攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

城 の検索結果:

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-3.「日本最初の星の城」の原典への旅(3)-「野崎の丘」に実を結んだ19世紀フランス「砲戦の時代」の防衛構造・戸切地陣屋-

…田さんの調査によれば城が築かれた「野崎の丘」の自然地形もうまく活用し、かなり正確に再現していると言えるそうです。 前回の記事:3-2.「日本最初の星の城」の原典への旅(2)-戸切地陣屋の基礎テキスト「サヴァール教本」とその時代的背景- では、サヴァール教本の内容と戸切地陣屋の構造とを、実際に見比べていきましょう。 まずは星形本陣からです。サヴァール教本の全313章から「Gebastioneerde Forten(稜堡式要塞)」の設計・解説を行っている章(116・123・126…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-2.「日本最初の星の城」の原典への旅(2)-戸切地陣屋の基礎テキスト「サヴァール教本」とその時代的背景-

…でもあります。日本の城が基本的にその土地にあわせてカスタマイズして築かれるのに対して、戸切地陣屋はこういう土地にこの形で築くべきという「教本(原典)」をもとに築かれた、まさに根本から考え方が異なるお城なのです。 前回の記事:3-1.「日本最初の星の城」の原典への旅(1)-戸切地陣屋へと連なる「星の城の系譜」…パガン、ヴォーバン、そしてサヴァール- サヴァールは、フランス革命中に設立されたエコール・ポリテクニーク(理工科学校)でA.F.ロメ(1759-1826)麾下の将軍副官・…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…の岩﨑学芸員に諏訪原城について教わります。今年で築城450年を迎える諏訪原城は、天正年間に武田勝頼によって築かれました。のちに徳川家康が奪取し、一時期は今川氏真が城主をつとめたという大河ドラマ「どうする家康」の登場人物たちともゆかりの深いお城です。そんな諏訪原城の歴史と高天神城攻略における戦略的要衝としての価値について書いていただきました。周辺地図を表示しながら読むとお城の位置関係がわかってより楽しめると思います。 はじめに 初めまして、島田市博物館 学芸員の岩﨑アイルトン望…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-1.「日本最初の星の城」の原典への旅(1)-戸切地陣屋へと連なる「星の城の系譜」…パガン、ヴォーバン、そしてサヴァール-

…もそも西洋の稜堡式築城術とはどういうものなのかを教えていただきます。そこにはちゃんとした理論があり、弟子たちに受け継がれながら発展していきました。いわゆる鎖国の中で藤原主馬がなぜ西洋の築城術を知り得たのかについても調査がおこなわれ、オランダ語に翻訳されていた文献が特定できたそうです。すごい。 前回の記事:2.「日本最初の星の城」戸切地陣屋の防衛構造の概略 これまで、日本における星形城郭・台場(五稜郭・戸切地陣屋、あるいは四稜郭など)について、その特徴的な形状から西洋の稜堡式築…

大人向けレゴ®セット〈レゴ®アーキテクチャー 姫路城〉の再現度にびっくり

…ーキテクチャー 姫路城〉をご提供いただいたので、作ってみました。2000ピース超えで、制作所要時間も6時間半を超える大作でしたが、かなり良くできていて驚きました。 せっかくなので本物の姫路城の写真と比べながら紹介してみます。 まずは備前丸。姫路駅から見える面でもあり、姫路城と言えば「この顔」ですね。 japan | 天守南側[姫路城] 特徴的な軒唐破風と出格子窓(でごうしまど)も見事に表現しています。 斜めから見た、この構図が個人的にはベストスポットかと。奥に見える乾小天守も…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】2.「日本最初の星の城」戸切地陣屋の防衛構造の概略

