攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

毛利元就 の検索結果:

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…日 郡山城 御城印 毛利元就郡山城入城500年記念版 吉田郡山城(広島県安芸高田市) 安芸高田市観光協会 400円 印刷 縦15.5cm、横10cm 2022年11月4日 躑躅ヶ崎館 御城印 通常版 躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市) 武田神社 授与所 500円 印刷 2022年11月3日 真田山城(真田本城) 御城印 令和4年版 真田本城(長野県上田市) 山家神社 500円 書置き 2022年11月1日 清水山城 御城印 清水山城(滋賀県高島市) つながる麺ゃさん ホタル屋 300…

攻城団テレビで「家康はなぜ名字を松平から徳川に変えたのか」という話をしました

…んの一例で、たとえば毛利元就は毛利家を継ぐ前は多治比元就を名乗っていたし、真田昌幸も武藤氏の養子となって武藤喜兵衛を名乗っていました。毛利元就や真田昌幸はいろいろあって実家を継ぐために名字を戻していますが、それ以外にもいろんな理由で名字を変えることがありました。 詳しくは動画を見ていただきたいのですが、ざっとこんな感じになります。 権威を借りる、あるいは奪う 独立したことを対外的に示す 家臣への権威付けとして名跡を継がせる 毎度のことですが台本にない話もたくさん出ました。斎藤…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…川家のケースがある。毛利元就の子の隆景が小早川へ養子に入ったのは、大内勢による出雲攻めが失敗した直後のこと。この時期、竹原小早川は同族で尼子側から寝返ったばかりの沼田小早川と共に当主を失った状態で、一族揃って安定するために当主と後ろ盾を必要としていた。そこで同じ大内側である毛利から養子を連れてきた。結果、毛利の勢力に取り込まれることにはなったが、所領は拡大した。蘆名も、もし佐竹が伊達との争いに勝ったなら同じようなコースを進んだのでは? その意味では「当主を近隣の有力者から招く…

【戦国軍師入門】厳島の合戦――策謀の限りを尽くした天才・毛利元就

…戦いには稀代の謀将・毛利元就の真骨頂が現れている。強大な敵と戦うために状況を整える、まさに天才的な軍師の役割を彼はやってのけているのだ。 まずこの合戦の前段階として、周防(現在の山口県東南部)を中心に大きな勢力を持ち、当時の中国地方を代表する戦国大名のひとつだった大内家の内紛がある。1551年(天文20年)、重臣の陶晴賢(すえ はるかた)が反乱を起こし、当主の大内義隆(おおうち よしたか)を自害に追い込んだのだ。新しい当主として大内義長(おおうち よしなが)が擁立されるが、実…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は①――理想的な籠城戦で持ちこたえた城・吉田郡山城

…居城として使用され、毛利元就が十三代当主となり入城すると郡山全体を要塞化した巨大な城に拡張された。やがて豊臣秀吉による天下泰平の時代が到来し、毛利氏が豊臣政権の重鎮となって大きな発言力を有するようになると、統治には不便な吉田郡山城も実質的に役割を失う。毛利氏は新たな居城として広島城を築いて移住、吉田郡山城は廃城となったのである。 戦闘用の山城である吉田郡山城がその真価を発揮したのは、1540年(天文9年)、安芸に侵攻してきた出雲の尼子氏との戦いにおいてだった。もともと、毛利氏…

【10大戦国大名の実力】毛利家①――組織を守るために何をすべきか

謀略と苦難の一族 毛利元就が好きな人は戦国ファンのなかでも渋好み、ということになるかもしれない。二大勢力に挟まれた弱小国人として苦難の連続だった若き日々。老境に入ってからの躍進。「厳島の戦い」に張り巡らせた数々の謀略。残された子供たちは父の教えを守って協力し合い、天下を望まなかったが故に豊臣政権で繁栄を、江戸幕府で苦渋を味わう――こうして元就と毛利氏をざっと概観するだけでもかなり渋い。 そこで、本章ではそんな渋い毛利家がどうして躍進できて、またどうして失墜したのかを中心に見て…

【10大戦国大名の実力】武田家①――名門の長所と短所は背中合わせ

…)に元繁が有田合戦で毛利元就に敗れて討ち死にすると衰退を始め、1541年(天文10年)には滅亡してしまった。しかし、その生き残りである竹若丸は一族滅亡後に僧侶となり、安国寺恵瓊を名乗った。彼は後に毛利家の外交官として活躍するようになり、豊臣政権でも重用されて大名にまでなった。 一方、若狭武田家は戦国時代になって丹後に侵攻するなどの活動が見られるが、三好氏などの外敵による侵攻や、家督争いや家臣の反乱といった内紛により衰退していく。兄・足利義輝を松永久秀らによって殺された足利義昭…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

