攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

本能寺の変 の検索結果:

【10大戦国大名の実力】織田家⑤――衰退する織田家

…おらず、それどころか本能寺の変においては信忠と共にいながら一人脱出した――という逸話がある。 信長の死で火が消えた織田家 このように、一度は天下を目前とした織田家は信長・信忠の死後、急速に衰退し、豊臣政権に完全に取って代わられてその庇護下に入ることとなる。残されたのは信長も愛した芸能・文化面だけであったようで、長益や信雄などは茶人・教養人として秀吉に重宝された。 そんな彼らは江戸幕府が豊臣家を滅ぼそうとした大坂の陣の直前まで大坂城にいたのだが、信雄は豊臣側の旗印にされそうなこ…

【10大戦国大名の実力】織田家①――後継者の実力で組織の命運は決まる

…の夢は突然の謀反――本能寺の変によって失われ、残された息子たちはそれぞれに父の勢力を継承しようとして失敗。時代は豊臣政権へと移り変わっていったのである。 そこで、本章では信長の事跡よりもむしろ信長以前と信長以後に焦点を絞り、織田という家について論じてみたい。そこでテーマとなるのは「後継者の資質」である。 信長は平氏の子孫か? 現在伝わっている織田氏の家系図は、先祖として平資盛(たいら の すけもり)という人物を置いている。彼は平安時代末期に平氏政権を築き上げた平清盛の子・重盛…

【10大戦国大名の実力】上杉家⑥――その後の上杉家

…まれて劣勢に陥るも、本能寺の変でそれが中止されたために命脈を保つ。以後は豊臣秀吉に早くから接触、豊臣政権では「五大老」の一員として十分な待遇を受けた。また、先祖代々の地である越後を離れて、会津120万石への転封を命じられることにもなった。 秀吉の死後は徳川家康のかけた「上杉は謀反を企んでいるのではないか」という疑いと、これに対して景勝の側近として政治を取り仕切っていた直江兼続の出した手紙「直江状」が、関ヶ原の戦いのきっかけになってしまう。この戦いにおいて景勝は西軍側として最上…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…談を収録しました。「本能寺の変」や「応仁の乱」など、日本史には「〜の変」や「〜の乱」がたくさんありますが、こうした政争や軍事クーデターを列挙して俯瞰してみることで、歴史にどんな影響を与えてきたのかをつかめないかと考えました。 じっさいリストアップしてみると133件もあり、4時間も話すことになったのですが、日本史の「パターン」のようなものが見えてきました。ぜひご覧いただき感想をお聞かせください。 www.youtube.com 変とか乱にルールはない SNSでは定期的に「クーデ…

榎本先生の最新刊「執権義時に消された13人」について対談しました

…は未着手だったので「本能寺の変」後に混乱が起きたのも当然です) そして将軍とは世襲するものである、というのは少なくとも鎌倉時代では「否」でした。ぼくらはついつい江戸幕府の将軍をイメージしがちですが、武家政権におけるトップ=将軍職ができたばかりの頃は制度として確立しておらず、試行錯誤だったため、必ずしも嫡子嫡流である必要はありませんでした。事実、4代将軍を藤原摂関家から迎えていることは先生の前著「将軍の日本史」で紹介されたとおりですし、本書でも紹介されている平賀朝雅(ひらが と…

【クーデターで読み解く日本史】覇王の夢を打ち砕いた三日天下の野望――本能寺の変

…立場に立った。以後、秀吉は反発する勢力を打ち破って旧織田政権を支配し、さらに全国にまでその手を伸ばして、実質的な天下統一を果たしたのである。 もし本能寺の変で死んだのが信長だけであったなら、秀吉はここまでの躍進はできなかっただろう。信長には後継者として信忠がおり、彼はすでに織田氏の家督を譲られ、武田氏を攻め滅ぼすなどの功績もあって、信長死後も織田政権をしっかりまとめられるだけの立場にあったからだ。しかし、その彼が死んだことで、時代は織田から豊臣へと移り変わっていったのである。