…ます。日本初の稜堡式城郭ですがその稜堡はひとつしかありません。しかしあらためて地形や大砲などの射程距離を踏まえるとこれは「ひとつだけで十分」という評価になるそうです。ヨーロッパの軍学を取り入れた戸切地陣屋がどのようにここを拠点に防衛しようとしたのか、その構造についてじっくり説明していただきます。今回は図解もたっぷりです。 前回の記事:1-3.戸切地陣屋ができるまで(3)-松前崇広・藤原主馬の軍制改革と、その「思わぬ」結末- 西方を「アナタヒラの崖壁」(『松前志』内の描写。「ヒ…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-3.戸切地陣屋ができるまで(3)-松前崇広・藤原主馬の軍制改革と、その「思わぬ」結末-

…軍制刷新は進み、松前城の改築竣工(10月1日)・領内各台場の西洋式への改築(12月14日)と、崇広・主馬らの努力を結ぶかに思われた1855年(安政2年)3月20日、幕府は蝦夷地の再直轄を決め、松前藩から木古内以東の領地を上知(没収)するとともに北方5藩にその分担防衛を委任。松前藩はそのうち箱館周辺の防衛とその統括拠点(陣屋)の築城を命じられます。 「松前藩単独による北方防衛の遂行」を目指し着々とその歩みを進めていた崇広らにとって、この決定は無念でもあり屈辱でもあったでしょう。…

攻城団テレビで忍者の話をしました

…、「ぶらり徳川家康の城跡+忍びめぐり」(マコト出版)を編集された佐藤強志さんをゲストにお招きして、忍者についてお話を伺いました。 www.youtube.com すでにレギュラー化している榎本先生を別にすれば、攻城団テレビ初のゲスト収録回となります(生配信ではたかまる。さんにも出演いただいたので)。 伊賀と甲賀は困ってれば助け合うのか、それとも「忍者ハットリくん」のように犬猿の仲なのかとか、忍者は黒装束に覆面だったのかとか、忍者のことを質問させていただきました。佐藤さんからこ…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)-

藤原正蔵は間宮林蔵の蝦夷地測量に同行し、ロシア語が堪能なことから通訳をつとめるなど松前藩に重用されますが任地のエトロフで亡くなります。その子の藤原重太(主馬)も父親に劣らず有能で、佐久間象山の門下生として最先端の学問を習得しています。この親子は知名度こそ高くないものの幕末の北方防衛において欠かせぬ人物だと言えます。 前回の記事:1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場- 藤原重太(主馬)、そしてその父・藤原正蔵(ふじわら しょう…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場-

…(『徳川斉昭・伊達宗城往復書翰集』)、彼らの蝦夷地領有は風前の灯となります。 そんな中、昌広の隠居により1850年(嘉永2年)に藩主を20歳で継いだのが12代・松前崇広(まつまえ たかひろ)でした(図3)。 図3.松前藩十二代藩主・松前崇広 のちに外様の身でありながら幕府老中・陸海軍総裁を務めるまでになる崇広ですが、その初仕事が本拠地・福山館の福山城(松前城)への改築でした。これは、開府以来200数十年に渡り無城大名に甘んじてきた松前藩にとって未曾有の快挙でした。 kojod…

【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?

…家康は堺にいた。安土城の信長に挨拶をした後、上方を見物していたのである。わずかな供(34人とされるが、大名の正式な行動だから数千人の兵を引き連れていただろうとも)だけを連れて孤立した家康は一時、「ゆかりの知恩院(浄土宗)で切腹する」とまで言い張ったが、本多忠勝に説得されて脱出を図ることになった。 この時、家康ら一行が伊賀を超えてのルートを選択したので、後世「神君伊賀越え」と呼ばれるようになったわけだが、上方から三河・遠江へ戻るルートは別に伊賀越えだけではない。東海道を通るなり…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】はじめに

