る印象深いお城です。何度行…

【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

…す。この天守は大和郡山城天守を移築したものです。徳川氏の京都における本拠としては伏見城があったため、慶長期の二条城はそれほど大きな天守は必要なかったと思われ、1日でも早く城を完成させるために大和郡山城天守をリサイクルした可能性があります。さらに寛永期には淀城天守として再移築されています。もともとあった大和郡山城天守台の発掘調査によると天守台は8間×7間(約17m×15m)であり、天守中央部の身舎(もや)は4間×3間(約8.5m×6.5m)でした。さらに、その後に再移築された淀…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

… 輪郭式平城または平山城 家康にまつわる出来事 太田道灌が築いた城を、1590年(天正18年)に江戸に入った家康が改修。天下普請で築城がすすめられ、慶長期、元和期、寛永期と続いた。 歴代城主 家康→秀忠→家光→家綱→綱吉→家宣→家継→吉宗→家重→家治→家斉→家慶→家定→家茂→慶喜 まとめ 家康は将軍宣下ののちに公儀普請(天下普請)によって江戸において大規模な土木工事を進め、江戸城を総石垣で信長・秀吉の城づくりである「織豊系城郭」と、武田流や北条流である東国の城づくりを融合させ…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…攻めに取り掛かり、横山城を攻めたところ、浅井・朝倉の軍勢がこれを迎撃し、姉川の戦いが始まった。→この戦い自体は織田・徳川連合軍の勝利に終わり、横山城は織田方の手に渡り、浅井・朝倉の戦力にも小さくないダメージがあった。しかし、信長が勢いをかって浅井の本拠である小谷城に迫ることはなかった。また、浅井・朝倉も三年間健在で、信長と戦い続けている。・理由の一つとして、「姉川の戦いは後世の軍記物などで派手に扱われがちなので有名だが、そのような物語はしばしば徳川軍の活躍をアピールしており、…

【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

…す。この戦いでは、犬山城を奪い取った秀吉方が南方へ押し出して三河付近まで攻め込みました(犬山城の戦い、岩崎城の戦い、長久手の戦いなど)。浜松城から岡崎城を経由して小牧山城に陣を張っていた家康はなんとか秀吉方を押さえることに成功しましたが、勝ちきるところまではいかず終戦となりました。その後、万が一、秀吉が襲来した場合を想定して守りを固めることが必要となったのです。さらには重臣の石川数正が秀吉のもとへ出奔し、徳川軍の戦略や城の構えまでもが筒抜けになってしまったことも大きな要因とな…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…世城 分類 梯郭式平山城 家康にまつわる出来事 元亀元年に武田侵攻に備えて岡崎城から本拠地を浜松城に移して拡張。地名を「引馬(ひきま)」から「浜松」に変更した。 歴代城主 家康→堀尾吉晴→松平忠頼→高山忠房→太田氏→青山氏→本庄松平氏→大河内松平氏→井上氏→水野忠邦→井上氏 まとめ 武田侵攻に備えたとはいえ、家康が浜松城に居城を移したことは転機になったと言えるでしょう。古城を取り込んで大拡張し、新たに「浜松城」としたのです。武田旧家臣の取り込みによる築城術の進歩も大きな変化と…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…が城 分類 梯郭式平山城 家康にまつわる出来事 1542年(天文11年)に岡崎城で誕生。人質時代を過ごしたのち、今川氏から独立して岡崎城を拠点とした 歴代城主 西郷頼嗣→松平清康→松平清康→田中吉政→本多家→水野氏→後本多氏 まとめ 岡崎城は家康が誕生した城で、今川の支配から独立した城でもあります。その後は三河を平定して領国経営の拠点としました。そういう意味では徳川家康にとっては特別な存在だったともいえるでしょう。まさに徳川家康の人生がスタートしていった城です。2023年のN…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…どをやるようになり、山城国守護も兼任し、京の行政を行うようになった。 各家の紹介 斯波氏 足利尊氏の曾祖父・足利頼氏の兄である足利家氏と彼の領地である陸奥国の斯波郡をルーツとする家系。足利高経が尊氏・義詮のもとで活躍し、彼の四男である義将(よしゆき)以降は斯波氏を名乗って三管領家の一つとなった。斯波氏の本家は「武衛(ぶえい)家」と呼ばれたが、これは当主がしばしば左兵衛督(さひょうえのかみ)の役職を得て、その職場である兵衛府の唐名が「武衛」だったからだ。 細川氏 足利尊氏の六代…

