攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

石田三成 の検索結果:

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…日 茂呂城 御城印 石田三成妖怪退治版 茂呂城(群馬県伊勢崎市) 退魔寺 600円 印刷 はがき大 2022年7月25日 小坪館 御城印 真光寺、まるごとしすい、一般社団法人袖ケ浦市観光協会、袖ケ浦公園 レストハウス菖蒲、Yショップつるや 300円 印刷 2022年7月23日 青山城 御城印 青山城(埼玉県小川町) おいでなせえ小川町駅前店 300円 印刷 2022年7月23日 野辺地城 御城印 野辺地城(青森県野辺地町) 野辺地町立歴史民俗資料館 300円 印刷 2022年…

【家康の謎】家康は関ヶ原の戦いに出陣する前に江戸で誰にどんな手紙を出してるの?

…要である。毛利輝元・石田三成ら西軍も、挙兵に際して「内府ちがひの条々」と呼ばれる書状を全国の大名へ向けて発している。これは家康の非を鳴らすものであり、家康の立場を明らかに悪化させた。家康としても、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行を自分の味方と計算していたにもかかわらず、実際には「内府ちがひの条々」に彼らの名前があったため、大いに動揺したに違いない。 とはいえ、家康も負けてはいない。西軍挙兵の一報を受け取って戦いを決意した後の7月24日から、一度江戸城へ入り、そしていよいよ…

【家康の謎】家康が直江状に激怒したのは本当?

…た大坂では毛利輝元・石田三成が挙兵し、ここに関ヶ原の戦いの幕が上がる――というのが通説だ。さて、関ヶ原の戦いを語るにあたって重要な小道具であるこの直江状について、「実は偽書である」という説がある。なにしろ直江状は実物(原本)が存在しない。現在に伝わっているのは写しばかりである。しかも非常に読みやすく内容が整然と整った文章であり、それゆえに美文という印象を強く受ける一方で、「あまりにも綺麗にまとまりすぎているから、これは創作ではないか」とも感じてしまう。 また「兼続の書状として…

【家康の謎】家康はなぜ石田三成を匿った? 七将襲撃事件は事実なのか?

…筆頭とする武断派と、石田三成ら文治派の対立であった。そんな中、重鎮である前田利家が亡くなる。押さえを失った武断派諸将のうち七人が兵を率いて石田三成を襲撃するも、三成はあえて徳川家康の屋敷を訪れ、彼に庇護を依頼した。受諾した家康によって武断派七将は押さえ込まれ、一方で三成は謹慎処分となる。これによって家康の動きはさらに活発化した――というのが、いわゆる通説における「七将襲撃」の事件である。 ところで、近年ではこれらの一連の出来事について疑いをもつ意見が出てきているのをご存知であ…

【家康の謎】家康はなぜ朝鮮出兵に参加しなかったの?

…れないが、そうはならなかった。朝鮮出兵は一度の休戦を挟みつつ泥沼の状態で戦いが進み、ついに秀吉が死んで中止されるまで、状況が好転することはなかったのである。また、秀吉に代わる朝鮮での指導者としても豊臣政権生え抜きである石田三成が派遣されたため、家康の出番はなかった。結果、石田三成は加藤清正ら武断派諸将との関係が悪化(例えば、加藤清正は三成らに「朝鮮との講和を妨害している」と讒言され、一時的に蟄居の処分を受けている)し、のちの関ヶ原の戦いへつながる種が蒔かれることとなったのだ。

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯5】

…東7名城のひとつで、石田三成の水攻めにも耐え、浮城としても有名な「忍城」。そして、築城には狐の尾曳(おびき)伝説、上杉・武田・北条の三つ巴の中で、上杉・北条の支配を受けつつ、徳川家康の関東入封とともに、徳川四天王の榊原康政が城主となった「館林城」。歴史や縁の深いお城は、その歴史的なおもしろさに加えて、頼もしい城もなかなどのお菓子により城の楽しさに気づき、広めてくれるといいなぁと願うばかりです。 さて今回は、どんな地域の、どんな特徴的な城もなかに出会うことができたのか、そして、…