…も五稜郭に先立って築城された日本初の星形要塞(稜堡式城郭)として大変価値の高いお城です。この連載ではまだまだ知らない人が多い、あるいは存在こそ知っていてもその真価を理解できていないぼくのような人たちに対して、戸切地陣屋の魅力やすごさを北斗市郷土資料館の時田太一郎学芸員に解説していただきます。 北海道北斗市野崎に所在する松前藩戸切地(へきりち)陣屋は、中近世ヨーロッパにおいて対銃砲戦の城郭構造として発祥・発達した稜堡式築城術を日本で初めて採用した城郭であり、1855年(安政2年…

二条城で開催された学芸員解説会に参加してきました(遠侍・勅使の間)

…)からはじまった二条城二の丸御殿の遠侍「勅使の間」特別入室にあわせて、恒例の学芸員による障壁画解説会が昨日開催されました。参加してきたのでその内容を紹介させていただきます。じっさいに二の丸御殿に入る前に知っておくと現地で室内を見る際により楽しめると思います。 なお今回の学芸員は降矢さんでした。 特別入室「勅使の間」学芸員解説会 以下、降矢学芸員の話をぼくが理解できたまま書いているので、不正確な部分があるかもしれません(だいたいは理解できてると思います)。あと個人的なコメントも…

二条城で開催中の「NAKED 夏まつり2023 世界遺産・二条城」の見どころを写真と動画で紹介

本日から二条城ではじまった「NAKED 夏まつり 2023」ですが、前日夜に開催された報道陣向け内覧会にお誘いいただいたので参加してきました。去年に続いてありがとうございます。去年は感染対策を強く意識した構成でしたが、5類に移行したこともあり今回は声を出すことを前提にしたインタラクティブアートが用意されるなど、今年ならではの取り組みがあってお子さんはもちろん大人も楽しめるイベントになっています。 まずは写真を使って各スポットを案内しつつ、最後に一周まわって撮影した動画でご紹介…

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

3月に大津市で安土城についてのセミナー「安土城復元研究の過去・現在・未来」が開催されました。ちょうど京都御城印サミットの初日と重なっていたためぼくは参加できなかったのですが、このセミナーに参加された早稲田大学城郭研究会の中村優希さんにレポートを書いていただきました。中村さん自身が高校生の頃から安土城の研究に取り組まれてきたこともあり、非常にわかりやすいレポートとなっています。補足や所感も読み応えがありますので、セミナーに参加できなかった方はもちろん参加された方もぜひ読んでくだ…

【家康の謎】家康は戦に強かったの?

…ば以前こうのさんが攻城団ブログで紹介されていたが「カラー版 徳川家康の生涯と全合戦の謎99」(かみゆ歴史編集部、イースト新書Q)では合戦リストとともに「51戦33勝11敗7分」という計算結果も導き出されていた。 blog.kojodan.jp ブログ記事でも指摘されている通り、これらの計算結果には少々疑義がある。家康が同盟を組んだり、あるいは連合軍の一員として参加した戦いについてまで家康の戦績に加えていいのか。具体的には「桶狭間の戦い」は家康にとって敗北なのか、あるいは大高城…

細川玉子さんによる「瀬名様と信康様の軌跡を辿る、岡崎の旅」

…描かれましたが、岡崎城周辺にあるふたりのゆかりの地レポートを京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの細川玉子さんに書いていただきました。信康事件は謎の多い事件ですが、現在提唱されている諸説も整理してくださっているのでドラマの復習にもなると思います。 皆々様、ご機嫌麗しゅうございます!京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの、細川玉子にございます。 いつも記事をご覧くださり、本当にありがとうございます! 此度は【どうする家康 岡崎 大河ドラマ館】へ伺った際に、岡崎市にございます家康様の…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯5】

「城もなか」を求めて全国を飛び回る城葱さんが今回向かったのは忍城(埼玉県)と館林城(群馬県)。どちらも歴史的に有名なお城ですが、ここにも城もなかがあるんです。ただのお土産和菓子としてだけじゃなく、城もなかがあるプロジェクトの起爆剤になっていたり、あんこだけじゃなく夢や希望が詰まった城もなかの話も登場します。おいしそうな城もなかの写真とあわせてじっくり楽しんでください!! 今回は北関東のふたつの有名なお城、埼玉県行田市の忍城、群馬県館林市の館林城の城もなかにと出会うたびに、城め…

【家康の謎】いわゆる「三英傑」って誰が決めたの?

