攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

三河 の検索結果:

【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦!

…武田信玄による遠江・三河侵攻作戦の一環で行われたものです。高天神城は徳川方の小笠原氏助が城主でした。1572年(元亀3年)2月、信玄は2万の大軍を引き連れて甲斐を出発、高天神城の東10kmの塩買坂(しょうかいざか)に陣を張り、籠城する小笠原氏助と対峙します。しかし10月21日までには降伏して開城しました。その後、信玄は西へと向かい、三方ヶ原の戦いへと進んでいきました。高天神城では家康は直接対決することはありませんでしたが、なかなか苦しい時期であったことは間違いありません。 第…

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

武田勝頼の三河侵攻により勃発した徳川と武田の激突、長篠設楽原の戦いです。「鉄砲三段撃ち」や「武田騎馬軍団vs鉄砲隊」の話が取りざたされますが、戦いに至る流れやその後の動きなどを見ることによって、真の長篠設楽原の戦いが見えてくると思います。今回はこの戦いに迫ります。 ※長篠合戦、長篠の戦い、長篠役など呼び方がいくつもありますが、本稿では長篠城での戦いと設楽原での決戦を合わせた「長篠設楽原の戦い」と表記しました。 長篠城の攻防と設楽原での激突 長篠城の攻防と、設楽原での激突。長篠…

【家康の謎】家康はなぜ今川家でそんなに優遇されたの?

…平広忠が死んで家康が三河に不在だった時期、三河の上級武士たちは家康を通り越して義元と直接主従の関係を結んでいたのだが、家康は1559年(永禄2年)にこの上級武士たちと関係性を結び直していたことがわかっている。もちろんその家康の上には今川の重臣がいて、さらには義元がいるわけだが、家康が通説で語られるような宙ぶらりんの苦しい立場にいたわけではないことがわかっていただけるのではないか。 では、どうして義元は家康を厚遇したのか。これについて「義元はもともと松平氏の三河支配体制を解体し…

【家康の合戦】三方ヶ原の戦い 家康惨敗!信玄にコテンパンにやられた戦い

…康の所領である遠江・三河を攻めてきました。1572年(元亀3年)10月のことです。このとき家康は31歳でした。武田信玄本隊は本拠地の躑躅が崎館(つつじがさきやかた)から大軍を率いて出陣し、駿河から遠江に侵攻しました。西に進んで天竜川沿いを北上して二俣城を包囲し、別動隊と合流して11月晦日に開城させました。 家康は浜松城を居城としており、三河と遠江を平定していました。三河へ向かう武田軍を迎え撃つために兵を出していたので、浜松に残った兵は8,000人程度だったとされます。一方で信…

【家康の謎】家康のお母さんはどんな人だったの?

…かた)という女性で、三河刈屋城主・水野忠政(みずの ただまさ)の次女にあたる。そんな於大の方がなぜ広忠に嫁ぐことになったのか。これは(当時の戦国大名なら当然のことだが)全くの政略結婚である。 水野氏は尾張・西三河の南に伸びた知多半島に根を張る国衆であり、地理的な事情から松平――ひいてはその裏にある今川につくか、あるいは織田につくかを迫られる立場にあった。この時、忠政は松平を、その嫡男の信元(のぶもと)は織田を選んで両者に対立が生まれたものの、最終的に父の意見が通って、於大の方…

【家康の謎】家康のお父さんはどんな人だったの?

…らだ。清康はもともと三河の安城城を拠点にしていたが、同族の岡崎松平氏を攻めて岡崎城を奪い、ここを拠点とした。以来、合戦を繰り返して勢力を拡大し、もともとの西三河だけでなく東三河、さらには尾張にまで進出。織田信秀(信長の父)とも戦っている。 ところが、清康はその戦いの中で突如として死んでしまう。尾張・守山城を攻めている最中、家臣・阿部弥七郎(正豊)に殺されてしまったのだ。これを「守山崩れ」と呼ぶ。弥七郎が突然主君を殺したのは、陣中で馬が逃げる事件があり、その騒ぎを「父が処刑され…

【家康の合戦】桶狭間の戦い 家康の大きな転機となった戦い!

