攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

徳川家康 の検索結果:

【10大戦国大名の実力】北条家⑥――北条家は減亡を回避できたか?

…述べている通りだし、徳川家康は三河・駿河・遠江から関東へ移された。この扱いに家臣団からは強い不満が出たというが、家康は「むしろ将来の天下取りには有利だ」として抑えたという。そして実際、家康は関東で巨大な勢力を築き上げ、ついに天下を取ってしまった。その背景には、北条家の旧家臣団や組織力を吸収することができた、という事情もあったのではなかろうか。 ひるがえって北条家の場合を考えてみよう。氏政・氏直が早い時期に降伏した場合、間違いなくどこかへ国替えを命じられたはずだ。その時、北条家…

【10大戦国大名の実力】上杉家⑥――その後の上杉家

…った。 秀吉の死後は徳川家康のかけた「上杉は謀反を企んでいるのではないか」という疑いと、これに対して景勝の側近として政治を取り仕切っていた直江兼続の出した手紙「直江状」が、関ヶ原の戦いのきっかけになってしまう。この戦いにおいて景勝は西軍側として最上家、伊達家などと戦うも、西軍は敗北。上杉家はどうにか米沢30万石への減封で許され、以後は米沢藩として幕末までその血をつなげることになる。 江戸時代においては、関ヶ原後の減封時に積極的なリストラを行わず、家臣の多くをそのまま残したこと…

共通テストで昔の人の名前に「の」が入るか問題が出てた

…解できます。 たぶん徳川家康とかもうちょっと時代があとの人を例にしたほうが無難だったかもしれませんが、そのあとに小野妹子と北条政子の比較から「子」という字がかつては男性名に使われていたという問題があるのでしょうがないかな。(もっとも本人が「北条政子」を名乗った記録はないそうですが) 攻城団では教科書の読みあわせ勉強会をやってます ちなみに今回の共通テスト、ぼくの合計点は75点でけっして自慢できるほどの高得点ではないのですが、自分としては成長を感じることができる結果でした。とい…

【10大戦国大名の実力】伊達家④――地方勢力の栄光と悲哀

…して一枚岩ではなく、徳川家康の三男・秀忠が跡を継いだ関係上、次男の結城秀康を始めとする兄弟や親族が新たな動乱の火種となる可能性があったのだ。 そんな中で政宗が接近したのが六男の松平忠輝(まつだいら ただてる)である。この人物は兄・秀康と同じく父・家康に嫌われた子だったが、政宗は彼を長女・五郎八姫(いろはひめ)の婿としている。この政略結婚自体は徳川家との接近を目指したものと考えられているが、その一方で政宗には忠輝及びその補佐役である大久保長安と結託しての幕府乗っ取り計画があった…

【10大戦国大名の実力】伊達家①――地方勢力の栄光と悲哀

…生き残り、豊臣秀吉、徳川家康という天下人と渡り合い、江戸時代を通して続く仙台藩の礎を築いた一代の英雄、伊達政宗。彼は天性のパフォーマーであり、印象的なエピソードをいくつももって、人々に親しまれている。 さらに彼は、豊臣秀吉の政治体制確立中だけにとどまらず、徳川家康による江戸幕府が成立してからも、おのれの野望をおさめなかった。そのアグレッシブな人柄も、人気の秘密であろうか。信長や秀吉によって戦国の動乱が終焉を迎えようとしていた時期に頭角を現し、強大な敵に対してあらん限りの策謀を…

戦国時代のはじまりと終わり

…仁の乱の前後」から「徳川家康が死去した1616年」まで 二木(ふたき)先生監修の「戦国時代のすべてがわかる本」では「応仁の乱」から「大坂の陣=豊臣家滅亡」まで。より詳細には「東国では北条早雲による伊豆平定(堀越公方の滅亡)、西国では明応の政変(将軍排除)で戦国時代へ突入」とある 小和田先生監修の「戦国史」では「応仁の乱」から「足利義昭の追放」まで。ただしこれは義昭追放後を「安土桃山時代」としているため。また「一般的には」とことわりがあり始期と終期に諸説あることを補足しつつ、巻…

