攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

幕末 の検索結果:

戦国時代のはじまりと終わり

…代とするのはおそらく幕末の動乱をのぞけば、これが最後の内乱だということなのでしょうね。 なんで曖昧なのか ここで基本的なところから考えてみると、「戦国時代」という名称はほかの「鎌倉時代」や「江戸時代」といった名称とは異なる命名ルールに基づいていることが曖昧さの理由なのでしょう。一般に「○○時代」という時代区分は、全国的な政権の成立とその中心となる場所から名付けられるわけで、ようするに「都(政庁)の地名」を冠にしています。 しかし戦国時代はそういう区分ではありません。戦国時代は…

【クーデターで読み解く日本史】幕府の威信が失墜した鎮圧失敗劇――長州征討(長州征伐)

… ○長州藩 ×幕府 幕末の尊皇攘夷運動の中心にいたのが長州藩だった。彼らは朝廷の尊皇攘夷派公家と手を組んで大きな発言力を獲得したが、1863年(文久3年)には八月十八日の政変(はちがつじゅうはちにちのせいへん)で幕府方に敗れ、京から駆逐されてしまった。そこで翌年には勢力回復を狙って長州藩兵が京へ進軍したものの、会津藩・薩摩藩らと激突した禁門の変(きんもんのへん)で敗れ、ついに「朝敵」とされてしまった。 朝廷の命を受けた幕府は長州藩を攻撃するべく諸大名に通達し、朝敵を打ち倒すた…

【クーデターで読み解く日本史】2代続けて襲われた幕府の重鎮――坂下門外の変

…城へ逃げ込んだことなどが問題視され、信正は失脚してしまったのである。 これによって幕府主導の公武合体運動は頓挫せざるを得なかった。しかし、この後も薩摩藩をはじめとする雄藩主導によって幕府と朝廷の接近は進められ、また政略結婚であった家茂と和宮の関係は良好であり、後に家茂が病没した後も彼女は幕府に残り、徳川氏存続のために奔走することになるのだった。 暗殺の幕末維新史 桜田門外の変から大久保利通暗殺まで (中公新書) 作者:一坂太郎 中央公論新社 Amazon kojodan.jp

【クーデターで読み解く日本史】幕末の動乱の夜明けとなった暗殺劇――桜田門外の変

…府重臣を暗殺した彼らはあるいは襲撃の際に死に、あるいは行方をくらませ、あるいは捕らえられて処刑された。しかし「大老が暗殺された」という事実は幕府の威信を大いに傷つけ、また幕末の動乱期に数々演じられた暗殺劇の最初の一つとしても歴史的に大きな意味を持つことになったのである。 桜田門外ノ変(上) (新潮文庫) 作者:昭, 吉村 新潮社 Amazon 暗殺の幕末維新史-桜田門外の変から大久保利通暗殺まで (中公新書) 作者:一坂 太郎 中央公論新社 Amazon kojodan.jp

【クーデターで読み解く日本史】天下泰平のための犠牲――大坂の陣

…が三度にわたる突撃を敢行し、家康の本陣にまで後一歩に迫る活躍を見せたが、やはり個人の武勇では兵力の差を覆しきれずに討ち死にする。大坂城は燃え、追い詰められた秀頼とその母・淀殿も自害して果て、こうして豊臣氏は滅亡したのだった。 これを機に年号は元和と改められ、「元和偃武(げんなえんぶ)」の時代が到来した。偃武とは武器を伏せて収めることであり、つまり合戦のない泰平の時代のことである。実際、これ以後は幕末の混乱期まで、合戦や暴動などがあっても局地的な、小規模なものにとどまったのだ。

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…紋、加藤家改易以降、幕末まで代々肥後熊本藩を守り続けた細川家の細川九曜紋と熊本城特別公開記念の焼印が入っています。 天然木の5枚板を広げて自分の好みに合わせて調整できるようになっています。あおいだ時に木の香りがふわっと香るので、癒されますよ♪ kojodan.shop つづいて「木枡」。 こちらも扇子同様、蛇の目紋と細川九曜紋の焼印(写真右)に、もう片面には復活した熊本城の大天守をあしらった特別公開ロゴの焼印(写真左)が入った一合枡です。 熊本市内の歴史ある酒造メーカーさんに…

