攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

城内 の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯6】

…この後に行った小田原城内の展示にて初めて知りました)そんな〈城もなか王国〉小田原とも関連のあった鹿沼城。小田原城の支城がすべて、いち城いち城もなかとなればいいなぁなんて妄想をしてしまいました。 さて、鹿沼城は市役所の裏手にあり、本丸は野球場となっています。城跡はある程度大きなスペースを確保していることもあり、学校やテニスコートなどとして利用されていることはよくあります。新しくはなく年季も入ってはいますが、大層立派な野球場が本丸に陣取っており、これはこれで威風堂々たる城跡。ここ…

城葱さんの「城もなか」道中記【鳥取・島根編】

…もなかもお茶屋さんの城内店舗ということで、イートインタイプはお茶屋さんで生まれることが多いのではと考えざるを得ない。全国のイートインできるお茶屋さんに、茶請けとしての城もなかを普及させたいと野望が燃えましたw 小倉城のイートインはこちら。 blog.kojodan.jp ちなみに体験型は抹茶だけでなく、鳥取県産米を原料としたこだわりの団子や餅を自分で焼いて食べるメニューも。さらに本格的なランチメニューもあり、名物は「大山どりの五目釜飯」などの釜飯料理。提供には時間がかかること…

城葱さんの「城もなか」道中記【九州編】

…屋「辻利茶舗」の小倉城内の支店で、小倉城をより楽しむためのラウンジ、お土産、観光案内、飲食コーナーがある複合型のおもてなし拠点「しろテラス」の飲食コーナーとしてあります。 ここで、抹茶とのセットで注文することで、入手というか食べることができます。単品での販売がないので、抹茶とセットで注文するしかありませんが、先ほども書いたとおり、セットで問題ないです。むしろそれがいいです。 お店がある「しろテラス」は、小倉城の続100名城スタンプや御城印のほか、小倉城のお土産がたくさん置いて…

全国各地で城もなかが進化中! 城もなかの可能性は無限大!

…岡県北九州市小倉北区城内2-1 しろテラス内)営業時間 11:00~17:30 / 定休日 しろテラスに準ずる(年中無休) そしてもうひとつのイチオシを(ニオシになってる?w)紹介させてください。 大阪城の「大阪キャッスルパフェ」(ホテルニューオータニ SATSUKI) 1,931円 ほうじ茶ジェラートの城アイスもなかがのっている。こちらは城もなかの皮でなく、城アイスもなかという形で城もなか皮が両面使われていて、城もなかの存在感が際立つ。 屋根を抹茶アイス、石垣をグラノーラ、…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…と呼ばれる防御装置が城内の各所に見られ、現在も良好な状態で現存しています。馬出とは、虎口(城の出入口)の前に堀を隔てて設けられた曲輪※のことを指し、曲輪の形が半円形のものを丸馬出、四角形のものを角馬出と呼びます。武田氏の築城術には丸馬出を多用する特徴があります。丸馬出を設けることで、攻めてくる敵はまっすぐに虎口に攻めることができず、敵の侵攻経路を制限することができます。また、馬出に兵を待機させておくことで、攻め込んでくる敵に対して、弓矢や鉄砲で攻撃することも可能となります。つ…

二条城で開催された学芸員解説会に参加してきました(遠侍・勅使の間)

…れるような構造は二条城内のほかの欄間や、名古屋城本丸御殿などでも確認できますが、完全に同一のものが彫られているのではありません。 勅使の間の欄間彫刻には大和松に錦鶏(きんけい)、さらに椿や薔薇が彫られているのですが、反対側にある遠侍一の間から見ると錦鶏がいない(=裏)そうです。このことから遠侍一の間よりも勅使の間のほうが格式が高いことがわかると。たしか名古屋城本丸御殿でもこっちからは将軍が見るので、と案内してもらった記憶があります。 釘隠は括袋型(かったいがた=袋を括った形状…

