攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

江戸時代 の検索結果:

平賀源内という男

…イメージ 平賀源内。江戸時代に活躍した学者である。テレビ時代劇か漫画、アニメなどでしばしば登場したり、あるいはモデルにしたキャラクターが作られてきたので、名前を知っている人も多いだろう。 では、そもそも、平賀源内とは何者か、ご存知だろうか。こういう時、まずは辞典をめくるのが良い。以下、『全文全訳古語辞典」(小学館)を引用する。 ひらがげんない 【平賀源内】 人名江戸中期の本草学者、戯作作者。号は風来山人など。讃岐(さぬき)(香川県)の人。温度計やエレキテルなどを作って世人を驚…

攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました

…て、豊臣政権さらには江戸時代と生き抜いて明治を迎えます。 また大浦為信は津軽氏を名乗ってこちらも近世大名として明治まで続くなど、同じ一族からふたつの戦国大名・近世大名を輩出した珍しい武家でもあります。個人的には御城印を通じた連携企画「南部お城めぐり」(南部御城印プロジェクト主催)のニュースを毎年取り上げていて、南部氏に興味があったので楽しみでした。 いつものように長時間の動画ですが、今回は以下の三部構成でまとめてみたので、少しずつ見ていただいても良いかと思います。 第1章:南…

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…小田原城 登閣朱印 江戸時代版 小田原城(神奈川県小田原市) 小田原城天守 300円 印刷 2018年12月 沼田城跡 登城記念御城印 城赤バージョン 沼田城(群馬県沼田市) 沼田市観光案内所 300円 印刷 2018年12月1日 唐津城 御朱印符 唐津城(佐賀県唐津市) 唐津城天守閣 400円 印刷 2018年12月1日 足助城 ご朱印 足助城(愛知県豊田市) 足助城チケット売り場 300円 印刷 2018年11月 米子城 御城印 米子城(鳥取県米子市) 米子市立山陰歴史館…

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

…がありますが、どうも江戸時代には藩のお抱え力士もいたそうです。そこで今回は相撲の起源(ルーツ)から、現代の大相撲につながるまでの歴史をざっくり1時間ほどで教わりました。 www.youtube.com 相撲のルーツ まず相撲の起源ですが、これは「古事記」や「日本書紀」に登場する力比べだと言われています。番組中でも出雲神話でタケミカヅチとタケミナカタが戦ったとか、野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の力比べがルーツだとか言われてます。ほかにも中央アジアから中国、…

【家康の謎】家康の死因は?

…代を終わらせ、太平の江戸時代を招いた男であるから、その死の前後の事情については語るべきところが多すぎるのだ。今回はそのうちのひとつとして、家康の死因にまつわる話をしたい。 家康は豊臣家を滅ぼした直後の1616年(元和2年)、駿府城でその75年という当時からすれば驚異的な長寿の人生を終えた。直接的な死因として通説で語られるのは、死の3ヶ月前に鷹狩りへ出かけた際、現地で用意されていた珍味――甘鯛と大鯛の天ぷらである。これは当時の上方で流行っていた料理であったらしく、家康と縁の深い…

石川県立歴史博物館で開催中の特別展「御殿の美」を取材してきました

…泉院丸庭園に鼠多門と江戸時代の金沢城を蘇らせるために復元整備が進められてきましたが、その集大成として昨年から始まったのが二の丸御殿の復元整備事業というわけです。 いまはこんなふうに二の丸御殿があった五十間長屋の前では発掘調査がおこなわれています。 復元整備は段階的に行われる予定で(このあたりは名古屋城本丸御殿に近い)最初は入口付近(玄関・式台・実検の間・虎の間)が対象となっています。 金沢城は加賀藩前田家の居城であることは有名ですが、どんなお城だったかについては意外と知らない…

【家康の謎】家康の領地の石高はどのくらいあった?

