攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

伊達政宗 の検索結果:

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

…ほかにも、蒲生氏郷、伊達政宗、島津斉彬と西郷隆盛、山内一豊らのエピソードを紹介していますが、徳川家康が「相撲をやるなら畳の裏を返せ。畳の縁がすり減ってお茶の師匠が怒る」と注意したという逸話はおそらく創作でしょうけど、そのくらい相撲を取ることが日常的に行われていた裏返しでもありますね。 勧進相撲から興行・スポーツとしての相撲へ 江戸初期、京都・大坂から勧進相撲(勧進=寺社や橋の建立や復興のための寄付目的で行われる相撲が、やがて普通に営利的な興行に)が出現します。また盛り場では投…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いに出陣する前に江戸で誰にどんな手紙を出してるの?

…であったろう。 また、東海道の諸将宛の手紙の中でも、注目するべきものとして黒田長政宛の8月8日付書状がある。この手紙からは長政を仲介役として吉川広家との交渉が行われていたことがわかり、家康による西軍切り崩しが進んでいたことを読み取ることができる。他にも家康は会津・上杉への押さえとして残した諸将に手紙を書いている。これが全体の2割強だ。特に伊達政宗が領地拡大を求めて勝手に動くことを警戒していたようで、いわゆる「百万石のお墨付き」と呼ばれる手紙を渡していたことはよく知られている。

【家康の謎】家康はなぜ朝鮮出兵に参加しなかったの?

…なお、東国勢の中でも伊達政宗などは結局増援として朝鮮へ渡っているが、家康と利家は渡らなかった。そのため、二人には秀吉が何かしら無謀な行いをしようとした時にそれを押し留める役目が期待されたのかもしれない。 その後、朝鮮での戦いが好転すれば再び計画が動き出したかもしれないが、そうはならなかった。朝鮮出兵は一度の休戦を挟みつつ泥沼の状態で戦いが進み、ついに秀吉が死んで中止されるまで、状況が好転することはなかったのである。また、秀吉に代わる朝鮮での指導者としても豊臣政権生え抜きである…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…、家康の六男・忠輝と伊達政宗の長女が婚姻、福島家・蜂須賀家には幼女を嫁がせる約束 秀吉が晩年に決めた体制を家康は段階的に反故にしていく 閏3月、前田利家死去。家康の影響力が増大(元々は利家が大坂城で秀頼を補佐、家康は伏見城で政を行う役割分担) 石田三成に対する七将襲撃事件。近年は「訴訟事件」とも。三成は蟄居 9月、家康暗殺計画。首謀者は前田利長、共犯は浅野長政、大野治長、土方雄久らが疑われて失脚。家康は西の丸に入り、天守を築く 1600年(慶長5年)、59歳 前田利長は母・芳…

「外戚 なぜ嫁の実家は偉いのか」の動画を公開しました

…兄弟である池田恒興、伊達政宗の乳母・喜多の異父弟にあたる片倉景綱、淀殿の乳母・大蔵卿局の子である大野治長など、乳母の関係を通じて出世した人物は多数います。そして江戸時代でも、おそらくもっとも有名な乳母である春日局がいますよね。こうしてかつての摂関や執権ほどではないにせよ、乳母の立場でも権力は行使できたわけです。 けっきょくのところ権力者の幼少期をともに過ごすというのは強い影響を残すのでしょうね。現代でも「おじいちゃん子(おばあちゃん子)」という言葉があったりしますが、生みの親…

【家康の城】江戸城 世界有数の一大城郭と城下町!

