攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

松永久秀 の検索結果:

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…長慶による畿内政権、松永久秀・三好三兄弟らによる争いの時期を経て、織田信長が上洛してくる。この時期の河内守護代は長教の子の信教(のぶのり)で、信長上洛後には足利義昭に仕え、信長・義昭の対立後は反織田の立場で戦った。【概ね『河内長野市史 第1巻 下』】→なお、長教の死後は安見直政という人物(守護になった畠山高政の側近)が守護代になったという話が知られているが、近年の研究ではこの人物の名及び守護代になったという話は信憑性の高い史料には登場しないという。史料に出てくるのは宗房(むね…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

…敵対し、伊勢畠山氏や松永久秀、武田信玄らも加わって信長包囲網が敷かれていきます。家康はというと、信長に敵対した武田信玄が上洛目指して遠江へ侵攻し、三方ヶ原の戦いへと進んでいくのです。次回は「三方ヶ原の戦い」です。武田信玄とはどのような戦いになったのか、また、有名なしかみ像の新たな事実について触れていきます。 参考文献 日本戦史 姉川役(明治34年5月7日、参謀本部) 桶狭間・姉川の役/日本の戦史1(旧参謀本部編、昭和40年6月1日、徳間書店) 「浅井長政と姉川合戦-その繁栄と…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…や、長慶の側近だった松永久秀らによって畿内が混乱。そこに織田信長がやってきた後は皆さんご存知の通り。・本流である京兆家の人間(晴元の子の昭元(あきもと))は織田家に仕えたものの豊臣秀吉により追放され滅びている。しかし和泉半国守護家の末裔である細川藤孝(ふじたか)が信長に仕え、その子の忠興(ただおき。細川一族のうち、奥州家と呼ばれる血筋に養子に入る)が豊臣・徳川と仕え、長く残ったのはあまりに有名。 斯波氏 ・斯波氏は応仁の乱の時に分裂。大きく分けて宗家・武衛家の本拠地である尾張…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話③――「爆発炎上」した城?・信貴山城

…興し、拠点としたのが松永久秀(まつなが ひさひで)である。久秀はもともと近畿に大きな勢力を誇った三好長慶(みよし ながよし)の側近であったが、彼の死後に自らが大きな力を振るうようになった。この時期、時の将軍。足利義輝を死に追い込んでいる。ところが、義輝の弟・義昭を奉じた織田信長が上洛してくるとあっさり降伏し、以後は信長の配下として重用される。 ――これで終われば話は簡単なのだが、天下の梟雄・松永久秀はそんな人物ではなかった。彼は信長に対して三度も謀反を起こしているのだ。一度目…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】天守閣と高層石垣の近世城郭――「戦国の城」の終わり

…こうし)となったのが松永久秀の多聞城(多聞山城)、織田信長が足利義昭のために作った二条城(足利義明御所)、信長自らが作り上げた安土城の三つだ。 多聞城は高い石垣と天守閣の原型となる白塗り漆喰の建造物を持った城であり、二条城は一番最初に天守閣を備えた城であるという(金閣寺の影響を受けた、とも)。そして安土城こそが高い石垣と当時では考えられない五層七重の天守閣(天主)をもった、「象徴の城」の先駆けであった。城の目的が「防衛」と「統治」だった、というのは何度も紹介してきたとおり。し…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家②――姫若子から鬼若子へ

…て長慶の側近であった松永久秀や三好三人衆といった者たちが力を増して勢力争いを繰り広げた末に、京へ進出した織田信長によって追い散らされる――という複雑な経緯を経て、この時期の阿波・讃岐は三好一族による支配下にあった。そこに元親による侵略がはじまる。しかも1577年(天正5年)、事実上の阿波の支配者であった三好長治(みよし ながはる)が名目上の主君にあたる細川真之(ほそかわ さねゆき)を倒そうとして敗れ、逆に自害に追い込まれるという事件が起こり、混乱する三好勢力は長宗我部軍によっ…

