攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

春 の検索結果:

【現在1764城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…城 御城印 令和六年春の琵琶湖版 大津城(滋賀県大津市) びわ湖大津プリンスホテル コンビニエンスショップ 550円 印刷 A6 2024年3月23日 具志川城跡 御城印 具志川グスク(沖縄県糸満市) 道の駅いとまん情報館 500円 印刷 A6 2024年3月20日 花倉城 御城印 花倉城(静岡県藤枝市) 葉梨西北活性化施設 白ふじの里 300円 印刷 縦16cm、横10.5cm 2024年3月20日 三床山城 御城印 北陸新幹線開業記念版 浅葱色 三床山城(福井県越前町) …

攻城団のみんなが今年訪問したお城と高評価だったお城

…62 271 17 春日山城(新潟県上越市) 3.95 164 168 18 山中城(静岡県三島市) 3.94 210 212 19 月山富田城(島根県安来市) 3.91 145 148 20 大阪城(大阪府大阪市) 3.90 411 469 21 二条城(京都府京都市) 3.90 334 373 22 五稜郭(北海道函館市) 3.89 156 158 23 宇和島城(愛媛県宇和島市) 3.89 190 194 24 津山城(岡山県津山市) 3.88 203 215 25 会…

城葱さんの「城もなか」道中記【九州編】

…)(熊本県熊本市西区春日3丁目15-30)営業時間 9:00~20:00 / 定休日 無休 / 電話 048-554-1036 collection.kojodan.jp お菓子の香梅の「武者返し」 定番中の定番の熊本銘菓であり、熊本城の代表的な城菓子。皮を剝いだ紫の美しい小豆餡をパイ生地で包んだお菓子。 熊本城にある、上に行けば行くほど垂直になる美しい曲線の石垣は「武者返し」と呼ばれ、その名前を取っています。パイ生地は折り込んで伸ばす手作業を繰り返して100層にして焼き上げ…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

…稜郭』現代書館深瀬 春一 1925「戸切地の松前陣屋考」『歴史地理』第66号藤原 正蔵 1813『亜魯西亜書翰』国立公文書館蔵藤原 正蔵 1817『尾薩漂民私記草稿』同志社大学附属図書館蔵松前町史編集室1977『松前町史』史料編第一巻松前町史編集室1990~1996『松前藩と松前』第32~37号※『北門史綱』について、上記2種の文献に所収の翻刻に拠って参照した。また、『松前家記』『蝦夷錦血潮之曙』については『松前町史』史料編第一巻の翻刻に拠って参照した。松前町史編集室1977…

全国各地で城もなかが進化中! 城もなかの可能性は無限大!

…ろせ (福井県大野市春日1丁目6-13)営業時間 9:00~19:00(日曜日は17:00まで) / 定休日 木曜日 / 電話 0779-66-2693 城サブレ 越前大野城の「天空サブレモナカ」(松田陽明堂) 150円 城もなかの皮(三層正面型)の片面に、サブレが詰まった城サブレ。アーモンドスライス味サブレは、オレンジパッケージ。くるみ味サブレはホワイトパッケージで、2種類。 サブレは城もなかの皮からはみ出しており、城もなか側から見ると城が飲み込まれているようで特徴的。サブ…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…に家臣・馬場美濃守信春(信房)に築かせた山城です。武田勝頼といえば、NHK大河ドラマ「どうする家康」で眞栄田郷敦さんが演じ、大きな話題を呼びましたね。勝頼は、当時徳川家康の勢力下にあった遠江国(静岡県西部)を獲得するため、諏訪原城を遠江国と駿河国(静岡県中部)の国境に築かせました。 1575年(天正3年)に勃発した「長篠・設楽原の戦い」にて勝頼を破った家康は、勢いそのまま諏訪原城を落とし、自身の城としました。武田氏が信仰した戦の神・諏訪大明神から名を取った城名を嫌ったのか、家…

二条城で開催された学芸員解説会に参加してきました(遠侍・勅使の間)