…戦いは、駿河・遠江・三河を領有し、強大な力を持つ今川義元を、尾張の武将である織田信長が打ち破った戦いとして有名です。当然のことながら、織田信長のサクセスストーリーとして描かれることが多い戦いですが、家康(この当時は松平元康)も大きく関わり、そしてターニングポイントになった戦いとしてもよく知られています。ここでは、元康がどのような働きをしながらどのようなターニングポイントを迎えたのかを見てみましょう。 大高城兵糧入れと丸根砦の攻撃 桶狭間の戦い前夜の情勢(国土地理院地図をもとに…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…たため、今川氏真は西三河の家康よりも北条家支援を優先したため、独自の兵力では信長に勝てない家康は和睦・同盟を余儀なくされます。氏真が嫌いとか信長が好きといった「情」ではなく、氏真は頼りにならないので信長方につかざるを得ないという「理」での選択です。こんなふうに「別の選択はそもそも可能だったのか」という観点でも話をしています。 なお番組の最初ではぼくが子供の頃に出版された「学研まんが人物日本史 徳川家康」をもとに従来説と最新学説を紹介しました。 kojodan.jp 今川家に行…

【家康の謎】家康はなぜ織田家にいたの?

…る。背景には、今川寄りの人物である松平信孝(まつだいら のぶたか)と広忠の対立があったともされる。織田・今川のどちらとしても本音として三河が欲しいため、ある程度松平の力を削ることについては同意が成立したのだろうか。 とはいえ、織田・今川が対立していたのは間違いない。二年後に織田方が占領していた三河の安城城が今川方によって落城すると、この時に捕虜にされた織田信広(おだ のぶひろ=信秀の長男、信長の異母兄)と家康の交換が成立し、今度は家康は今川へ送り込まれることとなるのであった。

榎本秋先生の最新刊「超約版 家康名語録」の出版記念ライブを生配信しました

…成させた人物列伝。 三河物語(みかわものがたり)江戸時代初期に旗本の大久保忠教(おおくぼ ただたか。通称の彦左衛門で有名)の著作。大久保忠世(おおくぼ ただよ)の弟。 常山紀談(じょうざんきだん)備前岡山藩主・池田氏に仕えた徂徠(そらい)学派の儒学者・湯浅常山(ゆあさ じょうざん)の著作。江戸時代中期の人物。 武野燭談(ぶやしょくだん)1709年(宝永6年)に成立した歴代将軍や老中など約100名の言行録。著者は木村高敦(たかあつ)が有力とされる。 武功雑記(ぶこうざっき)肥前…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…えて、遠江、さらには三河にまで手を伸ばし、今川義元の時には「東海一の弓取り」と呼ばれるに至った。・その義元が長年に渡って三河・尾張を巡って争っていた相手が尾張の弾正忠織田家であり、言わずと知れた信長の家だ。また、今川の傘下に取り込まれたのが三河の有力国衆・松平氏の元康、のちの徳川家康である。・1560年の桶狭間の戦いは、過去の通説では「義元が上洛を目指して尾張へ進軍し、その途中の信長と戦った」とされていた。しかし近年はあくまで尾張の支配権をめぐる争いであると考えられるようにな…

