攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

冬 の検索結果:

【クーデターで読み解く日本史】摂関政治誕生のきっかけ――承和の変

…北家の出身で、父親の冬嗣は嵯峨上皇に重用された優秀な官吏であった。 この事件により恒貞親王が皇太子でなくなると、良房は自分の甥である道康親王(みちやすしんのう=後の文徳天皇(もんとくてんのう))を皇太子にした。この点から、良房こそが事件の黒幕であり、反乱未遂をでっち上げて自分にとって邪魔な恒貞親王を排除したのではないか、といわれるわけだ。 どちらにせよ、承和の変以後、良房の力は強まり、藤原北家もさらに栄えていくこととなる。さらに良房は自分の娘と文徳天皇の間に生まれた子をまだ九…

【殿様の左遷栄転物語】紀伊藩付家老ーー安藤直次の悲劇

…している。重仲は「旧冬ヨリ此儀ナリケレトモ被固辞」(『当代記』)と一度は拒否をしているし、重良にいたっては父の死後約2年もの間、家督の継承(=付家老の地位に就くこと)を拒否し続けている。このとき、重良は2千石ながらも直臣の身であり、3万5千石という所領よりも、その身分を守りたかった、ということなのだろう。のちに御三家付家老五家がそれぞれに不満を燻らせることになる、「万石以上の所領はあっても、結局は陪臣」という微妙な立場への反発を、彼らは早い時期から表明していた、というわけであ…

【殿様の左遷栄転物語】伊達政宗の長男が設立 宇和島藩伊達家

…て江戸で暮らし、大坂冬の陣では政宗とともに出陣して戦功をあげ、伊予国宇和島郡に10万石を与えられて、ここに宇和島藩を設立することになった――そう、秀宗は伊達本家を継承できなかったのである。 その原因は、すでに述べたような豊臣家との深い関係があったのでは、と考えられている。伊達家は東北の大大名であり、幕府から警戒される存在だ。その当主が豊臣家ゆかりの人物では、余計ににらまれるだけだ。かくして、政宗は徳川家康に配慮して、秀吉の猶子である秀宗ではなく、次男で正室の子である忠宗に本家…

【殿様の左遷栄転物語】返り咲きを期待して決断 柳生宗矩

…死亡。今度は三男の宗冬が仕えることとなったが、まだ若かった。 家を誰に継がせるべきか、また実際に家を継いだ息子は、柳生家を潰さずに次代へ託してくれるか――宗矩はさぞ悩みに悩んだに違いない。結果、宗矩の息子たちは誰も1万2千石余の所領をすべて継ぐことはなかった。三厳に8千石余、を不冬に4千石、そしていまひとりの息子である義仙に200石を、と分割して所領を譲ることになったのである。 これは宗矩自身が家光から「何か願いはあるか」と尋ねられたとき、「知行を一旦幕府に返上すること、そし…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…。正則は一度目の大坂冬の陣において「江戸城留守居」を命じられ、実質的な人質になった。これは、豊臣恩顧大名の生き残りである正則を警戒し、戦場に登場させたくなかった幕府の思惑が働いたものと考えられる。 正則自身がこのことをどう思ったかはわからないが、豊臣家を救えないことに忸怩たるものを感じつつ、自らの家を守ることを優先したのではあるまいか。 福島家の命取りになった広島城 豊臣家は大坂城とともに滅んだが、豊臣恩顧大名である正則が幕府から危険視されている状況は変わらなかった。そして、…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…関係が悪化した結果、冬の陣、夏の陣と二度にわたって幕府勢が豊臣家の本拠地である大坂城を攻め立て、ついに滅ぼしてしまった一連の戦いである。この戦いにおいて、宗茂は二度とも幕府側として参戦している。具体的にどのような活躍をしたかははっきりしない。ただ、少なくとも夏の陣においては秀忠の旗本(この場合は大将を守る親衛隊程度の意味)として参戦し、あまり実戦にはかかわらなかったらしいことがわかっている。 この時期の宗茂についていくつかのエピソードが伝わっているので、紹介しよう。若年の秀忠…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府4代・徳川家綱――安定期の病弱将軍「左様せい様」 1641年~1680年

