攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

土塁 の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯6】

…であり、球場の周囲に土塁や空堀を見つけることができます。特に弓道場の的の位置あたりから入っていける空堀の底は、山の中にある深い堀の城を彷彿させる情景を見せてくれます。球場の姿とは一変、城の面影に興奮することは必至でした。この空間にしばらくいるだけで力がみなぎりそうです。 また鹿沼市役所が新しく建てられた際に発掘調査されたみたいで、いろんなものが出て来ているようです。粘土の中から保存状態のよい漆椀とか出てきていて、なんだかワクワクします。 www.nhk.or.jp 小田原城の…

城葱さんの「城もなか」道中記【鳥取・島根編】

…りて行った先には、大土塁へもいけるのでそちらもあわせて帰りに寄るのがいいと思います。 月山富田城の進化系城もなか アルテピアカフェの「難攻不落 富田城パフェ」 1800円 地元の秋の味覚がふんだんに使われた期間限定の城パフェ。抹茶とバニラアイスを囲むように、羊羹、わらび餅、巨峰、ポン菓子、さつまいもが石垣に見立てて並べられています。また、底に黒蜜が隠されています。まぁガラスの器で横から丸見えですが、あるのを知っているのと知らないのでは食べ方も違ってくると思います。 尼子氏のフ…

2023年に訪問して良かったお城

…心から感謝します) 土塁! 空堀!! 土橋!!! とおそろしいほどの土木工事です。 もちろん自然地形を活かした部分もあるのでしょうが、削平地の広さや土塁の高さなどを見るかぎり大部分は人工だと思います。 一般的にこの城は「賤ヶ岳の戦い」の際に柴田勝家が本陣とした陣城として知られていますが、さすがに即席で整備するには大規模すぎるので、それより前、清州会議で長浜城が秀吉から柴田方に譲渡された際に、勝家の居城・北ノ庄城とのつなぎの城として整備されていた可能性が指摘されていて、ぼくもそ…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

…イントは、正門の脇の土塁の上からながめる函館平野です。よく目をこらせば五稜郭タワーも見え、当時戸切地陣屋が何を守ることを目指していたのかを実感していただけると思います。 図1.戸切地陣屋正面側土塁から函館方面を望む あとは稜堡式堡塁ならではの構造と機能を実感していただきたいですね。例えば、稜堡(砲台)の側面(フランク)の砲眼の部分から隣接する稜角を覗いてみたり、土塁内側に設けられたバンケット(小銃兵用の足場)に立ってみたり。そうした「銃・大砲を手にして戸切地陣屋本陣の土塁を活…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】4.「早すぎた」洋式軍学理論のゆくえ-戸切地陣屋、そして「日本の稜堡式城郭・堡塁」のその後-

…敷が立ち並ぶ居住地を土塁で囲んでしまいます(図28)。これは、サヴァール教本では禁忌である「陣前斜面に構築された敵の進軍に利することのできる家屋などの建築物」に他ならず、戸切地陣屋の砲戦陣地としての機能を削るものです。つまり、この時点ですでに松前藩内における洋式軍学への理解・優先度はほぼ皆無であったとも言えます。 図28.『北海道史蹟天然記念物報告書』に見える明治期時点の陣屋遺構。文久期築造の武家屋敷跡と土塁が、陣前斜面を埋めてしまっている。 日本において発達し、鎖国の間ガラ…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…土を盛って造成した「土塁」を持ち、自然地形を巧みに活かした土の城です。 城は、敵の侵入を阻むために堀や土塁を設けて区画した砦を起源に持ち、吉野ケ里遺跡(佐賀県)のような弥生時代の環濠集落も城の起源と言われています。1467年(応仁元年)から始まった応仁の乱を契機に、室町幕府の権威は揺らぎ、日本各地で戦国大名が登場します。戦国大名は自身の力で領国を広げるため、天然の要害である山に山城を築き、そこを戦闘拠点に戦を繰り広げました。時代が進むにつれ、城は「戦闘拠点」と併せて「権威の象…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-1.「日本最初の星の城」の原典への旅(1)-戸切地陣屋へと連なる「星の城の系譜」…パガン、ヴォーバン、そしてサヴァール-