【殿様の左遷栄転物語】「正徳の治」の崩壊

…ことになった。また、幕末期の藩主・間部詮勝(まなべ あきかつ)は老中に二度就任し、幕政に少なからず関与している。 白石は本丸寄合からは外れたが平寄合としては残り、1000石の禄と旗本としての身分も取り上げられなかった。やがて隠棲生活に入り、学者・詩人としての活動に集中することになる。この時期も含め、白石は数々の著作を残しており、自伝である『折たく柴の記』、各藩の記録である『藩翰譜』、イタリア人宣教師から聞き取った内容を元に書いた『西洋紀聞』『采覧異言』などは特にその代表的な存…

【殿様の左遷栄転物語】第4章まとめ 独立運動にも背景がある

…けだ。 しかもそれが幕末の動乱期における重要な事件のひとつ、「安政将軍継嗣問題」にまで連なってくるわけだから、歴史というのは確かにつながっているものだな、としみじみ感じていただけるのではないだろうか。 内紛に事情あり これはそのまま、現代の私たちを取り巻く状況にもいえる。組織内の内部抗争にも、あるいは組織と組織の対立にも、たいていの場合は過去に理由がある。当初はくだらない理由で始まったケースでも、次第に関係が悪化していったのなら、そこに何らかの事情があるものだ。 理由をきちん…

【殿様の左遷栄転物語】北ノ庄藩越前松平家と高田藩松平家の付家老たち

…万石となったものの、幕末まで付家老の職を世襲している。 ちなみに、この忠昌には高田藩時代に糸魚川藩主・稲葉正成(いなば まさなり、家光の乳母・春日局の元夫で、小早川秀秋の家老を務めたことのある人物)が家老としてついていて、彼もまた付家老のひとりといえるだろう。ところが正成は忠昌の北ノ庄行きに従わなかった。そのため、彼が付家老だったのは5年ほどのことである。のち、正成は再び大名として取り立てられ、稲葉家は老中なども輩出しつつ何度か転封を繰り返し、淀藩に定着して明治維新を迎えた。…

【殿様の左遷栄転物語】紀伊藩付家老ーー水野忠央という怪物

…と考えられている。 幕末期の安藤家当主・安藤直裕(あんどう なおひろ)は安藤家とこの田辺与力との間に起きていた衝突を解決し、また幕末の混乱の中で必要になっていた海防強化を目指すために、田辺与力たちを安藤家の支配下に置こうと試みたのである。当然、田辺与力たちは紀伊藩の直臣から陪臣に落とされることをたやすく認めようとはせず、激しく抵抗した。しかし、この時期には紀伊藩内部でも政変があって安藤・水野両家の力が強まっており(理由は後述)、これを回避できなかった(田辺与力だけでなく、新宮…

【殿様の左遷栄転物語】尾張藩付家老と水戸藩付家老

…いに混乱させ、これが幕末期にまで続く藩内抗争につながってしまうこととなる。 水戸藩徳川家の付家老たち 水戸藩徳川家の付家老は、松岡城主の中山備前守家である。いわゆる「武蔵七党」のひとつ丹党の末裔で、戦国時代には北条氏に仕えていた。豊臣秀吉によって主家を滅ぼされた際に生き延びた照守・信吉兄弟が、徳川家に仕えるようになる。うち、信吉は徳川家康の小姓から出世を重ね、家康の十一男・頼房の付家老に任じられた。小姓出身とはいえ他の付家老たちとは家の格がまったく違い、異例の大出世としての付…

【殿様の左遷栄転物語】付家老の宿願ーー独立

…に、である。 実際、幕末の混乱期に活躍した老中である安藤信正を輩出した磐城平藩安藤家は、紀伊藩付家老の祖である安藤直次の弟・重信から始まった家系である。つまり、直次の子孫のほうが嫡流なのに、傍流から老中が出てしまったわけだ。こういう状況が、付家老たちにとって面白いはずがない。そうでなくても、江戸時代の武家というのは家格に誇りを持ち、こだわったものである。付家老ではなく独立した譜代大名になりたい、そうでなくてもせめて家格を上昇させて少しでも普通の大名に近い存在になりたい――その…