…越方面の大名、つまり伊達政宗、蒲生秀行らも加わって急ピッチで工事がすすめられることになります。本丸御殿が完成して2代将軍・秀忠が移り住み、天守を含めた本丸主要部が完成して将軍の城としての体裁が整いました。あわせて、西の丸龍ノ口から外桜田門、貝塚堀、半蔵門などの南西側の整備がされました。1614年(慶長19年)には本丸、西の丸、二の丸、虎ノ門までの外郭の石垣が修築されました。その外郭には神田から日本橋、京橋、新橋といった市街地ができ、江戸下町の中心として発展していくことになりま…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…を続けてきた伊達氏が伊達政宗のもと勢力を拡大したので、蘆名氏は圧迫される。・蘆名義広(あしなよしひろ)の頃の天正17年、蘆名一族の猪苗代盛国(いなわしろもりくに)が伊達側に裏切り、伊達軍が蘆名領内へ侵入。摺上原(すりあげはら)で両軍が決戦し、戦いは伊達側の勝利に終わった。戦いに敗れた義広は本拠地である黒川城へ戻ったが、城に篭って徹底抗戦の構えを取ることはなく、同盟者である佐竹氏のところへ逃げることになった。理由は、城内の意見が「伊達氏への降伏」へ傾き、義広は城を明け渡す他なか…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…大名最上氏となった。伊達政宗のライバルとして有名な最上義光(よしあき)の家である。豊臣秀吉によって取り潰されることもなく、関ヶ原の戦いで東軍につくなどして江戸時代へ入ったが、家臣団に内紛があり、そのせいで五十数万石の所領は一万石へ減らされた後、結局五千石の高家になってどうにか残った。※奥州管領・羽州管領は室町幕府の構造のところで紹介した奥州探題・羽州探題の前身。 畠山氏 ・畠山氏も応仁の乱の時に分裂した。その片方、畠山義就(よしなり)こそが応仁の乱の火付け役ではないかと言われ…

ガイドブック「国指定史跡 柏木城跡」のご紹介

…る柏木城は蘆名盛隆が伊達政宗の侵攻にそなえて築いた城で、土塁や堀切のほか、広範囲に石積が残っており、国の史跡に指定されています。このたび北塩原村が柏木城跡の特徴や史跡の発掘調査などをまとめたガイドブックを作成されたということで、攻城団の読者向けプレゼント用に3冊ご提供いただきました。 さっそく中身も拝見しましたが、A4サイズでフルカラー、16ページとなっています。発掘調査の様子や出土品の写真も豊富で、柏木城が築かれた背景やその性格などもわかりやすく解説されています。 なおこの…

【戦国軍師入門】片倉景綱――独眼竜の右目をまっとうした生涯

…名も高き隻眼の名将・伊達政宗の、右腕ならぬ右目として活躍した軍師だ。 彼は元々武士の出身ではなく、出羽(ほぼ現在の山形県と秋田県)米沢の成島八幡宮(なるしまはちまんぐう)の宮司・片倉景重の子として生まれた。彼の腹違いの姉(姉ではなく母とも)が政宗の乳母を務めたため、伊達の武士団に組み込まれることになったのである。まず伊達輝宗(政宗の父)の徒小姓となり、のちに聡明さをかわれて重大な役割を任せられることになった。輝宗の嫡男、梵天丸――のちの政宗の守役に抜櫂されるのだ。景綱19歳、…

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

…はやはり幸村だった。伊達政宗隊を撃退して松平忠直(まつだいら ただなお)隊を突破すると、残った僅かな手勢のみを率いて徳川家康本軍に3度にわたる強行突撃を仕掛けたのだ。 そのあまりの勢いに本陣を守る旗本が崩れ、馬印が倒れ、家康自身も死を覚悟した。家康の馬印が倒れたのはかつて「三方原の戦い」で武田信玄に大敗を喫した時以来だ、ともいう。しかし、3度目の突撃の際にさしもの幸村も力尽き、この報を聞いた豊臣勢は総崩れになる。この翌日に豊臣秀頼・淀殿母子は大坂城内で自害を遂げ、大坂城もまた…

【戦国軍師入門】人取橋の合戦――槍の功でも主君を救った軍師

…養育係を務めた主君・伊達政宗に生涯付き従い、その軍師として活躍した人物だが、この戦いにおいてもその機転で主君を見事に救っている。 この合戦のきっかけは、政宗が二本松城を攻撃したことだった。しかし、そこにはひとつのドラマがあった。実はこの戦いに先だって二本松城主の畠山義継(はたけやま よしつぐ)とは父・輝宗(てるむね)の取りなしで一度和睦が成立しかけたのだが、その酒宴の際に些細な食い違いから輝宗が拉致されてしまったのだ。 急ぎ義継を追った政宗は彼らを発見するも父親を人質に取られ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑤――独眼竜の攻撃に晒された城・二本松城