【10大戦国大名の実力】戦国大名と「家」の基礎知識

…豊臣家を支える力などあるはずもない。結果として、信長亡き後には織田家が崩壊して秀吉が台頭し、秀吉亡き後には豊臣家が崩壊して徳川家康が台頭した。しかし、家康は天下を掌握したすぐ後に息子の秀忠に地位を譲り、さらに全国の諸大名の力を削った上に自分が死ぬ直前になって豊臣家を滅ぼし、「徳川家」を安定させた上で死んだ。 こうして戦国の乱世は終わり、太平の江戸時代がやってくることとなったのである。そこに至るまでのダイナミックな歴史のうねりなども、本書で少しでも感じ取っていただければ幸いだ。

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…へ 最初にあるのが「徳川家康坐像」(名古屋城総合事務所蔵)です。(以下、とくに記載のないものはすべて名古屋城総合事務所の所蔵品です) そのとなりが重要文化財の本丸御殿障壁画「松楓禽鳥図(まつかえできんちょうず)」です。 表書院の襖絵で、秋を描いたということでこの絵が選ばれたとのことです。おそらく名古屋城所蔵の障壁画でもっとも有名なのは狩野探幽の「雪中梅竹遊禽図襖(せっちゅうばいちくゆうきんずふすま)」で、去年東京国立博物館で開催された特別展「桃山―天下人の100年」でご覧にな…

【クーデターで読み解く日本史】鬱積した浪人たちのエネルギーが暴発した事件――由井正雪の乱(慶安の変)

…正雪 大坂の陣直後に徳川家康が亡くなり、2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光と順調に代替わりが行われ、支配体制が完成に向かっていったのが江戸時代初期である。 さて、その家光が亡くなった1651年(慶安4年)の頃、江戸で問題になっていたのが浪人問題であった。関ヶ原の戦い以来、幕府に逆らったり、落ち度をとがめられたり、そして跡継ぎがいなかったりといった事情で数多くの大名が改易され、残った諸大名も経済的な圧迫を受けて新たな家臣など雇えない状態にされていた。これは徳川氏の支配を安定…

【クーデターで読み解く日本史】天下泰平のための犠牲――大坂の陣

…年(慶長20年) ○徳川家康 ×豊臣秀頼 江戸幕府を開き、征夷大将軍となった徳川家康だったが、豊臣秀頼が目の上のたんこぶとして立ちはだかっていたのは事実である。家康は征夷大将軍になってからわずか2年でその地位を息子の徳川秀忠に譲りつつ、自らは大御所として実権を掌握する体制を構築する。これは名目だけでもトップが交代することで「天下人としての家康の立場は、幼い秀頼の代わりに預かっているのではなく、徳川氏のものだから息子に譲るのだ」というアピールにほかならない。 逆に言えば、そのよ…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…0年(慶長5年) ○徳川家康 ×石田三成 1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が亡くなった。彼は天下統一に成功したが、一方で朝鮮出兵を二度にわたって行うも失敗し、一度は後継者に選んだ甥の豊臣秀次を実子・豊臣秀頼の誕生後に失脚させて殺すなど、晩年には失政が目立ったのも事実だ。そんな彼は死に際して豊臣政権の要である五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)に誓詞(せいし=誓約の書類)を提出させ、まだ幼少の息…

【クーデターで読み解く日本史】覇王の夢を打ち砕いた三日天下の野望――本能寺の変

…ある。信長の同盟者・徳川家康の接待に際して不手際を責められて恨みに思ったことなどに起因するという怨恨説。実は光秀自身もまた天下を狙っていたのだという野望説。この頃光秀が取り組んでいた四国の長宗我部氏との交渉が信長の方針転換で頓挫し、またほかの有力重臣の中に失脚させられるものがいたことなどから、自分の立場を危ぶみ、それを守るために反逆したのだとする保身説。かつて信長に将軍として擁立されたものの、後に対立して追放されてしまった足利義昭(光秀はかつて彼の家臣だった)をはじめとする何…