…思うが(ましてや、攻城団のウェブサイトを見に来られる人なら!)。 ではこの三英傑、いつ頃誰が決めたものなのだろうか。まず、そもそも「織田信長、徳川家康、豊臣秀吉の3人が天下人として1セット」という概念そのものは、江戸時代にはあったらしい。「織田がつき 羽柴がこねし天下もち 座して喰らふは徳の川」という落首(狂歌)や、三英傑が詠んだという触れ込みのホトトギスの句――すなわち「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」「鳴かぬなら鳴かしてみせようホトトギス」「鳴かぬなら鳴くまで待とうホト…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…いました。理由は七尾城の取材をした際に、ざっくりではありますけど畠山氏の歴史を学んだことと、マンガを作る際に守護代としての遊佐氏について教わっていたので、少しだけ予備知識があったからです。畠山氏のほかの分国、河内や越中などでも遊佐氏が守護代をつとめていて、畠山=遊佐のセットで当時の日本の何分の一かは支配されていたというのはすごいことですよね。なお「三管四職」の回で紹介したとおり、畠山家は越中・河内・紀伊・能登などの守護をつとめ、室町幕府の管領家の一角を占めた名門武家です。一時…

【家康の謎】家康は勉強熱心だった?

…坂の陣の陣中においても、出版をどのように進めるか考えていたとされる(これは大勢が完全に決したという家康のゆとりから来ていたのかもしれないが)。 家康が集めさせ、また出版させた本は後世に残された。隠居の地であった駿府城には駿府文庫が作られ、これが御三家に三分割して譲られて、それぞれの家の文庫(尾張の蓬左文庫(ほうさぶんこ)、水戸の彰考館文庫(しょうこうかんぶんこ)、紀州の南葵文庫(なんきぶんこ))になった。また、江戸城にもこれとは別に富士見亭文庫(のちの紅葉山文庫)が作られた。

【家康の謎】家康の子どもは何人いたの?

…して送られ、のちに結城晴朝の養子になる。家康の跡を継いだのは三男・秀忠だ。その秀忠と同母弟の四男・忠吉はのちに関ヶ原の戦いで活躍するも、間も無く病に倒れてこの世を去った。五男・忠吉は武田家を再興させてその当主に据えられるも、彼もまた若くして亡くなっている。六男の忠輝は大きな所領を与えられたものの、大阪の陣での振る舞いを問題にされて改易、流罪に処された。その弟として松千代という子がいたが、幼くして亡くなっている。八男の仙千代は平岩親吉の養子になった後、こちらも幼くして亡くなった…

【家康の謎】家康はなぜ嫡男信康を殺したの?

…た。家康が嫡男で岡崎城主の信康に切腹を強要して死に至らしめるとともに、その母で正室の築山殿を殺害させたのである。 通説では、家康は同盟者・織田信長の要求によってやむなく妻と息子を殺さざるを得なかったという。というのも、信康が正室として迎えた徳姫(信長の娘)と、家康(当時は浜松城を本拠)との不仲から岡崎にいた築山殿の関係が悪化した末、徳姫が父・信長に不満を訴えることになってしまったからだ。その内容が単に義母への不信、あるいは夫との不仲(男児が誕生しなかったのが原因とも)であった…

【家康の謎】しかみ像っていつ描かれたの?