細川玉子さんによる「瀬名様と信康様の軌跡を辿る、岡崎の旅」

…、信康様の死後、岡崎城内にて怪異現象が度重なったそうで……。この境内に供養塔の首塚を建て、丁寧に合祀されました。 様々な説をお話し長くなってしまいましたが、最後にもうひとつ、瀬名様ゆかりの地、 八柱神社(やはしらじんじゃ)をご紹介いたします。こちらにも瀬名様の首塚がございます。 collection.kojodan.jp こちらでもどちらに首塚があるのか? と探しておりましたら、境内の奥の林の中にございました。 瀬名様のお首は、最初にご案内した祐傳寺(ゆうでんじ)に埋葬された…

【家康の謎】家康が採った空城計ってなに?

…焚かせ、門を開かせ、城内を静かにさせた。いかにも罠がありそうな風情を演出したのである。これを見た武田軍は「ここに攻め込んでは危うい」と攻撃を控え、浜松城は責められずに済んだ……という。この作戦を古代中国の軍学書『兵法三十六計』に第三十二計として記されている「空城計」(あえて敵に警戒させる作戦)になぞらえて、「家康は空城の計を仕掛けた」と言われるようになった、というわけだ。 なお空城の計の有名な例としては、『三国志演義』の一場面がある。いわゆる北伐において、諸葛孔明は弟子の馬謖…

福井城へ重ね捺し御城印スタンプラリーの取材に行ってきました

…年(寛永5年)、福井城内に鎮守として東照宮(徳川家康)を祀ったことに始まる神社で、1873年(明治6年)に福井藩祖・松平秀康の偉業を称え祀るにあたり、松平春獄によって「佐佳枝廼社」と命名されました。 スタンプは社務所に置いてあります。 スタンプを捺すのもだいぶ慣れてきました。 シヤチハタのスタンプはかなり出来が良いのであまり強く押し付けないほうがいいです。日本100名城などお城に置いてあるスタンプはけっこうヘタれているのが多くて、強く捺さないとかすれてしまうのですが、この重ね…

細川竜太郎さんの姫路城攻城レポート

…たということです。 城内には怪談で有名なお菊井戸があり、ちょっとしたホラーが楽しめます。お城に入る前に広場があるのでそこで花見がてらお弁当を食べました。最近では彦根城の「ひこにゃん」人気にあやかり、姫路城の「しろまるひめ」とかいうゆるキャラも登場したようです。 姫路城の始まりは、1346年の赤松貞範による築城とする説や戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が…

しぇるふぁさんによるJR福山駅から見る福山城の検証レポート

…:入場券を買って先に城内を巡ってそのあとに駅から見学する等)は、きっぷの効力が無効になる可能性があるのでご注意ください。さらに入場券なので、列車、新幹線への乗車もできないので注意が必要です。 ※長距離路線用券売機(みどりの券売機)で購入する場合 みどりの券売機で入場券を購入する場合は、少し手順が変わりますのでご注意ください。最初の画面はこのような状態です。こちらもタッチ式の画面です。入場券を購入する場合は左下の「乗車券/入場券」のボタンをタッチします。 タッチすると2つの選択…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…とになった。理由は、城内の意見が「伊達氏への降伏」へ傾き、義広は城を明け渡す他なかったからだ。この時をもって実質的に戦国大名・蘆名氏は滅亡する。・どうして蘆名の家臣たちは義広のもとで一致団結しなかったのか。その原因としては「義広がよそ者だったから」ではないか。実は決戦から三年前の1586年(天正14)、時の当主の蘆名亀王丸が亡くなると、蘆名内部で後継者をどこから養子で貰ってくるかで意見対立が起きていた。その候補が政宗の弟と、佐竹義重の子である義広だったのだ。これはイコール「伊…

