攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

今川義元 の検索結果:

【家康の謎】家康の領地の石高はどのくらいあった?

…万石も獲得。かつての今川義元と同じ駿遠三の三カ国にまたがる所領を獲得する。単純計算すれば70万石で、ここまで来れば押しも押されもせぬ大大名と言ってよかろう。 本能寺の変で信長が死ぬと、家康は空白地になった中部へ進出。甲斐・信濃も含めた五カ国、120万石を自らの領地として手中に収める。信長時代の末期には織田政権傘下の大名と化していた徳川だが、信長死後のこの時期には再び独立大名として天下人にもなりうる存在になっていた。しかし秀吉との対立を経て臣従し、豊臣政権における東国の押さえと…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…60年(永禄3年)、今川義元が織田信長に討ち取られると、今川領である駿河・遠江は戦乱の舞台となりました。新当主・今川氏真に見切りをつけた、甲斐の武田信玄は、今川氏から独立した徳川家康と共に、1568年(永禄11年)に旧今川領へ侵攻したのです。信玄と家康は、大井川を境に「遠江は徳川領、駿河は武田領として旧今川領を分け合う」と密約を交わし、互いの領国から侵攻しました。 この共同侵攻により、協力関係にあった信玄と家康でしたが、遠江の領有をめぐって軋轢が生じ始めます。信玄との戦いを想…

【家康の謎】家康の正室・側室は何人いたの?

…であり、またその母は今川義元の妹とされる(諸説あり)ことから、家康と今川家を深く結びつける意味を持っていたことはここまでにも見てきた通りだ。 その築山殿が悲劇的な死を迎えた7年後、家康は新たな正室を迎え入れた。それが朝日姫――豊臣秀吉の実の妹である。この人は佐治日向守という武将に嫁入りしていたとされるが、他ならぬ兄・秀吉の命令によって離婚させられ、改めて家康の正室として送り込まれることになった。背景には当時の情勢がある。この頃、家康と秀吉は対立状態にあり、小牧長久手の戦いでは…

「分国法ってなに?」の動画を公開しました

…。大河ドラマのように今川義元の薫陶を受けた家康なら「徳川かな目録」を作っていてもおかしくはないのですが。(一方で武田信玄は「今川かな目録」を参考に「甲州法度之次第」を作っている) 分国法ってそもそもなんなのかもよくわかってなかったので、 分国法とはどういうものなのか おもな分国法にはどんなのがあるのか なぜ分国法を作ったのか(メリット・デメリット) などについて榎本先生に整理していただきました(以下、引用部は榎本先生のメモより)。 分国法とは 戦国大名が家中(家臣団)を取り締…

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…という人は太原雪斎や今川義元にはじまり、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉と多くの人からさまざまなことを学んだのだろうと思います。 余談ですが高天神城を紹介する際の定型句にもなっている「高天神を制する者は遠江を制する」という言葉の出典はご存知ですか?掛川市のサイトにも 1571年、遠江への侵攻を本格的に開始した信玄は、「高天神を制する者は遠江を制する」と言われた徳川方の高天神城をものにすべく攻め入る。https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyo…

【家康の謎】家康は何回名前を変えてるの?

…、今川氏の当主である今川義元が自分の名前のうち一字、「元」を分け与えたのである。これを「偏諱(へんき)を賜う」という。主君から偏諱を賜うのは名誉なことであり、ある種の褒美でもあったはずだ。有名なところでは、のちの室町幕府初代将軍・足利尊氏のケースがある。彼は元々「高氏」という名前であったのが、鎌倉幕府打倒に活躍した際、これを喜んだ後醍醐天皇の諱である「尊治(たかはる)」から一字をもらい、尊氏と名乗るようになったのだ。 その後、家康は1557年(弘治3年)から翌年(弘治4年)の…

【家康の謎】家康はなぜ「家」の字を選んだの?