【10大戦国大名の実力】織田家②――尾張における下剋上と弾正忠織田家の台頭

…り、隣国美濃の斎藤家を滅ぼすと、松永久秀らにより京を追われた足利義昭を奉じて上洛。その義昭と対立して、「信長包囲網」と通称される諸大名の連合軍に周囲を包囲される危機に陥るも、各個撃破によってこれを打倒。近畿を中心に強大な勢力を築き上げると各地に遠征軍を派遣し、天下統一まであと一歩と迫ったところで重臣中の重臣だった明智光秀の謀反により、京の本能寺で倒れた。享年49歳、桶狭間の戦いで出陣する前に信長が歌い舞ったことで有名な「敦盛」の「人間(生)五十年」まで、あと1年での死だった。

【10大戦国大名の実力】武田家①――名門の長所と短所は背中合わせ

…するなどの活動が見られるが、三好氏などの外敵による侵攻や、家督争いや家臣の反乱といった内紛により衰退していく。兄・足利義輝を松永久秀らによって殺された足利義昭が親族の縁をたどって助けを求めた際も、若狭武田氏には既にその力がなかった。失望した義昭は隣国・越前の朝倉義景のもとへ向かい、これも頼りにならないと知ると織田信長のもとへ移るのだが、また別の話だ。その後、若狭武田家は朝倉氏の侵攻に晒されて降伏、その家臣になった後、信長の越前侵攻で滅亡する。1573年(天正元)のことである。

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府15代・足利義昭――信長に縛られた、最後の将軍 1537年~1597年

…のである。 しかし、松永久秀と三好三人衆によって兄・義輝が暗殺されたことで、彼の運命は大きく動き出す。そこで義昭ともうひとりの弟も捕らえられてしまう。他勢力によって旗印として活用されるのを恐れたのだろうか。結局、弟はそのまま殺害されてしまう。だが、義昭は細川藤孝など兄の家臣たちの助けを受け、幽閉されてから2ヶ月後に見事脱出に成功した。近江の武将・和田惟政(わだ これまさ)の館に入ると、無力化していた幕府を立て直すことを宣言。僧のままでは将軍にはなれないため、翌年還俗して名を「…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府14代・足利義栄――一度も京へ入れなかった将軍 1538年~1568年

…好政権を主導していた松永久秀と三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)が時の将軍・義輝を殺害したのはすでに紹介したとおり。彼らが新たな将軍候補として目をつけたのが、義栄だったのである(このときは義親)。 ところが、まもなく彼らは内紛を始める。原因になったのは、彼らのスタンスの違いだった。あくまで「三好一族」として政権運営をしたいと考え、三好長慶の養子・義継を擁立する三人衆に対し、久秀の価値観は完全な「下剋上」だった。力によって、もともとの主家である三好氏を自分の支配下に治め…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府13代・足利義輝――非業の死を遂げた剣豪将軍 1536年~1565年

…の腹心として活躍した松永久秀だった。彼は1564年(永禄7年)に長慶が亡くなると一気に頭角を現し、三好氏の重鎮である三好三人衆(三好政康・三好長逸・岩成友通)とも手を組んで幕府の実権を掌握した。そして、彼らにとって義輝は邪魔な存在になってしまったのである。 1565年(永禄8年)、5月19日の夜に事件は起きた。二条にある義輝の御所を取り囲んだ松永軍が、一斉に攻撃を開始する。多勢に無勢ではあったが、義輝はおとなしく殺されはしなかった。彼は「剣聖」と謳われた上泉秀綱に新陰流を、ま…

【戦国時代の境界大名】柳生氏――めまぐるしく変わる情勢の中、一芸に活路を見出す

…れ、その長慶の家臣の松永久秀が1560年(永禄3年)頃より大和侵略を開始した。 筒井氏への恨みもあったのか、家厳はすみやかに久秀につき、息子の宗厳(1529―1606)とともに松永軍の一員として各地で戦っている。とはいえ、松永・筒井の両家が常に争っていたわけではない。とくに久秀は、主君の長慶が死んだ後は将軍や管領を傀儡とした三好政権の権力を継承するべくいそしんだから、いつも大和に目を向けているわけにもいかなかっただろう。松永と筒井の勢力が接する境界で、柳生氏は主に松永側に付き…