…生き延びた家康は浜松城へ逃げ込むと、その時の自分の憔悴しきった顔をわざわざ絵として描かせた。己の慢心を戒めるためのものであり、以後生涯を通してその絵を持ちつつづけた、という。 この絵は現在徳川美術館に収蔵されており、正式名称は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」だが、家康が顔をしかめていることから「しかみ像」と呼ばれるのが一般的である。なお、この話については「絵に描かれた時、家康は恐怖のあまり脱糞していたが、部下にはそれは焼き味噌だと嘘をついた」というユーモラスなエピソードとセットで…

「分国法ってなに?」の動画を公開しました

…とが多いのですが、結城氏の博打の話(博打・双六は喧嘩につながって治安が悪化するから禁止するという内容)のようにぜんぜん関係のないことを書いているものもあったりして、分国法がひとまとめに語れないことがよくわかりました。 分国法は戦国大名が独自権力を示すために作ったものだと思っていましたが、どうもそうではなさそうです。そもそも10前後の大名しか制定していないことを考えても、当時においても「なんらかの事情で必要に迫られた」大名のみが作っていたのかもしれません。 また偶然かもしれない…

【家康の謎】家康が採った空城計ってなに?

…た家康はどうにか浜松城へ戻った。大敗した後だから武田軍が追撃してきそうなものだが、実際にはそうはならなかった。その説明として、よく語られるのが「家康が空城計(空城の計)を仕掛けた」という話だ。 曰く、家康は浜松城に入るや、松明を焚かせ、門を開かせ、城内を静かにさせた。いかにも罠がありそうな風情を演出したのである。これを見た武田軍は「ここに攻め込んでは危うい」と攻撃を控え、浜松城は責められずに済んだ……という。この作戦を古代中国の軍学書『兵法三十六計』に第三十二計として記されて…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

攻城団に見本誌を送っていただいたので拝読したところ、初心者にも大変わかりやすく、福島県内のお城を訪問する際のモデルコースが掲載されていたので、記事の一部を転載させていただきます。あわせて雑誌のプレゼントもご用意いただいたので、東北エリア在住の方はもちろん福島への遠征を考えていた方はぜひご応募ください。 以下、誌面の一部を転載させていただきました かつての時代に想いを馳せて 福島県の城と城下町【会津若松コース】 会津の街並みに息づく、懐かしさと新しさを訪ねて 旅の始まりは、腹ご…

細川玉子さんによる「福知山お城まつり」レポート

…開催された「福知山お城まつり」のレポートを京都・長岡京おもてなし武将隊つつじの細川玉子さんに書いていただきました。たくさんのご当地キャラも集まって大変盛り上がったようですね。福知山はスイーツでも有名ですが、最後に紹介されているお団子とシフォンケーキもとてもおいしそうです。 皆々様、ご機嫌麗しゅうございます!「京都・長岡京おもてなし武将隊つつじ」の細川玉子にございます。 前回の【どうする家康岡崎大河ドラマ館】の記事につきまして、大変多くのご反響をいただき、本当にありがとうござい…

城葱さんの「城もなか」道中記【千葉県編】

「城もなか」を求めて全国を飛び回る城葱さんが今回向かったのは千葉県。佐倉城と館山城という南北に位置するお城の城もなかを紹介していただきます。給食のデザートに城もなかがついてくるとか、ちょっとびっくりする話も登場しています。おいしそうな城もなかの写真とあわせてじっくり楽しんでください!! 今回は千葉県の城もなかと出会う旅に出かけてきました。佐倉城の城もなか、そして館山城の城もなかです。千葉県の北と南に各々存在しており、それぞれ独自の存在感を漂わせています。ふたつの城もなかとの出…

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

…川将軍家につながる安城(あんじょう)松平家や、本貫の地に残った松平郷(まつだいらごう)松平家、実は松平宗家であった岩津(いわつ)松平家は数えない。そう、実は安城松平家は宗家ではなかったのである。では、どのようにして安城松平家が宗家となり、家康の出現につながっていったのか? その流れを見てみよう。 初代親氏、二代泰親、三代信光 徳川(松平)のルーツは、源義家の孫・新田義重(にった よししげ)の四男・義季(よしすえ)だという。彼が上野国新田荘世良田郷徳川村に腰を落ち着け、「得川四…

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