攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

武田勝頼 の検索結果:

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…訪原城は、天正年間に武田勝頼によって築かれました。のちに徳川家康が奪取し、一時期は今川氏真が城主をつとめたという大河ドラマ「どうする家康」の登場人物たちともゆかりの深いお城です。そんな諏訪原城の歴史と高天神城攻略における戦略的要衝としての価値について書いていただきました。周辺地図を表示しながら読むとお城の位置関係がわかってより楽しめると思います。 はじめに 初めまして、島田市博物館 学芸員の岩﨑アイルトン望と申します。みなさんは、静岡県島田市に遺構が現存する諏訪原城という城を…

【家康の謎】家康はなぜ嫡男信康を殺したの?

…連合の共通の敵である武田勝頼への内通を図っている……という内容があっては、信長も放置できない。信長の不信を解決するために、家康は泣く泣く妻と息子を殺させた、というわけだ。信康の日頃の振る舞いに問題が多かったことも後押しになったとされる。 このいかにもドラマチックで、「耐える家康」のイメージを増幅させる通説に対して、近年の説では信康と築山殿の死の原因を徳川家中の対立に求める。当時の徳川家は長く武田家と戦争中であり、その負担は決して軽いものではなかったが、家康は織田・北条と結んで…

細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

…天正10年)3月に、武田勝頼様が自刃され、甲斐武田氏は滅亡。家康様も活躍が認められ、信長様より、駿河・遠江の両国(現在の静岡県)を進呈され、梅雪様も本領を安堵される形となりました。こうして家康様と梅雪様は、信長様へ御礼を伝えるため、安土へ向かうことになったとのこと。 家康様らは、安土城にてもてなしを受けられたのち、信長様からの勧めもあり、京都や堺(現在の大阪府)を見物されておりました。その後、京都におられる信長様にご挨拶へ向かわれる予定で、堺から京へ上洛する途中にて、本能寺の…

【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦!

…81年(天正9年)の武田勝頼と徳川家康による高天神城争奪戦のことを指しますが、じつは1572年(元亀3年)にも一度武田信玄が高天神城を攻めているため、武田と徳川による争奪戦は三度行われていることになります。以下ではその三度の攻防戦を順番に見ていきましょう。 第0次高天神城の戦い/1572年(元亀3年)信玄vs家康 高天神城遠景 この戦いは武田信玄による遠江・三河侵攻作戦の一環で行われたものです。高天神城は徳川方の小笠原氏助が城主でした。1572年(元亀3年)2月、信玄は2万の…

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

武田勝頼の三河侵攻により勃発した徳川と武田の激突、長篠設楽原の戦いです。「鉄砲三段撃ち」や「武田騎馬軍団vs鉄砲隊」の話が取りざたされますが、戦いに至る流れやその後の動きなどを見ることによって、真の長篠設楽原の戦いが見えてくると思います。今回はこの戦いに迫ります。 ※長篠合戦、長篠の戦い、長篠役など呼び方がいくつもありますが、本稿では長篠城での戦いと設楽原での決戦を合わせた「長篠設楽原の戦い」と表記しました。 長篠城の攻防と設楽原での激突 長篠城の攻防と、設楽原での激突。長篠…

【家康の合戦】三方ヶ原の戦い 家康惨敗!信玄にコテンパンにやられた戦い

…、長篠設楽原の戦いで武田勝頼と相まみえていきますが、どのような結末が待っているのか次回以降探っていきましょう。 参考文献 日本戦史 三方原役(明治35年6月15日、参謀本部) 三方原・長篠の役/日本の戦史2(旧参謀本部編、昭和40年7月1日、徳間書店) 歴史群像 三方ヶ原の戦い(小和田哲男、1989年1月1日、学習研究社) 「週刊 新説 戦乱の日本史 三方ヶ原の戦い」(2008年4月15日、小学館) 現代語訳 信長公記(太田牛一著、中川太古訳、2013年10月13日、KADO…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…るいは御館の乱の際に武田勝頼が上杉景勝を支持したために武田家と北条家の関係が悪くなり、その結果として徳川=北条同盟(相遠同盟)のチャンスができたというのも含め、家康は天災や気まぐれ(もしくは他の理由がより優先されたため)、第三者の行動よるバタフライ効果といった感じで「ラッキーな人だな」と思うことが多々ありました。もちろんこれはぼくらがのちの歴史を知っているからこその結果論なのかもしれませんが、それにしても運を味方につけているとしか言えないことが何度も起きています。 あらすじを…