【殿様の左遷栄転物語】計算かそれとも私怨の廃嫡か 細川忠隆

…。 藤孝の子・忠興は本能寺の変で明智光秀が信長を倒した際には、明智光秀の娘・ガラシャ(玉)を妻としていたにもかかわらず光秀につかず、光秀を倒した秀吉の味方となった人物である。豊臣政権下においては丹後国宮津に12万石、そして豊後国に6万石の18万石を有した。関ヶ原の戦いでは東軍につき、豊前一国と豊後の一部、あわせて40万石弱を与えられている。 廃嫡に隠された2つの理由 さて、その忠興の跡を継いだのは三男の忠利であった。長男の忠隆と次男の興秋は順番を飛ばされてしまったことになる。…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

…2年(天正10年)に本能寺の変が起きて同盟者である織田信長が死んだ際、家康は京にいた。そのために苦労して伊賀を通過して本拠地へ戻ることになり、これを「神君伊賀越え」というのだが、その背景には正信の奔走があった――などという話まであるのだ。 そんな正信が亡くなったのは1616年(元和2年)のこと。家康の死からわずか49日のことで、このふたりは非常に親しい関係であったといい、それを象徴するような死であった。 名官僚・正純が引き起こした軋轢と悲劇 正信の子・正純もまた、若い頃から家…

征夷大将軍は源氏じゃなきゃなれないのか

…選ぶことのないまま「本能寺の変」で光秀に討たれたため、将軍になることはなかったのですが、この信長も秀吉も征夷大将軍になっていないということが「源氏でなきゃダメ」という誤解を生んだのかもしれません。 またこちらは事実として、最初の武家政権である鎌倉幕府では源氏以外の人物が将軍に就任しています。摂関家の藤原家や、天皇の子どもである親王がそれぞれ摂家将軍、親王将軍として就任しており、さらには鎌倉幕府と室町幕府の間に成立した建武政権では後醍醐天皇の皇子である護良親王と成良親王が征夷大…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府15代・足利義昭――信長に縛られた、最後の将軍 1537年~1597年

…10年)、その信長が本能寺の変で倒れた。信長の訃報を聞いた義昭は、早速帰京のために出兵するよう、毛利輝元や小早川隆景らに命じた。さらに信長の後を継いだ羽柴秀吉にも働きかけて帰京の支援を求めたが、彼と信長後継者の地位を争った柴田勝家に義昭が味方したため、結果的に秀吉は敵に回ることとなってしまう。 やがて秀吉は義昭を京都に呼び寄せた。義昭の猶子となり、征夷大将軍の座につくのが目的だったと思われる。義昭がこれを認めなかったために、秀吉の将軍就任は実現しなかったが、1588年(天正1…

バカバカしいけどおもしろい、もしもYahoo!ニュースで「本能寺の変」が紹介されたら

…年)6月2日、あの「本能寺の変」の当日に存在していたらどんなふうに世の中に速報を伝えたかという妄想記事です。早朝に本能寺で火事が起きてるぞ、信長が宿泊しているらしい、といった情報をもとに編集部はどんな動きをするかのシミュレーションなのですが、 PUSH通知、どうしましょうか というやり取りはすごくおもしろい。おもしろいんだけど、ただ笑えるという話ではなく、たとえば地震が起きた際に編集部内ではそのニュースの規模や対象範囲を検討して、誰にどのくらいの強度で伝えるのかを真剣に検討し…

明智光秀と森蘭丸――あるいは本能寺の変という終わり

…もらったのと同じ年、本能寺の変が起きてしまったからだ。この時、蘭丸は弟たちとともに本能寺にいた。「信長もの」フィクションでは、彼が本能寺に迫る軍勢の旗を光秀のものと信長に知らせるのがある種、お決まりのシーンになっている。そして、蘭丸たち兄弟は信長とともに本能寺の炎に消えた、という。 これだけドラマチックなシーンに居合わせたせいか、それとも同じ主君に仕える小姓と重臣という関係性のせいか、光秀と蘭丸には接点があった、あるいは蘭丸が光秀を恨んでいた、とするエピソードがいくつか伝わっ…

