攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

美濃 の検索結果:

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…年) 土岐康行の乱 美濃の守護大名・土岐康行が室町幕府に討伐された事件。3代将軍・足利義満は有力守護大名の弱体化と将軍権力の強化を図っていた 室町時代 1391年(明徳2年) 明徳の乱 山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱。結果、11か国の守護領国を誇り「六分一殿」と呼ばれた山名氏の所領はわずか3か国に 室町時代 1395年(応永2年)〜1396年(応永3年) 田村庄司の乱 田村則義・清包父子一族によって起こされた鎌倉府に対する反乱。「小山氏の乱」の一環と…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…る西軍が激突したのは美濃国関ヶ原の地であった。この時、西軍は兵力で勝り、かつ戦場においても盆地の東軍を周囲の山に登って取り囲む必勝の陣形を組んだ。にもかかわらず、勝利したのは東軍であった。西軍側の小早川秀秋が裏切り、また吉川広家ら毛利軍(輝元は大坂城にいた)が戦いに参加しなかったからだ。 家康と三成、その勝敗を分けたのは何だったのか。家康は戦いに先立って諸大名に数多くの書状を出し、恩賞を餌に味方へ引き入れた。合戦での裏切りも、こうした事前工作の賜物である。対して三成が出した手…

【クーデターで読み解く日本史】有力守護大名を弱体化させた義満の策略――土岐康行の乱

…)が亡くなった父から美濃・尾張・伊勢の守護職を継承する予定だったところ、義満がこれに首をつっこんで、尾張守護のみ弟の土岐満貞(とき みつさだ)のものとしたのである。こんなことをすれば、兄弟が争わないはずがない。そもそも満貞には兄を倒そうという野心があり、従兄弟の尾張守護代・土岐詮直(とき あきなお/のりなお)について将軍に色々と議言して、兄と従兄弟をともに反逆者に貶めてその地位を奪おうとしていた、とする説もある。 満貞の思惑はともかく、1388年(嘉慶2年)に守護として尾張に…

【クーデターで読み解く日本史】源氏が東国に基盤を築いた事件――平忠常の乱

…。二年にもわたる泥沼の内乱から、なぜこのようにスピード解決が果たされたのか。これはその二年の泥沼自体が原因であったらしい。房総地域はすっかり荒れ果ててしまい、人の心も忠常から離れていた。これではもう戦えない、という判断だったようなのである。 頼信は摂津源氏でも傍流の人間だったが、この戦いを契機に関東の武士たちに対して影響力を持つようになり、また京に近く東国にも睨みを利かせられる美濃守に任じられてこの地に自らの基盤を構築していく。この一件は源氏の東国進出の端緒となったのである。

【クーデターで読み解く日本史】叔父 vs 甥の裏に隠された敗者の思惑――壬申の乱

…の勢力ヘ呼びかけつつ美濃の野上に入り、ここを拠点に兵を集めた。一方、その動きを察知した大友皇子ら朝廷側も慌てて戦力を確保しようとするが、大海人皇子に先を越されてしまって十分な増強ができなかった。 そもそも、この戦いは単に皇位継承をめぐる叔父と甥の争いという単純な構造ではなく、背後には豪族たちの思惑があった。大化の改新以降の改革で政治から遠ざけられ、特権も失った地方豪族たちがいれば、朝廷の命で朝鮮と戦って大敗した663年(天智2年)の「白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はく…

【サイン本プレゼントあり】「ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城」のご紹介

…れている甲斐御坂城、美濃大森城、伊豆下田城のサンプル画像をいただいたのですが、お城というものがその場所の地形を活かして築かれていることがよくわかりますよね。 今回はこの「ワイド&パノラマ 鳥瞰・復元イラスト 戦国の城」を株式会社ワン・パブリッシングさんより1冊プレゼントとしてご提供いただきました!(しかも香川先生のサイン入りです!)応募は簡単にできますので、みなさんふるってご応募ください。 最後にこの書籍の担当編集者さんと著者の香川先生からメッセージをいただいたので、それぞれ…