【サイン本プレゼントあり】「ぶらり真田家ゆかりの31城跡めぐり」のご紹介

…書状』、『沼田攻略を武田勝頼が褒めた書状』、『真田信綱の血染めの陣羽織』、『外国人が見た大坂城落城図』など貴重な史料画像も掲載。歴史読み物としても楽しめる一冊となっています。本のサイズはA5判型で小さいので旅先へも携帯しやすいです。 書籍内で攻城団を紹介してくださっている関係でひと足先に献本していただいたのですが、御城印の有無のほか、食事処や温泉などの観光案内もしっかりカバーされていて、実用性の高いガイドブックになっています。 また尻高城や雁ヶ沢城など攻城団にまだ登録されてな…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…朝倉義景、今川氏真、武田勝頼など家を滅亡させてしまった当主はどうしても無能で暗愚なイメージで語られがちですが、冷静に見ないといけませんね。(浅井長政は彼らに比べると暗愚な描かれ方をしていないのはやはりお江の父親だからでしょうか) まとめとしては、有名な合戦で負けても滅亡していないのは そもそもたいした規模の合戦ではない(殲滅戦にはならないし、盛られてる) 居城や領国が安泰なら挽回可能 有力家臣や国衆が離反し、本拠に攻め込まれるから滅亡する というあたりでしょうか。動画の中でも…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…盟、武田信玄の侵攻、武田勝頼との攻防、織田信長の死、羽柴秀吉との争いなどたくさんの出来事があったからです。これらの出来事のすべてに対してここ浜松城から出陣し、大物武将と激突したのです。詳しいことは別のコラムに譲りますが、三方ヶ原の戦いでは家康人生最大と言われる敗北を喫したり、小牧・長久手の戦いではのちの天下人となる羽柴秀吉と激突したりもしています。それだけではなく、本能寺の変による織田信長の死を受けて、織田家臣団の所領となっていた旧武田領を一気に平定して5か国領有するなど飛躍…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編】

…新府城が落城する際、武田勝頼は新府城に火を放ち退去しました。その際に新府城の軍用米が焼け、拾って食べたという伝承を基に、悲運の武将・武田勝頼を忍んで創作された、黄身餡饅頭の城菓子。焼き米ということで、焼いたお米が饅頭の表面にまぶされている。 焼いたお米が見た目にも、また食べた時の触感や風味も独自性が際立っている。焼米は、やわらかすぎず、硬すぎず、食べてやんわりといった感じ。その変わった見た目や地元の伝承とのリンクから、お土産としても人気。萩本製菓さんの看板商品といってもいいと…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台③――玉砕の舞台になった城・高遠城

…していた武田氏当主・武田勝頼が甲斐に戻ったのは、遠江方面の徳川軍に備えて江尻城を守っていた穴山信君(梅雪)が裏切ったからだ。結果、高遠城の盛信はほぼ孤立した状態で1万とも3万ともいわれる信忠軍の攻撃に晒されることになる。 信忠は高遠城に降伏を勧める書状を送ったが、盛信はそれを拒否。その返答を受けて織田軍は高速城を包囲し、一気に攻め込んだ。戦いは乱戦となり、信忠は自ら塀の上で指揮をとったという。城側も織田軍の激しい攻撃に対して奮戦する。武田方の他の城は次々に織田方に下り、高速城…

【戦国時代の境界大名】遠山氏――宗家は滅亡後、残された一族による戦いの結末は?

…、信玄の跡取りである武田勝頼に正室として送り込み、しかもその翌年には自らの嫡男・信忠と信玄の娘の婚約まで取り付けたのだ。 ここまでしたのは、信長が戦国最強と謳われた武田軍団と信玄を恐れ、どうにかしてその侵攻を押しとどめようとしていたからにほかならない。この信長の思惑は、遠山氏としても都合のいいものだったはずだ。織田と武田が衝突すれば、間違いなく遠山氏も巻き込まれる。どちらにつくかを選ばなければならなくなり、そして選ばれなかった方はかならず力ずくで東濃に攻め込んでくる。遠山氏に…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…る。信玄の後を継いだ武田勝頼が天正3年に「長篠の戦い」で織田・徳川連合軍に敗れ、この時に武田の重臣が数多く倒れた。そのなかに、信綱・昌輝の兄弟がいたのである。真田氏は当主を失い、昌幸が家に戻って後を継ぐしかなかった。真田当主としての昌幸の役目は、父以来の上野国進出だった。北の脅威・上杉氏と武田氏の間には上杉謙信死後の天正6年に同盟が結ばれているので、相手にするのは関東の覇者・北条氏である。 天正8年、昌幸は北条氏が支配する沼田城(群馬県沼田市)を父譲りの謀略で攻め、周辺の城を…