明智光秀と誠仁親王――あるいは「本能寺の変」の当事者

…年(天正10年)の「本能寺の変」である。光秀の軍勢は本能寺で信長を死に追い込んだ後、その後継者である信忠の首を狙った。この時、信忠はどこにいたのか――。彼は室町薬師寺町の妙覚寺を宿所としていた。本能寺襲撃の翌朝に事件を知った彼はどうにか本能寺へ向かおうとしたが、時すでに遅し。諦めた彼が向かったのが、勘解由小路室町――誠仁親王のいる二条御所で、ここに立て篭もって光秀の軍勢と戦おうとしたのである。 当時のエピソードが、宣教師による報告である「イエズス会日本年報」に記されている。こ…

明智光秀と荒木村重――あるいは「織田を見限った男」たち?

…ため、彼の裏切りが「本能寺の変」に何らかの形で繋がった……と考えることもできるかもしれない。村重はもともと、摂津の大名である池田勝正の家臣だった。織田信長の上洛時、勝正は信長に臣従する道を選んだので、村重もまた信長に従うようになる。 村重にとって運命の分かれ道になったのは、主家である池田氏の内紛だった。その中で村重は池田一族として認められるほどに力を増し、また主君であった勝正も追いやり、信長から摂津一国の支配を認められた大名になりおおせたのだ。以後、村重は織田政権の大名として…

【戦国時代の境界大名】遠山氏――宗家は滅亡後、残された一族による戦いの結末は?

…終わらない。信長が「本能寺の変」で倒れた結果、旧織田家臣団及びその同盟者であった徳川氏が信長の後継者争いを始め、東濃もその渦に巻き込まれていったからである。 この時、苗木城主(岐阜県中津川市)の遠山友忠(生没年不詳。直廉の義孫)は隣国三河の徳川家康に与する立場をとった。一方、美濃金山(岐阜県可児市)には森長可がいて、中央で急速に勢力を伸ばす羽柴(豊臣)秀吉の支配下に入っていた。ちなみに、森氏は信長時代にあの岩村城も預かっており、信長と一緒に本能寺の変で死んだことで知られる森蘭…

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

…うまく泳ぎ切った。「本能寺の変」の際には信長嫡男・信忠とともに京の二条城にいたがうまく難を逃れ、その後は信長の子・信雄につく。信雄は父の後継者足らんと欲してかなわず、ついに父の部下であった豊臣秀吉の前に膝を屈することになったのだが、忠重はその秀吉に直接仕えることができた。豊臣姓を与えられているから、豊臣政権でもそれなりに重く用いられていたのだろう。 秀吉の死後、忠重は旧主君で甥でもある家康に接近するようになったが、「関ヶ原の戦い」を目前にして西軍方に暗殺されてしまう。『徳川実…

【戦国時代の境界大名】諏訪氏――武田に滅ぼされた名族がその出自故に蘇る!

…権も、同年に起きた「本能寺の変」での信長の横死によって空中分解する。この時、一気に活気づいたのが諏訪周辺の中小勢力である。彼らは「今こそ諏訪氏を我らの主に迎えるべき」と一致団結すると、高島古城(茶臼山城。諏訪市)にいた織田家中の弓削重蔵を城より追い出し、諏訪上社大祝の頼忠を迎え入れた。甲府には甲斐・信濃の支配を任されていた河尻秀隆もいたのだが、これも諏訪衆が合戦で打ち破ってしまう。こうして、名門武家・諏訪氏が諏訪の地に復活することとなったのだ。 しかし、安心はしていられない。…