【殿様の左遷栄転物語】尾張藩付家老と水戸藩付家老

…・佐々木氏の流れで、美濃の国人であった。竹腰正信の母・お亀の方が家康の寵愛を受けた側室であり、義直を産んだこともあって、異父兄となった正信もまた家康の寵愛を受けることになった。駿府城が火事で焼け落ちた際には真っ先に駆けつけて家康を救い、一晩とはいえ主君を宿泊させたという逸話があり、彼と家康の強い結びつきを感じることができよう。 正信もまた駿府城での大御所政治にかかわったが、これは「見習い」のような立場であったらしい。異父弟である義直を補佐するための勉強として、優秀な行政官僚た…

【殿様の左遷栄転物語】藩主の乱心で改易 津山藩森家

…む一族で、うち一流が美濃国に入って守護の土岐家に仕え、森可成の代に信長の家臣となる。長男の長可(次男とも)は「鬼武蔵」と呼ばれるほどの武勇の将であり、その弟の蘭丸は信長のそば近くに仕えた、というわけだ。 しかし蘭丸は信長とともに死に、長可は羽柴秀吉についたものの討ち死にしたので、森家を継いだのは末弟の忠政だった。豊臣政権では美濃国金山に7万石を与えられ、関ヶ原の戦いでは東軍に従った功績で美作一国である18万6千石余を与えられた。津山藩の始まりである。 森忠政にはふたりの息子が…

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名① 小田原藩大久保家

…職は加増を受けながら美濃国加納藩や播磨国明石藩に転封をくり返した。 そして大久保家改易ののちに小田原藩に入っていた阿部家、稲葉家が転封となると、忠職の養子・忠朝の代でついに小田原藩に返り咲いたのだった。これが1686年(貞享3年)のことであった。この後、大久保家は小田原藩に根を下ろし、明治維新までここをおさめることとなる。 ちなみに、「天下のご意見番」として知られる講談や時代劇のヒーロー、大久保彦左衛門は忠隣の叔父にあたる。彼は正信ら文治派によって日陰に追いやられた忠隣や自ら…

【殿様の左遷栄転物語】死後に仕掛けられた罠 加藤清正

…加藤家は、その子孫が美濃に下った際に「加藤武者」と称したのが始まりとされているが、確証はない。その後、11代・清忠が秀吉の母の従姉妹と結婚したため、息子の清正が秀吉のもとに預けられ、子飼いの家臣となったという。秀吉との姻戚関係についてもハッキリとわかっているわけではないのだが、清正が幼少期から秀吉に従い、成り上がり者であるために先祖代々の譜代を持たない秀吉の子飼いとなり、多くの功績を立てたことは間違いない。 豊臣政権において、清正は肥後国の熊本に19万5千石余を与えられた。も…

【殿様の左遷栄転物語】天下無敵の勇将 立花宗茂

…。 とはいえ、宗茂は美濃国は関ヶ原での決戦には参加しなかった。東軍側についた京極高次(淀殿の妹・お初の夫として有名)の籠もる大津城攻略に参加していたからである。この城が落ちたのと関ヶ原の戦いの終結は同日(9月15日)であった。三成が敗れたことを知った宗茂は豊臣家の本拠地である大坂城に入り、徹底抗戦を主張したものの受け入れられず、やむなく九州へ戻って柳川城に籠もった。 九州では立花家の旧主人である大友義統(宗麟の子)が、西軍側について兵を挙げていたもののすでに敗れていた。宗茂の…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…を旗印に挙兵。両軍は美濃国・関ヶ原で激突した。天下分け目の「関ヶ原の戦い」である。このときは兵力で三成方(西軍)が勝り、兵の配置でも家康方(東軍)を取り囲んで圧倒的に有利と思われた。しかし、実際に戦いが始まると、東軍の背後に陣取った毛利勢は最後まで動かず、横を突くはずだった小早川秀秋の軍勢は味方の西軍に向かって突撃、それで決着がついた。家康はあらかじめ裏切り工作を仕掛けていたのである。 ついに神となった男 戦後、家康は西軍側についた大名を改易・減封し、東軍側の大名の所領を増や…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府15代・足利義昭――信長に縛られた、最後の将軍 1537年~1597年