明智光秀と赤井直正――あるいは光秀の前に立ち塞がった壁

…のである。直正は『甲陽軍鑑』に「名高キ武士」としてその名を記されている(しかも彼に続く形で長宗我部元親、徳川家康、松永久秀と名だたる名将たちの名が上がっている)のだが、それはこの時の奮戦のおかげかもしれない。 彼は2年後に50歳で亡くなるまで織田軍と戦い続け、光秀の丹波支配を防いだ。光秀がようやく丹波を統一し終えるのは直正の死の翌年、1579年(天正7年)のことであった。もし、直正による頑強な抵抗がなく、もっと早く丹波攻めが終わっていたなら、光秀の運命は変わっていただろうか。

【戦国時代の境界大名】亀井氏――毛利氏との御家再興をめぐる死闘に転機到来!?

…、大和国(奈良県)の松永久秀攻めで活躍して大いにその名を上げている。 さて、天正5年の織田氏といえば、浅井・朝倉といった仇敵をすでに打倒し、かつて傀儡とした将軍足利義昭を追放して中央の地ならしを終えて、いよいよ各地方にその触手を伸ばそうという頃合いである。当主である信長は中央に睨みを利かせ、大きな権限を与えられた重臣たちが方面軍を率いて各地方を攻略した。そして、中国地方に送り込まれたのが羽柴(豊臣)秀吉で、天正5年にはすでに播磨(兵庫県)の姫路城に入り、この地域の切り崩しにと…

明智光秀と朝倉景鏡――あるいは誰のための裏切り?

…田勝家らも許したし、松永久秀も差別していない。そもそも、光秀や細川藤孝なども将軍・足利義昭を裏切って信長についたと言える立場と言えるが、それを理由に光秀らを退けたという話はない。景鏡もそのようにして受け入れられたのであろう。 であるから、景鏡が織田家に降伏してから土橋信鏡(つちはしのぶあきら)と名乗ったのも、信長による強要、あるいは織田家中の無言の圧力に負けて……というのはちょっと考えられない。彼自身が望んでやったと考えるべきではないか。それが織田家中に一刻も早く馴染むためだ…

【お城の基礎講座】75. 織豊系城郭(しょくほうけいじょうかく)

…が作られており、また松永久秀(まつながひさひで)の多聞城(たもんじょう)で初めて多聞櫓(たもんやぐら、多門櫓とも書く)が築かれたり、天守ぐらいの大櫓が建てられていました。どれもも近世城郭にあるものですが、これらは各地においてそれぞれの発展をしてきたものでした。それを新しい城という形に集約させたのが織田信長です。 安土城(滋賀県)の大手道がよく復元されている。近世城郭の完成を見た場所だ 新しい城作り 織田信長は城作りだけでなく兵農分離(へいのうぶんり)も進めていました。専門職と…

明智光秀と筒井順慶ーーあるいは日和見は真実か否か

…力も継承した。しかし松永久秀の急な勢力伸長に脅かされ、一度は本拠地の筒井城を失うほどの窮地に置かれた。若き順慶は久秀とたびたび争い、ときに「敵の敵は味方」ということで久秀と敵対する三好三人衆と手を組むこともあった。 このような状況下で織田信長が上洛してくる。順慶は当初、反織田の立場に立った。三好三人衆との縁もあるが、なにより久秀が織田についたからだろう。しかし、やがて久秀が織田と縁を切ったこともあって順慶こそが織田側につくことになる。この時に久秀討伐の軍勢に組み込まれた順慶の…

明智光秀と三好三人衆ーーあるいは畿内混乱の原因?