城葱さんの「城もなか」道中記【小田原編】

…店(神奈川県小田原市城内6-1 小田原城址公園 本丸広場)営業時間 9:00~17:00 / 定休日 12/31〜1/1 /電話 0465-24-2050 collection.kojodan.jp 3.「大名最中」(栄月) 160円 皮は、定番の三層角右寄り型。さっきまでの三層正面型などのオリジナルの皮が連続していると、懐かしささえ覚えてくる。念のためですが、全国的にはこちらが多いタイプです。 ※三層角右寄り型三層の天守(櫓)であり、石垣の角が、中央より右側によっているもな…

【戦国軍師入門】真田幸隆――謀略に長けた「攻め弾正」

…、さらに忍者を使って城内に火を掛けさせる。どんなに防御の堅い城も中から攻められると脆いもので、こうして岩櫃城は陥落したのだ。 さらに幸隆の活躍は続く。斎藤の残党が立てこもる上野獄山城を攻めている際に上杉謙信が援軍を出してくると、「信玄が出陣する」という虚言を流して防御側の戦意を挫き、とりあえずの停戦に持ち込んだのだ。翌年、落ち延びていた憲弘の嫡男の憲宗が援軍を連れて戻ってくると、ここぞとばかりに幸隆は動き出す。憲宗らに和睦と岩櫃城の返還をちらつかせて接触を図る一方で再び敵方の…

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

…秀頼・淀殿母子は大坂城内で自害を遂げ、大坂城もまた炎上する。こうして徳川家康は戦国時代の勝者として江戸時代を築いていくことになったのだった。 真田幸村は勇将・英雄として語られることは多いのだが、軍師として語られることはあまりない人物だ。それは彼の最大の活躍の場である「大坂の陣」において、あくまで部隊長的な立ち位置で戦ったからだろう。しかし、どうもそれは彼の資質的な問題ではなく、当時の大坂城内部の問題であったように思える。もし、幸村が豊臣軍全体の軍師として大きな働きができていた…

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

…きなくしたのだ。三木城内の兵士は完全に餓えてしまい、草の根や木の皮を蓄って餓えをしのぐしかなくなり、ついには降伏に至ったのである。これが「三木城の干殺し」で、この兵糧攻め作戦こそが三木城攻めの陣中で病没した半兵衛の最後の策であった。 次は「鳥取城の餓え殺し」だ。どうにか但馬・播磨を平定した秀吉は、続いて1581年(天正9年)の6月末に鳥取城を標的とする。この時に城を守っていたのは毛利一族の吉川経家だった。彼は鳥取が豪雪地帯であることから、11月あたりまで時間を稼げばそれで十分…

【戦国軍師入門】稲葉山城乗っ取り――軍師・半兵衛、鮮やかなデビュー

…2月6日、人質として城内にいた弟の持病が再発したという口実で十数人の供を連れて城内に入る。さらに案内を申し出る城の者たちを無視して広間に入り、そこにいた近侍の武士たちを斬り伏せてしまった。 この騒ぎに龍興は一度は立ち向かおうとするものの、「半兵衛だけで起こした謀反ではないはず」と周囲の者たちに押しとどめられて城外に脱出する。実際、半兵衛の手の者が城の鐘をつくと、これを合図に守就の兵が2千名ばかり駆け上ってきて、城をすっかり占領してしまったのだ。 城を追い出される形となった龍興…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台②――悲劇の女城主伝説の城・岩村城

…ることもあったが、信忠が先頭に立ってこれを撃ち破っている。包囲戦は半年近く続き、岩村城は限界に追い込まれた。 そこに織田方から「降伏すれば命は助ける」という申し出があった。これを信じて信友とおつやの方は降伏して城を出たが、織田方はその約束を破って二人を処刑してしまった。結局、おつやの方は逆さ傑という無惨な最期を遂げたという。さらに、織田軍は城内に残っていた兵や遠山一族の投降を許さず、城に火をかけて焼き殺してしまった。これにより、遠山氏は滅亡したのである。 kojodan.jp