…乾燥して強風が吹いた冬の日に起こった大火は、木と紙でできた江戸の町並みをあっという間に焼き尽くした。焼死者は10万人に達したというから、尋常ではない。振袖火事という別名は「病死した娘の振袖を寺で燃やして供養しようとしたら、その炎が燃え上がって火事の原因になった」という話からきているのだが、これはあくまで伝説であろう。この大火によって江戸城もすっかり焼けてしまい、特に天守閣は燃えたまま後々まで再建されることはなかった。これは保科正之が「今はもう戦乱の時代ではなく、天守閣を作り直…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府14代・足利義栄――一度も京へ入れなかった将軍 1538年~1568年

…は義澄の次男・足利義冬(義維)で、足利義輝とは従兄弟の関係である。父がその養父・義稙とその妻・清雲院の不仲にいたたまれなくなり、京都を出ていたため、阿波の平島庄で生まれたとされる。 この義冬という人も苦難の生涯を送った人で、12代将軍・足利義晴の対抗馬として擁立されて激しく争った末、結局は阿波・平島に落ち着き、「平島公方」と呼ばれるようになった。1565年(永禄8年)、畿内を制圧していた三好政権を主導していた松永久秀と三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)が時の将軍・義輝…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府初代・足利尊氏――新たな幕府を築いた源氏の名門 1305年~1358年

…ていた直義の養子・直冬(尊氏の実子)がその勢力を伸ばし、中国地方まで迫っていた。これを受けて、尊氏が直冬征伐のために京都を出陣すると、その留守を狙って直義が進撃してきたのである。義詮が防衛にあたったものの防ぎきれず、丹波へ敗走した。 不利を悟った尊氏は弟と和睦を結んだものの、直義は長年の敵である高師直を許すことはできなかったのか、師直の一族は直義方の兵らによって殺害された。この処置に尊氏は怒り、尊氏・義詮派と直義・直冬派との全面対立となった。「観応の擾乱」と呼ばれるこの乱によ…

【歴代征夷大将軍総覧】足利将軍――室町時代

…の養子になっていた直冬が暴れまわった末に南朝に味方するなど、混乱はしばらく続いた。 南北朝の合一を果たした義満はときに悪辣と非難されるような策謀も駆使して有力武家を統制し、将軍権力を強化した。しかし、次代の足利義持以降は彼ら――各地を統治する守護という役職を務め、特に強力な家は「守護大名」と呼ばれた武家の発言力が強まった。幕府内の人事、それも将軍の選定のような問題にまで彼らの意見が反映されるようになったのだ。室町幕府がしばしば「守護大名による合議制」と指摘されるゆえんである。…

【戦国時代の境界大名】柳生氏――めまぐるしく変わる情勢の中、一芸に活路を見出す

…8300石、四男の宗冬に4千石、末子の列堂がのちに入る柳生荘の芳徳膳寺の寺社領に200石という形で分割した。こうして柳生氏は大名から旗本へ転落したのである。 その後、三厳が急死しその遺領を継いだ宗冬の頃に大名への復帰は果たされたものの、その後の約200年に目立った働きはない。将軍の兵法指南役を務めたのは宗冬の子の宗在までで、以後この役が柳生氏に回ってくることはなかった。たまに将軍の兵法上覧があったくらいである。以後、日立った働きもないままに1万石の小大名として幕末を迎え、明治…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…中央区)に入り、大坂冬の陣・夏の陣の二度の戦いを浪人衆の代表的人物として戦っている。冬の陣では大坂城に「真田丸」と呼ばれる出城を築いて幕府の大軍を防ぎ、そして夏の陣では三度に渡る突撃によって家康の本陣まであと一歩と迫った末に討ち死にしてしまう。その奮戦ぶりには幕府方の諸将も感嘆し、「真田日本一の兵なり」(『後編薩藩旧記雑録』)、「古今にこれなき次第に候」(『細川家記』)と大いに讚えた。 一方、信幸はもともと自分が持っていた沼田2万7千石に父の上田3万8千石、さらに小県で3万石…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…時代の名門貴族・藤原冬嗣に行きつき、彼の末裔が国司に任ぜられて遠江国にやってきて、やがて井伊谷に定着したのが始まりであったという。 戦国乱世の遠江を制したのは、隣国駿河の大大名、今川氏だった。氏親の代に大きく勢力を伸ばし、その死で内紛が起きるも、氏親の子・義元が混乱を収めてさらなる勢力拡大に成功している。ほかの遠江国人と同じく、井伊氏もこの頃に今川氏に恭順した。これが井伊直平(?―1563)の時だ。彼の嫡男である直宗は天文11年(1542)に討ち死にしてしまったため、弟の直満…

