攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

江戸城 の検索結果:

【サイン本プレゼントあり】「日本百城下町 ゆったり街さんぽ」のご紹介

…は攻城団で開催した「江戸城ガイドツアー」でもガイドをお願いしましたが、わかりやすい語り口は文章でも変わらず、とても楽しく読めました。「まえがき」を読むと黒田先生のお人柄が伝わるのではないでしょうか。 タイトルにあるとおり100の城下町を紹介しているので目次がすごいです! 中身も一部サンプル画像をいただいたのでご覧ください。 今回はこの「日本百城下町 ゆったり街さんぽ」を3冊プレゼントとしてご提供いただきました!(しかも黒田涼先生のサイン入りです!)応募はフォームから簡単にでき…

2023年に訪問して良かったお城

…に訪問) 小田原城と江戸城(11月にトーハクを見学するついでに訪問) このほか二条城は学芸員解説会と、「NAKED 夏まつり2023 世界遺産・二条城」の取材で2回訪問していました。初めて訪問したお城は前橋城と玄蕃尾城だけで、あとは再訪ですね。 合計すると9城(11回)という結果で、「攻城団の団長がその数字でいいの?」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ぜんぜんOKです。むしろこれは前年比で倍増しています。攻城団はもともとライフワークとして生涯楽しめる趣味としての城め…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いに出陣する前に江戸で誰にどんな手紙を出してるの?

…7月24日から、一度江戸城へ入り、そしていよいよ出陣する9月1日までの間に、122通を超える手紙を出したとされている。家康はこの無数の手紙によって味方の状況を把握し、敵を切り崩して、関ヶ原の戦いの勝利を掴み取ったのである。関ヶ原の戦いが毛利勢の不戦や、小早川秀秋の裏切り(近年はそもそも東軍側で、状況的に西軍につかざるを得なかっただけという説も有力だが)によって決着したことを思えば、家康はこの時の手紙攻勢によって天下を掴んだといっても過言ではあるまい。 ちなみに、通説では7月2…

【家康の謎】家康が関東に移ったときの江戸はどんな感じだった?

…道灌は軍事拠点として江戸城を整備しただけでなく、港町としても拡大させ、いよいよ江戸は関東の交通において欠かせない場所となるに至ったのである。 つまり、江戸は家康が入る以前から、立派に徳川家の本拠地となるに相応しい場所だったのだ。一方、小田原は水上交通の便ということを考えると江戸ほどではなかっただろうし、鎌倉は谷の中にある狭あいな場所だったので徳川家臣団を収めるほどの敷地がなかった。秀吉による指示も、そのような前提を踏まえての前向きな助言だったと考えられるわけだ。もちろん、江戸…

【家康の謎】三河譜代ってなに?

…される。また伺候席(江戸城における待合室)も譜代大名ならこことここ、外様大名ならこことここ、という具合に分かれた。 ここで予防線を張ったのは、譜代大名と外様大名の間にけっこう揺らぎというか、移動があるからだ。例えば仙石家は時期でいえば外様大名なのだが、当初は譜代大名扱いで、途中から外様大名に直されたのではないかという話がある。戸沢家のように時期的には外様大名のはずなのに江戸時代の最後まで譜代大名扱いの家もあった。また、賤ヶ岳七本槍のひとりとして有名な脇坂家は、譜代の名門(堀田…

【家康の謎】家康は勉強熱心だった?