…半分を統括したほか、松永久秀と並んで長慶を補佐する重要な役目を果たした。三好氏の支配地域において、行政的な許可を与えたり、裁判を取り仕切ったりしたのは、久秀とこの長逸のみだったというから長慶の死後、彼を筆頭格とする三人衆が、久秀と対立して三好一族の支配権を争ったのは当然のことであったと言えよう。ちょっとおもしろいところでは、キリスト教に理解を示しており、フロイスが彼を好意的に評価した記述が残っている。 一方、政勝は長慶死後に頭角を現した人物で、茶人としても著名だった。弟の為三…

明智光秀と今井宗久ーーあるいは畿内の実力者たち

…く付き合った。元々は松永久秀との関係が深かったようだが、織田信長が上洛してくるや、すぐさまこの新しい天下人との間に太いパイプを持つようになった。この時、宗久は秘蔵の茶器である「松島の茶壺・紹鴎茄子」を差し出したという。これらは宗久の茶の湯の師匠であるとともに義理の父でもある武野紹鴎から遺産として譲り受けたものだった。 こうして宗久は織田家の茶頭、つまり茶の湯を取り仕切る人物のひとりになったのだが、信長は必ずしも茶人としての宗久を評価したわけではなかったようだ。信長が目をつけた…

明智光秀と足利義栄ーーあるいは「ライバル未満の存在」であっても

…京都では三好三人衆・松永久秀が激しく争っていて、安定した幕府を開くことができそうになかったからではないか。そうこうしているうちにライバルが東からやってくる。足利義昭を奉じた織田信長が大軍を率いて上洛したのである。これを黙って見ている義栄ではない。三好三人衆らを率いて対立する姿勢を見せた……が、結局対決は実現しなかった。病に倒れ、そのまま亡くなったからだ。いつ死んだかは定かではなく、将軍の座を義昭に奪い取られた形なのか、それとも死んでスムーズに受け継がれたのかはよく分からない。…

戦国時代の足利将軍についてざっくり理解する

…内部の抗争(三人衆と松永久秀の争い)がおさまらなかったこともあり、義栄は京に入ることができず、そのまま将軍宣下を受けた摂津富田にとどまっていました。そして同年9月には足利義昭を奉じた織田信長の軍勢が上洛すると、まもなく義栄は病死しています。ただし亡くなった日も場所も諸説あり、将軍の最後が明らかでないというあたりに、この当時の混乱ぶりが象徴されています。 15代将軍・足利義昭(よしあき) 義昭は義輝の弟で、奈良の興福寺一乗院で僧となっていました。義輝が殺害されると後継候補だった…

土佐の風雲児、長宗我部国親が活躍した時期はちょうど「麒麟がくる」前半と重なる!

…す。これを支えたのが松永久秀だ。――このあたりの事情は「麒麟がくる」劇中でも断片的に語られた部分である。長慶はときの将軍・足利義輝とたびたび戦ったがのちに和睦し、京に落ち着いた義輝を支えることになった。 四国における三好家の領地は阿波から讃岐にかけて広がった。一方、伊予には河野氏がおり、土佐では名門公家にルーツを持つ一条氏が敬意を払われ……という具合に、細川・三好が強者として立ちつつも群雄割拠・混沌の状況にあったのが戦国時代の四国であった。そんな中、土佐で頭角を現しつつあった…

明智光秀と足利義輝――あるいは幻の主従関係

…れている。 話を戻す。幕府再興のため邁進した義輝だが、活動にも限界があった。結局の所、自らの動かせる兵がなければ戦国乱世に覇を唱える事はできなかったのかもしれない。三好長慶死後に権力を握った松永久秀、また三好三人衆らとの対立の末、攻め込まれて命を失うことになったのだ。義輝は剣の達人であったという評判があり、最後の戦いにおいては自分の周囲に刀を何本も突き刺して、敵を斬ってなまくらになったとみたら新しい刀を抜いて戦うという大奮戦をへて倒れたという。 blog.kojodan.jp

「麒麟がくる」第9回に登場した那古野城と刈屋城、末盛城、妻木城はどんなお城か

…「ああ、この信長なら松永久秀や荒木村重はじめ、家臣たちの苦悩に寄り添えず、裏切られていくんだろうなあ」と純粋&不器用のキャラになっていましたね。ちなみにお父さんの信秀は「器用の仁」と呼ばれてたんですけど。 その織田信秀が末盛城(末森城)で信長と会うシーン、後ろに龍の絵(水墨画?)が描かれていました(ここに巨大な金碧画が描かれるようになるのは秀吉の時代です)。その爪の数は3本でしたが、こういう細かいところもきちんとこだわってるんですよ。龍の爪の数はもともと3本が基本でしたが、中…