…である。信長は前年に美濃を平定し、次は上洛に踏み出そうとしていた。そこで、「義昭を将軍にする」という大義名分を立てようとしたわけだ。一向に動く気配を見せない義景に焦っていた義昭は、この信長の申し出に飛びつく。かくして、信長&義昭の上洛戦が始まる。途中、三好三人衆と組んだ近江の六角氏が立ちはだかったものの撃退し、ついに京へ入る。この上洛の途中、14代将軍・義栄が病死していたこともあって、義昭にとって兄の仇である久秀もあっさり降伏している。 入京の翌月、義昭は征夷大将軍に任じられ…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府10代・足利義材――幕府崩壊劇の主役となった「流れ公方」 1466年~1523年

… しげより)を頼り、美濃に下った。それから12年の月日を美濃で過ごしたが、ある日9代将軍・義尚が死去したとの報を受け、父子揃って上洛する。翌年には義尚の父である義政も他界したため、ふたりにチャンスが回ってきた。義材は富子に擁立される形で、10代将軍となったのである。 しかし義材には、将軍就任当初から厄介な政敵がいた。それが時の管領・細川政元(ほそかわ まさもと)である。政元は、義政の弟である堀越公方(ほりごえくぼう)・足利政知(あしかが まさとも)の子、つまり義材にとっては従…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府3代・足利義満――南北朝の統一を果たし室町幕府の最盛期を築く 1358年~1408年

…が没し、息子の康行が美濃・尾張・伊勢の守護職を継承したものの、義満はこれに介入し、尾張を取り上げて弟の満貞に与えてしまった。当然、土岐氏は内紛を起こしたので、義満は幕府軍を派遣して鎮圧。見事に弱体化させたのである。 続いてターゲットにされたのが、因幡・伯者・丹波など11ヶ国の守護を務める山名氏であった。この11という数字は全国66ヶ国の実に6分の1に達したわけで、どれだけ強大な力を誇ったか、わかっていただけるかと思う。義満は但馬守護の山名時義が亡くなると、不遜を理由に時義の子…

明智光秀と榎本秋――あるいは麒麟は来たのか(「麒麟がくる」と過ごした一年を振り返り)

…いたのですが、最初の美濃編で力尽きていて、一乗谷城や槇島城などを紹介できなかったのは心残りです。という反省はさておき、ぼくは明智光秀という武将は過小評価されている、と以前から思っていました。 これまでも織田信長や豊臣秀吉が大河ドラマの主人公になるたびに、光秀は「いい感じのヤラレ役」として登場してきましたが、曲がりなりにも信長を打ち倒した唯一の戦国武将である光秀が凡将なはずはなく、直前まで織田家臣団の中でも筆頭と呼べる地位にあった彼がなにを目指してクーデターを起こしたのか、また…

明智光秀と森蘭丸――あるいは本能寺の変という終わり

…父・森可成はもともと美濃の生まれで斎藤氏に仕えていたが、初期から信長を支え、尾張統一や美濃攻めで活躍した。信長にも大いに信頼されていたはずだ。ところが、浅井・朝倉との戦いで戦死してしまっている。なお、可成が守っていた宇佐山城は、のちに明智光秀に与えられている。 その遺児はそれぞれ信長の配下として活躍した。例えば次男の森長可は織田信忠配下で1582年(天正10年)の武田攻めに参加して奮闘しており、この時まだ若いながら戦後に小さくない領土を与えられている。蘭丸は信長の小姓についた…

【戦国時代の境界大名】遠山氏――宗家は滅亡後、残された一族による戦いの結末は?