… 滅亡した大内遺臣が毛利元就に対して起こした反乱。鎮圧される 戦国時代 1570年(元亀元年) 元亀の変 伊達氏で発生した内紛。伊達晴宗・輝宗政権を支えた中野宗時一族が没落して輝宗の支配は安定化した 戦国時代 1574年(天正2年) 天正最上の乱 戦国大名・最上氏の当主である最上義光と、隠居した父・最上義守との間で起こった争い。伊達輝宗が義守に味方したため、義光方の勝利にともない最上氏は伊達氏より完全に独立する 戦国時代 1576年(天正4年) 三瀬の変 隠居していた北畠具教…

【殿様の左遷栄転物語】無念の長府藩主 毛利秀元

…た男である。 秀元は毛利元就の四男である元清の子で、毛利本家の当主である輝元のはとこにあたる。この輝元には実子がなかったために、1592年(天正20年)、13歳のときに秀元が養子となり、後継者候補となっていた。実際、養父の代わりに「文禄の役」で総大将を務めるなどの活躍もしている。 またちょうどこのころ、秀元が豊臣秀吉の命を救った、などという逸話もある。秀吉の乗っていた船が岩にぶつかって沈んでしまったのだが、そこへ小船に乗った若者が現れて秀吉らを救った。秀吉はこれにいたく感動し…

【殿様の左遷栄転物語】再興運動が展開された 徳山藩毛利家

…かつて、戦国時代には毛利元就を中心に3人の息子ががっちりと手を組み(「三本の矢」の故事で有名)、団結力を武器にした毛利家がこの有様なのだから、もし元就があの世からこの様子を見ていたら、どれほど嘆いたことだろうか。 領地争いは意外な結果に そんな藩同士の対立を背景とし、ついに事件が起きたのは就隆の四男・元次(もとつぐ)が徳山藩主であった頃、1715年(正徳5年)のことである。徳山藩と長州藩の境目となる万役山で、長州藩の父子3人が万役山の松の本を伐採したところ、徳山藩の足軽がそれ…

【殿様の左遷栄転物語】不本意な褒美を受けた男 吉川広家

…たび激しく争ったが、毛利元就が次男の元春を吉川家に養子として送り込み、また陰謀によって反対勢力を抹殺したため、吉川家は毛利一族に取り込まれることになった。以後、同じように元就の三男・隆景を送り込まれた小早川家とともに毛利の重鎮として大きな働きをするようになり、同じ川の字があることから「毛利両川」と称されるようになった。彼らは豊臣政権下においても活躍し、秀吉から出雲国に14万石の所領を(毛利家の所領を分け与えられる形ではあったが)与えられ、大名となっている。 さて、関ヶ原の戦い…

【殿様の左遷栄転物語】コネに救われた2人の大名 新庄直頼と久留島長親

…へ1代で成り上がった毛利元就が、厳島の戦いで陶晴賢(毛利以前の中国2強の1つ・大内氏の重臣で、このころには主家を乗っ取っていた)を打ち破るにあたって、彼らの力を借りたのはつとに有名だ。 このうち、来島を根拠とする一族は四国の戦国大名である河野家についたが、村上通総の代に離反して豊臣秀吉につき、1万4千石の大名となった。この秀吉が通総のことを「来島」殿と呼んだため、以後この名を使うようになったのだという。さて、関ヶ原の戦いの際、時の当主である来島長親(康親)は西軍についた。以前…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府15代・足利義昭――信長に縛られた、最後の将軍 1537年~1597年

…なった義昭は、安芸の毛利元就と豊後の大友宗麟の講和を進め、両者に三好氏の本拠を攻めさせるなど、政治的な動きを活発に見せるようになる。兄の遺志を継いで、将軍の政治的権威を回復させようという意図があったのだろう。 しかし、これらの行動は信長に咎められ、「殿中の掟」という規則を定められることとなった。「殿中の掟」は9条からなり、義昭の政治的な行動を束縛するものであった。上洛という同じ目的において協力しあったふたりだったが、この頃からその関係に亀裂が入り始める。一度は信長が和解を申し…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府13代・足利義輝――非業の死を遂げた剣豪将軍 1536年~1565年

…豊後の守護に、安芸の毛利元就を同国の守護にそれぞれ任命し、距離を近づけた。この中でも特に義鎮は、その名前の一字を義輝から拝領しており、それに対し深い感謝を示して謝礼を贈っている。 そのほか、長尾景虎と武田信玄や、毛利元就と大友義鎮など、抗争していた大名同士の関係に積極的な介入を行い、数多くの講和を成立させてもいる。このような優れた政治的手腕で将軍権威を回復させていった義輝は、「天下を治むべき器用あり」(『穴太記』)と評価されるまでになった。 そんな義輝の上に垂れ込める暗雲とな…

明智光秀と正親町天皇ーーあるいは信長への恨みはあったのか?

