攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

石田三成 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】不本意な褒美を受けた男 吉川広家

…安国寺恵現がもともと石田三成と親しかったこともあって、西軍に加担してしまった。しかも、毛利家当主である毛利輝元が名目上とはいえ西軍の総大将に収まってしまったのである。広家としては大いに焦り、「西軍が負けても毛利家を残す方法」を考えたに違いない。 結果として、広家は東軍、すなわち家康に内通する道を選んだ。黒田長政を介して家康と交渉し、「毛利家の罪を問わない代わりに、合戦にも参加させない」としたのである。実際、広家はほかの毛利家の軍勢とともに関ヶ原へ出陣し、家康の背後をうかがえる…

【殿様の左遷栄転物語】コネに救われた2人の大名 新庄直頼と久留島長親

…、上方の諸大名はみな石田三成に味方してしまったので、私ひとりがそれに反対するわけにはいかなかったのです」と弁明したらしい。 もともと戦いの前から直頼と家康の間には少なからず親交があったようで、これを認めた家康は会津の蒲生秀行に直頼・直定親子の身柄を預けた。この蒲生家もまた近江の国人出身で織田政権の下で躍進した家系であり、新庄家とは以前から付き合いがあったらしく、その縁で彼らを預かっている。 新庄家が大名として再興したのはその4年後、1604年(慶長9年)のことである。常陸と下…

【殿様の左遷栄転物語】第1章「天下分け目」のその後で 負けた後こそ正念場

…、かつ関ヶ原の戦いで石田三成ら敵対勢力を打ち破った徳川家康は、三成に味方した大名や中立を維持しようとした大名を次々と改易・減封処分にした。これらの処分を受けた大名の数は実に90を超える(改易88、減封5)。 そのなかには、たとえば大谷吉継のように関ヶ原の激戦の中で討ち死にした者もいる。西軍の首脳部を構成した三成や安国寺恵瓊らは捕らえられ、処刑された。また、三成派の中心的人物であり豊臣政権でも大きな位置を占めていた宇喜多秀家は殺されこそしなかったものの、所領をすべて没収されて伊…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…て出陣しており、いざ石田三成挙兵となると、別働隊を率いて中山道を西へ進むことになった。当然、その最大の役目は西軍との決戦に参加することだったのだが、これが初陣の秀忠は判断を誤った。西軍側についた信濃上田城主・真田昌幸・信繁(幸村)親子の挑発に乗って城攻めに狂奔し、あげくに落とせぬまま時間を大きく浪費してしまったのである。これが罠であると気づいたときにはすでに遅く、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。 当然、家康は激怒する。先述したように、関ヶ原の戦いで家康の東軍は数的劣勢に立たさ…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…して豊臣政権を支えた石田三成らと対立するようになった。一方、この三成は厳しい政権運営から加藤清正・福島正則ら豊臣政権内部の武断派とも対立しており、家康は彼らを味方につけて反家康派に対抗していく。 そして1600年(慶長5年)、家康が「謀反の疑いがある」として五大老のひとり・上杉景勝討伐の兵を挙げると、その隙を突いて三成も同じく五大老の毛利輝元を旗印に挙兵。両軍は美濃国・関ヶ原で激突した。天下分け目の「関ヶ原の戦い」である。このときは兵力で三成方(西軍)が勝り、兵の配置でも家康…

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

…『徳川実紀』はこれを石田三成の刺客によるものであったと記している。忠重の後を継いだのは、嫡男の勝成(1564―1651)だ。この男がまた生涯を追ったらそのまま小説一冊になるような人で、武功も多かったがそれ以上に問題が多い。忠重の部下を殺して父に勘当され、秀吉をはじめとして諸大名の元を渡り歩いてはまた騒ぎを起こして追われた末、関ヶ原の戦いの前年に忠重の元へ戻ってきていた。 その後、関ヶ原の戦いや大坂の陣で活躍した勝成は、最終的に備後・備中で10万石を与えられるまでに出世を遂げた…