【殿様の左遷栄転物語】第3章 廃嫡される跡継ぎ 派閥争いのとばっちり左遷

…なった。これがまた、幕末の動乱期になると事情が変わる。たとえば13代将軍の跡継ぎをめぐって2つの勢力が争った「安政将軍継嗣問題」においては、血筋に優れる徳川慶福(徳川家茂)を推す者たちと、才覚を高く評価されていた一橋慶喜(徳川慶喜)を推す者たちが激しく争った。価値観は時代の趨勢によっていくらでも変わるもの、という一例になるかと思う。 豊臣との縁切りのための廃嫡 とはいえ、まだまだ動乱の余波が収まらぬ江戸時代初期には少なくない数の争いがあり、本来嫡男でありながら廃嫡されてしまっ…

【殿様の左遷栄転物語】藩主の乱心で改易 津山藩森家

…を分け与えて成立)も播磨国の西部に移封となる。当主であった長俊はここに三日月藩を成立させ、明治維新まで存続させた。また、まだ存命だった2代藩主の長継は、衆利の死後に備中西江原に2万石を幕府から賜り、ここに森家を再興させている。とはいえ、この時点で、もう非常な高齢であったため、旗本になっていた息子の長直が呼び出される形でその跡を継ぎ、彼が後に播磨国赤穂藩に移されて、幕末まで続くことになる。 一難去ってまた一難という具合の森家ではあるが、どうにか生き延びることは許されたのである。

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

…。だが、正信・正純親子の貢献に対する評価があったのか、本多家という名門を絶やさないためか、あるいはそもそもこれが陰謀によるものであったためか、正純の孫にあたる正之は旗本に取り立てられて、その血筋が幕末まで続いている。 また、正信の弟・正重によって継承された分家は、一時期、寄合旗本(ふつう無役で3千石以上。名門とされる)に落ちていたことがあるが、やがて大名に復帰し、明治維新まで存続した。正純の弟・政重は宇喜多・福島など諸家に仕え、最終的には前田家中の重臣として厚く遇されている。

【殿様の左遷栄転物語】不本意な褒美を受けた男 吉川広家

…が、名目上の立場は毛利家の家臣であり、独立大名としては扱われなかったのである。いわば岩国領主だ。その背景としては、毛利本家との不仲があったようだ。 この関係は延々と続いたが、幕末における当主・経幹は両者の関係を改善するため積極的に活動した。一方で幕末の動乱に深くかかわった長州藩とともに対外活動にも熱心だった。これらの結果、経幹が1867年(慶応3年)に亡くなると、長州藩主・毛利敬親は自ら朝廷に願い出て、吉川家を大名、岩国藩主としたのである。維新直前の実に異例な再興劇であった。

【殿様の左遷栄転物語】コネに救われた2人の大名 新庄直頼と久留島長親

…に接触することができた。これに加えて豊臣家の重臣である片桐且元の協力も得られ、長親は豊後国森藩で大名としての再興にこぎつけたのである。1601年(慶長6年)のことであった。 その後、1616年(元和2年)には「久留島」と名を改めたが、まもなく波乱があった。1619年(元和5年)、お家再興に大きな力となってくれた福島正則が改易となってしまうのだ。久留島家も連座で処罰を受ける可能性もあったが、さまざまな工作の末、幸運なことにこの危機は回避され、森藩主として幕末まで続くことになる。

【殿様の左遷栄転物語】本領にこだわり続けた執念 相馬利胤

…をほとんどそのまま残した結果として、幕末期にまで続く財政難を抱え込んだことを批難される例もある。「身の文にあった組織構成を」というのは、いつの時代も変わらない経営の要点であろう。とはいえ、再興が決まってのうのうと戻ってきた連中をそのまま受け入れれば、これはこれでまた問題になる。権威が損なわれるからだ。そのため、利胤は他国へ一度去ってしまったような連中に切腹や追放といった厳しい処分を下し、もともと所領の小さかった者は武士としての身分を剥奪して百姓や町人にすることで許したという。

