攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

調査 の検索結果:

平賀源内という男

…学んでいた。本草学は調査・発見・工夫の学問であり、源内はこの学問について研究する中で薬の発見などを行なっている。そこから発明家的な業績を残したという部分も大きいだろう。 なお、フィクションの中で本草学者としての源内に注目されるケースは古い作品では少ない。しかし『大奥』の源内は本草学者として描かれていて、それはやっぱり新しい作品だからではないか。 源内はいわば発明家のアイコン的な存在であるため、しばしば時代や世界を飛び越えてフィクションに登場することがある。その時はモデルとして…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編♯6】

…く建てられた際に発掘調査されたみたいで、いろんなものが出て来ているようです。粘土の中から保存状態のよい漆椀とか出てきていて、なんだかワクワクします。 www.nhk.or.jp 小田原城の城もなか 「もなか」(清月菓子店) 150円 皮は、定番の三層角右寄り型。瓦の筋や壁面の出っ張りなど細かい部分がわかる、比較的精密な皮です。 パッケージは透明なプラスチックの袋に「城下町小田原」と書かれて、清月さんの印が添えられているオリジナルのシールが貼られています。三つ鱗の家紋が背景にあ…

城葱さんの「城もなか」道中記【鳥取・島根編】

…定の話なので未確認。調査が必要ですが、鳥取城にまた行ったら寄って確認してみたいと思います!!(鳥取城を訪問してお店に寄られた方がおられたら情報待ってますー) 甘味屋鳥取店(鳥取県鳥取市末広温泉町128)営業時間 10:00~19:00(祝日17:00まで) / 定休日 不定 / 電話 0857-36-1515 collection.kojodan.jp 河原城への城攻め ちょうどメインのアクセス道が工事中でしたが、麓からの自然豊かな遊歩道から攻め入りました!なかなか高低差あり…

【現在1766城!】全国の御城印(お城版の御朱印)を販売しているお城の一覧

…ているお城についての調査をおこないましたので、以下にまとめます。 御城印とはお城版の御朱印みたいなもの 見た目は御朱印と似ていますが、ほとんどの御城印は半紙(和紙)の中央に城名が書かれ、そこに城主の家紋が朱印されています。なおいくつかのお城では誤解を招かないように、あえて(御朱印とまちがいやすい)御城印という名称を使わないようにしています。たとえば松本城では「登閣記念証」、国吉城では「御城朱印」と呼んでおり、ほかにも各地で「お城御朱印」「来城記念符」「登城記念証」「登城記念符…

攻城団のみんなが今年訪問したお城と高評価だったお城

…ャーなお城は入城者数調査でも上位に入ってますし毎年のようにランクインしているのですが、今年はやっぱり大河ドラマのおかげでランキングが変動していて楽しいですね。(ちなみに去年は姫路城、松本城、名古屋城が、一昨年は彦根城、名古屋城、姫路城がトップ3でした) で、これは訪問回数でのランキングなので、今回のテーマである「オススメ」とはちょっとちがいます。なのでみんなが攻城記録を残す際に入力してくれた評価点(5点満点)をデータベースから抽出して、その平均値をもとにランキングをつくってみ…

石川県立歴史博物館で開催中の特別展「御殿の美」を取材してきました

…十間長屋の前では発掘調査がおこなわれています。 復元整備は段階的に行われる予定で(このあたりは名古屋城本丸御殿に近い)最初は入口付近(玄関・式台・実検の間・虎の間)が対象となっています。 金沢城は加賀藩前田家の居城であることは有名ですが、どんなお城だったかについては意外と知らない方も多いと思います。ぼくも今回までよく知らなかったのですが、もともとは多くのお城と同じように本丸に天守と御殿があったそうです。それが(これもあるあるですが)天守は落雷で焼失、またその後に本丸御殿も火災…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】読者からの質問とその回答