…の三年後に中国の雄・毛利元就の援助をうけてようやく即位が実行される始末である。このような朝廷と天皇の困窮はドラマでも描かれている通りだ。 そのため、正親町天皇は諸国の大名に天皇の領地を復興・安定させるように呼びかけなければならなかったし、多額の援助をしてくれた本願寺顕如には「門跡」の称号を与えている。そうしなければいけない状況だったのだ。 その一方で正親町天皇の時代はこのような衰亡から繁栄と安定へ切り替わる時期でもあった。足利義昭を奉じて上洛した織田信長が畿内を中心に勢力を拡…

【戦国軍師入門】5.戦わずして勝つ、軍師の手腕

…たのは、そうした結果を出すための統治能力、判断力と戦略・戦術能力だったわけだ。例えば、織田信長や毛利元就、北条早雲といった人々はそのすべてをかねそなえていた。 しかし、大名がそのすべてを高い水準で持っていなくてもよい。統治能力と判断力を高い水準で持ち、ある程度の戦略能力を持てば、それ以外の高度な戦略能力や戦術能力というのは、信用できる部下に任せてもよかったからだ。当然ながら、その意見を理解するための最低限の能力と判断力は必要だが、それを補うスペシャリストこそが軍師だったのだ。

【戦国軍師入門】2.上への忠誠より一族の保護

…地方に大勢力を築いた毛利元就の後を継いだのは、それほど優秀とは周囲から思われていない、凡庸な孫の輝元だった。しかし、他家に養子に行って「毛利の両川」と謳われた吉川、小早川のふたりの叔父が強力にサポートしたため、その巨大な勢力を失わずにすんだのだ。毛利家が勢力を大幅に減らしたのは、叔父2人が世を去った後のことだった。 課題は権力基盤の確立 豪族たちをまとめた寄り合い所帯である武士勢力のトップ、戦国大名とはどういうポジションだったのだろうか?基本的には、戦国大名というのはそういう…

湯築城 二度の危機に直面した城

…する城を次々に落城させていった。多くは秀吉に降服したが、抵抗して全滅したり、自刃して果てる者も中にはいた。秀吉軍が湯築城に迫ると、攻防戦を繰り広げた。やがて隆景は降服を勧め、大勢を察した通直はその申し出を受け入れて秀吉に降伏している。 その後、伊予には隆景が封じられ、通直は領地を失ってしまう。彼の妻が毛利元就の孫であったため、妻の実家を頼り安芸国竹原に移住することとなった。そのとき彼に従った譜代家臣やその一族を含めた50人余りが随行し、二度の危機を共にした主とともに生活した。

佐賀城 平和に主が変わった城

…ものの、隆信と結んだ毛利元就の助けがあり、隆信は宗麟と和平を結んでいる。 しかし、宗麟は再び兵を出した。8万ほどの兵(4万とする説もあり定かではない)で佐賀城を囲んでいる。局地的な争いがあり、龍造寺氏が地の利を生かして大友方を撤退させることが多かった。そんな状況に業を煮やした宗麟は、弟の大友親貞(親秀、晴秀とも。宗麟の甥とする説もある)に3万の軍をつけ、肥前に出兵させた。親貞は今山(佐賀県)に陣を置き、援軍と総攻撃の情報が龍造寺氏にもたらされ、打開策が協議された。その席で直茂…

武将印集めの魅力について、takubomayさんに聞いてみました

…に入れることができた毛利元就公の武将印です。 私は運良く手に入れる事ができました! 中央には元就氏の花押、右側には家紋である「一文字に三ツ星」があり、まさに武将印を象徴するような1枚であると言えます。 ちなみに、今でも販売されている武将印で一番のお気に入りは戦国魂で取り扱われている真田幸村(信繁)の武将印です。幸村を象徴する赤い紙(赤備え)に中央には三途の川の渡し賃とも言われた「六文銭」の家紋、「日本一の兵」と呼ばれた異名に「兵」の文字!極め付けは御歌頭さんが墨絵で書かれた真…