…。元康の「元」の字は今川義元からもらったもの(偏諱)であり、松平と今川の強い関係を示すものだ。その偏諱の文字を捨てるというのは両者の決別を示すものだ――というのが通説的理解だ。 では新しく選んだ「家」の字は何に由来するのか。それは「八幡太郎」こと源義家である、というのが知られている説だ。義家は平安時代後期に起きた前九年の役・後三年の役の頃に活躍した武士で、源氏が東国において「武家の棟梁」と認められるにあたって大いに貢献した人物のひとりである。なるほど、のちに征夷大将軍となる家…

【家康の謎】家康は桶狭間の戦いのあと、なぜ駿府に戻らなかったの?

桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、家康は大高城を引き払って故郷の岡崎へ向かった。ところが父の城であった岡崎城には入らず、まず松平氏の菩提寺である大樹寺へ入る。当時の岡崎城には今川方の城代が入っていて、家康がそのまま入ることはできなかったからだ。その城代が駿河の方へ引き上げていく。つまり「捨てた」ということだ。捨て城であるなら拾ってしまっても構わないだろう――そのように理論武装、言い訳を用意した上で、家康は岡崎城に戻った……以上が、いわゆる通説における家康の岡崎城への帰還…

【家康の謎】大高城の兵糧入れってそんなに大変だったの?

…桶狭間の戦いに先立つ今川義元による一連の尾張圧迫において、大高城は熱田にも近い重要な前線基地と見なされていた。逆に言えば敵(この場合は織田氏)からの激しい攻撃にさらされる危険な場所でもあった、ということだ。実際、大高城は敵方が築いた丸根砦・鷲巣砦に囲まれ、危険な状態になっていたのである。包囲されれば兵糧・物資の補給が困難になり、士気も下がり、ついには落城ということになりかねない。ここに支援を送るのは今川方にとって急務であり、その役目を与えられたのが若き家康だった、というわけだ…

【家康の合戦】三方ヶ原の戦い 家康惨敗!信玄にコテンパンにやられた戦い

…遠江を領国としていた今川義元が桶狭間の戦いで敗れて討死します。桶狭間の戦いがあったからといってすぐに今川家が滅亡したわけではなく、義元の跡を継いでいた今川氏真が支配をつづけていました。ここで武田信玄は家康と密約を結び、大井川を境として東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領にしようと画策し、攻め取ることにしたのです。 1568年(永禄11年)12月に信玄は駿河に侵攻、家康もすぐさま遠江に侵攻し、約束通り大井川を境として奪い取ることに成功しました。これまでは武田と徳川は協力関係にあり…

【家康の合戦】桶狭間の戦い 家康の大きな転機となった戦い!

…有し、強大な力を持つ今川義元を、尾張の武将である織田信長が打ち破った戦いとして有名です。当然のことながら、織田信長のサクセスストーリーとして描かれることが多い戦いですが、家康(この当時は松平元康)も大きく関わり、そしてターニングポイントになった戦いとしてもよく知られています。ここでは、元康がどのような働きをしながらどのようなターニングポイントを迎えたのかを見てみましょう。 大高城兵糧入れと丸根砦の攻撃 桶狭間の戦い前夜の情勢(国土地理院地図をもとにたかまる。が作成) 1560…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…の人質になったとか、今川義元が上洛しようとしていたとか、桶狭間の戦いは奇襲だったとか、40年以上前に出た本なので現在では否定されている説が多く採用されています。 番組で使用したスライドを並べておきます。赤字はぼくのメモです。 そのあとあらためて家康の生涯を振り返りつつ、分岐点になったかもしれないポイントをいくつかピックアップして榎本先生とあれこれ話をしました。これも詳しくは動画を見ていただきたいのですが、事前に用意したあんちょこを貼り付けておきますね。ちょっと長いですがご容赦…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…ようは桶狭間の戦いで今川義元は討死したものの今川家は滅亡していないので有名な合戦での大敗は大名家の滅亡と直接は関係していないんじゃないのかという仮説の検証をおこないました。 もちろん例外はあって、蘆名家のように摺上原の戦いで伊達家に敗れるとそのまま滅亡してしまったケースもあるのですが、姉川の戦い(1570年)で敗れた浅井家・朝倉家の滅亡は3年後、長篠の戦い(1575年)で敗れた武田家の滅亡は7年後、上述の今川家にいたっては桶狭間の戦い(1560年)からなんと9年後に滅亡と、い…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…松平元康となった後、今川義元軍の先陣として桶狭間の戦いに出陣します。この戦いによって義元が打ち取られて今川が敗走すると、今川の手に渡っていた岡崎城に入城しました。さらには今川より独立していきます。その後は、今川義元を打ち取った敵であり、元康にとっても敵方となっていた織田信長と和睦して清洲同盟を結び、家康の手で三河を平定することに成功したのです。 徳川家康への改名 元康は1566年(永禄9年)に、源氏の一族である新田氏から連なる徳川復姓と従五位下(じゅごいのげ)・三河守(みかわ…