…14年)に「独眼竜」伊達政宗の攻撃を受けて落城した。豊臣秀吉による奥州仕置が行われたのちに、家臣の蒲生氏郷が入った。その後は城主を変えながら、最終的に1643年(寛永20年)に入城した丹羽氏の時代で幕末を迎えることとなる。幕末期には少年ばかりで編成された部隊、二本松少年隊の悲劇で有名である。 1585年(天正13年)、当時の城主・畠山義継は、親交のあったか小浜城主の大内定綱が政宗に敗れたことにより、危険を察して伊達氏に属することを表明した。しかし政宗はこれを受け入れなかった。…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城をめぐる戦いの様相⑥――落城したその後は?

…もあった。北条早雲や伊達政宗、織田信長などが行ったことがあった。何らかの怨恨関係があったり、あるいは周辺の諸勢力に対する「逆らったら同じ目にあうぞ」という見せしめをするために行ったようで、結構効果的だったようだ。誰も死にたくはないから、それも当然かもしれない。 それでは、城のほうはどう扱われたのだろうか。奪った城を修復して再利用するケースはもちろん多かったが、そのまま放棄して廃城にしてしまったり、あるいは「城割(しろわり)」といって破壊してしまうケースもあった。特に織田信長や…

【10大戦国大名の実力】織田家①――後継者の実力で組織の命運は決まる

…などには、真田幸村や伊達政宗、石田三成に直江兼続といった「ヒーロー風」キャラの人気が高い。 それでも、戦国武将人気ナンバーワン、もしくは仮に「戦国武将といわれて誰を思い浮かべますか」というアンケートをとった時のナンバーワンには文句なく織田信長の名前が出てくるはず。「戦国の覇王」「第六天魔王」「革命的先見の明の持ち主」あるいは「狂人」「戦国時代を終わりに導いた男」――信長の異名は数限りなく、それは同時に彼が戦国日本に与えた影響の大きさを表している。数多い戦国時代のカリスマのなか…

【10大戦国大名の実力】佐竹家②――戦国大名・佐竹家として

…に佐竹・蘆名連合軍と伊達政宗との摺上原の戦いに敗れ、蘆名氏は滅亡してしまった。佐竹氏は南進する伊達氏から身を守る盾を失ったのである。 また、伊達家はこの時期に北条家と同盟を結んでいる。その主目的は中央で勢力を拡大し続ける豊臣政権への対抗であったと考えられるが、同時に政宗の南進を阻み続ける宿敵・佐竹家を両側から挟み打ちしようという意図もあったはずだ。こうした情勢において、義重はまず織田信長と、彼が倒れるとその勢力を引き継いだ豊臣秀吉とよしみを通じ、北条家や伊達家といった強敵を抑…

【10大戦国大名の実力】伊達家③――地方勢力の栄光と悲哀

…して「奥州の独眼竜」伊達政宗の飛躍が始まることになったわけで、輝宗の先見の明は後世に高く評価されることとなった。ちなみにこの輝宗、当時大いに勢力を伸ばしていた織田信長に注目してたびたび動物などを贈り物として贈り、信長もそれを喜んだ――というから、先見の明としては相当なものを持っていたのだろう。 家督を継いだ政宗は次々と勢力を拡大し、奥州中南部に広大な勢力を築くにいたった。政宗の業績として注目したのが、敵対した小手森城への撫で斬り(皆殺し)だ。東北地方では有力勢力のほとんどが血…

【10大戦国大名の実力】伊達家①――地方勢力の栄光と悲哀

奥州の若き野心家・伊達政宗 有名な戦国武将は数多いが、その中でもトップクラスの人気を誇るのが、「奥州の独眼竜」伊達政宗だ。彼を主人公としたNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』は大河ドラマ史上に残る屈指の傑作とうたわれており、この作品で彼の魅力にとりつかれた人も多いのではないか。戦国という過酷な生き残りの現場で、片目を失明するというハンデをものともせず生き残り、豊臣秀吉、徳川家康という天下人と渡り合い、江戸時代を通して続く仙台藩の礎を築いた一代の英雄、伊達政宗。彼は天性のパフォーマー…