【戦国時代の境界大名】相良氏――大大名に挟まれながらも、九州の動乱のなかで戦い続ける

…ころが畿内ではすでに石田三成が挙兵し、徳川家臣の籠る伏見城(京都市伏見区)を攻めている。長毎はあくまで家康に味方することを望んだが、畿内は三成ら西軍の勢力が圧倒的だったので諦め、しかたなく西軍に与した。しかし心中ではあくまで家康の味方をするつもりで、ひそかに徳川重臣の井伊直政に使者を送った、と『求磨外史』は語っている。 実際のところ、長毎が関ヶ原本戦に参加することはなかった。関ヶ原(岐阜県関ケ原町)近くの大垣城(大垣市)に在陣し三の丸守備を命じられていたからだ。そして戦いの趨…

【戦国時代の境界大名】相馬氏――奥州第一の実力者・伊達氏との抗争を戦い抜く

…参を責められたものの石田三成のとりなしがあって許された。北条氏滅亡後、秀吉は会津に入って奥州仕置に取り掛かった。秀吉に恭順しなかった諸大名は取り潰され、恭順したものは所領を安堵された。相馬氏は4万8700石を認められ、佐竹氏の与力大名(戦時に軍事指揮下に入る関係)として位置付けられている。 その後の相馬氏 こうして奥州の戦国時代は終わったが、相馬氏の苦難はもう少し続く。天下分け目の「関ヶ原の戦い」に相馬氏は出陣しなかった。というのも、佐竹氏が石田三成との縁から東軍に積極的に味…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…豊臣家臣の増田長盛と石田三成が上杉景勝に宛てて「昌幸を助けてはならない」という手紙を送らせていることが『上杉家記』に記されている。なお、昌幸のキャッチフレーズとして有名な言葉「表裏比興の者」(裏表があるくわせ者)は、この手紙のなかに出てくるものだ。 しかし、結局のところ、徳川が真田を攻めることはなかった。秀吉が真田討伐を取りやめさせたからである。この理由ははっきりしていないが、「そもそも秀吉は家康に真田を攻めさせるつもりはなく、交渉材料にしただけ」とする説もあるし、「真田を討…

明智光秀と細川忠興――あるいは太平のための裏切り

…。しかしそれゆえにか石田三成ら文治派と対立することになった。結果として忠興たち武断派は徳川家康に味方して「関ヶ原の戦い」で東軍につき、家康による江戸幕府成立に力を貸すことにもなったのだった。なお、この戦いに先立って忠興が最愛の妻・たまを失ったのは以前紹介した通りである。 関ヶ原後、細川家は北九州に四十万石弱の領地を与えられ、さらに忠興が隠居した後に加藤家が取り潰された後の肥後熊本へ移された。忠興は隠居後も陰に日向に影響力を発揮する一方で、文化人としても名を馳せた。特に茶湯につ…

明智光秀とたま(ガラシャ)――あるいは父譲りの激動の運命

…なかった。徳川家康と石田三成が争った「関ヶ原の戦い」において、忠興は家康の東軍に着いたが、ガラシャは大坂にいた。そして、石田方によって人質に取られそうになるや、彼女は家臣に命じて自らを殺害させたのである。人質として夫の邪魔になるのは避けたいが、かといってキリシタンは自決もできぬ。故に選んだ最期だった。 彼女の壮絶な生と死は日本ではもちろん、ヨーロッパでも伝説になった。その死が殉教として認められただけでなく、17世紀の終わり頃に神聖ローマ帝国で彼女をモデルにしたオペラが演じられ…

【江戸時代のお家騒動】筒井騒動 改易のウラには家康による深謀遠慮があった!