徳川将軍家の正室(御台所)の出身を調べる

…(つきやまどの)」。今川義元の重臣の娘で、母親は義元の妹とされる。つまり、家康が今川氏の家臣団の一員であった頃に、今川の結束を高めるための結婚であったということ。ところが義元は桶狭間で討死し、家康は今川から独立して戦国大名化を進めるので、その中で築山殿の立場は微妙なものになったであろうことが想像できる。結婚は政治手段の一つだが、敵味方は切り替わりやすい状況に置かれている、戦国大名、戦国武将にありがちなことではある。家康と築山殿の間に生まれた信康と、その妻として迎えた織田信長の…

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

今川義元といえば「桶狭間の戦い」で信長の奇襲に敗れた人、というイメージしかないかもしれない。だがこの今川義元、実は絶頂期には駿河・遠江・三河から尾張の一部(現在の静岡県、愛知県東部及び愛知県西部の一部)を支配した、当時有数の勢力を持つ戦国大名だった。武田信玄が激しく警戒し、家康の前に「海道一の弓取り(東海道で一番の武将の意味)」と呼ばれ、「天下に最も近い男」とも呼ばれていた男、と言えば彼がどれほどの人物であったのかが伝わるだろうか。その今川義元の師であり、軍師でもあったのが太…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ④――後詰決戦と野戦築城で守られた城・長篠城

…とこれに従う。次に、今川義元の死後に徳川家康が三河を統一するとほかの三河国人と同じように彼に従い、甲斐の武田氏が三河・遠江に侵攻して徳川氏の領地を一気に切り取る中でその軍門に下る。というようにその時その時の状況に合わせて有利な側につく、典型的な小豪族の立ち回りをしなければならなかったのだ。そのように苦労して立ち回ったものの、武田信玄の死後に奪われていた領国を奪回するために進出を繰り返していた家康の手から逃れることはついにできなかった。1573年(天正元年)に徳川の大軍が長篠城…

【10大戦国大名の実力】斎藤家③――下剋上から滅亡まで

…ぼ統一し、また強敵・今川義元を倒した後なので、喜んで美濃攻めの兵をあげた。織田軍と斎藤軍は森部で激突し、織田の圧勝に終わった。ところが、勝った方の織田軍も斎藤軍の粘り強い抵抗にあって致命傷を与えるまでのことはできなかった。義龍がきっちり美濃の国人衆をまとめあげていたことが、彼の死後にも生きたのであろう。 こうして再び織田と斎藤がにらみ合う状態になったわけだが、どうやら龍興には祖父や父のような才覚が欠けていたらしい。長じてから放蕩にふけったという話もある。実際、彼の代から斎藤氏…