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台①――夫の仇をとるための奮戦の舞台となった城・鶴崎城

…足を補った。正面には城内の鉄砲をあるだけ並べ、敵の襲来に備える。 いざ島津軍が攻めてくると、その兵力の差は圧倒的だった。しかし妙林尼が事前に仕掛けておいた落とし穴の効果は絶大で、敵がそこにはまったところへ鉄砲で一斉に射撃を加えることによって、敵を確実に仕留めていく。敵が罠に警戒して動きを鈍らせると、そこにも射撃を加えていった。しかも彼女は自ら城の外へ打って出て、敵軍に切り込み、20人以上を討ち取ったという。それでも、やがて兵糧や銃弾は底を尽き、戦うには限界となる。妙林尼は潔く…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑩――内部分裂で落ちた城・七尾城

…臣らを誘って上杉軍を城内に引き入れていた。城内に乗り込んだ上杉軍は長氏一族を全員討ち取り、城を占領したのである。時の当主はわずか5歳の春王丸だったが、この落城の前に疫病で亡くなっている。遊佐氏らの裏切りの背景にも、彼の死によって城内がよりいっそう混乱したことがあったと考えられている。 七尾城が落ちたという一報は、かなり遅れて勝家らに伝えられた。これでは進む意味がないと撤退する織田軍の背後を、七尾城に続いて末森城を落とした謙信が迫る。手取川で追いつかれた織田軍は大きな損害を受け…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑧――わずかな兵に乗っ取られた城・稲葉山城

…―武器を取り出すと、城内にいた武将たちを次々と斬り殺してしまった! しかも、城外には半兵衛の義父で西美濃の有力者である安藤守就(あんどう もりなり)が軍勢を率いて押しかけ、プレッシャーをかける。これではどうしようもないと、龍興は城の外に退去せざるを得なくなったのである。この後、半兵衛は1年近く稲葉城に入っていたが、龍興と和睦し城を彼に返した。気が済んだのだとも、あるいは美濃全体を乗っ取ってやろうと企んだのだが、周辺国人たち協力が得られなかったので諦めたのだともいう。 この際、…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑤――飢えて落ちた城・鳥取城

…城を落とすためには、城内の兵糧が早く尽きる必要がある。米を買い占めれば備蓄がしにくくなるし、農民が城に入れば兵糧が尽きる速度も早くなる。そのような計算があったわけだ。秀吉は周辺の支城をすべて落として鳥取城を孤立させ、さらに陸路だけでなく海路も封鎖した上で、城を包囲した。戦国時代における攻城戦の中でも一、二を争う悲惨さで知られた「鳥取の渇(かつ)え殺し」の始まりである。 これに対し、籠城側にも勝算はあったようだ。包囲が始まったのは7月だったが、冬になり鳥取が雪に埋もれれば秀吉は…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく①――「力の差」に圧倒された城・小田原城

…戦に持ち込まれる中、城内では抗戦と和睦で意見が分かれ、いつまでも終わらない評定に、次第に城内の戦意は失われていき、兵糧も尽きてきた。余談だが、この時の評定の様子から「小田原評定」という、長引いてなかなか結論の出ない会議を意味する熟語ができた。 これで立て籠もり続けることによって情勢の変化が起こればまだよかったのだが、豊臣方にそのような隙はなかった。秀吉にとって経済力と兵靖を重視するのは信長譲りの戦い方であり、この小田原攻めも圧倒的な経済力がバックボーンとしてあったから、長囲が…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑦――囮としての役割を果たした城・伏見城

…囲軍はそれに合わせて城内になだれ込み、元忠は敵の刃に倒れたのだった。 こうして伏見城は落ちた。しかし、家康が上杉攻めを行ったのはそもそも三成らを暴発させて合戦に持ち込むつもりだったのだという説に則ると、この落城と元忠の死すらも織り込み済みだったのでは、となる。家康が大坂を離れるのが第一の囮、そして伏見城に少数の兵しかいないのが第二の囮だ。実際、三成らは兵を挙げ、関ヶ原の戦いが起こり、そして家康が勝った。その意味で、伏見城とその守兵たちは立派に役割を果たした、ということになる。…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…ような情勢の中、大坂城内では真田信繁(いわゆる「真田幸村」)など一部には打って出ることを主張するものもあった。しかし、大坂城を囲んだ兵だけでも20万弱という幕府の大軍に対し、豊臣方の軍勢はあくまで少数に過ぎない。この兵をさらに分けて迎撃してもただ敗れるだけ、それならば「大坂城の防御力を活かして籠城するべき」、ということで話が固まった。 籠城戦というものは本来援軍のあてがあってやるものではあった。しかし、頑丈に守り続けて幕府軍が攻めあぐねるようなことがあれば、「なんだ、幕府もた…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑥――水攻めに耐えた城・忍城