【殿様の左遷栄転物語】一代の英雄死して山形藩は……最上義光

…また自らの甥にあたる伊達政宗とも激しく戦って、東北の有力大名のひとりに成り上がった。関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、西軍側の上杉家による攻撃を耐え抜いた。この時、最上家の支城のひとつ、長谷堂城をめぐって争われた戦いは、上杉家の重鎮である直江兼続の活躍もあって、「東国の関ヶ原」などと呼ばれたりもする。 この功績によって、義光は57万石を有する大大名となる。だが、そもそも彼の登場まで長く内乱を続けてきたことからもわかるように、最上家はとても一枚岩とはいえない状況であった。義光は一代…

【殿様の左遷栄転物語】伊達政宗の長男が設立 宇和島藩伊達家

…「奥州の独眼龍」こと伊達政宗だが、彼の後継者についてはひと悶着あったのをご存じだろうか。天下人交代による廃嫡の代表的なケースが、この伊達家で起きたのである。 伊達家は藤原家の末裔で、鎌倉時代より奥州に定着する名門武家である。戦国時代にはしばらく内乱が続いて停滞したが、政宗の登場で一気に勢力を伸ばした。東北地方の覇者になり上がったところで豊臣政権による圧迫を受けたが、恭順して勢力を維持し、その後の関ヶ原の戦いに乗じてさらに所領を増やした。 その政宗の長男が、のちの伊予国字和島藩…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名① 小田原藩大久保家

…で、忠輝は奥州の雄・伊達政宗の娘を妻に迎えていて、長安自身に豊臣系大名との姻戚関係があり、そしてなによりも幕府の重臣である忠隣との関係が深い。これだけの勢力に長安の財産が加われば、もしかしたら本当に幕府を倒すこともできたかもしれない――少なくともそういう噂が流れて人々の信じる余地があるだけで、黒幕の位置に当てはまってしまう忠隣の立場は危うくなっていく。 トドメになったのは、馬場八左衛門という男が家康に「忠隣、謀反」と訴え出たことであった。この人物は家康の五男・信吉の家臣だった…

【殿様の左遷栄転物語】15年を経て再興 岩城貞隆

…目当主となった岩城隆恭は仙台藩の伊達一族の出身だが、実はこの家系こそが(間に養子を挟んではいるのだが)「本来の岩城家」当主なのである。 前述したように貞隆は本来岩城家を継ぐはずだった常隆の子を押しやる形で岩城家を継承した。追いやられた当の本人――岩城政隆は祖父・親隆が伊達家の出身(伊達政宗の叔父にあたる)だったことから親戚関係を頼って伊達家に逃れ、「伊達」姓をもらってその一族となっていた。そして、政隆の子孫こそ隆恭だったのだ。なんともはや、数奇な運命をたどった一族といえよう。

最上義光が山形城に瓦葺きの本丸御殿を築いた理由

…はないか。最上義光は伊達政宗と同じく、豊臣秀吉の奥州仕置で中央政権の軍門に下った。しかし、文化的には何としても中央政権にキャッチアップしようとした――たとえ土塁のなかの堀立小屋に場違いでも、京の瓦で山形城本丸御殿の屋根を葺こうとした――それが今も山形城二の丸で騎馬を巧みに操り、陣頭指揮を執る最上義光の意気地だろう。 そもそも最上氏は、遡れば足利一門の筆頭である斯波氏から分かれた羽州探題の家である。藤原北家の出を自称するものの素性が不明な伊達家、ましてや尾張の農民から成りあがっ…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府3代・徳川家光――江戸幕府を完成させた生来の将軍 1604年~1651年

…として奥州の独眼竜・伊達政宗の名前が挙がっている。――しかし、家光の「生まれながらの将軍」の座がずっと安泰だったわけではない。むしろ、それは危機を乗り越えて維持した地位であった。 家光の危機を救った乳母と祖父 家光は秀忠とお江のあいだに生まれた(江戸時代、正室の子から将軍になったのは彼ひとり)。幼名は竹千代。これ以前に長丸という子がいたが、正室の子ではなく、かつすでに亡くなっていたので、家光こそ実質的な長男であるといっていい。祖父と同じ「竹千代」の幼名を与えられたのも、「生ま…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…誾尼(けいぎんに)。伊達政宗の母で実家最上氏と伊達氏が争った際、興で戦場に押し掛け争いを止め、「鬼姫」と呼ばれた保春院(義姫)。 さらに、伝承と思しきものも含むが戦場に出た女武者の例もある。瀬戸内の女武者で、彼女が使ったとされる甲冑が残る大三島(今治市)の鶴姫。小説『のぼうの城』で有名になった、小田原攻めにおける忍城攻防戦で名を挙げた甲斐姫。しかし、女の身で城主として武家の頭になった人物となると、ほとんど例がない。本書の遠山氏の項にはおつやの方という実質的な城主を務めた女性が…