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…長重はかつて離散した家臣団を呼び戻した、とされる。ちなみに、棚倉・白河両藩の藩主は丹羽家の後はずっと譜代・親藩大名しか入っていない。この点にも、丹羽家への(及び、丹羽の前に棚倉藩主だった立花家への)幕府の姿勢が見えてくる。 丹羽家は長重の子・光重の代に陸奥国二本松へと移され、この地で幕末の動乱を迎えている。幕末の二本松藩といえば戊辰戦争において少年ばかりの部隊が玉砕を遂げた「二本松少年隊」の一件が有名だが、そこに長重の立ち回りの拙さ、一本気な気質を見るのは、考えすぎだろうか。

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府15代・徳川慶喜――武家政権の最後を飾った英才 1837年~1913年

…允)の「家康の再来」、フランス公使ロッシュの「本当の君主の風格がある」、イギリス外交官アーネスト・サトウの「日本人の中で最も貴族的な容貌」といったものが伝わっている。しかし、幕末の動乱期においては優れた才覚を発揮する一方で、追い詰められて逃げるような行動を示しており、粘りに欠けた天才型、という評価をすることもできるだろう。 晩年になってようやく宮中への参内を許され、謁見した明治天皇は後に「罪滅ぼしがかなった」と話した、という。また、最期の日々は静岡を離れ、東京で暮らしている。

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府14代・徳川家茂――血筋で選ばれた貴族的将軍 1846年~1866年

…困惑させたという。 幕末の動乱期の将軍だけあって、家茂の治世は当初から波乱含みであった。彼を将軍に押し上げた最大の立役者である大老・井伊直弼は、その年の内に一橋派として徳川慶喜を擁立した者たちや尊王攘夷派などを徹底的に処罰する「安政の大獄」を起こすが、それによって恨みを買ってしまい、1860年(万延元年)には暗殺されてしまう。これが「桜田門外の変」だ。 生まれる前に父を亡くしていた家茂にとって直弼は父親のような存在だったのか、彼のいうことなら素直に聞いたとされる。それだけに直…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府13代・徳川家定――趣味は料理の「癇癖将軍」 1824年~1858年

…を迎えている。これが幕末の動乱期において徳川将軍家存続に奔走した篤姫(天璋院)である。 しかし、先述したように彼は病弱で、「実子は生まれないだろう」と見られていた。ならば御三家や御三卿から後継者を選ばなければいけないのだが、ふたりの有力候補それぞれに支持者がいて、国内を二分する争いになってしまった。ひとりめの候補者は先にも名の上がった一橋慶喜で、「一橋派」と呼ばれた人々は彼の英明さに期待して支持した。一橋派の特徴として、江戸時代後期に財政改革や殖産興業に成功して大きな力を得な…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府9代・徳川家重――言葉が通じず、政治にも興味なし 1711年~1761年

…他の公家たちが所司代に通報したものの、武家側としては当時このことを大きな問題とは捉えておらず、再三の要請に応えてようやく追放処分とした。この一件は、後の幕末の動乱における尊王攘夷思想隆盛の先駆け的存在であり、またかつて江戸時代初期に朝廷と公家を政治から締め出した幕府としては、その方針を貫くために重く扱うべき問題であった。にもかかわらず、所司代の対応がどうにも鈍く、いわば「舐められない」ための対応が甘かったことは、のちの幕末期の動乱につながる問題として覚えておくべきことだろう。

【歴代征夷大将軍総覧】徳川将軍――江戸時代

…崩壊していく。これが幕末の動乱であり、時代は明治維新へと移り変わっていく。そうして、徳川将軍もまた歴史の表舞台から退場し、長かった征夷大将軍と武家政権の歴史に終止符が打たれるのである。 松平氏から徳川氏ヘ 徳川氏はもともとの名を松平氏といい、もとは三河の国衆である。『徳川家譜』によれば、血筋のルーツとして源義家があり、その末裔の新田義季が「得川四郎」を名乗ったことを始まりとする。この得川四郎が各地を放浪し、その子が松平の地に住み着いて松平氏を名乗るようになった――というのが筋…