【家康の合戦】関ヶ原の戦い 豊臣政権の内部抗争

…川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍による天下分け目の決戦が勃発。関ヶ原の戦いはわずか1日で東軍勝利という形で決着がついた戦いです。関ヶ原の戦いといえば、戦国史に残る有名な合戦のひとつです。家康vs三成として描かれ、テレビドラマや映画、書籍など数えきれないほどあります。私たちが以前から知っている関ヶ原の戦いは、先にも示したような徳川家康と石田三成による天下分け目の決戦というイメージですが、近年の研究の成果によって通説が見直されています。つまり、いまは秀吉死去後の豊臣政権にお…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…政を行う役割分担) 石田三成に対する七将襲撃事件。近年は「訴訟事件」とも。三成は蟄居 9月、家康暗殺計画。首謀者は前田利長、共犯は浅野長政、大野治長、土方雄久らが疑われて失脚。家康は西の丸に入り、天守を築く 1600年(慶長5年)、59歳 前田利長は母・芳春院を人質として江戸へ 細川忠興(嫡男・忠隆の正室は利家の娘)も嫌疑をかけられ起請文を提出、翌年に三男(のちの忠利)を江戸へ送る 五大老五奉行体制は形骸化。家康は大坂城において単独で権限をふるい、前田・増田・長束の三奉行が支…

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

…、さらに秀吉の側近・石田三成や、前田利益(慶次郎)などの牢人衆とも親交があり、人付き合いの広い人物だった。 そんな彼は上杉家に仕えた樋口兼豊(ひぐち かねとよ)の子として誕生する。長じてからは景勝の側近として働き、この頃は樋口与六(よろく)と呼ばれていた。しかし、景勝の側近である直江信綱(なおえ のぶつな)が毛利秀広(もうり ひでひろ)という人物に殺害され、この時直江家には跡取りがいなかった。名門・直江家の断絶を惜しんだ景勝は兼続に跡を継がせることにし、直江兼続がここに誕生し…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

石田三成が何よりも頼りにした彼もまた、様々な名前で知られた戦国武将のひとりだ。最も有名な名は島左近(しま さこん)だが、他にも清興(きよおき)・友之・昌仲など。出身地も諸説ある。 彼は最初、大和(現在の奈良県)の国の戦国大名・筒井家の家臣だった。まず筒井順昭(つつい じゅんしょう)に仕え、彼が早死にすると同僚の松倉勝重(まつくら かつしげ)とともに順昭の子・順慶(じゅんけい)を養育する役目を務める。ここから島は左近・松倉は右近という通称で並び称せられるようになった。 勝猛(か…

【戦国軍師入門】黒田官兵衛――有能ゆえに疎まれた不遇の名軍師

…としての地位を文官の石田三成らに取って代わられた彼は出家して隠居する。隠居していた頃の彼はしばしば城下を散歩し、子供に出会うとお菓子をあげたり、家来の家に上がり込んで世間話をしたりと、のんびりとした日々を過ごしていた。子供たちはそんな彼によく懐き、しばしば彼の隠居所に遊びに行って大騒ぎをして、官兵衛はそんな彼らを微笑ましく見つめていたという。 けれど、その胸にはまだ野心の炎が残っていた。そんな彼が最後のチャンスとして賭に出たのが「関ヶ原の戦い」の際に九州で起こした戦なのだが、…

【戦国軍師入門】石垣原の戦い――黒田官兵衛、最後の賭け

…謀としての立ち位置を石田三成に取って代わられるようになり、またその鋭い知略を秀吉に警戒されるようにもなっていた。そこで彼は領国の豊前(現在の福岡県東部及び大分県北部)の中津に隠居したのだが、その一方で常に天下の情勢をうかがっていた。 1600年(慶長5年)、石田三成の挙兵と徳川家康の動向を聞いた官兵衛(当時は既に出家して如水と呼ばれていた)は今こそまさに最後の賭けに出る時、と行動を起こす。この時彼は東軍として挙兵したのだが、実は心中では九州を占領したのちに中央に攻め上がり、一…