【江戸時代のお家騒動】細川重賢の財政再建 質素倹約藩主が挑んだ宝暦の改革

…た人物として、清水清冬という男がいた。2人は協力し合って改革を進めたのだが、そうなれば批判の矛先は彼にも向かう。そこでこんな落書が書かれた――「五家老の六人よりて無分別しみずほりのけ跡は四家老」。そのまま読めば「清水と堀がやめれば残りの家老は4人だ」程度の意味だが、無分別の「無」は「六」につながり、かつ「四家老」は「よかろう」になる。すなわち、「家老6人の体制はよくない、4人になればいいだろう」というわけだ。 大小の批判・反発はありつつも重賢が1785年(天明5年)に亡くなる…

【2020/2021】年末年始にお城は開いてるの?(全国のお城の営業状況調査)

…てこいですが、山城は冬期入山禁止になっているところも多いですし、暗い山道をのぼるのはかなり危険なので整備された場所だけにしておきましょう。 また国宝天守や現存天守も年末年始が休みのところはけっこうあるので注意してください。松江城のように早朝から天守が開放されているお城もありますし(来年は先着20名限定)、竹田城も元日は早朝5時から、岐阜城も元日は6時半から開城しています(金華山ロープウェーは5時から運行)ので、初日の出を狙うにはオススメです。 伝もものふ山田(ヤマー) | 令…

黒まめさんのオンライン研究会「躍動する熊野の武士団」参加レポート

…14)北山一揆 大坂冬の陣で新宮城主浅野忠吉が出陣した隙をついて、北山地方の土豪が蜂起。新宮城を目指すも、熊野川を渡れず撃退、一揆は鎮圧される。 秀吉の紀州侵攻で押さえつけられた在地勢力は、支配者側が領地をあけた隙をついて、一揆を起こしていますが、どれも鎮圧されています。 白浜町教育委員会 佐藤純一氏の報告「熊野水軍と史跡安宅氏城館跡」 白浜町の概要 旧白浜町と旧日置川町とが合併して、現在の白浜町となりました。日置川の河口は、瀬戸内海航路と太平洋航路が接続する地点で、重要な結…

【江戸時代のお家騒動】蒲生騒動 藩主夭逝が藩内の混乱を招く悪循環

…とで元服させたり娘の冬姫を娶らせたりしている。 その信長が本能寺の変で亡くなり、後を継ぐかのように羽柴秀吉が台頭してくると、氏郷は秀吉に従うようになった。そして1590年(天正18年)に小田原征伐が行われると、秀吉はこれに参陣しなかった奥州の諸大名に対し、仕置きを行った。対象の大名から領地を没収し、空いた領地に自分の家臣たちを配置したのである。 その中のひとりが氏郷だ。彼はそれまでの領地であった伊勢から会津へ転封となった。氏郷が会津に配置されたのには理由がある。会津は奥州勢が…

戦国時代、最大規模の合戦は?