【戦国時代の境界大名】諏訪氏――武田に滅ぼされた名族がその出自故に蘇る!

…た。結果、諏訪勝頼は武田勝頼となり、武田氏という重荷を背負うことになっていくわけだ。 ちなみに、勝頼は1571年(元亀2年)まで高遠城で過ごしたため、その家臣団には高遠・諏訪関係者が多い。このことは、のちに武田氏の家督を継承した後、譜代の家臣団と勝頼の仲が険悪になったことにも関わりがあると考えられている。本来あとを継ぐべきではなかった男が、他所から腹心を連れて当主となれば、それは古株にとっては面白くないのも当然である。 その後の諏訪氏 さて、話を諏訪の地に戻そう。1582年(…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…れていた時のことだ。武田勝頼との戦いに出陣している。その後もたびたび戦いに出て軍功を上げ、「本能寺の変」で織田信長が倒れた際には、堺(大阪府堺市)にいた家康の伴をして東海地方への脱出――いわゆる「神君伊賀越え」を成功させている。 その後も「小牧・長久手の戦い」、上田城(長野県上田市)の真田昌幸攻め、小田原攻めといった家康にとって主要な戦いにはことごとく参加した。とくに天下分け目の「関ヶ原の戦い」においては敵中突破を試みる島津軍と戦い、島津豊久を討ち取っている。また、家康は宿敵…

【戦国軍師入門】4.「戦略」と「戦術」の違い

…強な騎馬軍団を率いた武田勝頼も、長篠の合戦で父・信玄以来の有力な家臣を多数失い、その後は豪族たちがどんどん離反してあっけなく滅んでしまった。 大名を支えた豪族たちは必ずしも強固な忠誠心を持ってはいなかった。だから、御家騒動や総力戦での敗北といった、勢力が大きく弱体化するような出来事があると、事件そのものの被害以上に、味方の離反という手痛い出来事がその大名たちを待っていた。そのため、なんとしても味方の潰走を防がねばならず、またなんとかして敵を潰走させねばならなかったのが、戦国時…

岩村城 女城主が支えた城

…玄が病死。後を継いだ武田勝頼は1575年(天正3年)5月21日に織田信長と徳川家康の連合軍と長篠で対決し、大敗を喫した。信長は5月27日に岐阜に戻ると、嫡男の信忠に岩村城攻撃を命じた。対する岩村城方は2千余りの兵を率いて、勝頼の支援を期待しながら城を守った。決着はつかず、信忠は簡単には攻め落とせないと判断し、城兵たちが疲労するのを持っていた。 戦いは11月の上旬になっても決着はつかなかったが、ここで大きな動きがあった。岩村城側は近くの水晶山に陣する織田方を夜襲したが、織田氏の…

七尾城 上杉謙信の猛攻に耐えた城

…て、上杉謙信は隣国の武田勝頼、北条氏政、本願寺と和を結んだ。その後、織田信長を討伐して京を奪還すべく、足利義昭、本願寺、上杉謙信を中心に反信長包囲網が作られていった。急進的な信長を快く思わない勢力はいくつもあり、これまでにも反信長包囲網は築かれたが失敗に終わっていた。 1577年(天正5年)9月、上杉謙信は上洛の道を確保するため、越中ついで能登へと侵攻していた。12月には能登のほとんどを平定し、最後に七尾城攻略を残すのみとなった。謙信は城下の天神川原に陣を置き七尾城の攻略を進…

「麒麟がくる」第14回に登場した緒川城はどんなお城か

…たりするのでよくあることです。 kojodan.jp ちなみに水野信元はその後も信長の家臣として付き従うのですが、武田勝頼に通じた嫌疑をかけられると、信長の命を受けた徳川家康によって殺害され、そのときに緒川古城も廃城となりました。なお信元が裏切っていると信長に密告したのが佐久間信盛なのですが、のちに信盛が高野山に追放されると信長は信元の弟である水野忠守に旧領であるこの地を与え、忠守が築いたのが緒川新城というわけです。なかなかややこしい話になっていますね。 kojodan.jp