…軍する。家康は西軍の石田三成が兵を挙げる直前、会津の上杉氏征伐に赴いているが、ここに定次も従っていたのだ。しかしそれにより城主の不在となった上野城は、あっさりと三成方の新庄直頼・直定父子に明け渡されてしまった。これを知った定次は家康の許可を得て、急いで伊賀へと引き返す。領民も群れを作って新庄父子に対抗し、この助けを借りて定次は上野城を奪還することに成功した。 その間に関ヶ原では決戦が行われ、戦いは家康の東軍勝利で幕を閉じた。ところが、この関ヶ原の戦いの勝敗が、定次にとっての悲…

【江戸時代のお家騒動】蒲生騒動 藩主夭逝が藩内の混乱を招く悪循環

…、郷安が秀吉の重臣・石田三成に助けを求めたことから、事件は豊臣政権の知るところとなった。後見人の家康の助言により騒動はそれ以上膨らむことはなかったが、怒りのおさまらなかった秀隆によって郷安は退けられ、加藤清正のもとへ身柄を預けられることに。また、秀隆はこのような内紛を引き起こしたことを秀吉に咎められ、宇都宮への転封が決まったのだった。 しかし、秀隆の転封についてはじつは別の理由があったとされる。それが、亡くなった氏郷の妻・冬姫に関するものだ。信長の娘である冬姫は、若い頃から美…

【江戸時代のお家騒動】最上騒動 3代にわたる改易への根深い藩内対立

…原の戦いの前に密かに石田三成と通じており、主家を転覆させれば出羽一国を与えるという密約を交わしていた、などとも言われているが、真相はわかっていない。 里見と原が、義光・義康父子の仲を裂こうとしたのは間違いないようで、それぞれ相手のことを讒言するという方法で互いに憎みあうよう仕向けたのだった。決定的な要因となったのは、義康が酒宴を開いて踊った際に、脇差しが彼の左の股に触れて小さな傷を負った。この傷について、里見が「家督をなかなか譲られないことに憤り、切腹をはかろうとした」などと…

【江戸時代のお家騒動】大谷吉継による家臣団継承 越前国5万石の民生安定

… 大谷吉継といえば、石田三成との友情に殉じたという清廉な生き方で人気の高い武将のひとりだ。刑部少輔に任じられたことから「大谷刑部」という呼び方でも知られている。実は彼も、騒動抜きで大名家を吸収しているのをご存知だろうか。 一般的に、彼は豊後の大友宗麟に仕えていた大谷盛治の子だとされている。しかし彼の出自には諸説あり、近江国出身とするのが有力だとも言われていて、定かでない。彼が初めて史料に登場するのは、19歳の時である。16歳の頃より羽柴秀吉に仕えていたとされる吉継は、馬廻衆と…

【戦国軍師入門】5.戦わずして勝つ、軍師の手腕

…で文官として栄達した石田三成が、その領地のほとんどを島左近をはじめとする武将に与えたのも、戦地においては自らが信用されないということがわかっていたからだろう。だからこそ、優秀な武将を高禄で迎え入れたのだ。 石田三成がこうして出世できたのは、既に戦乱が収まりかけていた時代の人間だったからだ。実際、彼は秀吉に逆らう諸大名がいなくなったあとに、その参謀的存在として大きな力を振るうようになった。しかし、戦乱真っ只中の頃は、三成のように文官として優秀だった人物がその能力を生かせず、歴史…

田辺城 栄光と転落

…くなり、秀吉の忠臣・石田三成らとの間に軋轢が生じていた。家康が上洛命令に応じない上杉景勝討伐のために大坂を発って会津を目指すと、佐和山にいた石田三成が挙兵し、両者は東軍西軍に分かれて関ヶ原で雌雄を決することとなる。その決戦の少し前、西軍・石田三成は東軍の家康に味方した武将たちの妻子を人質にとり、東軍の動きを鈍らせようと画策した。その妻子の中にガラシャ夫人がいたが、彼女は夫の邪魔をしてはならないと自ら命を絶っている。 作戦の失敗による怒りもあったのか、西軍は東軍に味方した田辺城…