城葱さんの「城もなか」道中記【福井県編】

…海または霧の取り巻く山城の姿は、間違いなく、城の顔となる画のようです。透明で桜吹雪のパッケージを天空の城の写真が隠しており、チラ見せ効果なのか、少し見える石垣、お城もなかの足元が、気を引くパッケージ。衝立や簾のような、日本らしい目隠しとその僅かな空間から見せる気配を感じる、というものに通じそうな気がしました。 あんは粒あんにマーガリン!!あんこにマーガリンは合うよね-。悪魔的な取り合わせを城もなかで実現している。小倉マーガリンのパンとかめちゃくちゃ好きなので、ついに城もなかで…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#2】

…っていた栃木県の「烏山城」の城もなか、そしてその存在を知ってしまったら城もなかコレクターとしては行かずにはいられない! 城もなかの珍品中の珍品というべき「加瀬山城(仮)」の城もなか、最後に二度目のおじゃまとなり、変わらずの再会を喜んだ「小机城」の城もなかです。 城もなかには餡だけでなく、さまざまなストーリーと期待が詰め込まれていることを知り、噛み締めたほか、思い出に残る城もなか道中(と城攻め)になりました。 烏山城の城もなか 1.「烏山城もなか」(えちごや丸山菓子店) 1個1…

ガイドブック「国指定史跡 柏木城跡」のご紹介

…整備されたとみられる山城です。東西500m南北450mの城域を有していますが、遺構の残りが良く、石積を多用し複雑な形状の虎口を有するなど戦国期最新の築城技術を採用していることや、会津と米沢を結ぶ街道をおさえる構造を有し領国防衛の考え方を知るうえで貴重な史跡であることなどが評価され、今年3月15日に国指定史跡となりました。そして今回、国史跡指定を記念して、当時の歴史背景や発掘調査の結果、城跡の特徴などを盛り込んだガイドブックを作成いたしました。ガイドブックを片手に、柏木城跡を散…

城葱さんの「城もなか」道中記【東北編】

…けっこうあります。富山城、小田原城、犬山城、姫路城、小倉城などでは、パフェやアイスといったスイーツを城にちなんで映える形にするために添えられています。とくにわが地元・富山城のパフェは富山城に行かれた際にはぜひ味わっていただきたい自慢の逸品です。 もなかの皮については、城もなかの皮を使っているので「三層角右寄り型」といえるでしょう。 サブレの味はプレーン、ごま、くるみ、ホワイトチョコの4種あります。サブレともなかの皮のコラボレーション。食感はサブレの少ししっとりしたホロっという…

【戦国軍師入門】竹中半兵衛――諸葛亮にも例えられた知性派策士

…けたのが、少数で稲葉山城を乗っ取って見せるという離れ業だった。これによって半兵衛の名は大いに高まった。その後、彼は浅井家のとある家臣を頼って隠居し、稲葉山乗っ取りの話を聞いて出仕を求めてきた信長の誘いも断る。 そんな彼を信長の部下の木下藤吉郎(後の秀吉)が口説き落とし、臣下としたのもやはりすでに述べたとおりだ。秀吉はまず自分も浪人のふりをして「ともに信長に仕えよう」と誘い、これを見破られても合計で三度も訪問して粘り強く説得する。そしてついに三度目、半兵衛が「信長ではなくあなた…

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

…(永禄10年)の稲葉山城攻めの際に秀吉の配下となり(一説には秀吉摩下となったのは1573年(元亀4年)のこととも)、以後大きな戦いにはことごとく参加して活躍する。1570年(元亀元年)の越前出兵とそれに続く金ヶ崎撤退戦、そして「姉川の戦い」、1573年(天正元年)の小谷城攻め、1574年(天正2年)の伊勢長嶋一向一揆討伐、1578年(天正6年)からの中国地方攻め、そして1582年(天正10年)の中国大返しと「山崎の戦い」、1583年(天正11年)の「賤ヶ岳の戦い」、そして15…