【殿様の左遷栄転物語】強運の男 徳川吉宗の時代

…川家臣だった。やがて徳川家康の小姓を経て徳川家宣に付き従い、以来代々紀伊藩士だったのが、久通の代に直臣へと戻ることになったわけだ。同じく吉宗の側近としての活躍を評価され、伊勢国八田藩1万石を与えられた。一度転封を経験したが、こちらも明治維新まで続いている。 この両者は対照的な性格をしていたようで、氏倫は「人喰犬」にたとえられてしまうようなきつい性格の持ち主であったのに対し、久通はあくまで温厚な性格であったという。また、このふたりがあくまで1万石の大名にしかならなかったのは注目…

【殿様の左遷栄転物語】徳川家宣の時代 間部詮房

…原家の流れで、やがて徳川家康の祖父である松平清康(まつだいら きよやす)に仕え、詮房の父・清貞の代には家宣の父である綱重の家臣になっている。そして、この家系はここまでに何度も苗字を変えている。 しかも、清貞は猿楽師(ここでは能役者のことを示すと思われる)だったのである。もちろん、その子の詮房も幼い頃から猿楽師としての訓練をつんだ。やがてその容貌を評価されて家宣の小姓になり(ということは、両者に衆道的関係があった可能性もある)、また彼の命で「間部」を名乗るようになった。家宣の寵…

【殿様の左遷栄転物語】尾張藩付家老と水戸藩付家老

…になる。うち、信吉は徳川家康の小姓から出世を重ね、家康の十一男・頼房の付家老に任じられた。小姓出身とはいえ他の付家老たちとは家の格がまったく違い、異例の大出世としての付家老であったとされる。 ちなみに、頼房の後継者として光圀(いわゆる「水戸黄門」のモデルになった2代目藩主)を選んだのは、時の将軍・家光の命を受けた信吉であったという。信吉以後、中山家の所領は長く1万5千石であったが、10代目の信敬の代に2万5千石へと加増されている。このように所領が少なく、また付家老としての特権…

【殿様の左遷栄転物語】第4章 付家老の悲哀 関連企業へ出向した役員は?

…幼い頃から初代将軍・徳川家康のそばに仕えた者たちである。しかもその多くが、長じてからは家康の側近として活躍していた。家康は将軍を引退して大御所となり、江戸から駿府に移った後も、幕府の実権を握り続けたわけだから、その側近ともなれば実質的な政権の中枢だ。 家康がそのような人材を「御附家老」として送り込んだのは、それほど重要な役割だったことの証左といえよう。尾張・紀伊・水戸の三藩はそれぞれ地政学上重要な位置を占める大藩であり、かつ家康の子を祖とする。しかも彼ら三藩の祖は3代将軍・家…

【殿様の左遷栄転物語】3章まとめ 後継者問題の難しさ

…ている。彼の妻として徳川家康の異母兄弟にあたる松平康元の娘で家康の養女にもなった満天姫を迎えているから、この時点では正之を後継者にするつもりだったのは間違いない。 ところが、やはりこちらも実子の忠勝が生まれてしまったので、実の子供を後継者にしたい養父と追い詰められていく養子の関係は悪化していった。そして、正之は荒れた。「道行く人や周囲の家にわけもなく鉄砲を撃った」「義父である正則の葬儀の真似事を行った」というから尋常ではない。これに対し、正則は彼を殺し、改めて忠勝を嫡子とする…

【殿様の左遷栄転物語】「したたかな男」藤堂高虎の息子 藤堂高吉

…臣政権の有力者である徳川家康にも接近していた。実際、関ヶ原の戦いが起きると、豊臣系大名の切り崩しに奔走するとともに関ヶ原の決戦でも活躍し、大きな戦功をあげた。結果、伊賀・伊勢への転封を命じられ、1608年(慶長13年)に津城に入った。 その後、大坂の陣での功績により伊勢国内に5万石を、2年後にはさらに5万石を加増され、合わせて32万4千石弱を領する大名となった。これはもともとの築城術の達者という側面もさることながら、機を見るに敏なその才覚に与えられたもの、と考えていいだろう。…