…ラマにおける未来、関ヶ原の戦い後の徳川の領地を見てみよう。関ヶ原後、豊臣家の蔵入地(直轄領)の大部分および西軍諸大名の所領が没収され、それらは論功行賞に加えて徳川家の直轄地に当てられた。この関ヶ原戦後の徳川家の領地は一般に400万石とされる(徳川家の蔵入地ということだと、大坂の陣後だが約230万石という数字もある。おそらく、旗本や御家人の所領を除いた数字ということだろう)。家康は広大な領地に加え、各地の重要な都市や鉱山などを己の蔵入地に組み込み、江戸時代の礎としたのであった。

【家康の謎】三河譜代ってなに?

…般名詞である。ただ、江戸時代に限定すると、この言葉にはもっと特別な意味が出てくる。つまり「譜代大名」の譜代だ。江戸時代の大名(いわゆる徳川大名、もしくは近世大名)は、大きく分けて三つあったとされる。すなわち、親藩大名、譜代大名、外様大名だ。このうち、親藩大名はざっくりいえば家康の「親」族、すなわち徳川一族の大名だから明確に別物である。 一方、譜代大名と外様大名は家康(ひいては歴代徳川将軍の)家臣という意味では同じだ。違いは「いつから徳川家に仕えていたか」にある。これもざっくり…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

…ったことでしょう。 江戸時代の雪かきの道具は現在とあまり変わらず、長い柄のついた「コスキ(コウスキ)」と呼ばれる木製の長柄の雪べらで除雪を行っていたようです。 また、人が家屋の中で暮らしていると暖気が屋内にこもり、周辺の融雪も促します。戸切地陣屋には常時守備にあたる人員が配備され詰所・長屋が立ち並んでましたので、囲炉裏を焚く室内の暖かさもあり、また人の往来もありましたので、これらの条件が重なって、生活空間における除雪は行き届いていたのではないでしょうか。 Q.なぜ松前藩が最初…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

… 松軒/編1915『江戸時代落書類聚』第一巻~第三十六巻矢嶋 松軒/編1915『江戸時代落書類聚残編』第一巻~第五巻山田 三川 1784- 『三川雑記』 ※富村登による翻刻・校訂(1972・吉川弘文館)に拠って参照した。陸軍築城部本部/編 1900『日本城郭史資料』第1冊渡辺 慎 1831『伊能東河先生流量地傳習録』九州大学中央図書館蔵 ※国文学研究資料館・新日本古典籍総合データベースのデジタルアーカイブに拠った。(筆者不詳)『安政松前奥羽旅日記』1859 函館中央図書館蔵(…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】4.「早すぎた」洋式軍学理論のゆくえ-戸切地陣屋、そして「日本の稜堡式城郭・堡塁」のその後-

…は求められておらず、江戸時代末期の城郭のほとんどと同じように、政庁機能あるいはそのシンボルとしての在り方がその主目的であった可能性を考慮してもよいのかもしれません。稜堡式城郭とは、数百年の戦いのなかで磨き上げられてきた戦闘特化・砲戦特化の城郭構造ですが、もしその終着点のひとつとして「戦闘と切り離された姿」があったのだとしたら……あるいはそれこそが「五稜郭の五稜郭たる所以」なのかもしれません。 当時の状況を鑑みれば、自国内の軍事常識とはまったく別系統として進化した19世紀基準の…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…主に戦国時代末期から江戸時代にかけて作られた形態の城です。 それに対して、諏訪原城は「山城」という種類に分類される城で、天守閣や石垣はありません。代わりに、土を掘って作る「堀」や、土を盛って造成した「土塁」を持ち、自然地形を巧みに活かした土の城です。 城は、敵の侵入を阻むために堀や土塁を設けて区画した砦を起源に持ち、吉野ケ里遺跡(佐賀県)のような弥生時代の環濠集落も城の起源と言われています。1467年(応仁元年)から始まった応仁の乱を契機に、室町幕府の権威は揺らぎ、日本各地で…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場-