…坂の陣の陣中においても、出版をどのように進めるか考えていたとされる(これは大勢が完全に決したという家康のゆとりから来ていたのかもしれないが)。 家康が集めさせ、また出版させた本は後世に残された。隠居の地であった駿府城には駿府文庫が作られ、これが御三家に三分割して譲られて、それぞれの家の文庫(尾張の蓬左文庫(ほうさぶんこ)、水戸の彰考館文庫(しょうこうかんぶんこ)、紀州の南葵文庫(なんきぶんこ))になった。また、江戸城にもこれとは別に富士見亭文庫(のちの紅葉山文庫)が作られた。

京都市考古資料館で「THE 金箔瓦」を見てきました

…認めらていますね。 江戸城 福嶋城(新潟県) 北ノ庄城 長浜城 二条城 熊本城 まあ秀吉の有力家臣+二条城なので不思議ではないかな。一方で伏見城は(指月と木幡山で)まとめてあったり、なぜか京都新城は入ってなかったです。2019年(令和元年)に京都御所の地下から金箔瓦が見つかったこともあり展示はもちろんあったのですが、城郭扱いしていないのかな。どちらも信頼に足る出典なので、とりあえず和集合を取って対象のお城を増やしておきました。 kojodan.jp 攻城団のローカルルールで一…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…美濃加納城、彦根城、江戸城、駿府城、丹波篠山城、名古屋城、丹波亀山城、伊賀上野城、越後高田城などを新たに築き、その他にも城の大改修を進めていきました。いわゆる豊臣包囲網です。 そんな折、1614年(慶長19年)にあの有名な事件が起こります。方広寺鐘銘事件で、大坂の陣の発端と言われています。方広寺は1586年(天正14年)に秀吉が造営したお寺で、1596年(慶長元年)の大地震で大破したものを秀頼が復興させていました。1614年に完成し、8月1日に大仏開眼供養、8月18日に大仏殿…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#3】

…の石垣と巨大な平城・江戸城と双璧を成す、東京都の山城です。そして甲斐上野城(椿城)のほうは、山梨の武田信玄のお母さんの実家といわれ、今も椿がたくさんある椿城という別名のとおりの城跡です。このふたつの城と城もなかは、どちらも印象的で心震える出会いとなりました。 八王子城の城もなか 「八王子城最中」(千松園) 八王子城もなかは、以前(かなり前の2019年)に、オススメの「城もなか」ベスト5(第2位)として紹介させてもらった城もなかです。また、お店にお邪魔して、この大好きな城もなか…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…るが予定通り21日に江戸城から出馬 7/25、小山評定開催 @小山評定はあったのか論争 会津征伐を続ける? 8/5、家康は江戸城に戻る 9/15、関ヶ原の戦い @合戦の場所、問鉄砲の有無(小早川秀秋が裏切ったタイミング)、松平忠吉の抜け駆けの有無、など論点があるらしい 9/25、毛利輝元が大坂城を退去 9/27、家康は大坂城へ入り、秀頼に戦勝報告 @あくまでも豊臣政権内部の政争 論功行賞。豊臣系大名は大幅加増となるも遠方へ。畿内と江戸を結ぶ東海道や要衝には重臣や一門を配置(結…

たかまる。さんの連載「家康の城」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…り、浜松城、駿府城、江戸城と歴代の居城に加えて、京都に築いた二条城と「清須越し」をおこなって城下町そのものから再構築した名古屋城を取り上げて、築城・改修の背景や縄張り、遺構の紹介などをとくに家康との関係を中心に書いていただきました。 事前にたかまる。さんには「まあ1時間程度ですよ」と説明していたんですけど、気づけば2時間半くらい話してましたね。でも見てる人はどうかわからないけど、ぼく自身めちゃくちゃおもしろかったです。見てる方も楽しんでいただけたらうれしいですし、もしおもしろ…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…間×18間と言われた江戸城天守に次いで第2位の巨大天守でした。一階から五階までの延べ床面積は江戸城よりも大きく史上第1位です。現存最大の姫路城天守と比べると2倍以上の大きさです。名古屋城天守は五重五階、地下一階であり、その南側に土塀で挟まれた橋台を設けて、二重二階地下一階の小天守と結ばれています。この形式を連結式といいますが、名古屋城はその典型例です。本丸は多門櫓で囲まれていましたが、天守には接続していません。これは火災による類焼を防ぐためのもので、全国でも初といえる防火区域…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…普請によって築かれた江戸城と家康時代の天守を最新研究結果から探ってみます。 江戸城を大城郭へ 山を切り崩して埋め立て、広大な土地を確保して大城郭とした 江戸城は太田道灌が築いた城と言われています。家康は、1590年(天正18年)の小田原征伐後に秀吉より東海五カ国から関八州への転封を命じられたため、それに従って江戸に入城しました。家康がまず手掛けたのは家臣団の配置です。江戸につながる主要な街道の入口には重臣を配置しました。つまり、上野国の高崎には井伊直政、上野国の館林には榊原康…