【殿様の左遷栄転物語】無念の長府藩主 毛利秀元

…戦後処理においても、徳川家康はこれを奪えなかったのである――というのだ。 しかし、実際には1595年(文禄4年)輝元と側室の間に男子が誕生して、やがて秀元はその子・秀就に後継者の座を譲ることとなってしまった。豊臣政権が秀吉の死で揺れつつも健在だった頃なので、この逸話は面白いが信憑性は怪しい、というべきだろう(もし本当なら、豊臣政権を慮って、秀元のままにしたのではないか?)。 当主を補佐するも、対立を招く 翌年、輝元が関ヶ原の戦いで西軍について敗れたため、毛利家は防長二国に減封…

【殿様の左遷栄転物語】「神君の婿」 池田輝政の子供たち

…は羽柴秀吉についたが徳川家康との戦いの中で息子とともに討ち死にし、生き残った次男の輝政が跡を継いだ。この輝政が徳川家康の娘。督姫を継室にもらって「神君の婿」と呼ばれたのはすでに紹介したとおりである。 さて、関ヶ原の戦いで東軍側について戦功をあげ、またその後も幕府に対して忠実であり続けた輝政は、徳川家との密接な関係もあって、広大な所領(一族全体で92万石!)を与えられた。そのため、輝政を「西国将軍」「姫路宰相100万石」などと呼ぶ声さえあったという。 池田家の複雑な経緯 池田家…

【殿様の左遷栄転物語】二重に抱えた複雑な事情 佐賀藩鍋島家

…が低く、一方で勝茂は徳川家康の養女・高源院を継室に迎え、ふたりの間に忠直という男子が生まれた。結果、元茂は廃嫡され、代わりに祖父である直茂の隠居分として領していた土地と、直茂と勝茂からそれぞれ家臣とを譲られて、小城藩の基礎が築かれたのだった。また、鹿島鍋島についても、忠茂の家系が継承していたのに、本家からの強引な養子話がこじれる形で対立が起き、ついに忠茂の子・正茂は鹿島の領地を捨て、父が幕府から与えられていた所領を継承して旗本になるにいたった、という事情がある。 このような経…

【殿様の左遷栄転物語】伊達政宗の長男が設立 宇和島藩伊達家

…だ。かくして、政宗は徳川家康に配慮して、秀吉の猶子である秀宗ではなく、次男で正室の子である忠宗に本家である仙台藩を継がせた、というわけである。もちろん、秀宗が側室の子で立場が弱かった、というのもこの判断に加わっただろう。 財政問題に苦しんだ宇和島藩 宇和島藩主となった秀宗は、家康に命じられて大坂夏の陣には出撃せず、藩政に力を注いだ。しかし藩政には、財政難という大きな問題が最初から存在していた。これは、秀宗が宇和島藩を立ち上げる際に父・政宗から6万両もの借金をしていたからである…

【殿様の左遷栄転物語】第3章 廃嫡される跡継ぎ 派閥争いのとばっちり左遷

…れるのが普通だった。徳川家康の跡を継いだのは三男の秀忠だが、これは長男の信康がその時点ですでに死んでおり、また次男の秀康が豊臣家、さらに結城家に養子へ出ていて、徳川の家督を継ぐ権利を失っていたからと考えられる。 こういう価値観が当たり前の時代だから、当主が死ねばしばしば当たり前のように兄弟が家督を争って戦うことになった。織田信長は弟の信行(信勝)と二度にわたって争った上に死に追い込んでいるし、長尾景虎(上杉謙信)は家督を継いでいた兄・晴景と対立し、最終的には自分が兄の後継者に…

【殿様の左遷栄転物語】返り咲きを期待して決断 柳生宗矩

…る宗矩は父に推されて徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後に2千石を与えられた。さらに2代将軍・秀忠の兵法師範(剣術の師匠)とされ、大坂の陣では秀忠の本陣を守って活躍した、ともいう。 一説には柳生家は近隣の伊賀の忍者たちと親しく、そこから密偵的な仕事をしたのではないか、ともいう。実際、宗矩はのちに「惣目付」という役職につけられているが、これは諸大名や旗本の様子をはじめとする天下のさまざまなことを監視し、報告することが役目で、まさに忍者・密偵的な仕事だ。茶道や華道などの各種教養を通じて…

