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…024年5月15日 結城城・福井城コラボ御城印 結城秀康生誕450周年記念 福井城(福井県福井市) 福井市立郷土歴史博物館、結城市観光物産センター、コワーキングスペース yuinowa 1000円 印刷 A5 2024年5月3日 山下城 御城印 山下城(兵庫県加西市) 常行院、加西市観光案内所 300円 印刷 2024年5月1日 上田城 御城印 令和六年春版 その2 上田城(長野県上田市) 眞田神社、上田市観光会館 300円 書置き A6 2024年4月30日 豊田城 御城印…
…万石(うち10万石は結城秀康のもの)へ移ったのがそのような豊臣政権内での立場によるものと考えられる――というのもまた、すでに見てきた通りだ。 最後に、大河ドラマにおける未来、関ヶ原の戦い後の徳川の領地を見てみよう。関ヶ原後、豊臣家の蔵入地(直轄領)の大部分および西軍諸大名の所領が没収され、それらは論功行賞に加えて徳川家の直轄地に当てられた。この関ヶ原戦後の徳川家の領地は一般に400万石とされる(徳川家の蔵入地ということだと、大坂の陣後だが約230万石という数字もある。おそらく…
…として送られ、のちに結城晴朝の養子になる。家康の跡を継いだのは三男・秀忠だ。その秀忠と同母弟の四男・忠吉はのちに関ヶ原の戦いで活躍するも、間も無く病に倒れてこの世を去った。五男・忠吉は武田家を再興させてその当主に据えられるも、彼もまた若くして亡くなっている。六男の忠輝は大きな所領を与えられたものの、大阪の陣での振る舞いを問題にされて改易、流罪に処された。その弟として松千代という子がいたが、幼くして亡くなっている。八男の仙千代は平岩親吉の養子になった後、こちらも幼くして亡くなっ…
…ことが多いのですが、結城氏の博打の話(博打・双六は喧嘩につながって治安が悪化するから禁止するという内容)のようにぜんぜん関係のないことを書いているものもあったりして、分国法がひとまとめに語れないことがよくわかりました。 分国法は戦国大名が独自権力を示すために作ったものだと思っていましたが、どうもそうではなさそうです。そもそも10前後の大名しか制定していないことを考えても、当時においても「なんらかの事情で必要に迫られた」大名のみが作っていたのかもしれません。 また偶然かもしれな…
… 家康も次男(のちの結城秀康)を人質として出すことに。石川数正の子(のちの石川康勝)と本多重次の子(のちの本多成重)が付き従った 秀吉と和睦する? 1585年(天正13年)、44歳 第一次上田合戦 @徳川・北条の和睦の条件(領土協定)は「切り取り次第」だったので、上野国沼田領について北条氏は真田から奪い取らなければならなかったが、真田昌幸は矢沢頼綱に沼田城を死守させる 家康は対上杉の最前線とするため、上田城の築城を支援している しかし督姫と氏直の婚姻が成立して同盟が結ばれると…
…るが現存せず、のちに結城秀康によって築かれた北ノ庄城(福井城)は勝家の城から北方へ200メートルほどの場所に築かれたらしい。 本能寺の変による織田信長の死後、勝家は羽柴(豊臣)秀吉との後継者争いを演じることになった。信長の妹を娶ることになったのも、その延長線上のことである。両者とその支持者による争いが激しくなる中、1583年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」が起こる。この戦いに敗れてしまった勝家は北ノ庄城に引き返したが、そこに追撃の秀吉軍が迫る。北ノ庄城側に援軍のあてはなく、敵…
…秀吉によって潰され、結城氏には家康の次男・秀康が入り(しかも彼はのちに松平姓に復姓した)、蘆名氏はついに復興を許されなかった。明確に敵対しなかった大大名をつぶすのはさすがの家康にもできなかったというのもあるだろうが、やはり佐竹氏側の外交努力がうまくいった、室町時代から諸勢力のあいだで生き抜いてきたバランス感覚がものをいった、と考えるべきだろう。 以後、佐竹家は秋田藩の藩主として幕末まで続いている。江戸時代の藩主としては中期に財政対策に奔走する一方で洋画家・小田野直武のパトロン…