明智光秀と細川忠興――あるいは太平のための裏切り

…年(天正10年)の「本能寺の変」においては、父とともに義父・明智光秀ではなく羽柴秀吉に味方することを選び、妻も蟄居させてしまった。以後は隠居した父に代わって細川家当主となって秀吉に味方し、またその秀吉の赦しによって、たまを再び手元に戻した。 豊臣家臣としての忠興は加藤清正・福島正則らとともに武断派の主要人物として数々のいくさで活躍し、国内での戦いだけでなく朝鮮出兵にまで参加している。しかしそれゆえにか石田三成ら文治派と対立することになった。結果として忠興たち武断派は徳川家康に…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…に出て軍功を上げ、「本能寺の変」で織田信長が倒れた際には、堺(大阪府堺市)にいた家康の伴をして東海地方への脱出――いわゆる「神君伊賀越え」を成功させている。 その後も「小牧・長久手の戦い」、上田城(長野県上田市)の真田昌幸攻め、小田原攻めといった家康にとって主要な戦いにはことごとく参加した。とくに天下分け目の「関ヶ原の戦い」においては敵中突破を試みる島津軍と戦い、島津豊久を討ち取っている。また、家康は宿敵であった武田氏滅亡の際、旧武田家の家臣団を自家に吸収したのだが、その武田…

明智光秀と斎藤利三――あるいは運命共同体

…り。長宗我部交渉の最前線にいた利三もまた、明智家中で難しい立場になってしまったのではないか。 この四国問題が謀反につながったのであれば、利三が「本能寺の変」にも参加し、先鋒を務めたのは当然のことであろう。この時、主従は運命共同体であったはずだ。彼は「山崎の戦い」にも参加し、敗れた後は姿を消したが捕らえられ、処刑された。主君・光秀とともに磔になったことが知られている。なお、娘の福は母方の稲葉氏のもとで育てられ、のちに徳川家光の乳母になって徳川政権の安定化に尽力にすることになる。

明智光秀とたま(ガラシャ)――あるいは父譲りの激動の運命

…ラシャの父、光秀が「本能寺の変」で信長を討ったのだ。藤孝・忠興親子はガラシャを通して親戚付き合いをしてきた光秀に味方するかと思いきや、中国地方から戻ってきた羽柴秀吉につき、光秀を討った。 こうなってしまうと、忠興とガラシャの関係も以前の通りとはいかない。忠興は彼女を丹後の味土野へ幽閉してしまう。当時の結婚は家と家の関係で行うものであり、相手の家が敵対関係になったり、大きな不名誉を背負ったりすれば離縁も当然であった。ところが、忠興とガラシャは復縁する。新たな天下人になった秀吉の…

明智光秀と武田信玄――あるいは「信長にとっての脅威」

…堵したであろう同年、「本能寺の変」が起きる――。 光秀と信玄の接点は史料上にはちょっと見出せない。武田軍が畿内に迫っていたなら織田軍の一員として美濃あたりで一戦交えることになったかもしれないが、それも起きなかった。しかし、織田家臣として信玄の脅威は大いに感じていたであろうし、武田の滅亡でその脅威がまったく消え去ったこと、つまり「もはや信長を脅かすものはないのでは?」という予測が「信長を止めるのは自分しかいない」という声になって光秀の背中を押した、ということはあるかもしれない。

明智光秀と明智光慶――あるいは運命をともにした親子

…悲劇性を高めるため「本能寺の変」当時の光慶が幼かった方が都合が良いと創作されたものかもしれない。ただ、光秀の子がもっと年嵩であれば織田家重臣の子として合戦の中に姿を見せていたのではないかと思うので、実際にそのくらい幼くともおかしくないのは事実だ。 光慶の存在が歴史の表舞台に出てくる機会は非常に少ない。その貴重なもののひとつが「本能寺の変」直前に光秀が催した句会――謀叛の意図を込めたとされる「ときは今 あめが下しる 五月かな」で有名な、通称「愛宕百韻」のときのものだ。この時、光…

【お城の基礎講座】75. 織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)

…なら、安土城築城後に本能寺の変によって織田信長が亡くなってしまったからです。この後、政権は一気に羽柴秀吉(はしばひでよし)のちの豊臣秀吉(とよとみひでよし)に取って代わることになりますが、秀吉が築城した大坂城や朝鮮出兵のために作られた名護屋城(なごやじょう)などは諸大名を動員した天下普請(てんかぶしん)によって築かれています。これが近世城郭の普及や築城技術の発展に大きな影響を及ぼしました。近世城郭の築城の仕方を知らない諸大名が天下普請によって実際に城を作ることによって、城の作…