【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

…方が南方へ押し出して三河付近まで攻め込みました(犬山城の戦い、岩崎城の戦い、長久手の戦いなど)。浜松城から岡崎城を経由して小牧山城に陣を張っていた家康はなんとか秀吉方を押さえることに成功しましたが、勝ちきるところまではいかず終戦となりました。その後、万が一、秀吉が襲来した場合を想定して守りを固めることが必要となったのです。さらには重臣の石川数正が秀吉のもとへ出奔し、徳川軍の戦略や城の構えまでもが筒抜けになってしまったことも大きな要因となりました。 こうしたことから、秀吉領国か…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…た。 五か国領有へ(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃) 先にも述べた通り、武田の滅亡により織田家臣団が武田領である甲斐・信濃を押さえるための作戦行動を行っている最中に、日本全土を揺るがす大事件「本能寺の変」が起こりました。織田家臣団は旧武田領から逃げるようにして自国へ引き上げていきましたが、その後に甲斐・信濃を取り込んでいったのが徳川家康です。三河・遠江・駿河に加えて甲斐・信濃の5か国を領有するまでに一気に勢力を拡大しました。これもすべて浜松城在城時に起こったことです。駿府城に移…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…いえば、岡崎城に近い三河・小豆坂(愛知県岡崎市)で三河の今川・松平氏と尾張の織田氏が激突した小豆坂の戦いが起こった年です。この年に家康は岡崎城で生まれたのです。幼名は竹千代。 独立 6歳の時に松平氏の人質として今川家に送られることとなりました。しかし、移動の最中に田原城主・戸田康光が裏切り、尾張の織田家へと送られて2年間人質となります。その後、織田信広と竹千代との人質交換により駿府へ送られて今川の人質となりました。今川家のもとで元服して松平元康となった後、今川義元軍の先陣とし…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…の義季(よしすえ)が三河国の額田郡細川郷に移って細川を名乗った。のちに細川氏の本家は「京兆(けいちょう)家」と呼ばれたが、これも唐名に由来する。 畠山氏 足利一族ではあるが、ちょっと特殊。「畠山」の名は鎌倉時代初期に相次いだ紛争で北条氏により滅ぼされた武蔵の名族・畠山氏に由来する。北条義時はその父・時政の命で畠山重忠を滅ぼしたが内心忸怩たるものがあり、彼の妻(時政の娘)を足利義純(よしずみ)と再婚させて畠山氏の名を継がせた。 赤松氏 播磨の武家。村上源氏の流れを汲み、鎌倉時代…

【戦国軍師入門】本多正信――武断派に嫌われながら幕府を守った、家康の懐刀

…63年(永禄6年)に三河(現在の愛知県東部)で一向一揆が勃発し、多くの一向宗門徒の臣下が家康に逆らって一揆に参加した時、正信もまたその中にいた。この一揆自体は翌年には鎮圧され、多くの臣下が家康の元に戻る中、彼はそのまま三河を出奔してしまった。正信は一揆勢の中で軍師を務めていたため、他の者と同じようには戻りにくかったのだろう。 その後、一向宗が「百姓の国」を実現していた加賀の国などを経て、正信は家康の元に帰還する。帰還の時期については諸説あり、1569年(永禄12年)もしくは1…

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

…頂期には駿河・遠江・三河から尾張の一部(現在の静岡県、愛知県東部及び愛知県西部の一部)を支配した、当時有数の勢力を持つ戦国大名だった。武田信玄が激しく警戒し、家康の前に「海道一の弓取り(東海道で一番の武将の意味)」と呼ばれ、「天下に最も近い男」とも呼ばれていた男、と言えば彼がどれほどの人物であったのかが伝わるだろうか。その今川義元の師であり、軍師でもあったのが太原雪斎(たいげん せっさい、崇孚(そうふ))だ。 義元は駿河の名門今川家の当主・今川氏親(いまがわ うじちか)の五男…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台②――信玄と家康、虚虚実実の駆け引きが繰り広げられた城・浜松城

…進出した徳川家康が、三河・遠江二ヶ国の支配拠点として、さらには甲斐の武田信玄と駿河の今川氏真(いまがわ うじざね)との戦いに備えるために築いたのが、三河の浜松城(静岡県浜松市)だとされる。この地に元は引馬城(ひくまじょう・ひきまじょう)という城があったが、これを奪った家康がその西に大規模な平城を築いたのが始まりだ。 浜松城に迫った最大の危機、それは1572年(元亀3年)の武田氏による侵攻だった。信玄は軍をいくつかに分けて遠江・三河を蹂躙した。そして信玄の本隊が浜松城に接近した…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ④――後詰決戦と野戦築城で守られた城・長篠城