…洛した奥絵師の板谷広春(いたや ひろはる)が描いた模写(スケッチ)が板谷家に残っており、そこには7羽の鳥とスミレが描かれているからです。 東京国立博物館のサイトで検索することができます。 板谷家伝来資料データベース詳細画面 板谷家は、江戸幕府の御用絵師住吉広守(1705~77)の弟子慶舟広当(1729~97)が、住吉家を継いだ後、板谷家に復したことに始まる幕府御用絵師の家系で、江戸におけるやまと絵画風の継承流派である住吉派の支流として、代々幕府の御用を勤めました。平成22年3…

二条城で開催中の「NAKED 夏まつり2023 世界遺産・二条城」の見どころを写真と動画で紹介

…園前 ライトアップ 春には桜、秋には紅葉のライトアップがおこなわれる清流園前は夏らしく、ホタルなどをイメージしたライトアップになっていました。 じつはこのエリアにある行灯はスポンサードできるのです! この名入れ行灯は入場料付きで5000円で購入できます(混雑時も優先入場できるそうです)。しかも売上の一部は京都の文化財保護に寄付されるそうなので、攻城団もスポンサードしてみました。 訪問された際はぜひ探してみてください! この名入れ行灯は前期後期でわかれていて、いまは後期(8月7…

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

…、同じく建築家古川重春先生(昭和11年)が天主復元平面図と立面図を発表しました。ただし、この復元案は天主台の詳しい調査が行われる以前、すなわち未だ天主台がほぼ土砂に埋没していた時代に発表されたものであるため、実際の天主台の形状と比較して、復元図の1階平面の規模や形状の誤差が甚だしく、復元図の通りに建造する事は不可能です。 2期では、昭和の天主台発掘調査の結果に基づいて天主復興が計画され、室内に歴史資料の展示場などを備えた鉄筋コンクリート造の天主の再建を果たそうと、小河建築設計…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯5】

…城サブレ」。写真は、春の忍城バージョンで、城型のサブレに半分だけイチゴチョコがかけられています。春の桜の花吹雪がまとう忍城のようです。イチゴチョコは半分だけなのがまたいい!半分はサブレとイチゴチョコ、半分はサブレのみと一つのサブレで2度の味わいを楽しめる。 サブレも形だけでなく、表面にも凹凸で城を表現しているところも手が込んでいる。パッケージにある忍城イラストの一部透明になっているところからのぞく城サブレ。清々しいブルーの袋がクール。なお、冬は、ホワイトチョコがかかった冬の忍…

【家康の謎】家康の正室・側室は何人いたの?

…しても活躍し、有名な春日局以前に黎明期の徳川大奥を取り仕切った人物として、阿茶局の名前がよく知られている。加えて、才知あふれた女性であったとされるお梶の方という女性もいて、この人については「最も美味いものは何か」という話題について「最も美味いものは塩で、最も不味いものも塩だ。塩が過ぎれば美味くない」と答えた、というエピソードが特に有名だ。 ちなみに、「家康の側室の趣味が関ヶ原の戦い以前は年増好みだったのに、関ヶ原以後は若い娘好みに変わった」などという指摘もあるようで、隆慶一郎…

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…にはこのほか二本松〜三春コース、棚倉〜白河コースが紹介されており、さらに攻城団でも評価の高い山城(桑折西山城・向羽黒山城)ものページもあります。 『CJ Monmo』2023年5月号の購入はこちら monmoryouhin.com 『CJ Monmo』〈福島県の城と城下町〉特集号プレゼント この記事で一部を紹介した『CJ Monmo』2023年5月号(4/25発行)を5名の方にプレゼントします! プレゼントの応募受付は終了しました。 kojodan.jp kojodan.jp