「麒麟がくる」物語序盤、中国地方は不穏な気配が高まりつつあった

…参加の国衆のひとり、毛利元就が公然と反旗を翻したのである。元就と晴賢の決戦の舞台となったのは聖地・厳島。晴賢は圧倒的な大軍で挑んだが、元就は狭い厳島に敵を誘い込み、また村上水軍を味方につけて海上戦を有利にし、ついに勝利を掴み取ったのだ。これが1555年(天文24年)、美濃では道三・高政親子の不和が決定的な対立へ近づいていた頃の話である。 以後、元就は大内氏を倒し、返す刀で尼子氏まで攻め滅ぼして、中国地方をほぼ統一してしまう。結果、畿内を支配してその勢力を周辺まで伸ばすようにな…

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

…ば、安芸国を支配した毛利元就は、その子供達を各地に配置し、勢力を盤石のものとしました。武将印と御城印を組み合わせて地図を作製するとこんな感じになります。いかがでしょう、ワクワクしませんか? 武将印はどこで買えるのか? 武将印は、御城印と同じように、お城の自治体や管理団体、商店、個人事業主が取り扱っています。そのほかにも、戦国武将ゆかりの神社や寺院等は、昔から御朱印=武将印として授与していることがあります。価格は御城印と同じ300円のものが多いようで、最近になって自治体や個人事…

1.戦国大名の誕生

…い。毛利家を小国人から中国一の勢力へと成長させた毛利元就は、自身の子供たちを勢力拡大にうまく活用している。次男・元春を吉川家へ、三男・隆景を小早川家へ、と本来は同格であった国人のもとへ養子として送り込み、ついには相手をのっとって毛利傘下にしてしまった。また、長女の五龍局は有力国人である宍戸家に嫁入りさせ、ガッチリと勢力に組み込んだ。このような巧みな養子・婚姻政策こそが、毛利家の躍進を支えたのである。 次回「(2)織豊政権期のパラダイム転換」につづきます。 kojodan.jp

毛利元就ゆかりの地おすすめ19選

…いただきました。 「毛利元就」と聞くと皆さんはどんな印象をお持ちでしょうか。 「3本の矢の教え」として有名な三子教訓状を思い浮かべる人が多いかもしれません。 1本の矢では簡単に折れてしまうが、3本の矢を束ねると容易には折れないと説き、息子3人がよく結束して家を守るように伝えたと言われている教えです。これは後の創作であって事実ではないとする説もありますが、毛利元就の人柄や家を想う気持ち、息子たちの団結力すらも表している素晴らしい教えだと思います。 では毛利元就は何をした、どんな…

【戦国合戦こぼれ話】厳島の戦い―毛利元就が張り巡らせた罠

毛利元就といえば、安芸の小国人であった毛利氏を謀略によって一代で中国地方の覇者に仕立てた戦国時代きっての名将である。その謀略の最高傑作ともいえるのが、1555年(功治元年)の厳島の戦いであった。 「大日本名将鑑 毛利元就」月岡芳年(ロサンゼルス・カウンティ美術館蔵) この時期、毛利氏は当時の中国二強の一角である周防の大内氏の影響下にあった。しかし、大内氏内部でクーデターが勃発し、重臣の陶晴賢が実権を掌握する。当初、元就は晴賢への協力姿勢を見せつつ、この事件に乗じて勢力を拡大し…

【受験にご利益あり?】全国にある「落ちない城」一覧

…5年(永禄8年)には毛利元就が月山富田城へ攻め込んだ第二次月山富田城の戦いでは徹底した兵糧攻めをおこない、城主・尼子義久は降伏し落城していますので、こちらも不落ではありません。2018年4月から発売されている御城印が験を担ぐ受験生のお守りとして人気です。 kojodan.jp 国吉城 若狭守護・武田氏の重臣で武田四老のひとりである粟屋勝久が城主をつとめた国吉城も難攻不落の城とされます。勝久は1563年(永禄6年)から1569年(永禄12年)の間、毎年のように攻め寄せる越前朝倉…

鳥取城 日本史に残る、凄惨な籠城戦の舞台

…毛利両川は戦国大名・毛利元就が有力者である吉川氏、小早川氏の力を吸収すべく、次男・元春を吉川氏に、三男・隆景を小早川氏に養子に出して、築いた協力体制のことだ。経家も毛利方に属し、いくつもの戦いに参加している。その功によって、鳥取城を任されたという経緯があった。 秀吉も鳥取城を侮ることなく、戦いをするのは得策ではないと判断。三木城攻略の時と同様に兵糧攻めをおこなうことを決めた。そのうえで、三木城での戦いが長引いたことを反省し、いくつかの対策を立てていた。 まず、城への兵糧の搬入…

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