…回の記事:はじめに 江戸時代後半・18世紀のロシアの南下以降、蝦夷地近海は露・英・仏・米ら外国船の跋扈するエリアとなり、江戸幕府にとって北方は国土防衛の重要地となりました。同地を領していた松前家は、1807年(文化4年)にこの任務に不適として陸奥梁川(やながわ)へと転封されます。その後14年の時を経て、北方防衛の遂行を条件として松前家は復領を果たしますが、これは同時に、北方海防の成否が藩の存否に直結する問題となったことも意味しました。 松前藩は蝦夷地各地に台場を築き勤番を配し…

二条城で開催された学芸員解説会に参加してきました(遠侍・勅使の間)

…明治33年のことで、江戸時代の呼称ではないとか。 まあ当時は白書院も「御座の間」と呼ばれたり、黒書院も「小広間」と呼ばれていたらしいので部屋の名称はけっこう流動的です。 二条城において主人は将軍ですから常に将軍が上座(上段)に座るわけですが。この部屋だけは勅使が上段に座ったと考えられています。 ここで江戸時代初期における幕府の対朝廷工作(天皇および朝廷の統制)の話。 禁中並公家諸法度を制定するなど、幕府は朝廷を束縛する方向で政策を進めますが、さらに秀忠の娘で、家光の妹にあたる…

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

…の創作資料、すなわち江戸時代に作成された安土城天主復元案の1つであるが、指図を構成する部分的な要素には真性な原資料を参考に写し取った痕跡があり、その部分のみ信用に足る」です。(※一般的に「天守指図」の信憑性はかなり疑問視されているので、当説に関しては慎重な検討が必要であると思われます) まずそもそも、『天守指図』における疑問点としては、先行研究の中ですでに数多く明らかにされていますが、主要な例を挙げるならば、信憑性が確認されている『安土日記』や『信長公記』における座敷の記録と…

【家康の謎】徳川四天王は誰が決めたの?

…めて認識するようなことはなかったのではないか。こうなると、「徳川四天王」という呼び名が、彼らが生きた時代にあったとはちょっと考えづらい。じっさい「徳川四天王」という呼び名の発祥は不詳であるようだ。誰がこのように命名し、4人を選んだのかはわからないが、江戸期を通じて巷に広がったのだろうと想像はできる。徳川四天王の家系である本多、酒井、榊原、井伊の四家はそれぞれ高禄の譜代大名として江戸時代に残っていった。彼らの子孫の立場から逆算して、「徳川四天王」という名前がついたのではないか。

【家康の謎】家康は倹約家だったの?

…このイメージは、主に江戸時代に語られた各種の逸話の影響によるものが大きいと思われるからだ。ウェブ上では「譜代家臣たちに大きな所領を与えていないのは家康がケチだったからだ」などという主張も見られるが、これはどちらかというば政治上の問題だったのではないか(幕政を取り仕切る譜代大名の所領は小さくして独走・暴走を抑え、幕政にかかわらせない外様大名は所領を大きくして不満を持たせない)とも考えられる。 とはいえ、同時代やその少し後を生きた人々が、家康のことを倹約家と考えていたのは間違いな…

【家康の謎】いわゆる「三英傑」って誰が決めたの?