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

…うじょう)…4男・義春(よしはる)の家系とされる。宝飯郡?・藤井(ふじい)…5男・利長(としなが)の家系とされる。形原松平の庶流の可能性も。碧海郡、安城市である。 なお、今川の攻撃を受けた岩津松平家がどうなったのかはよくわからない。「この戦いで滅んで、末裔や後継者は不明ともいう」し、「宝永年間に御家人になった」という話もある。「御家人の家系が残り、幕末に蝦夷共和国の副総裁をつとめた松平太郎が末裔とされるが怪しい」という話もある。 六代信忠、七代清康 六代信忠(のぶただ)は暗愚…

福井城へ重ね捺し御城印スタンプラリーの取材に行ってきました

…岡城を訪問したときは春の嵐と言えるくらいの悪天候だったのですが、今回はとてもいい天気でした。桜も満開で、ちょうど旧西三ノ丸にあたる福井市中央公園で開かれていた「ふくい“桜”城下町」イベントの期間中でもあったのであわせて見学してきました。 結果から言うと、この「ふくい“桜”城下町」がものすごい人出で、スタンプラリーをしている人にほとんど会うことができませんでした。各スポットの方に尋ねるとふだんはもっと来てますということだったので、天気が良すぎて花見とお祭りが優先されたのかもしれ…

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(初日)

…ミット限定の武将印や春限定の武将印などを、販売させていただきました。 大変好評をいただいたようで、ステージの上から、多くの方が並んで下さっている様子が見られ、とてもありがたかったです! 亀岡市様では、なんといっても一日40枚限定の、余部丸岡城の御城印が大人気でした! こちらの御城印は抽選となっており、抽選券は森の京都DMO様にて配布されるということで、森の京都様のブースにも長蛇の列が出来ておりました。さらに、神尾山城の新作の御城印もとても素敵でした。 南丹市様では、八木城の御…

【家康の合戦】長篠設楽原の戦い 激突!武田勝頼との三河攻防戦

…甥)、五番手・馬場信春(ばばのぶはる)が波状攻撃を仕掛けてきましたが、鉄砲と足軽隊によって応戦し、馬防柵より一隊も出撃させずに応戦したとあります。明け方から未の刻(午後2時ごろ)まで鉄砲隊を入れ替わり立ち替わりさせて戦い、武田方は多くの兵が討たれて次第に兵力が少なくなり、諸勢は本陣へと逃げ戻っていきました。勝頼本陣では武田信豊や小山田信茂らが固まるように布陣しますが、織田・徳川軍は柵から一斉に押し出して襲いかかり、武田軍を退却に追い込みました。この追撃戦の中、山県昌景、真田信…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…歳 前田利長は母・芳春院を人質として江戸へ 細川忠興(嫡男・忠隆の正室は利家の娘)も嫌疑をかけられ起請文を提出、翌年に三男(のちの忠利)を江戸へ送る 五大老五奉行体制は形骸化。家康は大坂城において単独で権限をふるい、前田・増田・長束の三奉行が支える体制 4月、家康は上杉家に上洛と弁明を求める最後通告。その返事が直江状とされる @直江状はあったのか?→捏造説も 6/16、家康が大坂城から出陣。7/2に江戸に入る 7/19または20に上方で三成挙兵の報告が入るが予定通り21日に江…

【サイン本プレゼントあり】「ぶらり真田家ゆかりの31城跡めぐり」のご紹介

… ・小川城■新潟県/春日山城 ■和歌山県/九度山 ■大阪府/大坂城 ・真田丸御城印を通常販売している城跡の御城印情報も掲載しております。大河ドラマ真田丸以降に新たに分かった発掘調査結果(沼田城、岩櫃城)の新情報も掲載。城跡古地図(戸石米山城、沼田城、松代城、上田城、岩櫃城、真田丸)を随所に掲載しているので、実際に現地へ行った際には、本を見ながら痕跡探しを楽しめます。取材班が現地で見つけた、おすすめのグルメや温泉、博物館や観光施設なども掲載。珍しい城の軍編成を記載した『八幡山番…