….陣屋の発掘や文献の調査で、一番、びっくりしたことを教えて下さい(河内守泰吉さん) この5年間の研究ではずっとびっくりさせられっぱなしなのですが(笑)、中でも一番の驚きがあったは、現存する遺構の考古学(遺っている物質資料=「もの」を調べることにより人類の活動を探る歴史研究の手法)的な分析から導き出した星形本陣の幾何学的な設計構造が、当時のヨーロッパにおける稜堡式堡塁の設計の基礎となる定理と一致した時ですね。 この一致はさらに具体的なテキスト(サヴァール教本)の同定、さらには星…

城葱さんの「城もなか」道中記【九州編】

…、宮崎県教育庁文化課調査報告書や宮崎市天ヶ城歴史民俗資料館展示、天ヶ城公園見取り図(現地説明版) より) 「天ケ城もなか」(天ケ城茶屋) 140円 皮は、定番の三層角右寄り型です。謎の色違いの線はここにもありました。今回は、天守の角に沿うように斜めに入っています。皮を焼く時の焼き型の深いところになる部分ということが発生に関係しているのか……? いい加減調べろよ! と重い腰を上げてみたら、意外と簡単に色違いの線の発生理由と思われるものにたどりつきました。もなかの皮の原料はもちで…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】5.おわりに

…。しかしここ5ヶ年の調査研究により、この城が、洋式軍学の定理・理論を柔軟に理解かつ咀嚼しかつ当時世界の軍事の前提となりつつあった砲戦による火制範囲を組み込んだ「優位先奪」「陣前減滅」を可能とする防衛構造を本邦で初めて実現し、かつ拠点としてヴォーバン以来の稜堡式星形堡塁を備えた、文字通りの「日本最初の星の城」であったことが判明しつつあります。 これらについては、いまだ調査研究の余地があります。今後も、その真価を探るためのアプローチを続け、その成果を皆様に紹介していければ幸いです…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-3.「日本最初の星の城」の原典への旅(3)-「野崎の丘」に実を結んだ19世紀フランス「砲戦の時代」の防衛構造・戸切地陣屋-

…いるのか。時田さんの調査によれば城が築かれた「野崎の丘」の自然地形もうまく活用し、かなり正確に再現していると言えるそうです。 前回の記事:3-2.「日本最初の星の城」の原典への旅(2)-戸切地陣屋の基礎テキスト「サヴァール教本」とその時代的背景- では、サヴァール教本の内容と戸切地陣屋の構造とを、実際に見比べていきましょう。 まずは星形本陣からです。サヴァール教本の全313章から「Gebastioneerde Forten(稜堡式要塞)」の設計・解説を行っている章(116・1…

諏訪原城~武田・徳川が奪い合った数奇な山城~

…れた諏訪原城跡の発掘調査では、現在諏訪原城跡にて確認できる堀などの遺構は、ほとんど家康が新たに作らせたものであることが判明しました。家康が「丸馬出」をはじめとする武田流築城術を用いて、牧野城として強化したことは、諏訪原城に戦略的価値を見出していた何よりの証拠であると言えます。 さらに家康は、1576年(天正4年)に今川氏真を牧野城に入城させています。諏訪原城攻めの際の従軍と同様、駿河侵攻の旗印として氏真を利用したものと思われます。 しかし、1590年(天正18年)の北条氏滅亡…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】3-1.「日本最初の星の城」の原典への旅(1)-戸切地陣屋へと連なる「星の城の系譜」…パガン、ヴォーバン、そしてサヴァール-

…り得たのかについても調査がおこなわれ、オランダ語に翻訳されていた文献が特定できたそうです。すごい。 前回の記事:2.「日本最初の星の城」戸切地陣屋の防衛構造の概略 これまで、日本における星形城郭・台場(五稜郭・戸切地陣屋、あるいは四稜郭など)について、その特徴的な形状から西洋の稜堡式築城術に基づくものであるということは言われても、その原典……一体どのようなテキストの、どのような理論および技術体系に則って造られたか……についての具体を明らかにしようとするアプローチはほぼ皆無であ…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】1-2.戸切地陣屋ができるまで(2)-北の守人(もりびと)、父・藤原正蔵と息子・藤原重太(主馬)-