【殿様の左遷栄転物語】名将の息子の愚かさが潰した 会津藩加藤家

…河一向一揆に加担して徳川家康に反旗を翻したため、国を離れることになった。その後は将軍である足利義昭、そして秀吉へと主君を替えた。しかし秀吉の死後、徳川家康に急接近、関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦っている。 1627年(寛永4年)、陸奥国会津藩の藩主・蒲生忠郷が子のないままに死去したため、代わって嘉明が40万石を与えられ、会津に入ることになった。この地はかつて秀吉が五大老の1つである上杉家を配置し、また徳川家が家康の孫にあたる忠郷を配置したことからわかるように、東北の大名たちに…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

…とともに、豊臣秀頼と徳川家康の会見――いわゆる「二条城会見」実現に尽力し、両者の緊張関係を一時的ながらも緩和させることに成功している。しかしそれからわずか3カ月後、清正は急死してしまう(死因は脳溢血とも、あるいは中風の類とも)。豊臣家が滅亡するのは、それからまた数年後、1615年(元和元年)のことである。 息子の代で崩れていく熊本藩 清正の跡を継いだのはまだ11歳の息子・虎藤だった。彼は当時の将軍・徳川秀忠から一字を貰い受けて忠広と名乗ったが、まだ幼いので幕府によって派遣され…

足利家の通字はなぜ初代「尊氏」に含まれない「義」なのか

…盛の「盛」)、のちに徳川家康も自らの子どもに義直(尾張家)や頼宣(紀伊家)など「義」や「頼」の字を使っています。 長男の信康は織田信長から、次男・秀康と三男・秀忠は豊臣秀吉から一字をもらっていますが、それ以降は自分が天下人となったので誰に遠慮することもなく源氏ブランドの通字を使ったのでしょう。なお秀忠や忠輝・忠吉の「忠」の字は祖父・松平広忠からだそうで(家康も祖父の清康から「康」の字をもらっている)、もともと松平家は「忠」と「康」を交互に使っていたようです。 このように一族の…

【殿様の左遷栄転物語】波乱万丈の再興 木下勝俊と滝川雄利

…るようになり、秀吉と徳川家康が小牧・長久手で戦ったあとの和睦交渉や、秀吉の妹・朝日姫が家康のもとに嫁ぐ際の付き添いなどで働いている。これらの功績を評価される形で、伊勢国神戸に2万5千石を与えられた。関ヶ原の戦いでは西軍について所領を没収されたものの、3年後には再び大名に取り立てられ、常陸国片野藩2万石を与えられている。合戦・内政のそれぞれに功績を残している人物ではあるが、前述したような逸話に見られる優れた交渉力を評価された、と考えるのが妥当であろう。 実際、その跡を継いだ息子…

【殿様の左遷栄転物語】15年を経て再興 岩城貞隆

…交のある大名も多く、徳川家康・秀忠といった将軍たちの覚えもめでたかったから、再興活動もやりやすいところがあったのかもしれない。 実は、彼ら以上に苦労し、改易から15年を経てようやく再興にこぎつけた苦労人大名がいる。その名は、岩城貞隆(いわき さだたか)。岩城家は平繁盛(平安時代に関東で反乱を起こした平将門の従兄弟)の末裔にあたり、陸奥国の磐城地方に大きな勢力を持っていた一族である。戦国時代には常陸国の佐竹家と結んで仙台地方の伊達家と激しく争ったが、時の当主・常隆は豊臣秀吉の北…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…る。東は本多忠勝――徳川家康の下で50を超える戦いに参加し、1度も手傷を負わなかったという豪傑だ。これほどの男と並び称されたのは、その頃20代の若武者ながら、忠義の心と武勇の両方をそろって称えられた傑物――それこそが宗茂だ。 ちなみにこのふたりは秀吉によって引き合わされて意気投合し、年長者の忠勝がさまざまな話を聞かせるようになった、と伝わる。その中に「上の立場の人間は下の人間の短所がよくわかるが、だからといってそのまま責めてしまっては相手の逃げ場がなくなってよくない」という話…

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