命を犠牲に味方を勇気付けた鳥居強右衛門

織田信長と武田勝頼が争った「長篠の戦い」といえば、信長が戦場に持ち込んだ大量の鉄砲といわゆる「三段撃ち」、また武田自慢の騎馬隊(これらについては信憑性が薄いともされているが)などばかりが有名だ。しかし、実は両軍が激突する少し前、長篠城をめぐる前哨戦の時点でもドラマチックなエピソードがあったのである。 長篠の戦いの焦点は、三河の要所である長篠城を武田が奪うか、織田・徳川が守りきるか、という点にあった。武田の大軍に取り囲まれた長篠城としてはなんとしても徳川家康の援軍を呼ばねばなら…

【戦国合戦こぼれ話】土木工事で勝つ(1)長篠の戦い

…死後に家督を継承した武田勝頼は、積極的な対外進出を繰り返していた。彼は1575年(天正3年)に三河の長篠城を攻め立てる。この地は信濃と三河を結ぶ要所にあり、かつて信玄が奪取するも、徳川家康によって奪回されていたのである。 これを放置できない家康と、その同盟者である織田信長は長篠城救援のため急行した。この際、長篠城からは鳥居右強衛門という武士が単身城を脱出して援軍と合流している。すぐさま城へ舞い戻った彼は、寄せ手に捕らえられたものの、自らの命を懸けて城内に援軍が来ていることを伝…

【協賛:東吾妻町】「真田氏上州の拠点 岩櫃物語」のご紹介

…越しくださりませ」と武田勝頼を招こうとしたのが岩櫃城です。 昌幸は岩櫃城を「鉄壁の守り」であると豪語しましたが、オープニングに使われた岩櫃山の映像(山頂の天守と滝はCG合成でした)を見ても天然の要害であることはよくわかります。ちなみに岩櫃城は江戸時代まで存続して、最後の城主(城代)は真田信之の家臣となった出浦昌相でした。『真田丸』の役者さんたちがどんどん目に浮かびますよね。 『真田丸』の思い出話はこのくらいにして、では真田氏が支配する前の岩櫃城の歴史はご存知ですか? そして真…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…ってますよね) また武田勝頼を悲劇の主人公として描いた点もよかったですよね。 新府城を捨てて小山田信茂の居城・岩殿城へ向かった勝頼が、信茂に裏切られたシーンは印象的でした。 第2回「決断」 信繁たち真田家の一行は岩櫃城へ向かいます。「信長の野望」の3Dマップが出てきたのもびっくりしましたね。たしかに平面の地図よりも、山をこえなければならない大変さが伝わってわかりやすいです。 野党に襲われた際に信繁は相手を斬り捨てることができず、信幸に「ためらうな。お前のためではない。一族のた…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

…年(天正元年) 7 武田勝頼、昌幸らを長篠城救援に派遣する。 4月、武田信玄が病死。武田勝頼が家督を継ぐ。 1574年(天正2年) 8 1575年(天正3年) 9 「長篠の戦い」で叔父(昌幸の兄)にあたる信綱、昌輝が戦死したため、昌幸が真田家に戻り家督を継ぐ。信繁は昌幸とともに岩櫃城に移ったと考えられる。 1576年(天正4年) 10 1577年(天正5年) 11 1578年(天正6年) 12 上杉謙信が死去。家督相続をめぐる「御館の乱」が起こり、上杉景勝が家督を継ぐ。 15…

『真田丸』のオープニングに備中松山城が登場

…よくて、あとやっぱり武田勝頼ですよね。あの悲哀のドラマを初回から見れるなんてほんとすごい。 で、ぼくが「おおっ!」って思ったのがオープニングです。ずっと静かなバイオリンの演奏で、いつババーンと盛り上がるのかと思いながら見てたけど、最後までおごそかな感じで終わりましたね。あとは映像。ドラマのシーンが挿入されるオープニングってひさしく見てなかった気がします。最近はCG中心のオープニングが多かったですからね。シーン挿入部はスタッフクレジットが表示されてなかったので、どうやらその日の…

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