明智光秀ゆかりの地おすすめ19選

…利義輝が三好三人衆や松永久秀によって暗殺されると、その弟である足利義昭は織田信長を含む各地の武将に自身の将軍擁立と上洛を促し、細川藤孝を使者に立てて奔走。各地に援助を求めた結果、朝倉義景を頼ることになり明智光秀はそこで義昭と接触を持つことになったようです。 朝倉家に身を寄せていた足利義昭を上洛させようと奮闘していた光秀は、いくら催促しても動かない朝倉義景を頼りにならないと評し、逆に信長は頼りがいのある男だと義昭に勧めたとあります。光秀が史料に初めて登場するのが義昭を上洛させる…

「麒麟がくる」第6回に登場した越水城はどんなお城か

…――三好長慶、のちに松永久秀の居城に―― 三好長慶の居城というと飯盛城や芥川山城を思い浮かべる方も多いと思いますが、阿波から進出した長慶はこの頃、摂津の越水城を居城としていました。「小清水城」とも書きます。いまの西宮市ですから、ここから京都市内までお忍びでやってくるというのはけっこうな距離です。 三好長慶が芥川山城に居城を移すと、松永久秀が城主となりました。いまは西宮市立大社小学校などの敷地になっており、城址碑と案内板が設置されています。 kojodan.jp これまで三好長…

明智光秀と松永久秀――あるいは似た者同士

…都にやってきた光秀と松永久秀が邂逅する場面はその中でも記憶に残っている人が多いはず。胡散臭く、人懐っこく、それでいてどこか妙に義理堅い久秀の姿は非常に魅力的なものである。 そもそも、光秀と久秀には似ているところが多い。一つは、信長に謀反を起こしていること。そしてもう一つは、前半生がよくわからないことだ。久秀は阿波生まれとも、京都西岡の商人だったとも、摂津の百姓だったともいうが、今のところ確実な証拠はない。はっきりわかっているのは、畿内で新興の実力者となっていた三好長慶の側近と…

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」キャスティング一覧

…弘 細川家の家臣。 松永久秀 吉田鋼太郎 三好家家臣。 伊呂波太夫 尾野真千子 【架空】旅芸人一座の女座長。 朝倉義景 ユースケ・サンタマリア 越前を支配する戦国大名。 近衛前久 本郷奏多 関白。 芳仁 ベンガル 【架空?】駒の灸の患者。 スタッフリスト 語り・ナレーション 市川海老蔵 時代考証 小和田哲男 衣裳デザイン 黒澤和子 風俗考証 佐多芳彦 建築考証 三浦正幸 医事考証 星野卓之 古文書考証 大石泰史 時代考証補 小和田泰経 所作指導 花柳寿楽 芸能指導 友吉鶴心 …

松永久秀、自ら爆死す!?

…の戦国時代といえど、松永久秀ほど波乱万丈の生を生きた男はほとんどいない。そして何よりも、その死に様のすさまじさが彼の名を後世にまで残している。 久秀がまずその名を高めたのは、三好長慶の側近としてだった。 戦国時代の近畿は、足利将軍の権威が失墜した後、管領職を継承していた細川氏が実権を掌握しつつ、しかし内部争いが続いていた。そんな中、細川氏の重臣である長慶が下剋上で頭角を現し、近畿から四国にかけて広く勢力を伸ばしたのだ。ところが、晩年の長慶はその力を失墜させ、失意のうちにこの世…

剣豪将軍・足利義輝、最後の大奮戦

…長慶の死とその腹心・松永久秀の躍進によって再び追い詰められ、ついに殺害されてしまった。 歴代の征夷大将軍は多くが(大小の動乱はありつつも)平和な時代を生きたこともあって、その死因は寿命や病死になっている。それでも暗殺によって倒れた将軍もいるのだが、その中でも義輝の死はドラマチックだ。なぜなら、彼は剣客として大立ち回りを演じた末に死んだ、といわれているからだ。 そもそも、義輝は将軍という高貴な身分であるにもかかわらず相当な剣の達者であったらしい。鹿島新当流の開祖で「剣聖」と謳わ…

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