長谷堂城 最上氏を守った堅牢な城

…後、五奉行のひとり・石田三成が家康を打つべく挙兵した。秀吉の遺命を守る三成と、天下人になろうとする家康の確執が表面化したわけだ。挙兵を知った家康は下野国小山(現在の栃木県)で引き返し、両者は関ヶ原で激突することになる。 その間、各地でも東軍西軍に分かれての争いが行われており、長谷堂城(山形市長谷堂)での戦いもそのひとつであった。元々、山形城主最上義光は家康には批判的で、景勝に賛同する立場であった。しかし、東軍が有利な状況を知って家康に与した。その態度に怒った景勝は家臣の直江兼…

【全国の武将印リストつき】御城印に続け! 2020年は武将印の年になるのか?

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3.江戸幕府における譜代大名の役割

…いて西軍の旗印だった石田三成の本拠地である。豊臣家はまだ健在で、そちらへの備えが必要だった。豊臣政権の重要人物だった三成の居城を押さえ、東軍の勝利を知らしめる必要があったのだ。一方の桑名は東濃地方有数の商業都市で、木曾木材の集散地と東海道の宿場町を兼ね、堺や博多と並ぶほど発展していた。徳川家が全国支配の基礎を固めるためには必要不可欠な都市だった。 こうして徳川家は旧来の所領であった東海地域を取り戻し、御三家のひとつである尾張徳川家による支配体制を築く。関東から東海地域までを固…

2.譜代家臣団の成立

…さどる五奉行の1人、石田三成と深刻な対立を招くことになる。1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」が起こり、家康率いる東軍は三成の西軍を打倒、天下の覇権を掌握した。1603年(慶長8年)には征夷大将軍に任じられ、晴れて江戸幕府を開くに至る。 家康はその2年後に、将軍職を子の秀忠にゆずっている。自身は大御所として控え、徳川家による支配体制を固めるために尽力した。1614年(慶長19年)には「大坂冬の陣」、翌年には「大坂夏の陣」があり、豊臣家が滅亡する。これにより、江戸幕府の支配…

2.織豊政権期のパラダイム転換

…かっただろう。秀吉が石田三成を始めとする五奉行によって中央集権的な政治体制の確立を目指す一方で、徳川家康を始めとする有力大名を五大老として政権に組み込んで自分の死後の政権運営を託したことにも、このような「諸大名を統制しなくてはならないが、一方で彼らの意志を完全に無視するわけにはいかない」という、まだ戦国の乱世が終わりきっていない、微妙な時代の空気が背景としてあったのではないか。それでも、それぞれ独自勢力として活動していた戦国大名たちが、中央政権の支配下に入り、多種多様な干渉を…

明智光秀ゆかりの地おすすめ19選

…的に対戦相手であった石田三成を悪人に仕立て上げ、いかに自分が正しいかを主張し英雄であるかのように情報操作をしていたと今では分かってきています。いわゆる「勝てば官軍」というものです。明智光秀もそうされてしまったのではないでしょうか。 光秀が誠実で正しい行動の上で立派に信長を討ったとしたら、一番困る人物は誰だろう。 逆に光秀が謀叛を起こして悪者になることで一番得をした人物は誰だろう。そんなことを考えると、やはりどうしても秀吉が黒幕だったという説はいつになっても消えることはないので…

伊達政宗ゆかりの地おすすめ25選(居城・古戦場・墓所など)

…います。豊臣家恩顧の石田三成らは猛反発したようです。さらに家康は会津の上杉景勝を討伐するためと軍を発し、政宗もこれに従い戦が勃発します。家康が機内から離れている隙をついて日頃から家康に反感を抱いていた石田三成らが毛利輝元を総大将として家康に対して挙兵します。1600年、これが世に言う「関ヶ原の戦い」のきっかけとなります。 上杉と戦っていた家康はここぞとばかりに石田三成を討つべく機内へ戻り、関ヶ原にて西軍と東軍が激突します。 その時、政宗率いる伊達軍は「長谷堂の戦い」で最上義光…

