攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

伊達家 の検索結果:

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

…奥羽藩南部家、仙台藩伊達家(名儀のみ白石藩片倉家)、庄内藩酒井家、姫路藩酒井家、出雲藩松平家、鳥取藩池田家、阿波藩蜂須賀家、高松藩松平家、久留米藩有馬家、熊本藩細川家などがあります。 またこれらの藩がずっと力士のパトロンになっていたかというとそうでもなくて、あくまでも藩主のパーソナリティというか、相撲好きかどうかで決まったようです。戦乱もなく、江戸詰が基本の江戸大名にとって、趣味や道楽は暇つぶしの観点でも重要になりますが、その対象として茶道や華道と同じように相撲もあったのかも…

【家康の謎】家康の子どもは何人いたの?

…よびその背景になった伊達家臣団)との関係が悪化してしまって、大規模な内乱で伊達氏を衰退へ導いてしまっている。 では、家康はどうだったのか。正室との間に生まれた長男・信康は跡を継ぐ予定であったが、その前に死ぬことになる(詳しくは以前のコラムを参照)。次男・秀康は豊臣秀吉のもとへ養子として送られ、のちに結城晴朝の養子になる。家康の跡を継いだのは三男・秀忠だ。その秀忠と同母弟の四男・忠吉はのちに関ヶ原の戦いで活躍するも、間も無く病に倒れてこの世を去った。五男・忠吉は武田家を再興させ…

「分国法ってなに?」の動画を公開しました

…いる点にも注目です(伊達家は滅びてませんが、稙宗の代に作られた塵芥集はその後に忘れ去られている)。直接的な因果はないにしても、戦国大名にとっての分国法はぼくが考えていたよりも軽いものであったり、終わりの始まりを示すようなものだったのかもしれません。 とはいえこの時代の試行錯誤が法令主義とも言える江戸時代の秩序形成に影響を与えたのも事実だと思うので、分国法を制定した戦国大名のチャレンジ(あるいは彼らが追い込まれた状況)はもうちょっと勉強してみたいですね。 動画はこちらで視聴でき…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…ように摺上原の戦いで伊達家に敗れるとそのまま滅亡してしまったケースもあるのですが、姉川の戦い(1570年)で敗れた浅井家・朝倉家の滅亡は3年後、長篠の戦い(1575年)で敗れた武田家の滅亡は7年後、上述の今川家にいたっては桶狭間の戦い(1560年)からなんと9年後に滅亡と、いずれもしぶとく戦い続けています。そのほか今回は大内家や龍造寺家などの事例も榎本先生に調べてきていただきました。 www.youtube.com 北条家(小田原征伐)や豊臣家(大坂の陣)のように大軍で居城を…

【戦国軍師入門】片倉景綱――独眼竜の右目をまっとうした生涯

…居したために、政宗が伊達家を継ぐことになり、周辺各大名や身内(母親は彼を疎み、弟に伊達家を継がせようと企んでいた)を敵に回しての彼の過酷な戦いが始まる。 そんな中、景綱は常に傍らで彼を補佐しつづけた。まず、1584年(天正12年)に政宗が家を継いだばかりで会津の檜原(ひばら)というところを攻めた時のことだ。この場所には穴山新右衛門(あなやま しんえもん)の一族がいて、政宗の父輝宗が3度攻めてもなお落とせなかった。そのため家臣も皆これに反対し、さすがの政宗も弱気になったところで…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり

…法度の中でも特に城の歴史という点からすると重要なのが、いわゆる「一国一城令」だ。 文字通り「ひとつの国(ある大名の領地ひとつ)に城はひとつまで」とするこの条項によって、諸大名がそれまでに各地に築いていた支城(防衛用の、あるいは遠隔地域の統治用の)は一斉に破棄されてしまった。それでも、たとえば陸奥の伊達家などは「要害」という名目で城に準じる施設を残すことができたし、ほかにも例外はあった。さらにこの後にも城の建設が絶えたわけではないが、「戦国の城」の終わりが訪れたのは間違いない。