【10大戦国大名の実力】斎藤家②――父殺しの義龍

…なかったこと、さらに今川義元が虎視眈々と尾張を狙っていたことなどが挙げられる。信長は義父の仇を討つことを望んでいたかもしれないが、「それどころではなかった」わけだ。 一方の義龍も、美濃国内の安定化を優先したのか兵を挙げて尾張に攻め込みはしなかったが、信長の異母兄・信広と共謀して清洲城を乗っ取らせようとしたり、岩倉織田家を支援したりと、謀略の形で信長を追い詰めていた。こうした部分には道三譲りの才覚を感じることができる。ところがこの義龍、1561年(永禄4年)に35歳の若さで急死…

【10大戦国大名の実力】織田家②――尾張における下剋上と弾正忠織田家の台頭

…近い男」とうたわれた今川義元を桶狭間の戦いで破り、隣国美濃の斎藤家を滅ぼすと、松永久秀らにより京を追われた足利義昭を奉じて上洛。その義昭と対立して、「信長包囲網」と通称される諸大名の連合軍に周囲を包囲される危機に陥るも、各個撃破によってこれを打倒。近畿を中心に強大な勢力を築き上げると各地に遠征軍を派遣し、天下統一まであと一歩と迫ったところで重臣中の重臣だった明智光秀の謀反により、京の本能寺で倒れた。享年49歳、桶狭間の戦いで出陣する前に信長が歌い舞ったことで有名な「敦盛」の「…

【10大戦国大名の実力】武田家④――源氏の名門のプライド

…当然の行為だったが、今川義元の娘を妻に持つ義信としてはどうしても納得できないことだった。 この一件が父子のあいだに対立を呼び、ついに1565年(永禄8年)、義信は謀反のかどで幽閉され、多数の重臣が処罰。義信自身も2年後には自害へ追い込まれた。はたして本当に義信が謀反を企んでいたかは確かではないが、方針をめぐる対立が家臣団の思惑を巻き込む形で肥大化し、ついには謀反へ――というのはまさに信玄自身がかつてたどった道だ。謀反計画が実在していても驚くには値しないだろう。 こうして武田の…

【10大戦国大名の実力】武田家③――クーデターにより家督を継承した信玄

…ぐ。南では北条氏康・今川義元といった名だたる大大名たちと丁々発止のやり取りを繰り広げた末、甲相駿三国同盟を結んで安全を確保した。そうかと思いきや、義元が織田信長に敗れて今川家がその勢力を減じるとこの同盟を破り、新興勢力の徳川家康と手を結んで侵略し、駿河を手に入れる。また、これに加えて西上野・飛騨・東美濃といった地域も手に入れており、その勢力はさらに巨大なものとなっていった。 そして1572年(元亀3年)、将軍・足利義昭の要請に応えて、信長包囲網の重鎮として上洛のために出陣し、…

【10大戦国大名の実力】武田家②――信玄の父、信虎の登場

…の関係は好転した)、関東で勢力を伸ばしていた北条家を打倒するべく関東遠征も行った。さらに信濃進出も試みているのだが、こちらは諏訪氏に敗北するなど、順調に進むとはいかなかったようだ。それでも信虎の治世がこのまま続けば信濃進出が彼の手で進んでいっただろうが、ここで事件がおきる。1541年(天文10年)、信虎が娘婿にあたる駿河の今川義元のもとを訪れようと甲斐を離れた際、嫡男の晴信――のちの信玄が突如としてクーデターを起こした。兵を派遣して国境を封鎖し、父を追放してしまったのである。