…いう概念そのものは、江戸時代にはあったらしい。「織田がつき 羽柴がこねし天下もち 座して喰らふは徳の川」という落首(狂歌)や、三英傑が詠んだという触れ込みのホトトギスの句――すなわち「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」「鳴かぬなら鳴かしてみせようホトトギス」「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」が伝わっていることからもわかる。なお、3つの句は順番に信長、秀吉、家康のものとされ、残酷な信長、器用な秀吉、忍耐の家康という当時のイメージを知ることができる。 とはいえ、この頃のイメー…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…後は前田家臣となり、江戸時代になってもそのまま前田家重臣として仕えた。 能登の事情については「マンガでわかる七尾城」に詳しいのでぜひご一読ください。 kojodan.jp kojodan.jp 佐渡守護代 ・ごく短期間ながら、畠山氏が佐渡守護だったこともある。この時の守護代は本間(ほんま)氏。 ・本間氏はもともと相良の武士で、鎌倉時代に佐渡で地頭になり、やがて守護代になるが、当初は年に一度、佐渡へ訪れていた。その後、土着して佐渡の各地に家が分かれ、国衆化していく。しかし上杉氏…

「分国法ってなに?」の動画を公開しました

…ぼくが考えていたよりも軽いものであったり、終わりの始まりを示すようなものだったのかもしれません。 とはいえこの時代の試行錯誤が法令主義とも言える江戸時代の秩序形成に影響を与えたのも事実だと思うので、分国法を制定した戦国大名のチャレンジ(あるいは彼らが追い込まれた状況)はもうちょっと勉強してみたいですね。 動画はこちらで視聴できます。 www.youtube.com カメラの設定をまちがえてピンぼけしまくりですみません 今回の参考書籍 kojodan.jp kojodan.jp

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…ぐる。『お秀茶屋』は江戸時代初期よりこの地で名物の田楽を提供してきた老舗。三和土(たたき)の上に置かれた囲炉裏台で、自家製の甘味噌をたっぷり塗って焼き上げる田楽は、素朴で味わい深く、一口食べると不思議な懐かしさがこみ上げる。時代を経ても変わらない味を堪能しながら、会津の歴史に思いを馳せてみては。 その昔、城主の命令で刑場に向かう罪人に田楽を振る舞ったのが店の始まり。店主の佐藤竜太郎さんで17代目を数える 生揚げ、餅、ニシン、コンニャクが一皿に乗った「田楽」(900円) 3.お…

【家康の謎・番外編】十八松平と十四松平、あるいは徳川家康のルーツとは

…松平一族諸家のうち、江戸時代に残っていた十四の家を数えているからだ(大名になった十四家であるというが、実際には一万石に満たない家も含まれている)。なおこの数え方をする時、家康つまり徳川将軍家につながる安城(あんじょう)松平家や、本貫の地に残った松平郷(まつだいらごう)松平家、実は松平宗家であった岩津(いわつ)松平家は数えない。そう、実は安城松平家は宗家ではなかったのである。では、どのようにして安城松平家が宗家となり、家康の出現につながっていったのか? その流れを見てみよう。 …

四百年遠忌記念特別展「大名茶人 織田有楽斎」のプレス内覧会に参加してきました

…、どうやらこの悪評は江戸時代初期に書かれた『義残後覚(ぎざんこうかく)』が初出らしいのです。 加賀中央図書館が所有するものが第1部に展示されています。 「織田家の悪口に満ちている本」と西山学芸員は紹介されていましたが、Wikipediaにも「豊臣秀吉に関しては絶賛に近い形で紹介されるが、織田信長については酷評されている」と紹介されてますね。ゲームでは謎のキャラクターとしてよく出てくる幻術師・果心居士の記述もあるようで、たしかにうさんくさい系の本のようです。 現代でもフェイクニ…

福井城へ重ね捺し御城印スタンプラリーの取材に行ってきました

…うのですが、そもそも江戸時代の城は政庁であったことを踏まえれば、いま県庁があるのは自然なことですよね) 丸岡城周辺のスタンプ設置場所をまわる 今回スタンプは以下の5か所に設置されています。台紙御城印の販売はそのうち3か所のみとなっていますのでスタートはこのいずれかになります。 福井城址(県庁) 養浩館庭園 福井市立郷土歴史博物館【台紙販売】 柴田神社【台紙販売】 佐佳枝廼社【台紙販売】 福井市立郷土歴史博物館 ぼくは福井市立郷土歴史博物館からスタートすることにしました。195…