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…家康の率いる東軍と、石田三成の(名目上の指揮官は毛利輝元だったが)率いる西軍は美濃(現在の岐阜)の関ヶ原にて大いに戦い、激戦の末に軍配は家康の東軍に上がった。 ところがこの戦い、戦場での両軍の布陣だけを見ると西軍の方がはるかに有利だった。そもそも西軍の方が数が多い上、東軍は西軍に取り囲まれる形で布陣していたのだ。実際、明治時代に日本陸軍の軍事顧間として来日したドイツのクレメンス・メッケル少佐が、この布陣の様子を見てすぐに西軍の勝ち、と断言したという話が伝わっている。しかし、結…

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…十)明智光秀(十一)石田三成(十二)徳川家康 第五章 巨大官僚組織・江戸幕府の舵を取った幕閣江戸時代の始まり〈一〉本多正純と土井利勝〈二〉酒井忠勝〈三〉松平信綱〈四〉徳川光圀〈五〉保科正之〈六〉酒井忠清(七)堀田正俊(八)牧野成貞と柳沢吉保(九)間部詮房(十)新井白石門閥譜代も子飼いも活用した吉宗の政治センス(十一)水野忠之と松平乗邑(十二)大岡忠相(十三)大岡忠光(十四)田沼意次(十五)松平定信(十六)寛政の遺老と水野忠成(十七)水野忠邦(十八)阿部正弘(十九)堀田正睦(二…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑨――徳川本隊を釘付けにした城――上田城(第二次上田合戦)

…ある。 京で挙兵した石田三成に対し、徳川家康は軍をいくつかに分けて中央へ進めた。諸大名は東海道を先発させ、自らは江戸に寄った後にゆっくりと進軍。そして、後継者と決めていた息子の秀忠には徳川氏の本隊ともいえる大軍を預け、中山道を西上させた。信濃方面の西軍派勢力を平定させたのちに、京に向かうのが秀忠の役目であった。 その前に立ちふさがったのが真田昌幸であり、上田城であった。昌幸は会津の上杉討伐軍には参加していたが、三成の挙兵後には離れ、西軍に加担する準備を始めていた。これに対し、…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑦――囮としての役割を果たした城・伏見城

…けると、これを受けて石田三成が挙兵。細川藤孝の丹後田辺城に続き、徳川方の拠点として鳥居元忠が留守を守る伏見城を取り囲んだのである。 伏見城はかつて秀吉が築いた堅城であり、地の利にも恵まれていた。わずかな兵で籠もった元忠もよく戦い、約10日間ほどにもわたって籠城戦を繰り広げた。しかし、援軍の来ない状況では、兵力の差がどうにもならない。また第一部でも紹介したように、兵の数に対して城の規模が大きすぎると、むしろ弱点を生み出してしまうものでもあった。そうしてついに内部から敵方に通じて…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は③――落ちなかった支城・長谷堂城

…川家康の率いる東軍と石田三成の率いる西軍がぶつかっていた頃、各地方でも諸大名が東西に分かれて争っていた。時の最上氏当主・義光は東軍につき、そのために西軍側の上杉氏の攻撃を受けることになったのである。上杉景勝の命を受けた側近・直江兼続は山形城を目指して突き進み、まず支城のひとつである畑谷城を抜いた。この際、畑谷城に入っていた江口五兵衛は撤退を命じる主君の命に反して城に籠もり、熾烈な籠城戦の末に玉砕している。そして、この次のターゲットになったのが長谷堂城であった。 この城を抜かれ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑤――勇ましくも美しき女武将の活躍した城・安濃津城

…徳川家康率いる東軍と石田三成が率いる西軍がぶつかった美濃関ヶ原における合戦が有名だが、実際には全国で東軍と西軍に分かれての戦いが巻き起こっており、数々の印象深いエピソードが残されている。もちろん、その中には多数の「籠城戦」が含まれているわけだが、特に面白いものとして伊勢安濃津城(三重県津市)の戦いを紹介したい。なにせ、この戦いでは華やかな女武者が見事な活躍を見せているのだから。 戦国時代の合戦で活躍したのは男性ばかりだと思われがちだが、戦いが女性たちの領域である城にまで及んだ…