【10大戦国大名の実力】最後に――「家を守る」ために

…をひとつ紹介します。伊達家が仙台藩・宇和島藩の藩主として江戸時代を通じて存続していったことはすでに紹介したとおりです。しかし、本家である仙台藩を継いだのは次男の忠宗で、長男の秀宗は別家の宇和島藩を継ぐことになりました。秀宗は庶子なのでそこまでおかしいことでもないのですが、実は「これが原因だったのでは?」と思える要素があります。それは、秀宗が豊臣秀吉の「秀」の字を賜り、また「豊臣」姓も授かるなど、豊臣家と深い関係をもつ人物だった、ということです。 じつは同じような話が他にもあり…

【10大戦国大名の実力】北条家⑥――北条家は減亡を回避できたか?

…ースばかりではない。伊達家や上杉家が国替えを受け入れたことは本コラムの別項で述べている通りだし、徳川家康は三河・駿河・遠江から関東へ移された。この扱いに家臣団からは強い不満が出たというが、家康は「むしろ将来の天下取りには有利だ」として抑えたという。そして実際、家康は関東で巨大な勢力を築き上げ、ついに天下を取ってしまった。その背景には、北条家の旧家臣団や組織力を吸収することができた、という事情もあったのではなかろうか。 ひるがえって北条家の場合を考えてみよう。氏政・氏直が早い時…

【10大戦国大名の実力】上杉家⑥――その後の上杉家

…西軍側として最上家、伊達家などと戦うも、西軍は敗北。上杉家はどうにか米沢30万石への減封で許され、以後は米沢藩として幕末までその血をつなげることになる。 江戸時代においては、関ヶ原後の減封時に積極的なリストラを行わず、家臣の多くをそのまま残したことなどから、深刻な財政難に襲われた。しかし、「生せば生る 成させねば生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬなりけり」という言葉で名高い9代藩主の上杉鷹山が財政改革を行い、改善を見ている。 長尾・上杉と「カリスマ」 為景はカリスマになれな…

【10大戦国大名の実力】佐竹家②――戦国大名・佐竹家として

…心とする軍事連合が、伊達家とその支持勢力を除く奥州南部のほとんど全ての勢力によって結成されたのだ。先ほどと同じたとえを使うなら、野心的で目障りな企業をつぶすためにほかの企業が協定を結んだ、というところだろうか。 この軍事連合は義重を中心にたびたび伊達家と戦ったが、決着をつけることはできなかった。それどころか、伊達家の若き当主・政宗がその勢力を伸張させ、むしろ佐竹氏を脅かしてきたのである。1585年(天正13年)の人取橋の戦いでは三倍を超える戦力で押し寄せたが、倒しきる前に撤退…

【10大戦国大名の実力】伊達家⑤――地方勢力の栄光と悲哀

…ようだ。政宗の死後、伊達家は陸奥国仙台藩六十万石(実高は百万石とも百五十万石ともいわれる)として幕末まで存続。また、政宗の長子・秀宗が伊予に所領を与えられ、宇和島藩十万石としても存続していった。宇和島藩八代目の伊達宗城は幕末期に積極的な藩政改革を成功させた人物で、「幕末の四賢侯」としてその名を残している。 このように東北で影響力を誇った名家、というと中央風の文化には縁がないような印象を受けるが、実は全くの間違いである。ここまでに名を挙げた代々の伊達家当主の多くが、風流の面でも…

【10大戦国大名の実力】伊達家④――地方勢力の栄光と悲哀

…をそれて、当主以外の伊達家の人物について触れてみることにしよう。稙宗の例で分かる通り、婚姻・養子政策による勢力拡大は戦国時代の東北地方において一般的なやり方だった。結果、政宗のおじたち(晴宗の子たち)もその多くが周辺勢力の養子となった。本来ならこうした親族たちは伊達家の当主である政宗を補佐し、もり立てるべきなのだが、長男の岩城親隆(いわき ちかたか)や四男の石川昭光(いしかわ あきみつ)などは一時期伊達から離反し、政宗と戦ったことがある(最終的には政宗の支配下に戻っている)。…