…が、現在遺されている土塁・壕などの遺構の各部の寸法を計測・比較し考古学的に分析することによって、その形状や構造にのこる法則性や規則性を見つけ出し、当時の設計理念を明らかにできないか試みました。その結果、本陣遺構は、一辺200mの正方形とその中央等分線・対角線を基準とした極めて対称的かつ幾何学的な星形構造に設計されていることが推定できました(図18)。これを元に当時の設計計画を復元し図示したのが図19です。 図18.戸切地陣屋現存遺構の各部計測値※図は『史跡松前藩戸切地陣屋跡 …

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】2.「日本最初の星の城」戸切地陣屋の防衛構造の概略

…形堡塁でした。 その土塁から壕までの断面構造は当時の洋式軍学における対砲戦防壁の構造に忠実な形状かつよりぶ厚く(後述する19世紀初頭の洋式軍学教本であるサヴァール教本において例示されている防壁厚は最大6メートルですが、戸切地陣屋のそれは最厚部で10mに及びます)、設計に際し想定していた戦闘の激しさと、それに耐えうる構造を与えようとしていたことが伺えます(図14)。 図14.戸切地陣屋本陣防壁(土塁・壕)の断面構造と、洋式軍学教本(※)における対砲戦防壁構造の設計解説図面との照…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】はじめに

…され、「小型の稜堡式土塁」「稜堡を一稜しか有さない不完全なもの」といった過小な評価に留まるほか、時には日本における稜堡式築城の歴史において五稜郭こそが最初であるとされるなど、評価はおろか認識すらされていない例も少なくありませんでした。 また、その評価の観点もいわゆる和式築城、「日本のお城」に対する視座のもと行われ、本来その設計・構築理念の基盤であったはずの洋式軍学・築城術の具体および実際、および当時の世界における稜堡式城郭群の実情と比較しての評価はほぼまったくなされていなかっ…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯5】

…が美しくそびえ、本丸土塁、石垣の石の野外展示などが見られます。また、高麗門があったり、鐘楼もあります。白く美しい御三階櫓と水堀の構図が写真映えする。天気が良ければさらに良い。必ずと言っていいほど、写真を撮るポイント。 行田市郷土博物館の一部でもあるこの櫓。郷土博物館に入館すれば、櫓の中にも行けます。ただし、櫓の中ではあるけれど博物館の展示室ですのでご留意ください。展示室ではあるけれど、本館に対する離れ的な別館なので、渡り廊下を渡っていくところが、渡櫓を進むようで、ちょっとワク…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…の目印となる北東隅の土塁。樹齢500年を超える大ケヤキをぐるりと巡れるように木道が整備されている 鶴ヶ城の北西郊外に「幻の巨城」と呼ばれる平城土塁の遺構が点在する。戦国期の慶長3(1598)年、越後から百二十万石で移封された上杉景勝が、執政の直江兼続に築城を命じた城『神指城(こうざしじょう)』である。完成すれば日本有数の規模を誇る平城となるはずだった。方形二重の輪郭式平城で「回」の字状の縄張りに、本丸と二の丸、各郭外側を堀が囲む。大手口は石垣を産する慶山へ続き、人夫らが切り出…

城葱さんの「城もなか」道中記【千葉県編】

…はなんら問題ないが、土塁が綺麗な出丸跡や昔、乳母が子どもを池のほとりで遊ばせていた際、あやまって子どもを溺れさせてしまったという哀しい伝説が残る姥ヶ池など、色んな場所を見に行こうとするとアップダウンを繰り返すことになり、小高い丘に城があることがよくわかります。とくに(私が訪ねた時は)一部崩落等で行けない場所があり、昇り降りを繰り返しながら佐倉城の跡を巡りました。 土塁に囲まれ、隅櫓跡や天守閣跡のある本丸跡、そしてスタンプのある佐倉城址公園管理センターと自由広場の道から姥ヶ池へ…