明智光秀と筒井順慶ーーあるいは日和見は真実か否か

…。 では、その順慶は本能寺の変ーー明智光秀の反乱に際して、どんな行動をしたのか。そもそも、ことを起こすことは聞かされていなかったらしい。当時は上洛していて、事件を知るやすぐに大和へ引き返しているからだ。その後、二度にわたって光秀側に援軍を出したが、二度とも引き返させたのち、結局上司の光秀を見捨てて秀吉側に味方すると誓った……が、実際に山崎の戦いへはどうも参加しなかったのではないか、と考えられている。最後まで様子見で終わったのが順慶の本能寺の変、山崎の戦いであったろう、というわ…

【江戸時代のお家騒動】蒲生騒動 藩主夭逝が藩内の混乱を招く悪循環

…ている。 その信長が本能寺の変で亡くなり、後を継ぐかのように羽柴秀吉が台頭してくると、氏郷は秀吉に従うようになった。そして1590年(天正18年)に小田原征伐が行われると、秀吉はこれに参陣しなかった奥州の諸大名に対し、仕置きを行った。対象の大名から領地を没収し、空いた領地に自分の家臣たちを配置したのである。 その中のひとりが氏郷だ。彼はそれまでの領地であった伊勢から会津へ転封となった。氏郷が会津に配置されたのには理由がある。会津は奥州勢が京へ向かうために必ず通らなければならな…

明智光秀と正親町天皇ーーあるいは信長への恨みはあったのか?

…だ。 やがて信長が「本能寺の変」で倒れると、豊臣秀吉が天下人の座を継承した。秀吉は天皇と朝廷への手厚い援助姿勢も継承したので、天皇もかつてのような困窮状態に戻らずに済んだ。この関係性は正親町天皇が後陽成天皇に譲位するまで続き、その間に天皇は秀吉に関白の地位を与えて位人臣を極めさせ、また「豊臣」の姓を与えている。 さて、この正親町天皇と光秀には何か関係があったのだろうか。本能寺の変朝廷陰謀説をとるなら、天皇と光秀に(間に誰かを挟んでかもしれないが)なにか接点があり、天皇も「本能…

明智光秀と今井宗久ーーあるいは畿内の実力者たち

…たちとの縁が深くなるのは当たり前と言える。このような事情から「『本能寺の変』の黒幕は堺商人たちだったのではないか」と考えた人もいるようだが、少なくとも宗久はその容疑者から外した方がいいかもしれない。なぜなら、「本能寺の変」後の宗久は著しくその存在感を失っていくからだ。実質的に信長の跡を継いだ豊臣秀吉も彼を茶道として登用はしたものの、重用したのは千利休や津田宗及であって、宗久は疎んじられたのである。それでも秀吉が催した北野大茶会にはその姿が見られるが、以後その活躍は目立たない。

戦国時代の足利将軍についてざっくり理解する

…正10年)、信長が「本能寺の変」で倒れると義昭は上洛を目指しますが、それが叶ったのは1587年(天正15年)のことで、すでに天下は豊臣秀吉のものとなっていました。翌年1月、義昭は将軍職を辞したのちに出家し、10年ほどの余生を過ごしています。幼少より僧として育てられた義昭は最後もまた僧として死んだことになります。 まとめ 現在の教科書でも信長が義昭を京から追放した1573年(元亀4年)を室町幕府の滅亡としています。しかし過去に「明応の政変」で将軍職を解任され、周防に逃れた義稙が…

明智光秀と足利義昭――あるいは選ばなかった主君

…義昭である。のちの「本能寺の変」の黒幕のひとりという説も根強い義昭は、光秀にとってある時期の主君でもあった。義昭は足利義輝の弟で、将軍(義晴)の子として誕生した。幼いうちから興福寺に預けられて僧侶・覚慶となった。しかし兄が三好三人衆らにより殺害されると興福寺で監禁状態に追い込まれた中で、兄の後を継いで将軍になる決意をする。細川藤孝らに救出された彼は近江、若狭と各地を転々とし、越前へ逃れた。この過程で還俗し、「義昭(当初は義秋)と名乗っている。 越前へ来たのは朝倉義景を頼るため…

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