「外戚 なぜ嫁の実家は偉いのか」の動画を公開しました

…とも有名な乳母である春日局がいますよね。こうしてかつての摂関や執権ほどではないにせよ、乳母の立場でも権力は行使できたわけです。 けっきょくのところ権力者の幼少期をともに過ごすというのは強い影響を残すのでしょうね。現代でも「おじいちゃん子(おばあちゃん子)」という言葉があったりしますが、生みの親より育ての親に愛情が向くのは自然なことだし、本人が権力者になれば感謝の気持ちから恩恵を与えたくなるのも理解できます。 「鎌倉殿の13人」はついに今週、最終回を迎えますが、比企能員役の佐藤…

城葱さんの「城もなか」道中記【小田原編】

…あーという私の希望w春は、桜色。夏は、黄色や青。秋は、黄色と赤またはオレンジのグラデーション。冬は、クリスマス、お正月の赤と白のグラデーション。やっぱり、赤系が欲しいところですねー青という青い薔薇じゃないけど、食品にはなかなか現れない青い城もなかが出てきたらニュースだなぁ。まぁ正直いつも小田原城に行くのは夏ばかりなので違うシーズンなら他にどんなの出てくるのか調べたいな。また行かねば! 今回、「小田原城最中」を購入させていただいたのは、製造元の小田原種秀さんではなく、その販売専…

城葱さんの「城もなか」道中記【福井県編】

…屋さん系のお店です。春日通り商店街にあります。詳しくないので有名なのか知らないのですが、杉とけやきが同じ場所で大きく育った良縁の樹のある春日神社よりさらに南にあります。越前大野駅の方が近いかも。 こちらのお店で驚いたのは、城もなかが冷蔵ケースに入れられていたことです。なかなか見ないな、暑いからかなと思っていたのですが、城もなかを食べてみてその理由がわかったわけです。もなかのあんは、あんことマーガリンのコンビネーションだということで、マーガリンが溶けきってしまわないようにという…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

…予から侵攻する吉川元春・小早川隆景の「毛利の両川」と、総勢12万余(8万や10万という説も)の大軍が3方向から一気に雪崩れ込んだ。しかし、元親も四国を統一した英雄だ。十分な備えはあった。彼は阿波の白地城(はくちじょう)に本拠を構え、海岸線沿いの防備を構えて秀吉軍を待ちかまえる。 こうして四国征伐軍は3方に分かれて進撃したわけだが、その中でも讚岐から侵攻する軍に対して、元親は植田城という小城を利用して撃退することを考えていた。この城は讚岐と阿波をつなげる重要な拠点だったが、同時…

【戦国軍師入門】北九州をめぐる戦い――小早川隆景・立花道雪の激突

…んと元就自身が吉川元春(きっかわ もとはる)と小早川隆景の両川を引き連れ、8万2千余という大軍勢で侵攻してきたのだ。 この大軍によってまず小倉城が落ち、続いて立花城も包囲され、激戦の後に開城する。こうして両軍は多々良浜に対峙し、死闘を繰り広げることになるのだが、この戦いの決着がつく前に別の場所で動きがあった。なんと、留守にしていた中国地方で尼子残党が挙兵したのだ。尼子と大友が手を組むことを恐れた元就はすぐさま兵を戻し、こうして大友軍は北九州より毛利勢力を追放することに成功した…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑩――内部分裂で落ちた城・七尾城

…の当主はわずか5歳の春王丸だったが、この落城の前に疫病で亡くなっている。遊佐氏らの裏切りの背景にも、彼の死によって城内がよりいっそう混乱したことがあったと考えられている。 七尾城が落ちたという一報は、かなり遅れて勝家らに伝えられた。これでは進む意味がないと撤退する織田軍の背後を、七尾城に続いて末森城を落とした謙信が迫る。手取川で追いつかれた織田軍は大きな損害を受けたものの、謙信が深追いすることなく七尾城へと引き返したことでどうにか撤退に成功する。こうして七尾城は謙信の手に落ち…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は④――北九州の防波堤になった城・立花城