【戦国時代の境界大名】柳生氏――めまぐるしく変わる情勢の中、一芸に活路を見出す

…へ転落したのである。 その後、三厳が急死しその遺領を継いだ宗冬の頃に大名への復帰は果たされたものの、その後の約200年に目立った働きはない。将軍の兵法指南役を務めたのは宗冬の子の宗在までで、以後この役が柳生氏に回ってくることはなかった。たまに将軍の兵法上覧があったくらいである。以後、日立った働きもないままに1万石の小大名として幕末を迎え、明治の廃藩置県となる。結局のところ、柳生氏を立身出世させたのは柳生宗矩という一人の男の突然変異的活躍だったのであろう。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】松浦氏――海外との窓口ゆえに苦しむも……

…出島で、以後200年あまりに渡ってオランダ人の居住区となる。こうして、異国との境界としての平戸、そして松浦氏の歴史は終わったのである。 もう少しだけ、その後の松浦氏にも触れよう。代々の当主のなかには、『甲子夜話』を著して江戸時代研究の大きな参考になっている松浦静山(清)がいる。幕末期には、隣接する長崎に外国船が侵入する事件もあったため、その防衛に奔走することになった。また、当初は公武合体を推進したが、やがて倒幕へ傾き、戊辰戦争でも新政府軍側に与している。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】宗氏――朝鮮半島との交渉・貿易を独占した一族

…のちに2万石加増)であったにもかかわらず、17世紀半ばより10万石を名乗ることを許されるなど、三百藩諸侯のなかでも独特の地位を持つに至った。 立場上、転封・改易などないままに約250年を過ごした宗氏だが、その位置から幕末にはたびたび騒動に見舞われた。ロシア軍艦ポサドニック号が来航して居座った事件、国替え運動をしていた家老が暗殺された事件などがそうだ。これらの混乱の結果、尊王攘夷派と佐幕派が内部で相争い、藩論を統一できないまま明治維新を迎えることになった。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】小笠原氏――名門武家、宿願のために三英傑の元を渡り歩く

…小倉15万石となり、幕末を迎える。ちなみに、小笠原一族には忠脩の子・長次の家系である播磨国安志藩主家、忠脩と忠真の弟である忠知が祖の肥前国唐津藩主家、小倉藩から別れた千束藩主家という大名家、及びいくつかの旗本家がある。 だが、これらとはまた別の系統で、越前国勝山藩主の小笠原家がある。この家はかつて小笠原一族を二つに分けた伊那松尾小笠原氏の末裔で、信濃を追われた後は甲斐の武田氏を頼り、武田氏の信濃占領後は旧領の松尾城(長野県飯田市)に戻っていた。しかし、信長による甲斐・信濃侵略…

【戦国時代の境界大名】伊東氏――二大勢力との死闘で滅亡するも……

…は病に倒れており、後継ぎの祐慶(1589―1636)が九州において徳川方の東軍として活躍した。そのため戦後も旧領を安堵され、飫肥藩5万7千石余の外様大名として江戸時代に入っている(のち5万1千石)。 江戸時代後期には極度の財政危機に苦しんだ。林業の開発に成功し、飫肥杉ブランドを確立、またこれを貧民の救済に結びつけたもののやはり根本的な解決にはならず、幕末になって藩士の家禄3分の1を削減している。幕末の動乱では近隣の薩摩藩より布告を受けて新政府側についた。 kojodan.jp

【戦国時代の境界大名】遠山氏――宗家は滅亡後、残された一族による戦いの結末は?

…のだ。この功績を評価されて戦後に苗木城を与えられた苗木遠山氏は、以後幕末まで苗木藩主を務めた。 最後の藩主である友禄は文久・元治・慶応という幕末の激動期に若年寄を務めて幕政に深く関わったが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗北すると新政府への恭順を示し、戊辰戦争でも新政府軍側についた。ちなみに、苗木遠山氏と行動をともにして存続を勝ち取った遠山一族として、明知遠山氏がある。彼らは大名家にはなれなかったが旗本として残り、名奉行として名高い遠山景元を輩出している。 kojodan.jp

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