…ありますね。 「大坂冬の陣」では徳川軍20万余騎、豊臣軍10万余騎とあり、両軍あわせて30万人。これが今回調べた中では最大規模の合戦ということになります。 半年後の「大坂夏の陣」では徳川軍20万余騎、豊臣軍5万余騎で、規模は小さくなっていますが、これはそのまま豊臣側の弱体化をあらわしているのでしょうね。 『大坂夏の陣図屏風』右隻(大阪城天守閣所蔵) 今回紹介した合戦を表にまとめるとこうなります。 合戦名 規模(両軍の合計) 桶狭間の戦い 2万7500人 山崎の戦い 5万600…

新発田城 上杉謙信に背いた男

…軍が身動きのとれない冬に景虎を倒して家督を得た。 この戦いで景勝を味方したひとりに新発田重家がいる。だが、彼は景勝が家督を相続した後に反旗を翻している。その理由は戦功が認められなかったこと、景勝の家臣・直江兼続が重用されて家臣団の地位が相対的に低くなったなどの不満があったと言われる。重家は尾張・美濃の織田信長、会津の蘆名盛隆とひそかに結んで後ろ盾を得ていた。両者には越後進出や景勝を排除するという目的があり、利害が一致したのである。 1581年(天正9年)に重家の反乱は一族だけ…

二条城で開催された二の丸御殿「黒書院三の間」学芸員解説会に参加してきました

…下あたり。 ここには冬に咲くスイセンと寒菊が描いてあります。 また北面の右側には稲刈りが終わった田んぼが描いてありますね。 また松に雪が積もっているなど、冬の表現も確認できます。 このように部屋をぐるっと見回すことで、夏から冬にかけての表現を目にすることができるわけです。 じゃあ春は? となるとそれは一の間と二の間に描いてあります。「桜花雉子図(おうかきじず)」と呼ばれるこの絵には大きな桜が描いてあるのですぐにわかります。控えの間である三の間で夏から冬にかけての景色を眺め、将…

【お城の基礎講座】24.籠城のために

…て 豊臣大坂城:大阪冬の陣夏の陣にて 会津若松城:戊辰戦争にて などがあります。もっと他にもあるかもしれないので、いろいろと探してみてください。 備えあれば 戦国の世ではいつ籠城戦になるかわからないため、城郭全体だけでなく天守にも籠城戦に必要な設備が備えられたところがあります。※ここでは天守の籠城への備えだけに絞りました。 畳敷き 籠城戦において多くの人々が天守に詰めることになれば、そこは一転して生活の場にもなります。天守の床は現在では板張りになっていますが、創建当時は畳が敷…

【お城の基礎講座】17.天守の屋根の素材

…徴としてだけでなく、冬の寒さの厳しい地方でも使われました。弘前城天守は銅瓦葺の現存する唯一の天守です。通常の土製の瓦は、しみ込んだ水が冬になると凍って体積が増えるために、瓦が割れてしまうことがあります。これを防ぐために、金属瓦が用いられていました。 ▲ 弘前城御三階櫓。現存天守では唯一の銅瓦葺。(提供:弘前公園総合情報サイト) 石瓦 丸岡城天守も同じ理由で、土の瓦ではなく石の瓦が使われています。福井県は笏谷石(しゃくだにいし)が豊富に取れますので、丸岡城天守の屋根瓦は笏谷石(…

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

…時期 メモ 八口内貞冬やくないさだふゆ 八口内貞冬 やきとり居酒屋もみじ(秋田県湯沢市)、ゆざわ御城印プロジェクト 店舗/通販 300円 武将印 書置き(印刷) 2020年6月1日 菅六郎すがろくろう 菅六郎 やきとり居酒屋もみじ(秋田県湯沢市)、ゆざわ御城印プロジェクト 店舗/通販 300円 武将印 書置き(印刷) 2020年7月1日 菅勘四郎すがかんしろう 菅勘四郎 やきとり居酒屋もみじ(秋田県湯沢市)、ゆざわ御城印プロジェクト 店舗/通販 300円 武将印 書置き(印刷…

5.譜代大名の出世頭「老中」

…使う御用部屋は広く、冬場には個人ごとに脇に火鉢が置かれ、部屋全体を温める「御間あぶり」という大きな火鉢もあったという。さらに、江戸城内では徳川家以外の人間が座布団を使うことが禁じられていたが、老中の座る畳の下にはパンヤ(綿状の草)が敷かれていた。 待遇面以外にも特権は多い。老中は大名に関することがらを取り仕切るため、大名と会うことが多かった。大名は登城の際、将軍にさまざまなものを献上する。老中にはその「あまり」が渡されることになっていた。諸大名との上下関係でも、老中は特権的な…