【10大戦国大名の実力】伊達家③――地方勢力の栄光と悲哀

…継いだ輝宗は、かつて伊達家の支配下にあったがのちに独立した最上氏との縁組や、相馬氏との長年にわたる戦いを講和で終わらせた傑物だったが、若くしてその地位を息子・政宗に譲る。この際、輝宗は家臣団を大きく入れ替え、政宗の発言力を高めたとされる。これによって伊達家は何代も続いた(家臣団の反発を背景にした)父子の対立を回避し、政宗がスムーズに勢力拡大を図ることができた。 現代の企業でも代替わりに伴って幹部社員をごっそり入れ替え、社内意見を統一して新たな局面を迎えようとすることがあるが、…

【10大戦国大名の実力】伊達家②――地方勢力の栄光と悲哀

…た東北地方において、伊達家が大きく頭角を現したのは伊達稙宗(だて たねむね)の時のことである。彼は、自らの子供を周辺勢力に嫁入り・養子入りさせて勢力下に取り込む政策によって、戦国時代初期における奥州・出羽の中南部の覇者となった優秀な人物だった。こうした手法は名門ぞろいの東北地方にとって、別地方で見られた武力衝突より向いていたようだ。そうした手段を用いつつも、一方で分国法『塵芥集(じんかいしゅう)』の制定に代表される戦国大名化という新しい手法も押し進めた訳なのだから、その意味で…

【10大戦国大名の実力】伊達家①――地方勢力の栄光と悲哀

…んな政宗を生み出した伊達家は鎌倉以来の名門武家であり、代々優秀な人物を数多く輩出してきた。その中には政宗が活躍する基盤を作った人物もいるし、伊達家を一時衰退させてしまった者もいる。また、伊達家に連なる者の中には、政宗を助けた者もいれば、政宗を手こずらせた者もいる。この家の当主には優れた人物が数多く、政宗があれだけ活躍したのもなるほどと思わせる英雄の血が色濃く流れている。 そして、中央から遠い東北で勃興した地方勢力である、というのも伊達家の大きな特徴の一つだ。これにより伊達家は…

【殿様の左遷栄転物語】一代の英雄死して山形藩は……最上義光

…、次第に衰退。さらに伊達家との争いに敗れ、一時は実質的にその支配下に入ってしまった。 この苦境に現れたのが最上義光である。彼は自分の弟をはじめとする最上一族や国人衆といったライバルを次々と打ち倒して最上家を統一し、また自らの甥にあたる伊達政宗とも激しく戦って、東北の有力大名のひとりに成り上がった。関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、西軍側の上杉家による攻撃を耐え抜いた。この時、最上家の支城のひとつ、長谷堂城をめぐって争われた戦いは、上杉家の重鎮である直江兼続の活躍もあって、「東国の…

【殿様の左遷栄転物語】伊達政宗の長男が設立 宇和島藩伊達家

…表的なケースが、この伊達家で起きたのである。 伊達家は藤原家の末裔で、鎌倉時代より奥州に定着する名門武家である。戦国時代にはしばらく内乱が続いて停滞したが、政宗の登場で一気に勢力を伸ばした。東北地方の覇者になり上がったところで豊臣政権による圧迫を受けたが、恭順して勢力を維持し、その後の関ヶ原の戦いに乗じてさらに所領を増やした。 その政宗の長男が、のちの伊予国字和島藩初代藩主の伊達秀宗(だて ひでむね)である。彼は政宗の側室の子ではあったが、幼い頃に豊臣秀吉の猶子(養子とは異な…

【殿様の左遷栄転物語】名将の息子の愚かさが潰した 会津藩加藤家

…旺盛と見られた仙台藩伊達家に対する押さえという意味合いが強かったのではないか。 そのような場所に配置されたのだから、嘉明が如何に幕府から信頼されていたかわかるが、わずか4年後にこの世を去り、息子の明成(あきなり)が跡を継いだ。 城の改築に熱中し、重臣を怒らせる 残念ながらこの明成は父と比べて凡庸な人物で、愚行が目立った。一分金(当時の金貨)の収集に執着し、「加藤一分殿」などというあだ名をつけられたのは、大大名としてはあまり感心した行為とはいえない。また、会津若松城の改築にも熱…