…突のあった陸奥の白河結城氏を圧迫している。 「鬼義重」の活躍と苦難 時代が義昭からその子・義重の代へと移ると、佐竹家をめぐる運命はいよいよ風雲急を告げるものとなってくる。この時期は「鬼義重」の異名を持つ当主によって佐竹氏が絶頂を誇った時代であると同時に、最大の危機に陥った時代でもあった。 まず、南においては北条家の動きが活発化する。それまで繰り返し関東へ侵入していた上杉家が、味方の裏切りによって戦況が悪化すると、1569年(永禄12年)に突如として北条氏との間に同盟を結んでし…
…継いだ関係上、次男の結城秀康を始めとする兄弟や親族が新たな動乱の火種となる可能性があったのだ。 そんな中で政宗が接近したのが六男の松平忠輝(まつだいら ただてる)である。この人物は兄・秀康と同じく父・家康に嫌われた子だったが、政宗は彼を長女・五郎八姫(いろはひめ)の婿としている。この政略結婚自体は徳川家との接近を目指したものと考えられているが、その一方で政宗には忠輝及びその補佐役である大久保長安と結託しての幕府乗っ取り計画があったのでは、と見る向きもある。特に大久保長安は幕府…
…ある春王・安王兄弟も結城合戦で捕らえられて殺されたのはすでに見てきたとおり。しかし、持氏の四男である足利成氏(あしかが しげうじ)は兄たちとともに結城合戦に参加したものの助命されていた。そして1449年(宝徳元年)9月、鎌倉に入って鎌倉公方の座を継いだのである。 幕府としては不安定な状態が続く関東を治めるために新たな鎌倉公方を置いたのだが、これが逆効果だった。成氏としては父の仇である関東管領・上杉氏への憎しみを抑えきれなかったようで、また鎌倉公方派と関東管領派で関東の武士たち…
…かまつ みつすけ)が結城合戦の勝利を祝って義教を自らの屋敷に招き、宴もたけなわとなったところ、突然に数十人の刺客が現れて義教を殺害してしまったのである。この時、義教に同行していた者たちは果然として何もできず、また管領・細川持之(ほそかわ もちゆき)らはすぐさま逃げ出してしまったという。 もちろん、その犯人は赤松氏であった。満祐やその子の教康(のりやす)らは刀に刺した義教の首を掲げ、屋敷に火を放って、本拠地へ戻ったとされる。犯行の動機は義教への不信感であった。当時、義教が赤松氏…
…年) ○室町幕府 ×結城氏朝 永享の乱の後、関東に広く支配力を及ぼすことになった関東管領・上杉氏だったが、すぐさまこれに対する反発が具体的な形を取った。結城合戦である。 発端は1440年(永享12年)、足利持氏の遺児である春王(はるおう)・安王(やすおう)兄弟が持氏派の残党に担ぎ出される形で挙兵したのだ。そして彼らの呼びかけに応え、反上杉勢力を結集させる役目を担ったのが下総国の国人・結城氏朝(ゆうき うじとも)である。さらに少なくない数の関東武士が氏朝に味方したが、やはり関東…
…い出た。しかし、義教がこれを許さない。もともと彼は残忍で執念深い気質の持ち主であり、「万人恐怖」と恐れられるような男だった。そんな彼が長年のライバルを許すはずもない。結局、1439年(永亨11年)2月、憲実は持氏を攻め、火を放っての自害へ追いやらざるを得なかったのである。 こうして四代にわたって続いた鎌倉公方は途絶え、鎌倉府も一時消滅することになった。しかし持氏の遺児がまつわる内乱はこの後も結城合戦に享徳の乱と続き、関東地方は他地域より先に戦国時代へと突入していくことになる。
…端は頼朝の乳母の子・結城朝光(ゆうき ともみつ)が「景時が朝光に謀反の疑いがあると将軍様に耳打ちした」という話を耳にしたことだった。朝光は頼朝に可愛がられており、頼朝が亡くなったことを追想しつつ、今の政治に対して不安を感じている旨を話していた。この発言が景時によって謀反と取られたようなのだ。 慌てた朝光が友人に相談すると「仲間を作って署名をし、景時を排除するよう働きかければいい」ということになった。頼朝の寵愛をバックに強い力を振るった景時に不満を持つ者はたくさんおり、結果とし…