【戦国軍師入門】真田幸隆――謀略に長けた「攻め弾正」

…党が立てこもる上野獄山城を攻めている際に上杉謙信が援軍を出してくると、「信玄が出陣する」という虚言を流して防御側の戦意を挫き、とりあえずの停戦に持ち込んだのだ。翌年、落ち延びていた憲弘の嫡男の憲宗が援軍を連れて戻ってくると、ここぞとばかりに幸隆は動き出す。憲宗らに和睦と岩櫃城の返還をちらつかせて接触を図る一方で再び敵方の重臣を裏切らせ、総攻撃を仕掛けてこれを打ち破る。さらにこの2年後に白石城という城もやはり策謀を使って陥落させた。 晩年はかつての領地だった信濃小県郡に加えて上…

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

…兵衛……すでに「稲葉山城乗っ取り」で紹介した竹中半兵衛と、のちに秀吉に警戒された黒田官兵衛の2人が共に秀吉の配下にいた時期がごく短かったことはあまり知られていない。半兵衛は秀吉が織田信長の命で中国地方を攻撃している際に病に倒れており、一方の官兵衛が秀吉の配下に加わったのは、まさにその中国攻めの中でのことだったからだ。 この戦いの中で秀吉は幾つもの強固な名城・堅城を相手取り、見事な策略によってそれらを陥落させている。そのために「城攻めの名人」という異名で呼ばれてもいるのだが、実…

【戦国軍師入門】稲葉山城乗っ取り――軍師・半兵衛、鮮やかなデビュー

…た斎藤家の居城・稲葉山城を乗っ取ってしまっているのだ。動いた兵は少数で、起きた戦闘もごく小規模だが、だからこそのドラマチックさが目立つ。 なぜ半兵衛がこんな事件を起こしたのか、については幾つか説がある。まず当時の斎藤家当主・龍興(たつおき)が酒に溺れて悪政を行い、これを諫めるために行ったという説。また、半兵衛は龍興の側近から常日頃嫌がらせを受けており、特にある時、頭の上から小便を掛けられたのが腹に据えかねたのだという説。さらに彼は美濃3人衆と呼ばれた重臣のひとり、安藤守就(あ…

【戦国軍師入門】厳島の合戦――策謀の限りを尽くした天才・毛利元就

…らに元就の本拠地・郡山城の留守を守る桂元澄が偽の裏切りを約束する手紙を出させる。こうした元就の策略はすべて、晴賢の大軍を厳島という戦場に誘い込むための罠だった。 また、厳島での戦いに赴くにあたってもうひとつ、元就が打っておいた手がある。因島・来島・能島の三島(すべて瀬戸内海の小島)に拠点を持つ村上水軍を味方に付け、厳島への兵力の輸送を確保させ、さらにここから逃げる晴賢軍を抑えさせたのだ。この時、能島を支配する水軍の主・村上武吉(むらかみ たけよし)に「力を貸してもらうのは1日…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話③――「爆発炎上」した城?・信貴山城

…したい。大和国は信貴山城(奈良県生駒郡)――その結末は「爆発炎上」だというのだ。 この地には、古くは楠木正成が城を築いたという伝説があり、戦国時代には木沢長政(きざわ ながまさ)という武将が大規模な城を築いたが、これは炎上している。その信貴山城を再興し、拠点としたのが松永久秀(まつなが ひさひで)である。久秀はもともと近畿に大きな勢力を誇った三好長慶(みよし ながよし)の側近であったが、彼の死後に自らが大きな力を振るうようになった。この時期、時の将軍。足利義輝を死に追い込んで…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話②――秀吉の一夜城(その2)・石垣山城

…一夜城」、相模の石垣山城(神奈川県小田原市)である。秀吉は全国各地の諸将に命じて小田原城を包囲させた。しかし、かつて上杉謙信・武田信玄の攻撃を撥ね返したこの城が堅固なことは当然知っており、長期戦になるだろうとあらかじめ読んでいた。 そこで秀吉は、小田原城の西方に位置する丘に陣城を築くよう命じた――それが石垣山城であるわけだが、これは先の墨俣城のようなにわか作りのものでは断じてなかった。複数の曲輪と穴太衆による石垣を備えた、立派な城である。この城を80日余で仕上げたというのだか…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台④――お市の方が最初の夫と死に別れた城・小谷城