【殿様の左遷栄転物語】本領にこだわり続けた執念 相馬利胤

…佐竹家らと手を組んで伊達家と戦った。やがて豊臣秀吉が進出してくるとこれに恭順し、無事本領を安堵されている。 関ヶ原の戦いにおいてはそもそも佐竹家らと同じく「三成派」という見方をされており、かといって直接的に東軍・西軍のどちらかに積極的に味方をすることもなかった。これは佐竹家と歩調を同じくするという向きもあったろうし、積極的に攻撃するような手頃な対象が近隣にそもそもいなかった(上杉領に対する小規模な攻撃などは行っているが、これも自前の戦力ではなく夜盗をそそのかしたものなので、徳…

【殿様の左遷栄転物語】15年を経て再興 岩城貞隆

…家と結んで仙台地方の伊達家と激しく争ったが、時の当主・常隆は豊臣秀吉の北条攻めに参加した帰途、病に倒れてしまう。この機に乗じた佐竹義重(鬼の勇名で知られる戦国大名)は、常隆に実子がいるにもかかわらず自身の3男・貞隆を養子として押し込み、実質的に岩城家12万石を乗っ取ることに成功する。ここから「岩城貞隆の物語」が始まるわけだ。 貞隆の運命が大きく動いたのは、やはり関ヶ原の戦いの時のことである。といっても、岩城家は西軍に味方したわけではなかった――だからといって、東軍に味方したわ…

最上義光が山形城に瓦葺きの本丸御殿を築いた理由

…るものの素性が不明な伊達家、ましてや尾張の農民から成りあがった豊臣家とは違い、かつての中央政権まで家系を遡ることのできる奥州きっての名家である。だから最上家は、たとえ礎石がなくとも、石垣がなく土塁づくりの城でも、本丸御殿の屋根は京の瓦で葺かなければならなかった(いかに倒壊の恐れがあったとしても)。実際、山形城の本丸は高石垣となっているのは、大手門に至る一文字橋が架かる部分のみで、あとは土塁のままであり、はじめから場違いだらけにできた城である。 また二の丸石垣も最上時代ではなく…

【戦国時代の境界大名】相馬氏――奥州第一の実力者・伊達氏との抗争を戦い抜く

…の力を借りて、おもに伊達家臣団の支持を受けた息子に戦いを挑んだのである。結果、伊達家中のみならず東北地方の諸大名ほとんどすべてを巻き込み、かつ二分する形で、伊達家の親子喧嘩が始まってしまったわけだ。これを「伊達氏天文の乱」とか「伊達氏洞の乱」とかいう。 この時、相馬氏は稙宗の側についた。深い婚姻関係を考えれば当然のことである。戦いは当初、稙宗側有利に展開していたから、利を求めてというところもあったかもしれない。骨肉の争いはなんと6年にも及んだ。その間、顕胤もあちこちに出陣して…

【お城の基礎講座】77. 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

…前府中城) 仙台藩(伊達家) 陸奥国に仙台城と家臣片倉氏の白石城の二城 高松藩(生駒家) 讃岐国の高松城を残してすべてを破却したと報告したが、丸亀城は破却せず樹木で覆い隠して立ち入りを厳しく制限していた。幕府にうその報告をした例である。 尾張藩(尾張徳川家) 尾張国、美濃国の一部、三河国の一部、信濃国(木曽)の四令制国で名古屋城の一城。しかし、付家老である成瀬家が2代将軍秀忠より犬山城を拝領し、実質は二城であった。そのほかにもいくつも事例があるので実質は一国一城ではないと言え…

【マンガ】伊達家ゆかりの地 大和町 御仮屋物語

…村は宮床(みやとこ)伊達家という伊達家の庶流(一門)から藩主になった人なんですが、仙台藩伊達氏について学ぶ際にこうした藩主の出身地めぐりをするのも楽しいと思います。 最後に、このマンガを制作した榎本事務所からコメントをいただけたのでご紹介します! 榎本事務所からのメッセージ 竹亭のご主人と打ち合わせをさせていただいた結果、歴史はもちろんのこと、大和町の自然、七ツ森の風景も紹介したいと考えました。 メインテーマである歴史ドラマを紹介する前に、あえて車で移動するシーンを入れ込んだ…