…研究と併行して行った調査により、その歴史的事績が徐々に明らかになってきました(特に父・正蔵に関してはここ1年の研究成果が非常に大きいです)。ここでは、それらについて簡単にご紹介しましょう。 主馬の父・藤原正蔵は、1787年(天明7年)に杉村治孝(すぎむら はるたか)の三男として生まれ、1802年(享和2年)に藤原庫蔵(ふじわら くらぞう)の養子となりその家を継ぎます。しかし、先述した松前家の梁川移封により、他の藩士とともに禄を失います。 その後浪人時代に諸学を修め、砲術家・赤…

【日本最初の星形城郭・戸切地陣屋の再評価】はじめに

…年度から継続してきた調査研究の中で徐々に明らかになってきた、戸切地陣屋の「日本最初の星の城(星形城郭)」としての所見をお伝えするともに、それをもってみなさまに戸切地陣屋の真価をお伝えできればと思います。 次回の記事:1-1.戸切地陣屋ができるまで(1)-「北方防衛」と松前藩の歴史と、英主・松前崇広の登場- 戸切地陣屋についての質問を募集中 この連載を読んで戸切地陣屋に興味を持った方も多いと思います。時田学芸員に聞いてみたいことがあれば以下のフォームから質問を送ってください。後…

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

…主に関する資料や発掘調査による知見などを見直し、安土城復元という課題を深めていくことが目的とされました。 セミナーのプログラムは3部・7部門からなり、それぞれの部門において専門の先生方による講演がありました。今回はそれらの内容を要約するとともに、セミナーを拝聴した筆者自身が考えたことについてまとめていきたいと思います。 第1部「安土城天主の復元研究」について ①「安土城天主の復元研究史」木戸雅寿先生 まず初めに滋賀県文化スポーツ部文化財保護課参事員の木戸雅寿先生による、当セミ…

【家康の謎】いわゆる「三英傑」って誰が決めたの?

…愛知のテレビ局が最近調査したところによると、この呼び名は東海地方だけで流通している可能性がある。新幹線の駅ごとに調査したところ、東は静岡で、西は岐阜と滋賀の境目あたりが限界で、それより先ではそれぞれ調査した10人のうち過半数が三英傑の名前を答えられないという結果が出た、という。とはいえ、近年は大河ドラマで戦国時代後期をテーマに扱うたびに「三英傑」というワードが出てくるのが常態化しているため、他地方の方でもご存知の向きが多いだろうとは思うが(ましてや、攻城団のウェブサイトを見に…

四百年遠忌記念特別展「大名茶人 織田有楽斎」のプレス内覧会に参加してきました

…けて京都文化博物館で調査された結果、どうやらこの悪評は江戸時代初期に書かれた『義残後覚(ぎざんこうかく)』が初出らしいのです。 加賀中央図書館が所有するものが第1部に展示されています。 「織田家の悪口に満ちている本」と西山学芸員は紹介されていましたが、Wikipediaにも「豊臣秀吉に関しては絶賛に近い形で紹介されるが、織田信長については酷評されている」と紹介されてますね。ゲームでは謎のキャラクターとしてよく出てくる幻術師・果心居士の記述もあるようで、たしかにうさんくさい系の…

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館へ行ってきました

…す。 建設の際の発掘調査で発見された川湊「一乗の入江」の一角と推定される遺構をそのまま露出展示するなど、いろんな点で最先端の博物館でした。もちろん常設展には一乗谷朝倉氏遺跡で見つかった国指定重要文化財を多数含む約500点の出土品や城下町を再現した巨大ジオラマもあり、朝倉氏の歴史についてたっぷりと学べる展示内容となっています。(さらに訪問時は特別展も開催中でした) 瀬戸さんに館内を案内してもらった 今回は博物館団体ガイド(4000円)に申し込んで対応していただきました。このガイ…