【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

…える構造です。これは江戸城でも見られる構造で、江戸城から慶長期の駿府城に引き継がれ、さらに後に誕生する名古屋城にも引き継がれた最新の枡形構造なのです。さらに、本丸の玄関前御門とその前面の馬出や、台所御門とその前面の馬出の構造は名古屋城に引き継がれているもので、石垣を用いた枡形門と武田流築城術の馬出を組み合わせた最新型の防御構造なのです。 1605年(慶長10年)に将軍職を秀忠に譲ると、1607年(慶長12年)2月に全国の大名に命じて駿府城の大改修が行われます。これは公儀普請(…

徳川将軍家の正室(御台所)の出身を調べる

…当たる。将軍の夫人が江戸城から外出することを許されたのはこの人から(家治の許しがあったから)だという。この話からも分かるとおり夫婦の関係は良好だった(祖父・吉宗の計らいによって結婚の7年前から倫子は江戸へ移って交流を持っていたから関係がよかったという話もある)が、倫子は早くに亡くなってしまう。子供も産まれているが両方娘で、またどちらも早くになくなっている(1歳と13歳)。 茂姫 【生年1773年〜没年1844年、結婚1789年】十一代将軍家斉の正室は「茂姫(しげひめ)」あるい…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…城を落として、家康も江戸城を出る。これとは別に家康の三男・徳川秀忠が、徳川軍の主力を率いて中山道を進んでいたが、なんとこの兵力が関ヶ原の決戦に参加することはなかった。信濃を進軍中に西軍・真田昌幸が籠もる上田城を攻撃したものの、昌幸とその子の幸村(これは通称で、実際の名は信繁)の知略に翻弄されて攻め落とせず、ここで時間を浪費したこともあって決戦に間に合わなかったのだ。 この遅刻に関しては、家康は最初から主力部隊を温存するつもりだったという説や、命令や天候のタイミングから考えて、…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり

…を握った徳川家康は、江戸城、名古屋城、二条城といった城々を、諸大名たちを動員する「お手伝い普請」「天下普請」によって石垣の城として築く。 またこの江戸時代初期には、全国の諸大名も本拠地の拡張・支城の建設に励み、ある種の築城ラッシュの時代が訪れる(ただし、東国では石材の確保が難しく、石垣の城は珍しかった、とも)。徳川家康と彼が作り上げた江戸幕府による支配が始まってはいたが、まだ大坂城には秀吉の遺児・秀頼がいた。一説には、この頃は江戸幕府と豊臣氏が共存して支配力を持つ「二重公儀体…

【10大戦国大名の実力】北条家③――誰が北条を名乗ったのか

…杉家の重要拠点である江戸城を奪ってからしばらくは両上杉家の強い抵抗を受けたが、1537年(天文6)には扇谷上杉家の居城である河越城を奪い取って、武蔵をほぼ制圧することに成功。上総・下総にも手を伸ばしている。また、父・早雲の代には今川家の家臣としてたびたび遠江へ遠征などしていた北条家だったが、その末期にはほぼ独立大名化しており、さらに氏綱の代になると状況によっては対立するようなこともあった。1537年には駿河の富士川より東の地域を欲する武田家と今川家が手を組んだことから、この地…