…って小谷山に築かれた山城で、山の麓には平野が広がり、かつ北陸街道と中山道に容易に出られる位置にあった。そもそもお市の方を娶ったことからも明らかだが、当初長政は信長に対して友好的で、同盟関係にあった。信長の上洛にも、通り道である近江に大きな勢力を持つ長政の存在は大きかったはずだ。しかし、1570年(元亀元年)に信長が越前の朝倉義景を攻めると、朝倉氏と古くからよしみを通じていた長政は同盟を破棄、反信長の姿勢を鮮明にした。 これに対し、もちろん信長は激怒。同年には姉川の戦いで浅井・…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台③――玉砕の舞台になった城・高遠城

…されるのが高遠城(兜山城とも。長野県伊那市)である。三方向を崖と川に囲まれる要害である。城主はしばしば変わり、1581年(天正9年)には信玄の五男である仁科盛信(にしな もりのぶ)が入城した。その翌年、武田氏は織田氏の侵攻によって滅び、高遠城にも織田方の武将が入ったが、本能寺の変後の混乱を経て徳川氏が手中に収めた。江戸時代には譜代大名が入ったため、城主(藩主)はたびたび変わっている。 武田氏を攻め滅ぼしたのは信長の嫡男・信忠の率いる軍勢であった。しかし、武田方にとって大きな問…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台②――悲劇の女城主伝説の城・岩村城

…城であり、「日本三大山城」のひとつにも数えられる。霧が立ち込めるところから「霧ヶ城」の別名もある。古くより遠山氏が城主であり、戦国時代には遠山景任(とおやま かげとう)が織田氏の支援を受けつつ武田氏の攻撃を撥ね返していた。その後この城は動乱の中で幾度か主を変え、江戸時代には松平氏の居城となる。 物語の主人公は景任の妻で織田信長の叔母にあたるおつやの方だ。当時としては当然のことながら政略結婚であり、信長がそれだけ岩村城の価値を評価していた、ということなのだろう。実際、1571年…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑩――内部分裂で落ちた城・七尾城

…宮」と呼ばれた堅固な山城であり、そこからは七尾湾や港町が一望できたという。能登畠山氏は戦国の動乱の中で上杉氏に滅ぼされるが、その上杉氏も織田軍によって能登より追われ、この城には織田家臣の前田利家が入る。そして、時代の趨勢が泰平に移る中で、山城の例に漏れず廃城となってしまった。 能登畠山氏が滅んだ最大の理由は、当主の発言力が失われて老臣たちが実権を握るようになったことだ。しかも彼らは織田信長派と上杉謙信派に分かれており、中でも専横が目立っていた信長派の長氏(ちょう し)は、他の…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑨――武田信玄に苦汁をなめさせ、内応であっさりと落ちた城・砥石城

堅固な山城である砥石城(戸石城、長野県上田市)はもともと北信濃の豪族・海野氏のものであったが、同じく北信濃の有力者であった葛尾城主の村上義清(むらかみ よしきよ)がこれを奪い取る。武田信玄の信濃侵攻において強大な壁となり、「生涯にわずか二度」という信玄の敗北の相手になったのが彼、義清であった。そして、そのうちの一度、「砥石崩れ」と呼ばれる戦いの舞台こそが、この砥石城だったのだ。砥石城自体はやがて武田氏の家臣である真田氏のものとなり、第二次上田合戦の記録の中にその名前が出てくる…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑧――わずかな兵に乗っ取られた城・稲葉山城

…山という山に答え立つ山城である。もともとは稲葉山城という名前で、斎藤氏の城だった。築城されたのは1201年(建仁元年)と古く、鎌倉幕府の吏僚であった二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)が築城主である。これが美濃守護代の斎藤氏の居城となり、その家臣である長井氏の城となって、長井氏・斎藤氏を下剋上で滅ぼした斎藤道三の居城となる、という経緯をたどった。 ところがこの斎藤氏は道三の孫・斎藤龍興(さいとう たつおき)の代に、道三の娘婿にあたる織田信長によって攻め滅ぼされてしまう。信長は稲…

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