…活躍した加藤景廉が、美濃国恵那郡遠山荘(岐阜県恵那市など)を褒美として授かったことに始まる一族だ。美濃国東部に広く勢力を持ち、戦国乱世の頃には宗家の岩村遠山氏を筆頭として、苗木、明知、明照、飯羽間、櫛(串)原、大井の7家が「遠山七家」と呼ばれた(内訳には諸説あり)。遠山氏は美濃守護・土岐氏と並んで、この地域では有力な一族と目されていたのである。 しかし、ある地域で群を抜いた強者であっても、周辺全体に目を向けてみると、強者の干渉を受けず独立した勢力であるのは難しい。とくに彼らが…

【戦国時代の境界大名】奥平氏――家運が開いた運命的な活躍の場とは?

…をよく務めた。また、美濃国(岐阜県)に加納城(岐阜市)が築かれると、新たに美濃加納藩10万石の大名として入る。この城は中山道の要衝で、万が一、豊臣秀頼ら大坂方が挙兵したならばこれを迎え撃つ拠点として新たに築かれた城であった。結局のところそのような局面が訪れることはないまま豊臣氏は大坂の陣で滅亡したものの、信昌が家康に信頼されていなければここに配されることはなかったであろう。 かくして、戦国乱世を次々と主替えをすることによって生き延びた奥平氏は、徳川将軍家の忠臣として江戸時代を…

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

…根拠は水野氏の領民が美濃の遠山・岩村(ともに岐阜県恵那市など)の地に塩を送ったことだった。この頃、遠山や岩村は武田信玄の支配下にあり、織田と武田は激しくにらみ合う間柄だった。信長はこれに激怒した。そもそも、村木合戦の頃から信元の能力を疑間視していたらしいこと、また信元が「三方ヶ原の戦い」で勝ち目なしと見るや勝手に逃げたこと(『当代記』)なども、怒りの背景にあったらしい。 結果、信長から家康に「信元を殺せ」と指示が飛んだ。ここで直接信元への命令とならなかったのは、先に紹介したと…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…る大軍が迫る。目的は美濃で家康の本軍と合流することであったが、その行き掛けの駄賃として上田城を落とそうとしていたのだという。信幸もこの軍勢に加わっていた。 そして、第二次上田合戦が始まった。この時の様子が『改選仙石家譜』などの史料に記されているのだが、それによれば、昌幸はまずあらかじめ城の前の神川の流れを上流でせき止め、さらに伏兵も伏せていた。そのうえで秀忠の軍勢を誘き寄せ、近づいたところで上流の堰を切らせ、城内からも出陣し、伏兵にも飛び出させる。これによって徳川軍は大いに混…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…の軍勢が遠江・三河・美濃(岐阜県)の三方向へ同時に侵攻を開始し、そのうち東三河を通って遠江へ抜ける道を進んだ山県昌景の一隊が井伊谷を通過している。この際、井伊谷三人衆や井伊氏は家康のいる浜松城(浜松市中区)へ避難したという。その後も、武田・徳川の小競り合いのなかで井伊谷はたびたび武田の攻撃に晒され、これは1582年(天正10年)に武田氏が滅亡するまで続いたようだ。家康の本拠である浜松城に近いゆえの受難であったろうか。 直政の放浪と再興の兆し さて、故郷の井伊谷が叔母・直虎の手…

明智光秀と斎藤利三――あるいは運命共同体

…まれがあやふやだ。『美濃国諸家系譜』によれば1538年(天文7年)生まれで、『寛永諸家系図伝』をもとにすると1534年(天文3年)生まれになる。父母の名や素性もまちまちで、史料によっては明智光秀の妹あるいは叔母の子であるという。 美濃の生まれで、斎藤義龍に仕え、その後稲葉一鉄の元に移った。一鉄の娘あるいは姪を妻に迎えたというから、かなり重く扱われていたのではないか。信頼できる史料において彼の名前が初めて登場するのは『信長公記』で、1570年(元亀元年)の金ヶ崎撤退戦の直後、一…

明智光秀と武田信玄――あるいは「信長にとっての脅威」

…伸ばす武田と尾張から美濃へ進んだ織田は、少なくとも当初は喧嘩しないことで利を得ていたのである。 状況が変わるのは1571年(元亀2年)だ。信長の比叡山延暦寺焼討ちに対し、もともと比叡山と縁が深かった信玄は信長を非難して比叡山の覚恕を保護し、延暦寺の移転計画まで持っていたとされる。その翌年には足利義昭の信長包囲網に参加して織田やその同盟者である徳川への攻撃を始めるのだが、しかし動機を比叡山焼討ちにあると見ていいかどうかはわからない。というのも、1571年(元亀2年)には北条氏と…