…を窺い、やがて吉川元春と小早川隆景が立花城の山の麓に布陣した。立花城側には大友氏から援軍が送られ、両者は激しい戦いを繰り広げる。籠城戦から半月が経ち、ついに立花城は落ちた。この戦いでは鉄砲・弓矢・投石といった飛び道具が飛び交い、両軍に多大な死者を出すこととなった。 その後も両者は対陣を続けた。ところが、毛利氏の本拠である中国地方で、大内氏と尼子氏という毛利氏に滅ぼされた元二強の残党が相次いで放棄したため、北九州を攻めているどころではなくなる。こうして毛利氏は引き揚げ、わずかな…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑨――見捨てられた城・上月城

…は小早川隆景・吉川元春らの軍が上月城を包囲してしまった。この頃、城側には十分な蓄えがなく、食糧や水はあっという間に底を尽いた。 秀吉としては上月城も大事だったし、同じくらいせっかく再興させた尼子残党を見捨てるわけにもいかなかっただろう。戦国武将というのは徹底的なリアリストでありつつも、「面子」や「正当性」を大事にするもの。これからさらに中国地方の奥へ踏み込んでいくにあたっては、「元・中国二強の一角」という看板が大きな役割を果たしてくれるはずなのだ。秀吉は早速後詰として出陣し、…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の変化④兵農分離のせいで?

…いる。彼らを晩秋から春にかけての農閑期以外に集めるのは難しい。農繁期に出陣しようとして無理やり軍団に組み込むと、農地の生産力が落ちてしまう。これはそのまま大名にとっての収入減につながる。あまりにも長い間(年単位)で彼らを遠征につき合わせても、同じ問題が発生する。耕し手がいなくなって田畑が荒れれば、困るのは大名たちだ。これは敵を攻撃するにあたっては大きな枷になるが、防御側に立たされた際には重要なアドバンテージになる。攻撃を仕掛けてくるタイミングはどうしたって限られるし、また城に…

【10大戦国大名の実力】毛利家⑤――元就の呪縛

…内通した吉川広家(元春の三男、病死した兄に代わって吉川家を継承)の暗躍があったとされる。 戦後、輝元は「毛利の領国には手をつけない」という約束を信じ、速やかに大坂城を出て家康への恭順を示す。ところが、家康は「輝元が積極的に西軍側として活躍していた証拠が見つかったため、約束は無効である」として領国の没収およびうち周防・長門の二ヵ国を功労者である広家にあたえることを発表した。これに対して広家は自身に与えられた二ヵ国を輝元に返すよう家康に頼み、毛利家はかつてあった広大な領地のほとん…

【10大戦国大名の実力】毛利家④――元就の死後

…らに九州へも進出、元春と隆景を派遣して大友氏と戦ったが、この際はなかなか勢力を拡大できないでいるうちに、尼子の残党が活動を始めるなど複数の勢力による包囲網が形成されたため、九州進出は諦めざるを得なくなった。そして、「毛利包囲網」の打破ができずにいた1571年(元亀2年)、病に倒れる。75歳の大往生であった。 さて、元就の跡を継いだのは孫の輝元だ。元就は1546年(天文15年)にはすでに息子の隆元に家督を譲っていたのだが、実権は引き続きもちつづけた。それでも将来的には隆元を毛利…

【10大戦国大名の実力】毛利家②――安芸の国衆から戦国大名へ飛躍

…部の吉川氏に次男の元春を、水軍と縁が深い安芸南東部の小早川氏に三男の隆景を養子として送り込み、そのうえで他の一族の殺害や重臣の取り込みなどによって彼らを両氏の当主に仕立て上げたのだ。ともに1550年(天文19年)のことである。以後、吉川元春と小早川隆景は毛利氏を継いだ長兄・隆元やその跡を継ぐ甥の輝元を支えて、毛利の勢力拡大に尽力していくことになる。この体制についた名前が、吉「川」と小早「川」からきた「両川」体制というわけだ。 粛清による内部統制 元就の謀略は内にも向けられた。…

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