細川玉子さんによる京都御城印サミット開催レポート(2日目)

…ています。福知山市は江戸時代に城下町として栄え、多くの方が行き来する町となりました。その結果、手土産文化が根付きお菓子屋さんが増え、今ではスイーツのまちとして発展されたとのこと。美味しいお菓子のお店が、市内各地にたくさんございます。さらに江戸時代では、福知山市のお菓子を献上していたという記述もあるそうです。 斬新なPRで常に話題になる福知山市!福知山市が多くの方に注目されること、とても嬉しいなと思います。 さらに、26日(日)には「福知山城・明智衆」の皆様も、ブースの応援にか…

【家康の謎】家康が信仰していたのは何宗?

…うしょう だいごんげん)」として神格化もしている。結局、浄土宗の増上寺と、天台宗で天海が開いた寛永寺が徳川家の菩提寺として、江戸時代を通して重要な位置を担っていくことになったのだった。 そもそもこの時代の人々にとって宗旨替えや複数の宗派を信仰することがそこまで特別だったかというと「あまり気にしなかったのでは」と思われる。例えば上杉謙信のケースだ。彼が生まれた長尾家の菩提寺は林泉寺(曹洞宗)だが、上洛した時に大徳寺(臨済宗)の徹岫宗丸に参禅して宗心という法名まで与えられている。

【家康の謎】家康は源氏なのか

…認められていたことなどから、源氏であった方がやはり都合は良かったのだろう。そのために家康はわざわざ足利一族で源氏の名門にあたる吉良(きら)氏から源義家の子・足利義国(あしかが よしくに)に始まる系図を手に入れまでしているのだ。 ちなみに、徳川将軍家とはまた別に「我もまた得川義季の子孫である」として、江戸時代に徳川を名乗っていた家系があるのをご存知だろうか。これが秋田藩・佐竹家の家臣である常陸徳川家であった。将軍家に遠慮などしそうなものだが、陪臣だからむしろ許されたのだろうか。

京都市考古資料館で「THE 金箔瓦」を見てきました

…に普及していきます。江戸時代には次第に消えていくものの、二条城でも見つかっているそうです。 図録も300円で販売されています(ぼくも買いました)。御城印もいまは通常版と、年末につくった銀色のがまだ残っているので一時的に4種類が販売中なんですね。 チラシも置いていただいてますね。 最後に特別展示の様子をスマホで動画に撮って1分にまとめたのでどうぞ。 www.youtube.com news.kojodan.jp 金箔瓦バッジの調整 館内のパネルに「金箔瓦出土城郭」という地図があ…

【家康の謎】家康は何回名前を変えてるの?

…公家については文書による正式な手続きが必要であり、江戸時代になっても天皇・朝廷の専権事項として残ったことがわかっている。また、幕末の広島藩で、幕府に改名の許可をもらっていたことを示す史料もある。戦国時代の武士にそこまで明確なルールがあったとはちょっと思えないが、一族の本家や主君への許可は取っていたのではないか。それらを無視して改名するのは独立性の高い勢力であるか、あるいは本家や主君へ反逆する強い意志をもって行なったと考えるべきではないだろうか。家康のケースはまさにそれである。

【家康の謎】家康はなぜ「家」の字を選んだの?

…様子がない。確かに、江戸時代になると敵対したから偏諱でもらった文字を捨てるという価値観も出てくるが、この時代にはそのような考え方はなかったのではないか……というわけだ。 となると「元」を捨てたかったのではなく、「家」を取り入れたかったのではないか、という話になる。ではその「家」はどこから来たのか。実は本コラムで以前扱った家康の母・於大の方の再婚相手である久松俊勝(ひさまつ としかつ)が、この頃「久松長家」を名乗っていた。家康はこの長家を父とみなし、偏諱として「家」の一字をもら…

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