【10大戦国大名の実力】佐竹家②――戦国大名・佐竹家として

…、扇谷上杉家の重臣で江戸城を最初に作った人物として名高い太田道灌の曾孫にあたる太田資正が武蔵の所領を失うとこれを常陸に呼び寄せ、反北条活動を支援するなど、北条家の動きを抑えるための活動を欠かさなかった。 一方、北においても動きがあった。といっても、こちらは佐竹家主導のものである。義重が長年戦ってきた白河結城氏や蘆名氏との同盟を成立させ、岩城氏を従属させたことにより、佐竹・蘆名を中心とする軍事連合が、伊達家とその支持勢力を除く奥州南部のほとんど全ての勢力によって結成されたのだ。…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…6年(文明18年) 江戸城の乱 太田道灌を謀殺した上杉定正が、道灌の居城である江戸城に拠る嫡男・太田資康(おおた すけやす)を追放した事件 室町時代 1487年(長享元年) 第二次毛利次郎の乱 毛利・矢部定利らの国人衆は新守護・山名政実を擁立、再び反守護連合を構築して挙兵したが敗退 室町時代 1487年(長亨元年)〜1490年(延徳3年) 長享・延徳の乱(室町幕府vs六角氏) 荘園や奉公衆の所領を押領していた近江守護・六角行高(後の六角高頼)を幕府の威信回復を企図した9代将軍…

仇討ちの歴史について教わりました

…みのかみながのり)が江戸城内で吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に斬りつけ、切腹およびお家取りつぶしとなったのがそもそもの始まり。武士には喧嘩両成敗の原則があるが、このケースでは適応されないと幕府が判断し、吉良側はお咎めなしだった。赤穂藩の浪士たちはこのことを不満に思って仇討ちの準備をしつつ浅野家復興のための工作を進めたが、お家再興がうまくいかないと知るや報復を決意。四十七人の浪士が吉良を襲撃し、その首を取り、事件後に出頭して切腹した。 護持院原の敵討ち 幕末期に、…

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…名古屋離宮だった頃に江戸城(皇居)から移されたものだそうです。 歴史情報ルームやショップもすごい さっきの特別展は展示室で開催されていますが、じつは入口から入ったところにはミュージアムショップがあり、その奥には歴史情報ルームという展示コーナーがあります。 こちらのスペースは写真撮影もオッケーです 歴史情報ルームでは名古屋城の築城から400年にわたる歴史をパネルで紹介しているのですが、QRコードで多言語対応しているし、子ども向けの紹介も大人が読んでも勉強になる内容になっています…

【クーデターで読み解く日本史】2代続けて襲われた幕府の重鎮――坂下門外の変

…ったこと、また素足で江戸城へ逃げ込んだことなどが問題視され、信正は失脚してしまったのである。 これによって幕府主導の公武合体運動は頓挫せざるを得なかった。しかし、この後も薩摩藩をはじめとする雄藩主導によって幕府と朝廷の接近は進められ、また政略結婚であった家茂と和宮の関係は良好であり、後に家茂が病没した後も彼女は幕府に残り、徳川氏存続のために奔走することになるのだった。 暗殺の幕末維新史 桜田門外の変から大久保利通暗殺まで (中公新書) 作者:一坂太郎 中央公論新社 Amazo…

【クーデターで読み解く日本史】幕末の動乱の夜明けとなった暗殺劇――桜田門外の変

…しては珍しい雪の日に江戸城桜田門外で直弼の一行を襲撃した。直弼は彼らの倍以上の従者を従えていたが、いずれも傘を被り、視界は遮られていたので咄嵯に対応できなかったようだ。襲撃者の撃った銃が直弼に当たり、身動きが取れなくなったところを殺害されてしまったという。 幕府重臣を暗殺した彼らはあるいは襲撃の際に死に、あるいは行方をくらませ、あるいは捕らえられて処刑された。しかし「大老が暗殺された」という事実は幕府の威信を大いに傷つけ、また幕末の動乱期に数々演じられた暗殺劇の最初の一つとし…