【10大戦国大名の実力】北条家④――関東に覇権を築いた氏康の時代

…ず武田信玄を頼る形で今川義元との和睦を成立させた。ついで、河越城を救援に出陣し、自軍の何倍もの兵力の連合軍に対して偽の降伏の使者を送るという策を用いて夜襲をしかけ、これを撃退することに成功する。いわゆる河越夜戦である。 この戦い以後、関東情勢は完全に北条側へ傾いた。河越夜戦で当主を討ちとられた扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉家も北条家による圧迫に耐え切れず、1552年(天文21年)に上野を放棄して越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って逃げ延びた。また、氏康は古河公方・足利晴氏(…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…された栴岳承芳(後の今川義元)が勝利 戦国時代 1537年(天文6年)〜1545年(天文14年) 河東の乱 駿河の今川氏と相模国の北条氏との戦い。その後、1554年(天文23年)に甲相駿三国同盟が成立 戦国時代 1542年(天文11年)〜1548年(天文17年) 天文の乱(伊達氏) 伊達氏当主・伊達稙宗と嫡男・晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱。洞の乱(うつろのらん)とも 戦国時代 1550年(天文19年) 二階崩れの変 豊後の戦国大名・大友氏の内紛。勝利した義鎮(の…

【クーデターで読み解く日本史】覇王の夢を打ち砕いた三日天下の野望――本能寺の変

…彼は、駿河の大大名・今川義元(いまがわ よしもと)を倒したことを皮切りに勢力を拡大して上洛を果たし、さらに並み居る大大名たちをなぎ倒してついに天下統一まで後一歩の距離まで近づいた男である。 この頃、信長は本拠地を近江の安土城とし、各地には重臣たちを派遣して制圧にあたらせていた。関東地方には滝川一益(たきがわ かずます)、北陸地方には柴田勝家(しばた かついえ)が、中国地方には羽柴秀吉(はしば ひでよし=後の豊臣秀吉)、そして近畿地方には明智光秀(あけち みつひで)、といった具…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…ろには駿河国の名門・今川義元と尾張国の新興勢力・織田信秀(信長の父)との両勢力に挟まれた弱小勢力として、今川氏の支配下に収まることでどうにか存続しているに過ぎなかったのである。 松平氏をめぐる複雑な状況を受け、家康の幼少期は人質生活と同義だった。6歳のときに今川氏の人質になることが決まり、移送される最中に身柄を奪われ、織田方の人質とされた(この時期、信長との接触があったのでは、という見方もある)。1549年(天文18年)、父が家臣によって殺害されると、今川・織田の人質交換によ…

【戦国時代の境界大名】奥平氏――家運が開いた運命的な活躍の場とは?

…れている。この戦いで今川義元が討ち死にし、徳川家康が織田氏と結んで今川氏と対立・独立を果たすと、奥平氏ら作手の諸将もまた今川氏を見限って徳川についた。 この頃までにだいたい50年ほどの時が過ぎ、奥平氏の当主も貞昌・貞勝・貞能と代替わりをしていた。貞能(1537―98)は徳川臣下として今川氏との戦いや、「姉川の戦い」などに加わっている。とくに旧主君である今川氏の掛川城(静岡県掛川市)を攻めた際には、和睦が成立してなお徳川に不審が強く、城を明け渡そうとしない今川氏真を説得したとい…

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

…取り」の異名をとった今川義元が、大軍を率いて尾張へ攻め寄せたのである。通説ではこの出兵は最終的な上洛を企図したものとされてきたが、実際には長年続いてきた尾張・三河をめぐる争いに最終局面が訪れたのだと考えた方がよさそうだ。 この際の信元の目立った動きとしては、義元が「桶狭間の戦い」で織田勢に討たれた後、孤立した元康に撤退を働きかけて、その命を救ったことがある。これが次なる展開に続くのだが、その前に信元に命を救われたはずの元康が水野氏の所領に攻撃をかけてきたり、別の今川旧臣によっ…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…満に思い、盟主である今川義元に「直満は今川氏に逆らうつもりだ」と訴えてしまう。これを信じた義元は直満を呼び出し、ついにその命を奪うに至った。1544年(天文13年)のことだ。 境界大名が特定の盟主を持てば、外敵に攻められた際には援軍を期待することができるというメリットもあるが、後継者選定への介入など、なんらかの介入を受けるデメリットもある。最悪の場合、勢力内部の争いが介入への口実になるケースさえもあるわけだ。境界大名の不安定さを如実に表すエピソードといえよう。ただ、大大名とい…

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