…長篠の戦い」も、実は三河の長篠城(愛知県新城市)という城をめぐる後詰決戦だったのである。 長篠城はそのころ今川氏に属していた菅沼元成によって築かれ、その後菅沼氏の居城となっていた平城である。この城は二つの川の狭間の断崖に存在し、川を堀代わりにした、いかにも戦国時代風の城であったようだ。菅沼氏はもともと奥三河山岳地帯に勢力を持つ豪族たちのリーダー的存在であり、信濃と三河を結ぶ交通上の要所であるこの地に城を築いたのも、それゆえであろう。とはいえ、一国を支配するレベルの大名の視野に…

【10大戦国大名の実力】織田家②――尾張における下剋上と弾正忠織田家の台頭

…国外へまで延び、東は三河へ進出して松平氏や今川氏と戦い、北は美濃で斎藤氏との勢力争いを繰り広げた。しかし、残念ながら信秀自身はそうした勢力拡大が大きな成功を収める前に42歳で死去した。 信長の活躍と死 信秀の死後、いよいよ信長の活躍が始まる。信秀は生前に国内の有力勢力である清洲・岩倉の両織田家や斯波氏を叩くようなことをしなかったため、没後には国内の勢力が次々と離反していくことになった。そのため、家督を継いだばかりの若き信長は尾張国内で自身と対立する他の織田氏や尾張国人との戦い…

【10大戦国大名の実力】武田家④――源氏の名門のプライド

…来の方針を引き継いで三河・遠江方面に積極的な攻勢を掛けた。とくに信玄の死の翌年、父も落とせなかった遠江の高天神城を攻め落としたことは、彼の武名を高くし、家康を追いつめることになった。 だが、勝頼は次第に織田・徳川連合軍の圧力に負けて勢力を衰退させていく。その大きな要因としてよく語られるのが、1575年(天正3年)の長篠の戦いだ。三河の要所・長篠城を攻めた勝頼は、援軍としてやってきた信長・家康両雄の軍勢と対決。多勢の敵に対して果敢に攻めかかる。しかし、大量の新兵器・鉄砲と、柵や…

【10大戦国大名の実力】武田家③――クーデターにより家督を継承した信玄

…力を減じるとこの同盟を破り、新興勢力の徳川家康と手を結んで侵略し、駿河を手に入れる。また、これに加えて西上野・飛騨・東美濃といった地域も手に入れており、その勢力はさらに巨大なものとなっていった。 そして1572年(元亀3年)、将軍・足利義昭の要請に応えて、信長包囲網の重鎮として上洛のために出陣し、その途上の三河では徳川家康を三方ヶ原の戦いで一蹴してしまう。ところがここで体調が悪化し、信濃へ戻ったものの病状が回復することはないままに翌年、駒場の地でその生涯を終えることになった。

【10大戦国大名の実力】北条家⑥――北条家は減亡を回避できたか?

…って、尾張・伊勢から三河・駿河・遠江へ移るよう命じられたが、代々の領地を離れることを嫌がった末に、領地を奪われて下野へ流されてしまった。 もちろん、拒否したケースばかりではない。伊達家や上杉家が国替えを受け入れたことは本コラムの別項で述べている通りだし、徳川家康は三河・駿河・遠江から関東へ移された。この扱いに家臣団からは強い不満が出たというが、家康は「むしろ将来の天下取りには有利だ」として抑えたという。そして実際、家康は関東で巨大な勢力を築き上げ、ついに天下を取ってしまった。…

【殿様の左遷栄転物語】綱吉の独裁、牧野成貞

…内宿禰の子孫とされ、三河守護の一色家に仕えていたのが家康に属するようになり、譜代の家臣として活躍。特に牧野康成は「徳川十七将」に数えられるほどの人物で、家康・秀忠といった初期の将軍たちから厚い信頼を受け、家康の「康」の字をもらっている。本家は幾度かの転封後に越後国長岡藩6万4千石に定着し、明治維新にいたった。 一方、康成の3男・儀成は寄合旗本として5千石を受け、その子の成貞は神田御殿の綱吉に仕えるようになった、というわけである。幕府重鎮であった堀田正俊の死を受けて、幕政に大き…