城葱さんの「城もなか」道中記【関東編#4】

…らば、保存や歴史的な調査などにも前向きに、積極的になってくれる、そんな気もするわけです。想いですけどね、想い。 おっと……。もっと自由な発想で城もなかが生まれてほしい、せっかくの城もなかをなくししたくないという親心が以前も言ってたようなことをくだくだ語ってしまいました(汗)まぁ「城もなかの形はイメージです。実は土のお城です」みたいなことをお店やパッケージに書いてあるほうがいいかもしれませんね。模擬天守でもたまに解説してあるけど。 時を戻しましょう。 あんは、粒あん。最大の特徴…

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…みたところ、過去にも調査したのだけどわからないという答えでした。どうやら『戦国史城 高天神の跡を尋ねて』(昭和63年発行)という書籍に「遠州を制せんとせば、まず高天神を制すべし。高天神を制せずして、遠州を制すること能わず。」と記載されているので、それが広まったのではないかとのことでした。(お忙しい中ご回答いただきありがとうございました) 戦国時代ではなく昭和の本の言葉が流布しているのだとしたら驚きですが、おそらくこの本もなにかの資料を参考にしているはずなので、もし出典をご存じ…

知ってる? 水野勝成

…きます。 ※個人的に調査した結果をまとめたもので、100%の信憑性を保証できないこと、非歴史オタクが、自分が咀嚼しやすいように砕けた文章でまとめていることご了承ください。 水野勝成のプロフィール 水野 勝成(みずの かつなり) 1564年(永禄7年)生まれ 刈谷(愛知県)出身 家康のいとこ 初代福山藩主 水野勝成のエピソードあれこれ その1. 16歳の初陣で15の首級 この時の戦果であの信長から感状を与えられる。普通は初陣で15も首級を上げるなんて無茶はしない。今で言うとイン…

しぇるふぁさんによるJR福山駅から見る福山城の検証レポート

…、実際に現地に行って調査してみました。 福山駅構内の案内&入場きっぷの購入方法 こちらが福山駅の北口エントランス。福山城の石垣の模したデザインになっていますね。福山城は撮影方向の後ろ側にあります。ちなみに、左手すぐにあるサンマルクカフェでは、月見櫓を眺めながらコーヒーや朝食を頂けるのでオススメです。(実際に私も福山城攻城時に立ち寄って朝食を頂きました) 駅構内の改札口・きっぷ売り場まではエントランスに入ってすぐです。まっすぐ一直線なのでわかりやすいです。また、左手には福山市の…

【サイン本プレゼントあり】「ぶらり真田家ゆかりの31城跡めぐり」のご紹介

…に新たに分かった発掘調査結果(沼田城、岩櫃城)の新情報も掲載。城跡古地図(戸石米山城、沼田城、松代城、上田城、岩櫃城、真田丸)を随所に掲載しているので、実際に現地へ行った際には、本を見ながら痕跡探しを楽しめます。取材班が現地で見つけた、おすすめのグルメや温泉、博物館や観光施設なども掲載。珍しい城の軍編成を記載した『八幡山番帳』、『九度山からの真田昌幸書状』、『沼田攻略を武田勝頼が褒めた書状』、『真田信綱の血染めの陣羽織』、『外国人が見た大坂城落城図』など貴重な史料画像も掲載。…

【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

…和郡山城天守台の発掘調査によると天守台は8間×7間(約17m×15m)であり、天守中央部の身舎(もや)は4間×3間(約8.5m×6.5m)でした。さらに、その後に再移築された淀城天守台の礎石の広さもほとんどおなじであることから、二条城天守の広さも変化なく同じであったと考えられます。石垣の石材については発掘調査の結果で古いことがわかっており、聚楽第の旧材が再利用されたと考えられます。 編集部注 この天守台移築説には異論もあります 天守の姿を屏風から読み解くと、壁は白漆喰で塗りこ…