…城する構えをとった。城内に民衆を追い込んで兵糧の減る速度を速めるのは攻城側の常套手段だが、氏長夫人はあえて彼らを城に入れ、防衛のための兵士として戦わせたらしい。しかも、戦力にならない女子供には太鼓を叩かせ、あるいは旗を持たせて「城内には大軍がいるぞ」とアピールさせたというから驚きだ。 この奮闘がものをいった。そもそも周囲を沼に囲まれた忍城の守りは堅い。その上でもしかしたら「不正規の兵を率いる不正規の指揮官」という構図が「俺たちにだってできるんだ、武士なんかに負けないんだ」とば…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ④――後詰決戦と野戦築城で守られた城・長篠城

…である。これを聞いて城内の士気が奮い立たないはずがない。それは同時に強右衛門の死も意味していた。武田軍の命に背いた彼が許されるはずもなく、礫にされ、槍で刺されて殺されてしまった。しかし、彼のこの命がけの行動によって、城内と援軍との間で情報が共用され、戦いは次の展開へと進んでいったのである。 こうしてたどり着いた織田・徳川連合軍は、長篠城の西方に広がる設楽原(したらがはら)に陣を張る。すると勝頼もいくらかの兵を包囲に残して陣を動かし、両軍が対峙する形となる。この時、連合軍は1万…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ③――武将の気迫で持ちこたえた城・長光寺城

…。どうも、長光寺城は城内に井戸がなく、城外から水路の類を利用して水を引き込んでいたようで、そこを押さえられてしまったらしい。 城というものの性質からしてそんなに簡単に水源を断たれては困るのだが、もともとこの地域が六角氏の勢力範囲だったことから、領民たちの協力を得てこの作戦は成功した、というわけだ。たちまち城内の水は尽き、残されたのはたった三つの水瓶だけとなった。そのまま立て籠もり続けたら、籠城側は戦う力をすべて失って降伏するしかなかっただろう。だが、ここで勝家が気迫を見せる。…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ②――徳川の大軍を押し返した城・上田城(第一次上田城の戦い)

…ず、徳川軍があっさり城内になだれ込めるようにしたことだ。肩透かし感もありつつ勢いに乗って二の丸の石垣まで押し寄せたであろう徳川軍は、そこで激烈な抵抗にあった。銃弾や弓矢、大石が雨あられと降り注いだのだ。それまでの勢いが強ければ強いほど、このカウンターパンチは有効であったはずだ。ひるんだ徳川軍に、昌幸の更なる罠が襲い掛かる。上田城の北東に、砥石城という城があった、ここにひそかに潜ませていた昌幸の嫡男・信幸(信之)が、タイミングを見計らって出撃、徳川軍の背後から突撃したのだ――も…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ①――夜襲で決着した「後詰決戦」・ 河越城(川越城)

…ま べんちよまる)を城内に潜入させ、救援の意思を伝えることにした。このとき、弁千代丸は「たとえ捕らわれて、八つ裂きにされても自白することはありません」ときっぱり宣言し、その言葉のままに堂々と城へ入っていった。その姿があんまりにも見事だったので、周囲を取り囲む大軍は弁千代丸に手が出せなかった、という。 一方、氏康は今川氏との交渉に入っていた。背面の安全が保障できなければ、出陣できないからだ。結局、駿河にあった領地を譲り渡すことで交渉は成立し、これで氏康が出陣した隙に今川・武田氏…

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