【殿様の左遷栄転物語】紀伊藩付家老ーー安藤直次の悲劇

…満政の流れで、尾張・三河にまたがる勢力を有する国人である。家康の母・於大の方がこの家の出身であり、水野家は織田信長についたことから、織田・徳川の間を取り持つ役を果たした。この一族のうち、於大の方の弟・忠分の子・重仲(つまり、母方の従兄弟にあたる)は幼いうちから家康のそばに仕え、やがて頼宣の後見役を命じられることになる。 水野一族は彼らのほかにも幕府内に多く存在したこと、そしてもとは松平(徳川)と同格の国人であり名門という意識があったことが原因なのだろうか。重仲とその子の重良は…

【殿様の左遷栄転物語】尾張藩付家老と水戸藩付家老

…む一族で、放浪の末に三河に定着し、早い時期から松平(徳川)氏に仕えた。付家老としての初代である成瀬正成(なるせ まさなり)は家康の小姓から出発し、やがて側近として駿府の大御所政治で重要な役割を占めるようになる。家康の九男である名古屋藩主(のちに尾張藩主)義直の傅役にもついていたが、この頃には家康の信頼厚い平岩親吉(ひらいわ ちかよし)が義直の付家老を務めていた。その後、親吉が病没したために同僚の竹腰正信(たけのこし まさのぶ)とともに付家老となり、以後代々尾張藩の付家老を世襲…

【殿様の左遷栄転物語】一代の英雄死して山形藩は……最上義光

…である。 本人たちにはそれぞれに事情があろうとも、こんな「子供の喧嘩」をされては、幕府の堪忍袋の緒も限界である。結果、義俊は改易され、近江・三河に1万石を与えられた。義俊は近江国で大森藩を成立させ、子の義智がそのうちの5千石を継いだ。当時の義智はまだ2歳だったため、成人したのちに残りの5千石を受け取るという約束だった。しかしその約束は果たされず、以降最上家は大名に準ずる官位を持つ高家とされた。また、義俊の次男・義長の家系は旗本となり、代々江戸に居住して将軍のそばに仕えている。

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

…らの側近であったが、三河一向一揆では一揆側について、反乱鎮圧後に出奔。各地を渡り歩いた末に家康の元へ戻り、以後は謀臣としてさまざまな場面で活躍した、という。1582年(天正10年)に本能寺の変が起きて同盟者である織田信長が死んだ際、家康は京にいた。そのために苦労して伊賀を通過して本拠地へ戻ることになり、これを「神君伊賀越え」というのだが、その背景には正信の奔走があった――などという話まであるのだ。 そんな正信が亡くなったのは1616年(元和2年)のこと。家康の死からわずか49…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名① 小田原藩大久保家

…が転封となると、忠職の養子・忠朝の代でついに小田原藩に返り咲いたのだった。これが1686年(貞享3年)のことであった。この後、大久保家は小田原藩に根を下ろし、明治維新までここをおさめることとなる。 ちなみに、「天下のご意見番」として知られる講談や時代劇のヒーロー、大久保彦左衛門は忠隣の叔父にあたる。彼は正信ら文治派によって日陰に追いやられた忠隣や自らのような武断派の鬱屈を、家康の軍記物語である著作『三河物語』に叩きつけ、これが当時のベストセラーになって現代にまで伝わっている。

【殿様の左遷栄転物語】名将の息子の愚かさが潰した 会津藩加藤家

…の、嘉明の父・教明が三河一向一揆に加担して徳川家康に反旗を翻したため、国を離れることになった。その後は将軍である足利義昭、そして秀吉へと主君を替えた。しかし秀吉の死後、徳川家康に急接近、関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦っている。 1627年(寛永4年)、陸奥国会津藩の藩主・蒲生忠郷が子のないままに死去したため、代わって嘉明が40万石を与えられ、会津に入ることになった。この地はかつて秀吉が五大老の1つである上杉家を配置し、また徳川家が家康の孫にあたる忠郷を配置したことからわかるよ…

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