琉球版・麒麟がくる!? 阿麻和利の居城・勝連グスクを取材してきました

…においても明智光秀や石田三成は悪人として伝えられてきました。また光秀を悪人に仕立て上げた豊臣秀吉でさえ、のちの徳川には否定されるわけで(さらにいうと明治維新によってその徳川も否定されます)、歴史というものは過去の否定の上に築かれてきたということもできます。 まず通説についておさらいしておくと、琉球王国の正史では阿麻和利はクーデターを企てて琉球王府によって攻め滅ぼされた悪人として記録されています。また護佐丸についても、阿麻和利の讒訴によって自害に追い込まれたものの、謀反の心はな…

舅を追い返した小松姫

…諸大名が家康の東軍と石田三成の西軍に別れて争うようになると、小松姫の嫁いだ真田氏は東西両軍に分裂してしまった。信之は東軍に、昌幸と次男の信繁は西軍に、という具合である。そんな中、信之不在の沼田城を守る小松姫のところに、昌幸たちがやってきた。家族とはいえもはや敵、城をのっとってしまおうという思惑があったものと考えられる。 これに決然と立ち向かったのが小松姫であった。自ら鎧を身にまとって舅や義弟の入城を防ぎ、しかしその一方で「孫の顔が見たい」という昌幸の願いには女性らしい心遣いで…

加藤清正の虎退治

…その運命は暗転する。石田三成・小西行長といった外交や補給を担当する文官たちとの折り合いが悪く、ついに朝鮮から引き戻されて蟄居することになってしまったのだ。このときの対立が尾を引き、ついには秀吉死後の豊臣家中分裂につながったという見方もある。 戦場の勇者といえど、時代が太平に近づきつつあったころには何もかもその槍で手に入れられるわけではない――虎退治に代表される清正の朝鮮出兵エピソードが、その冷たい現実を象徴しているように思えるのは私だけだろうか。 初出:『歴史人』ウェブサイト…

大谷吉継、関ヶ原にて奮戦す

…臣政権での同僚である石田三成との友人関係もよく知られているが、豊臣秀吉死後の天下の動きについては「徳川家康が有利」と見ていたらしい。そのため、関ヶ原に先立つ上杉征伐に合流するつもりで兵を進めているし、途中で三成に呼ばれて挙兵計画を聞かされた際にも断固反対を唱えている。それでも最終的に折れ、三成に味方することにしたのは、豊臣氏への忠誠心ゆえか、三成との友情に殉じるつもりだったのか。 ともあれ、西軍に与した吉継は、関ヶ原の戦いにおいては小早川秀秋が陣取った松尾山と、笹尾山に本陣を…

家のためか、信仰のためか? 細川ガラシャの死

…家康不在を好機と見た石田三成が挙兵し、関ヶ原の役が始まる。 三成はさっそく彼女たちを人質として活用するべく、まず最初にガラシャに対して「大坂城にくるように」と使者を送った。名門・細川氏を押さえることの意味も大きかったろう。これに対し、ガラシャは断固拒否の態度をとった。出発前の忠興が「人質にならないよう気をつけろ」と注意を促していた、ともいう。 家臣は脱出も促したがガラシャは首を振らず、ついに三成の手勢が屋敷を囲むと、娘たちを逃した上で驚くべき行動に出た。なんと家臣に長刀で自分…

【戦国合戦こぼれ話】忍城攻防戦、甲斐姫の奮戦

…秀な部下として名高い石田三成が攻めてくる。忍城が水城であったことから、三成は秀吉が織田信長に仕えていた時代、備中高松城を落とすのに使った水攻めを試みた。ちょうど梅雨時でもあったし、この作戦は成功するかと思いきや、痛い目を見たのは三成の方であった。堤防を築いて川をせき止めたはいいものの、その堤防が決壊して兵数百人が溺死。しかし忍城は周囲で一番高い場所にあったために被害を受けることはなかったのである。 面子を潰された秀吉勢は、その兵力をもってして今度は強引に城に突撃することに。集…

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