【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

…ょうか。天守台の発掘調査や門や櫓の復元によって新たな事実が判明している駿府城で家康の考えをのぞいてみましょう。 家康にとっての駿府城 家康は駿府城を築城し、晩年を駿府で過ごした 駿府城と家康のかかわりは二つあります。一つは駿府城を築城した天正期と、もう一つは将軍職を譲った後の1607年(慶長12年)以降(慶長期)です。現在、駿府城公園にみられる堀をはじめとする遺構や復元された門・櫓などは慶長期以降のものです。慶長期以降のものは後述するとして、ここでは天正期に駿府城を築城するに…

「西方城跡シンポジウム~ここまでわかった西方城~」開催報告

…名の発表者が、①発掘調査の成果 ②文献資料からみた西方氏と西方城 ③西方城の構造と変遷 と題した調査の成果報告をしました。その後、専門者会議のメンバーによる討論会「西方城跡の調査からわかったこと」を行いました。 ロビーでは城館関連書籍の販売や、栃木図書館による郷土史関係資料の展示のほか、チラシコーナーを設け、会場は大変賑わいました。皆さまには今回のシンポジウムで、西方城についてより知っていただけたら嬉しいです! 攻城団の皆さま、攻城団の情報を見て足を運んでくださった皆さまに、…

名古屋城で開催中の企画展「初公開 門外不出 巨大杉戸絵」取材レポート

…応くださった名古屋城調査研究センターの朝日さん、今和泉さん、どうもありがとうございました。 おまけ 取材終了後に無人の企画展示室内を360度撮影させていただきました。スマホならスワイプで、PCブラウザならマウス操作で上下左右自由に視点を変更できるので楽しんでください。 www.youtube.com 本丸御殿の360度動画もアップしたので、杉戸絵の場所を確認してみてください。 www.youtube.com また西の丸御蔵城宝館に入ってすぐのところ、歴史情報ルームに発掘調査成…

ガイドブック「国指定史跡 柏木城跡」のご紹介

…跡の特徴や史跡の発掘調査などをまとめたガイドブックを作成されたということで、攻城団の読者向けプレゼント用に3冊ご提供いただきました。 さっそく中身も拝見しましたが、A4サイズでフルカラー、16ページとなっています。発掘調査の様子や出土品の写真も豊富で、柏木城が築かれた背景やその性格などもわかりやすく解説されています。 なおこのガイドブックは北塩原村の生涯学習センターなどで無料配布されていますので、この機会に訪問されてはいかがでしょうか。いずれにしても訪問前の予習に最適な1冊だ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑩――戦うことなく炎に消えた城・安土城

…とは思えない。近年の調査で、城下町全体を囲む「惣構」の土塁らしきものが描かれた絵図も見つかっている。この城は、その美しさに違わぬ堅牢さを発揮しただろう――もし、戦う機会が来たのならば。 実際のところ、その時は結局こなかったのである。安土城は織田政権が天下を統一するより早く、失われてしまった。1582年(天正10年)、信長は本能寺の変で倒れ、それからあまり時をおかずして安土城も炎上してしまった。信長の息子・信雄が謀反人と戦っている中でうっかり火がついてしまった、いいや信雄は自ら…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城造りと信心

…あろう例は実際の発掘調査で見つかっているため、そのような概念が実際にあったことは間違いないだろう。 このような築城と呪術のかかわりあいを象徴するのが軍師の存在だ。私たちは軍師といえば『三国志演義』の諸葛亮に代表されるような天才的策略家をイメージするし、戦国時代にも同じような意味での軍師が多くいたかのように思ってしまいがちだ。しかし、そのイメージは江戸時代に軍楽や軍記物が流行してから形作られたもの、という部分が大きいようだ。もちろん、各種の策略を考える軍師もいたろうが、それは彼…

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