【クーデターで読み解く日本史】寵臣の末路はいつの時代も同じ――田沼意次の追い落とし

…たぬま おきとも)が江戸城内で殺害された事件などもあって、この家治の死は意次の権力を失墜させる決定打となった。以前から意次と対立していた松平定信(まつだいら さだのぶ=彼は将軍家の出身でありながら、意次の画策で松平家に養子に出されて将軍になる資格を失っていた)や、家治の次に将軍となった徳川家斉(とくがわ いえなり)の父・治済(はるさだ)らは後ろ盾を失った彼をここぞとばかりに攻撃した。家治の死をめぐる事情から「意次が毒殺したのでは」と噂が立ったのも、意次にとってはマイナス材料だ…

【クーデターで読み解く日本史】死んでこそ、忠臣のほまれは保たれる――元禄赤穂事件

…(元禄14年)2月、江戸城内の松之廊下において浅野長矩(あさの ながのり)が「遺恨、覚えたか」と叫んで吉良義央(きら よしひさ)に切りかかったことだった。城内で刀を抜くことはご法度であるため、理由を詳細に聞かれることもなく長矩は切腹を命ぜられ、そのまま自刃している。一方、傷を負った吉良上野介義央はおとがめなしであった。 このような事情から、今日でも長矩が刀を抜いた理由ははっきりとは分かっていない。一般には「朝廷からの勅使接待を命じられた長矩が、各種儀礼を司る高家(こうけ)の義…

【クーデターで読み解く日本史】鬱積した浪人たちのエネルギーが暴発した事件――由井正雪の乱(慶安の変)

…その混乱の隙をついて江戸城に入り大義名分を得るため将軍を誘拐してしまおうというものだった。また、計画実行に当たっては軍学者を庇護していた紀州徳川家の頼宣(よりのぶ)の名を使ったともいう。しかし実際には計画の段階で幕府への密告があり、露見してしまう。かかわった浪人たちはすべて捕らえられ、処刑されてしまった。 それでもこの事件が幕府に与えた影響は大きかったようだ。末期養子(まつごようし=死ぬ直前に養子を取って家を残すこと)の禁止が緩和され、子がなくて改易、というケースが激減したの…

「全国入城者数ランキング」についての補足動画をアップしました

…キングでは、例年通り江戸城(=皇居東御苑の入園者数)が入っています。動画でも取り上げたように玖島城の大村公園は意外でしたが、2018年の数字が461,767人だったのでもともと多かったんですね(去年は不明)。御城印も売れてるみたいだし、攻城団のチラシや攻城記念缶バッジも置いていただいてるのでうれしかったです。無料で入れる公園ですし、オオムラザクラや花菖蒲などを見に来られてる人も多いと思いますが、こういう全国的にはまだまだ知られていないお城を紹介するきっかけのひとつになればいい…

【殿様の左遷栄転物語】田沼時代の終焉

…ん)という男によって江戸城内で殺害されてしまったことである。 原因は善左衛門の私怨(物の貸し借り、あるいは土地問題など諸説あり)、公憤(政治を望断する田沼親子許すまじ!)、乱心などさまざまな説があるがはっきりしていない。また、この事件に際しては意知の周囲にさまざまな人々がいたにもかかわらず善左衛門を積極的に静止するような動きが見られなかったことから、何らかの陰謀があったのでは、と考えることもできる。 これを機に庶民からも武士たちからも不満や非難が噴出するようになり、田沼政権の…

【殿様の左遷栄転物語】強運の男 徳川吉宗の時代

…分の子飼いの家臣団を江戸城に入れ、直臣とした。その数は200人あまり――とはいえ、家宣の時とは違い、10年にわたって少しずつ移動させたようだ。 特徴としては、小姓・小納戸といった将軍の身辺を担当するものたちが元紀伊藩士に総入れ替えされたこと、紀伊藩の広敷伊賀者(ひろしき いがもの)――すなわち忍者が直臣に取り立てられて御庭番(おにわばん)という新設の職につけられ、諸国の動静や役人たちの素性、世間の噂など、情報収集に励んだこと、そして側用人を廃上して御側御用取次(おそばごようと…

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