…ありながら、豊臣家、結城家に養子に出ていたこともあって、徳川の家督を継承しなかった秀康には本多富正(ほんだ とみまさ、3万9千石、府中城主)が付けられ、秀康の子・忠直の代になってさらに本多成重(ほんだ なりしげ、4万石、丸岡城主)が付けられた。 このふたりは本多一族の定通流出身で、成重の父・本多重次(ほんだ しげつぐ)は「鬼作左(おにさくざ)」の通称や「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」の手紙で知られている。また、その重次の甥が富正である。彼はかつて、秀康とともに豊…
…秀康が豊臣家、さらに結城家に養子へ出ていて、徳川の家督を継ぐ権利を失っていたからと考えられる。 こういう価値観が当たり前の時代だから、当主が死ねばしばしば当たり前のように兄弟が家督を争って戦うことになった。織田信長は弟の信行(信勝)と二度にわたって争った上に死に追い込んでいるし、長尾景虎(上杉謙信)は家督を継いでいた兄・晴景と対立し、最終的には自分が兄の後継者になるという形でその家督を奪っている。武田信玄が父・信虎との関係が悪化して家督を弟に譲られそうになったので父を追放した…
…・秀康は豊臣氏および結城氏に養子に出されたので家督を継ぐ資格を持たなかった。結果、三男・秀忠が家督を継承して2代将軍となり、以後この血筋が徳川宗家として代々の将軍職を継承していくことになる。 また、家康の子のうち年少の3人――すなわち、9男の義直(尾張藩)、10男の頼宣(紀伊藩)、11男の頼房(水戸藩)はそれぞれ大大名として立てられ、特別な権威を与えられた。彼らは徳川(松平)一族である親藩大名の中でも特に別格の存在として「御三家」と呼ばれた。御三家はときに幕政へ介入するような…
…戸幕府の温情で一族から養子を迎え入れ、能登国羽咋郡西谷(石川県七尾市)1万石での存続を許された。その後、2度の加増を経て下総結城藩主(茨城県結城市)となり、1万8千石の大名として幕末まで続いている。 水野の一族はこれだけではない。まず大名家が合計で四家、他の有名どころとして御三家の一つ紀伊徳川家の附家老として大名さながらの活躍をした家がある。加えて、旗本家も大小含めて多数存在する。「神君家康公の母君ご出身の家」として敬意が払われた結果と考えていいだろう。 kojodan.jp
…馬の連合軍と、白河(結城)・岩城の間の合戦が、婚姻政策でのトラブルから始まっている。江戸時代に記された相馬氏の史書『奥相茶話記』によると、顕胤は稙宗の依頼を受けて、稙宗の子・晴宗と岩城重隆の娘の間の婚姻を取りまとめた。ところが、重隆は約束を破ってその娘を白河氏に嫁に出そうとしたため、面目を潰された顕胤が大いに怒って岩城氏に攻め込んだ――という。結局この戦いは伊達・相馬側の勝利に終わり、岩城側が謝罪して改めて婚姻を取り結ぶことになった。 伊達氏天文の乱の衝撃 このできごとからも…
…い 徳川家康の次男・結城秀康の子である松平忠直は1607年(慶長12年)に父の死を受けて家督を継ぎ、68万石を譲り受けた。忠直の「忠」の字は将軍・秀忠から一字を賜ったものであり、また1611年(慶長16年)には秀忠の三女・勝姫を正室に迎えており、彼の「特別扱い」がよくわかる。 この時の騒動は、重臣同士の勢力争いだった。まず、領地問題から領内で1万石を有する久世但馬と、町奉行の要職にあった岡部自休が対立。これがきっかけとなり、藩内の派閥抗争が激化する。すなわち、但馬が所属してい…
…徳川家康の次男である結城秀康、そして三男である徳川秀忠の孫にあたり、御三家に次ぐ名誉ある血筋を引く人物であった。それだけに、この事件は注目されることとなったのである。 事件の発端は光長の嫡子が亡くなり、後継者を巡る争いが起きたことだった。家老の小栗美作は光長の異母妹を妻にしていたことから、わが子の小栗掃部を藩主にしようと企んだという(反対派による流言とも)。これに対し、荻田主馬は光長の異母弟である永見大蔵を立てて、これに対抗した。この争いの背景には、もともと美作の政治が傲慢な…
…城で、徳川家康の子・結城秀康の居城だ 彦根城跡(滋賀県)も天下普請で作られた城 駿府城跡(静岡県)は徳川家康の隠居城 名古屋城(愛知県)は豊臣包囲網の最大の城として、天下普請によりつくられた まとめ 慶長期の築城ブームは関ヶ原の戦いがあった慶長5年(1600年)から慶長20年(=元和元年、1615年)までの15年間でした。この築城ブームによって建築技術の飛躍的な進歩があり、また全国に伝播するなどして現在のお城のイメージである近世城郭が一気にピークを迎えたのです。この頃建てられ…