【江戸時代のお家騒動】蒲生騒動 藩主夭逝が藩内の混乱を招く悪循環

…者」と称される大名・伊達政宗がいたのだ。つまり、秀吉は奥州勢力をけん制するために氏郷を会津に置いたのだった。信長だけでなく、秀吉も氏郷の実力を認めていた証拠といえるだろう。 会津に入った氏郷は、新たに城を築き城下町の整備も行った。城下町は拡張され、これまでの寺社や侍屋敷が入り交じった形態から、武家屋敷を分離した町割りへと変更された。また城は七層の天守閣を有しており、その威圧感漂う様とその城のもとに広がる城下町の風景は「奥州の都」とまで称されたという。氏郷はここに江戸時代の会津…

五三の桐、五七の桐は知ってるけど、九七の桐とか五五の桐とか知ってた?

…います。その九曜紋を伊達政宗が忠興に使わせてくれと頼んだとか、家紋の授受や使用許諾の話だけでいろいろエピソードがありますが、それは別の機会に。 また秀吉が「太閤桐」という独自の桐紋を考案した背景に、桐紋を諸大名にばらまいてしまったためブランド価値が暴落したからという説もあり、家紋というものはその大名家の象徴であると同時に、必ずしも先祖代々ひとつのものを使い続けているわけではありませんでした。たとえば政宗はメインとなる定紋の「仙台笹」以外にも「九曜」や「五七の桐」など7つの替紋…

【マンガ】伊達家ゆかりの地 大和町 御仮屋物語

…だそうです。ちなみに伊達政宗は吉村から見ると曽祖父にあたります。 この吉村の出生地が宮城県大和町(たいわちょう)で、かつては藩主が領内を見回る際の休憩施設である「御仮屋(おかりや)」があったそうです。その御仮屋跡には現在なにが建てられているのか――その答えはマンガを読めばわかります! マンガの画像をクリックすると拡大サイズで読めます www.unagi-chikutei.jp 御仮屋跡で食べるうなぎ、なんだかとてもおいしそうですね。歴史好きが旅行に出かけるなら、その土地の郷土…

【江戸時代のお家騒動】伊達騒動 バカ殿の押込め、守旧派 vs 革新派、幕府介入

…名な仙台藩初代藩主・伊達政宗。彼は才ある家臣に恵まれ、また自身も豊臣秀吉や徳川家康と渡り合ってきた名君である。そんな彼の時代には家臣が出奔したりしつつも、家の中で大きな騒動が起きることはなかった。その伊達家が大きく揺らいだのが政宗の孫・三代藩主綱宗の時代である。 綱宗は二代藩主・忠宗の六男で、本来跡を継ぐはずだった次男の光宗が早くに亡くなってしまったことから藩主就任となった。しかし綱宗は1660年(万治3年)に21歳の若さで隠居を命じられた。酒乱気味で女遊びも激しく、夜間に出…

【戦国軍師入門】5.戦わずして勝つ、軍師の手腕

…に仕えた直江兼続や、伊達政宗の教育者でもある片倉景綱のような人物こそが名軍師と呼ばれるに相応しい。 ただ、こうした軍師はどうしても目立つし、絶大な権力を持たされることにもなる。そのために、大名からのゆるぎない信頼と本人の自制心がないと、大名によって抹殺されたり、逆にその大名を滅ぼして自分が取ってかわるといった、ある意味で不幸な結末に辿り着く例も少なくない。 仕える大名が進言を聞き入れてくれず、失意の中で死んだ者がいる。大名の暴挙を止められず、衰退の道を辿る主家を最後まで守ろう…

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