【江戸時代のお家騒動】伊達騒動 バカ殿の押込め、守旧派 vs 革新派、幕府介入

…ことはなかった。その伊達家が大きく揺らいだのが政宗の孫・三代藩主綱宗の時代である。 綱宗は二代藩主・忠宗の六男で、本来跡を継ぐはずだった次男の光宗が早くに亡くなってしまったことから藩主就任となった。しかし綱宗は1660年(万治3年)に21歳の若さで隠居を命じられた。酒乱気味で女遊びも激しく、夜間に出歩き家臣の忠言も耳に入れない……という風に、不行跡が目に余ったからだ。そのため伊達家の親族にあたる柳川藩主・立花忠茂や岡山藩主・池田光政、政宗の十男の伊達宗勝(兵部)らは会議の場を…

【戦国軍師入門】2.上への忠誠より一族の保護

…だ。 その顕著な例が伊達家だ。東北地方の名家の中でも着実に勢力を伸ばしていった伊達家は、婚姻と養子政策を繰り広げ、いったんは東北で一番の勢力になる。ところが、家督を巡る争いが二代続けて起きてしまい、ついには本来の領土を守ることすら危ない状況にまで落ちぶれてしまったのだ。そこで、三度繰り返してはいけないと政宗の父輝宗は早々に隠居し、政宗に家督を譲ったのだった。もし、この時にまたもや争いがあれば、後の江戸時代を代表する大藩・仙台藩はなかったかもしれない。 また、正室の長男だからい…

明智光秀が京都から東海各地をウロウロしていた頃、東北では内戦が終わろうとしていた

…の晴宗を代表に旧来の伊達家臣団が、外にいい顔をして内部には負担を強いる稙宗に、不信感を持つようになったのだ。1542年(天文11年)、越後守護・上杉定実のところへの養子送り込みの一件を引き金にして、ついに晴宗らが蜂起。稙宗を捕らえ、幽閉してしまう。しかし稙宗もさるものですぐさま脱出したため、伊達家臣団および親族関係にある周辺勢力が稙宗派・晴宗派に分かれて大いに争った。 長い戦いの中で晴宗派へ移るものが現れるなど勢力差は傾き、ついに1548年(天文17年)、戦いは終わった。稙宗…

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…関東の北には前田家や伊達家といった外様大名の中でも際立って有力な家がいた。江戸幕府の設立当初、まだ諸大名への支配が確立していなかった頃には、こうした外様大名の存在は幕府にとって脅威だったのだ。 その後、「大坂の陣」によって豊臣家が滅亡すると、幕府は畿内を譜代大名で一気に固める。1617年(元和3年)には、姫路に42万石の勢力を持っていた池田家を鳥取へと移し、本多忠政を配置している。さらに、周辺の明石や龍野も本多家と姻戚関係にある譜代大名で固めた。実際、姫路は西国の押さえとして…

2.譜代家臣団の成立

…っていた十八松平(十四松平)――はすべて松平姓を使っていた。また、徳川直系の保科家や越智家、紀伊徳川の一族になった鷹司家、松井家にも松平の姓が与えられている。さらに家臣でも目覚ましい功績のあった柳沢家や、有力な外様大名の前田家、島津家、伊達家、黒田家、浅野家、毛利家、鍋島家、池田家、蜂須賀家、山内家などにも松平を名乗ることが許されている。これらは毛利家を除いて、明治維新まで松平姓を使い、本来の姓を使わなかったという。 次回「(3)江戸幕府における譜代大名の役割」につづきます。

5.支配者としての大名たちの苦悩

…に準じるものが残った伊達家、旧来の城の多くがそのまま残った島津家など)を除いて自然と「城は大名の居城一つ」となった。これにより、それまでは自分の城を持っていた有力家臣団・一門衆が、その拠点である城を失って、大名の居城に出仕する家臣となったのだ。ここで起きたことは、かつて農地にいた武士たち、国人衆などが城下町に集められた時のこととよく似ている。独自の地盤を失った彼らは「いざとなれば兵を集めて反乱を起こす」というカードを失い、大名に対して反撥することが難しくなった。かくして、大名…

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