【10大戦国大名の実力】島津家⑤――朝鮮出兵と関ヶ原の戦い

…近、これを不審がった石田三成が豊臣家に対する忠誠を約束した誓紙を要求――と、両者ともに「来るべき決戦において、島津は是非味方に引き入れたい」と考えていたことがわかる。それほどまでに九州での彼らの暴れっぷりがすさまじかったということなのだろう。 こうした情勢のなか、合戦開始以前は島津家としては東軍側につく予定だったらしい。ところが、実際の義弘は西軍として関ヶ原の戦いに参加している。どうしてそうなったのかといえば、三成の挙兵後に義弘が家康との約束に従って伏見城に入ろうとしたところ…

【10大戦国大名の実力】斎藤家③――下剋上から滅亡まで

…加藤清正や福島正則、石田三成といった若者たちを育て、生え抜きの家臣として自らの政権を任せようとした。ところが、彼らは立場の違いから反目し合い、秀吉の死後に相争って徳川家康が躍進する隙を作ってしまった。同じように、一から成り上がって主家を乗っ取った斎藤家には、地盤がなかった。だから不安定で、滅亡の原因になった。そういうことなのだろう。 実際のところ、一般のイメージと違って戦国大名には守護や守護代出身が多く、最低でも国人として代々の領地や家臣がいるのがほとんどだ。成り上がって大名…

【10大戦国大名の実力】織田家⑤――衰退する織田家

…ヶ原の戦いにおいては石田三成の求めに応じて西軍へ参加。岐阜城に籠もったが東軍に敗れ、降伏。戦後は頭を剃って高野山に籠もったという。 また、信長には一人の兄と十人の弟がいたとされるが、彼らの多くは信長の配下として戦った末に戦死したり、秀吉の支配下に入ったりしている。とくに有名な人物には信秀の十一男にあたる長益がいる。この人物は茶人「有楽斎」として有名な一方で、武将としての活躍はほとんど記録されておらず、それどころか本能寺の変においては信忠と共にいながら一人脱出した――という逸話…

【10大戦国大名の実力】織田家①――後継者の実力で組織の命運は決まる

…真田幸村や伊達政宗、石田三成に直江兼続といった「ヒーロー風」キャラの人気が高い。 それでも、戦国武将人気ナンバーワン、もしくは仮に「戦国武将といわれて誰を思い浮かべますか」というアンケートをとった時のナンバーワンには文句なく織田信長の名前が出てくるはず。「戦国の覇王」「第六天魔王」「革命的先見の明の持ち主」あるいは「狂人」「戦国時代を終わりに導いた男」――信長の異名は数限りなく、それは同時に彼が戦国日本に与えた影響の大きさを表している。数多い戦国時代のカリスマのなかでも、ずば…

【10大戦国大名の実力】佐竹家③――優れたバランス感覚

…た。佐竹家は以前から石田三成と親しく、心情的には西軍側であったろう。先述したように豊臣政権の支配下に入る以前から接触があり、常陸の平定にあたっても彼の協力を得たこと。加えて、宇都宮氏が養子問題で改易になった際、縁戚関係にある佐竹家もその余波を受けそうになったが、三成の仲介によってこれを免れる、ということもあった。 1599年(慶長4年)、三成が対立する武断派七将による襲撃を受けそうになった際は、伏見の屋敷から大坂へ急行、自ら三成のいた前田利家の屋敷に赴いて、駕籠に乗せて脱出―…

【10大戦国大名の実力】佐竹家②――戦国大名・佐竹家として

…ら昵懇の関係にあった石田三成の入れ知恵であるらしい。 豊臣政権による常陸支配のお墨付きをもらった義宣は、江戸氏や大掾氏といった完全には支配下になかった勢力を討ち、また「南方三十三館」と呼ばれる大掾氏系の国人領主十五名(十六名とも)を祝宴の名目で呼び寄せ、酔った帰り道で殺害するなどの謀略も駆使して、常陸を完全に統一した。また義宣は朝鮮出兵にも参加。はるばる常陸から北九州の名護屋城を経由して朝鮮まで渡っているが、兵士たちの戦線離脱があまりにも多いことを嘆く手紙を残しており、朝鮮出…