2.譜代家臣団の成立

…長19年)には「大坂冬の陣」、翌年には「大坂夏の陣」があり、豊臣家が滅亡する。これにより、江戸幕府の支配体制は盤石なものとなった。以降、将軍職は徳川家の子孫によって世襲され、強固な支配体制が維持されていく。徳川家による統治は、実に265年の間にも及んだ。 時期による譜代大名の区分 家康が天下統一を果たしたことで、すべての大名は徳川家に臣従することとなった。その中で、古くから松平家、および徳川家に仕えてきた大名たちが譜代大名とされたわけだが、一口に松平(徳川)と言っても歴史が長…

『柳生非情剣』『柳生刺客状』ーー柳生を通して描いた時代

…ちな二人の弟・柳生宗冬が主人公の「ぼうふらの剣」という作品まであるのが、柳生にこだわった隆慶一郎らしいといえよう。 またこれとは別に、『影武者徳川家康』の外伝ともいえる「柳生刺客状」(『柳生刺客状』収録)という作品があり、これは刺客として働かざるを得なくなった宗矩の事情と心境を描いたものだ。同作において秀忠が「その方は父御(ててご)が好きか」と問い、宗矩が「大嫌いでござる」と答え、秀忠がにたりと笑う――この一連のシーンは原哲夫の漫画版『影武者徳川家康』でも印象的に描かれ、隆慶…

3.戦国大名から外様大名へ

…こで放牧している馬は冬の間はどうするのか」と聞いたら、村役人は「存じません」と言った――馬のことは対応問答集に書いていなかったからだ――なんて笑い話もある。そのくらい、大名たちは幕府の目を恐れていたのである。 大名の格付け①家格 もちろん、法をつくり、目付に監視させるだけでは大名を統制することはできない。幕府は様々な制度やルールを制定し、それによって大名たちの行動を縛り、また浪費せざるを得ない状況をつくった。その代表的な存在であったのが、家の「格」であった。現代人の感覚からす…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…行われる裸まいりは厳冬の仙台の風物詩となっています。 るーぷるバスで回れる仙台を代表する伊達政宗の史跡巡りはこんな感じですが、まだまだ多くの史跡が仙台には残されています。 電車やバスを使って巡ることができる仙台の伊達家ゆかりの場所をいくつか紹介してみます。 所在地 宮城県仙台市青葉区八幡4丁目6-1 アクセス 車の場合:東北自動車道仙台宮城ICから車で10分。 電車の場合:JR仙山線「東北福祉大前駅」から徒歩15分。JR仙台駅西口より仙台市営バスで20分「大崎八幡宮前」下車、…

かつての王都・浦添グスクと浦添ようどれを取材してきました(伊祖グスクも)

…茂ってますが、沖縄は冬枯れしないので、手入れしないとすぐジャングルみたいになっちゃうんですね。 今回は時間の都合で立ち寄ることができませんでしたが、石畳道を降りたところにある県営浦添大公園南エントランス管理事務所には浦添グスクを紹介するパネル展示や、ジオラマ模型があります。 提供:県営浦添大公園南エントランス管理事務所 | 県営浦添大公園南エントランス管理事務所(外観)[浦添グスク] 提供:県営浦添大公園南エントランス管理事務所 | 県営浦添大公園南エントランス管理事務所(ジ…

二条城で開催された二の丸御殿「式台の間」特別入室と学芸員解説会に参加してきました

…が「秋」、三の間が「冬」と一年を表現しています。二の丸御殿内で季節を描いているのは黒書院と老中の間だけですね。 「三の間」については狩野興以が描いたと比定されていますが、一の間と二の間については誰が描いたかはわかっていません。原画公開中の展示収蔵館には渡辺了慶の可能性があると書いてありました。 あと老中の間は完全にバックヤードなので簡素な造りになっています。長押の上はしっくいの白壁で絵が描かれてませんし、天井も竿縁天井ですしね。 「松図」は誰が描いたのか さてこの「式台の間」…

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