「歴史遺産ウォーク in 那珂川『二つの山城跡と菩提寺を巡る歴史ツアー』」開催レポート

…なっていて、周囲には土塁が確認できます。かつては土塁を囲むように堀が掘られていたと思われ、みなさん興奮状態でした。 熱心に堀の説明を聞く参加者 次に松野氏の菩提寺である「松林寺」へ。松林寺は曹洞宗の寺院で、1590年(天正18年)に創建されたと。松林寺の裏山は松野城跡となっていて、「城間」の谷を挟んで松野南城と松野北城と呼ばれる城郭が築かれています。現地にその遺構が残っていて、みなさん興味津々でした。 (左)熱心に耳を傾ける参加者(右)松林寺山門前で記念撮影 あるき回りお腹が…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#4】

…好きに振ってしまい、土塁や虎口の形、土の盛り上がりや掘り切られたものをもなかにしても一般の人には響かない(城好きにとってはとてつもなく面白いお菓子となるわけなんですがw)。城もなかも売れなければ、なくなっていってしまう。城もなかは城好きだけのものではないということではないでしょうか。 また、この世の中、多くの城は建物がない土の城。正直、一般の人からすれば、そこは城だと認識されてない。模擬天守があることで城というもの(実際は土の城だけど)があったことを認識してもらえるように、同…

【家康の合戦】大坂の陣(冬の陣、夏の陣)豊臣を滅ぼした家康最後の大戦!

…築かせ(塹壕を掘って土塁を築くこと)、軽々しく攻めるなと戒めていましたが、真田丸からの妨害と挑発に呼応する形で戦闘が始まってしまいました。この戦いでの徳川方の死者は数千人に上ると言われています。 一方で、11月23日ごろより始めた淀川の堤防築造が12月9日ごろ完了したのを受けて、家康は大坂城の南方および北の備前島から大砲による砲撃を始めました。一説には淀殿の近くで大砲の砲撃を受けて即座に和議交渉を開始したと言われますが、それほど心理的にも圧力をかけ続けていたのです。和議は5つ…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…跡には家康が改修した土塁と堀が復元されている 1584年(天正12年)3月6日、信雄は秀吉に通じたとして家老3人を殺害しました。これは秀吉に対する事実上の宣戦布告です。これに先立って家康は前年の1583年正月には星崎で信雄と会見しており、この年1584年の2月には使者を伊勢長島城に派遣して何やら密談をしています。おそらく秀吉対策を協議していたものと思われ、3月6日以降の動向がそれを物語っています。つまり、家康は信長・信忠亡き後の「織田政権」に対しては一貫して信雄を支持しており…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…は100m四方で堀や土塁で囲んだ4つの曲輪がある並立的な館城(やかたじろ)だったと想像されます。現在でも土塁などの痕跡が残り、地籍図によっても堀跡が確認できます。浜松市立中央図書館/浜松市文化遺産デジタルアーカイブで江戸時代に描かれた浜松城の縄張りを見ることができます。あわせてご覧ください。 浜松市 歴史資料 絵図 浜松城と城下の絵図 家康は武田信玄の遠江侵攻に備え、この引馬城の堀を西の高い丘まで延ばして城の面積を広げる形で城を大拡張しました。それが現在の浜松城の原型となって…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#2】

…、その落ち葉によって土塁や堀の形状がはっきりわかる。竹藪の日陰でもあるためか草も少なく、その点も見やすいところです。 上の写真の箇所がこの城で一番のお気に入りスポット。曲輪の上から狙われる感じと、高低差が際立ち、二股の分岐があるのもかっこいい場所です。通路を黒い柵などで囲っているところと特徴的ですね。少しだけ、京都に来た気分になるのは私だけでしょうかw 本丸跡では、近所の野球少年たちが必死にバッティング練習していました。地域に愛される城跡ですね。 その他の小机城の城菓子 1.…