戦国時代の食事事情について教わりました

…下級武士はもちろん、石田三成のような上級武士でさえも雑炊を普段から食べていたそうです。 米に麦や粟を混ぜて炊いたり、雑炊にしたりするのが基本で、庶民は雑穀や芋が主食でした。また、味噌汁をかけて食べる「汁かけ飯」は身分を問わず広く好まれたようです。たしかに北条氏政の汁かけ飯エピソードを考えても、大名クラスでさえ日常的に汁かけ飯を食べていたことがわかりますしね。 北条氏政の汁かけ飯エピソード 氏政が汁の二度かけ(一度かけたけど足りなかったのでもう一度かけた)をしたら父親の氏康が「…

上州に残る石田三成生存伝説

関ヶ原の戦いで敗れた石田三成は戦場から逃亡するも田中吉政によって捕らえられ、家康の命により六条河原で斬首されたと伝わっていますが、じつは生き延びていたという伝承が群馬県に残っているそうです。よくある英雄不死伝説のひとつだとしてもこうした伝承が残った背景にはとても興味があるので、本件について調査をされた吉澤さんに寄稿いただきました。 石田三成公のお墓が群馬にあるらしい! 9月初旬に御城印を集めている方から「石田三成が群馬に生存していた」と情報を頂きました。ネット検索では沼田市薄…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…年) ○徳川家康 ×石田三成 1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が亡くなった。彼は天下統一に成功したが、一方で朝鮮出兵を二度にわたって行うも失敗し、一度は後継者に選んだ甥の豊臣秀次を実子・豊臣秀頼の誕生後に失脚させて殺すなど、晩年には失政が目立ったのも事実だ。そんな彼は死に際して豊臣政権の要である五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)に誓詞(せいし=誓約の書類)を提出させ、まだ幼少の息子・秀頼への…

【殿様の左遷栄転物語】伊達政宗の長男が設立 宇和島藩伊達家

…についたため、西軍の石田三成に人質としてとらわれた。戦いののち、今度は徳川家の人質として江戸で暮らし、大坂冬の陣では政宗とともに出陣して戦功をあげ、伊予国宇和島郡に10万石を与えられて、ここに宇和島藩を設立することになった――そう、秀宗は伊達本家を継承できなかったのである。 その原因は、すでに述べたような豊臣家との深い関係があったのでは、と考えられている。伊達家は東北の大大名であり、幕府から警戒される存在だ。その当主が豊臣家ゆかりの人物では、余計ににらまれるだけだ。かくして、…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名① 小田原藩大久保家

…・福島正則ら武断派と石田三成ら文治派の派閥争いが発生し、結果的に家康が暗躍する隙を作って、政権崩壊につながっている。現代風にたとえるなら、注文をとってくる営業部と、実際に商品を作る製造部が、それぞれ「あいつらは俺たちの苦労がわかっていない」と不満を溜め込んで仲が悪くなるようなものだろうか。 忠隣が庇護して姓を授けた重臣、大久保長安にまつわる疑惑も、彼の足を引っ張ったようだ。大久保長安は金銀山の開発や各地の民政によって幕府の財政に大きく貢献し、「天下の総代官」と呼ばれたほどの人…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…質的なリーダーである石田三成と以前から不仲であったことがその原因であるらしい。特に正則は関ヶ原における決戦で先鋒として戦ったし、そもそも豊臣系大名を家康の味方につけるにあたっても大きな働きをした。戦後はその功績によって、安芸・備後両国に49万8千石余を領する広島城主となった。 だが、これはもともとの領地であった尾張――のちに徳川御三家のひとつが置かれることになる東海の要所――から追い出されるということでもあったのである。正則は家康をあくまで「豊臣家の家老」と見て関ヶ原の戦いで…

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