…小山氏 串本、古座 結城城 高川原氏 古座川下流 泰地氏 太地町 太地城 堀内氏 那智、新宮 勝山城、藤倉城 野長瀬氏 近露 鬼城氏 本宮 西氏 熊野川中流 鵜殿氏 熊野川下流東、紀宝町 鵜殿城 この表は、レジュメをもとに私が作成したものです。(灰色マス……国の史跡に指定された城) 熊野は、世界遺産にも登録されている、熊野三山と参詣道があります。表に示した武士団の他に、那智山実報院、廊之坊、新宮熊野七上綱などといった熊野三山社家勢力があります。「社家」とは、特定の神社の祭祀を…
…(天明5年)に江戸の結城座にて上演され、わが子を犠牲にしても幼君を守りぬくという、忠義に尽くす乳母の姿が人気を呼んだ。 また志賀直哉の『赤西蠣太』という作品は、主人公の赤西蠣太が宗勝や宗輔の悪事を暴くため、隠密として宗勝の屋敷に仕えているという設定になっている。1936年(昭和11年)に映画化され、時代劇には珍しく風刺の色が強いのが特徴で、好評を博した。このような娯楽の影響により、宗輔は長い間、悪者として見られていた。しかし山本周五郎の『樅ノ木は残った』は、藩の権威が落ちてい…
…して本多家、奥平家、結城家、榊原家、酒井家といった有力かつ武断派の譜代大名を配置したほどである。 1619年(元和5年)、幕府は大坂を直轄地とする。同年、広島藩の福島正則が無断で城の石垣を修理したとして領地没収となり、浅野家がこれに代わることとなった。そして、空いた紀伊に徳川頼宣が送られ、ここに御三家のひとつ、紀伊徳川家が誕生する。四国・九州も当初は外様大名に占められていたが、伊予・今治に久松松平家を置くなど、諸大名の監視をするために幕府の軍事拠点が築かれた。 その他、外様大…
…、2代将軍秀忠の兄・結城秀康を祖とする越前松平家、3代将軍家光の弟・保科正之を祖とする会津松平家、6代将軍徳川家宣の弟で・松平清武を祖とする越智松平家などが代表例だ。逆にいえば、家康とその父系の末裔から分かれたものだけが親藩で、松平一族であっても「十八松平(十四松平)」のような家康以前から分かれた一族や、家康の娘・亀姫を迎えて松平を名乗った奥平松平家などは譜代大名である。 また、石高が1万石未満の者も、いくら徳川家に長く仕えていようと譜代大名とはされない。彼らは「直参」とされ…
…地内 こうの 関東 結城城跡公園(結城城) 茨城県結城市結城 亀城公園(土浦城) 茨城県土浦市中央1-13 鹿島城山公園(鹿島城) 茨城県鹿嶋市城山1-1 龍城公園(大田原城) 栃木県大田原市城山2 黒羽城址公園(黒羽城) 栃木県大田原市前田977 お丸山公園(倉ヶ崎城) 栃木県さくら市喜連川 祇園公園(小山城) 栃木県小山市本郷町1丁目 城山公園(佐野城) 栃木県佐野市若松町504 沼田城址公園(沼田城) 群馬県沼田市西倉内町594 城之内公園(小泉城) 群馬県邑楽郡大泉町…
…城、騎西城、小山城、結城城、臼井城、和田城、小田城など膨大な数になります。北条方ではありませんが宇都宮城や富山城などでも有名な合戦が行われていましたので興味のある方は行ってみて下さい。 所在地 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31 アクセス 車の場合、横浜横須賀道路「朝比奈IC」から5km 電車の場合、JR「鎌倉駅」東口より徒歩10分、または江ノ電「鎌倉駅」より徒歩10分 富山城 晩年の謙信が苦心したのが越中、越前の平定でした。富山城もそのひとつで何度も裏切りに合いその度に出兵し…
…ており、次男の秀康は結城家の養子になっていたため、最も有力な後継者候補は三男の秀忠だった。しかし、関ヶ原の戦いにおける秀忠は徳川本隊ともいえる大軍勢を率いながら決戦に遅刻し、その評価を大いに下げていたのである。ここで忠吉が大きな活躍をすれば、後継者の座を奪い取れる可能性は決してゼロではなかった。つまり、直政は娘婿のために大博打を仕掛けたのではないか、というわけだ。 結果から見れば、残念ながら直政の賭けは上手くいかず、家康の後継者の座を得たのは秀忠だった。おそらく直政も分の悪い…