ガイドブック「国指定史跡 柏木城跡」のご紹介

…そなえて築いた城で、土塁や堀切のほか、広範囲に石積が残っており、国の史跡に指定されています。このたび北塩原村が柏木城跡の特徴や史跡の発掘調査などをまとめたガイドブックを作成されたということで、攻城団の読者向けプレゼント用に3冊ご提供いただきました。 さっそく中身も拝見しましたが、A4サイズでフルカラー、16ページとなっています。発掘調査の様子や出土品の写真も豊富で、柏木城が築かれた背景やその性格などもわかりやすく解説されています。 なおこのガイドブックは北塩原村の生涯学習セン…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編】

…ないのですが、片隅に土塁と堀の跡があり、わずかでも残る城の在りし日の姿に思いをはせます。そのほか地域全体が丘陵地帯となっており、小学校が丘の上に立地していることから、そこが城跡であったことも納得といった感じです。 小学校から少し離れた、これもまた小高い丘の上に神社があり、柿岡城があったころの見張り台だったとのこと。遠目に見ても突出して高い場所であることや、そこから見晴らしがよいことも城跡感を感じさせてくれます。 諏訪高島城の城もなか 園月堂本舗さんの「湖城もなか」 諏訪高島城…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話①――秀吉の一夜城・墨俣城

…運び、大きなものは筏にして川に流す、という手法をとったのだ。現地に届いた木材はすぐさま組み立てられた。さすがに1日ではできないが、2~3日で工事は完成し、敵方を大いに驚かせたという。 この際完成した墨俣城についてはいろいろな説があるが、「城」といえるような規模ではなく、まずは周囲を取り囲む柵だけが完成していた、とする説をとるのが妥当であるように思える。その柵に拠って敵を迎撃しつつ堀や土塁を築いて、小規模な城を作り上げた、というのがありそうな話ではないか。 kojodan.jp

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑥――武田信玄・上杉謙信を撥ね除けた城・小田原城

…達した。石垣ではなく土塁と空堀の「土の城」ではあるが、当時としてはまれに見る巨城であり、城下町を丸ごと包みこむ約12キロの大外郭が特徴であった。のちには豊臣秀吉の率いる大軍の前に白旗を揚げることになるが、戦国時代を代表する城のひとつといえるだろう。 そんな小田原城を襲った危機は三回。この項ではそのうち二回について紹介することにしたい。まず、1561年(永禄4年)に上杉景虎(謙信)が11万3千ともいう大軍で押し寄せてきた。時の当主、北条氏康は鉄砲や兵糧を集めて籠城の構えをとりつ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑩――戦うことなく炎に消えた城・安土城

…全体を囲む「惣構」の土塁らしきものが描かれた絵図も見つかっている。この城は、その美しさに違わぬ堅牢さを発揮しただろう――もし、戦う機会が来たのならば。 実際のところ、その時は結局こなかったのである。安土城は織田政権が天下を統一するより早く、失われてしまった。1582年(天正10年)、信長は本能寺の変で倒れ、それからあまり時をおかずして安土城も炎上してしまった。信長の息子・信雄が謀反人と戦っている中でうっかり火がついてしまった、いいや信雄は自ら天主に火をかけたのだ、実のところ謀…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑥――水攻めに耐えた城・忍城

…であったし、城自体も土塁・池沼・深田によって区分けされた複雑な構造を有して、非常に守りやすい城であった。そのため、「関東七名城」のひとつに数えられている。戦国時代を通して成田氏が城主であり、上杉氏と手を組んでたびたび北条氏と戦ったが、やがて北条氏の傘下に下ることとなる。豊臣秀吉によって北条氏が攻め滅ぼされると、この地は徳川氏の領有となり、関東の要所のひとつとして江戸時代を通じて譜代・親藩の大名が入った。そして、廃藩置県後に取り壊されている。 忍城をめぐる戦いで有名なのは、豊臣…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ④――後詰決戦と野戦築城で守られた城・長篠城

…ったのは、鉄砲だけでなく兵、槍、弓、馬などすべての面において、数量が武田軍のそれを上回っていたこと、そして合戦前に作り上げていた「城」にあったようだ。とはいっても、建物としての城ではない。陣取った丘陵の斜面やそこを流れる川を自然の防衛手段として活用しつつ、空堀を掘り、土塁を築き、柵を立てて、ある種の野戦築城を行ったのである。ただでさえ物量に劣っていたのに、これで武田軍が勝てるはずもない。いわゆる「戦国最強武田軍団」は、鉄砲ではなく「城」に負けたのである。 kojodan.jp

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城をめぐる戦いの様相⑤――城攻めの兵器、城を守る兵器

…よう。 城の高い塀や土塁・石垣、堀なども攻城側にとっては大きな障害になる。これらを乗り越えるためにも、各種の兵器が使用された。城の内部構造が外から確認できれば、大きな助けになる。そこで、材木を幾重にも組み上げて(土台部分は蒸し器の蒸籠やキャンプファイヤーの木材をイメージしてほしい)櫓にした「井楼(せいろう)」(これは城の中の櫓としても用いられた)や、支柱から伸ばした縄で兵士の入った箱を吊り下げる「釣井楼(つりせいろう)」などがあった。高い視点から弓矢で攻撃したり、城内を観察し…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】地形に合わせて縄張をする

…するかを決める。堀や土塁・石垣の位置を決め、虎口(門を含む、城全体や重要拠点の入り口のこと。敵も味方も殺到する重要ポイント)の構造を決め、櫓(武器を備蓄したり立てこもって戦ったりするための建物。これが発展して天守閣になる)の位置を決めていく。 つまり、城の構造を設計するわけで、この工程を「縄張」という。地面に杭を打ち、縄を張って、どこに堀を掘るか、どこに建物を作るか、というのを示したことからこの名前がついた。ただ、いちいち縄を張っていくのは大変だったためか、大きな城では一部に…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史④――必要とあればその場で城を作る

…こちらは空堀を築いて土塁を持って陣幕をめぐらすというもので、最前線基地である付城に対しその後ろで指揮官が状況を確認し、指揮を行うためのものと考えられる。たとえば、持久戦を得意とし、また派手好きでもあった豊臣秀吉が、この陣城に持ち前の成金趣味を発揮して派手に飾りつけた、などのエピソードが伝わっている。 付城の簡易的なものは「仕寄り(しより)」、陣城の小規模なものは「陣所(じんしょ)」とそれぞれ呼んだ。臨時で城を築くのは攻城側だけではない。籠城側が城に隣接する形で防御のために築い…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史②――統治拠点と防衛拠点

…地形に頼るだけでなく土塁や空堀をめぐらせ、また拡張して居住設備を充実させるなど、恒常化。大規模化が進んでいくことになる。 それでも、やはり戦うための城であることに変わりはなく、山の上という敵の攻めにくい、人が行き来のしにくい場所にあるわけで、領地を治めるのには向かない。そのため、山城の麓には居住用の館がセットで築かれるのが一般的だった。普段はこちらで生活して周辺を統治し、ひとたび有事となれば兵を率いて山城に立て籠もって戦うわけだ。麓の館は主に「根小屋」として知られるが、地域に…

最上義光が山形城に瓦葺きの本丸御殿を築いた理由

…郭に進化するには、①土塁から高石垣へ、②掘立から礎石建築へ、③茅葺から瓦葺へという変化が生じるが、この変化は同時に生じるのではなく、この①から②を経て③、の順に起こる。つまり城の防御機能を高めて後に、装飾性を高めるという順であり、これは戦国大名にとっては合理的な選択である。 ところが、山形城はこの順が真逆である。なぜこんなことが起こったのか。このことは、九鬼周造が「いき」の三要素のひとつとした武家の「意気地(いきじ)」から考えてよいのではないか。最上義光は伊達政宗と同じく、豊…

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