【江戸時代のお家騒動】佐竹騒動 銀札流通の失敗で藩内経済が大混乱

…分となった。 また、美濃の茶売り商人が幕府に訴えようとする事件も起きた。久保田藩の銀札については、他藩の商売人には正金銀の流通が禁止されていたが、自分の藩へ帰る際には銀札を札元に持っていけば正金銀に替えられるという決まりになっていた。この決まりが破られている、というのは商人の訴えだった。 この訴えが江戸で裁判になってしまえば藩の大問題となる。場合によっては幕府からの圧力につながる可能性もあったろう。それだけは避けたかった銀札奉行の平元茂助たちは示談を求め、商売人たちに今まで交…

【お城の基礎講座】77. 一国一城令(いっこくいちじょうれい)

…張徳川家) 尾張国、美濃国の一部、三河国の一部、信濃国(木曽)の四令制国で名古屋城の一城。しかし、付家老である成瀬家が2代将軍秀忠より犬山城を拝領し、実質は二城であった。そのほかにもいくつも事例があるので実質は一国一城ではないと言えますが、先にも述べた通り軍事力を統制することや幕府への反逆を抑えるという目的であったということですね。 まとめ 元和元年(1615年)に出された一国一城令によって城の数は激減し、戦の世が終わりを告げました。この法令によって破却された城は多数あります…

【江戸時代のお家騒動】延宝の郡上騒動 農民も巻き込んだ藩を二分する大騒乱

…発展したのである。 美濃郡上藩の四代目藩主・遠藤常春は10歳で家督を継いだ。もちろんまだ幼年であるから、親戚で大垣藩の藩主・戸田氏西や分家である遠藤常昭ら4名の後見人がつけられた。政治は江戸詰め家老の遠藤十兵衛・池田庄兵衛と国家老の遠藤杢之助・遠藤新左衛門が主だって動かしていった。 郡上藩は2万7千石の小藩にすぎず、その財政は危機に瀕していた。藩内では年貢を増徴するか大幅な倹約令を発布するかで意見が対立し、家中が二派に分かれた結果、年貢の増徴が決まる。これにより、今まで1石に…

明智光秀と浅井長政ーーあるいは「不安」が背中を押したのか?

…の道を進む。尾張から美濃へ進出した織田信長の妹・お市を新たな妻に迎えたのはまさにこのような事情の中でのことであった。目的はもちろん織田の後ろ盾を得て六角氏と戦うことであり、実際に信長は上洛の過程で六角氏を攻め滅ぼしている。結果、北近江における浅井氏の勢力は安定することになったのだった。 ところが、信長が越前の朝倉義景を攻めたとき(名目上は幕府としての行動であり、光秀をはじめ幕臣たちも付き従っているが、信長が朝倉を排除したかったのだと考えるのが通説だ)、長政は突如として義兄を裏…

【お城の基礎講座】61. 算木積(さんぎづみ)

…垣の隅部。天下普請で美濃に作られた城。算木積の完成に近づいている 伊賀上野城の高石垣の隅部。算木積が完成され、今までよりも格段に高く積むことができるようになった 丸亀城の高石垣の隅部。稜線が一直線に伸びている算木積 江戸城の算木積。石の大きさ、加工の精度など、どれも天下に誇る技術だ。ここまでくると芸術に近い まとめ 石垣の隅部の積み方である算木積は、石の加工技術や積み方の発達とともに進化してきました。石垣の強化のために、隅部の強化は欠かせなかったのです。ということで、石垣の隅…

【お城の基礎講座】59. 石垣・積石の加工による分類

…う欠点があります。 美濃金山城の石垣は野面 打込接(うちこみはぎ) 打込接(うちこみはぎ)は積石の接合部分を加工して隙間を減らす方法です。 打込接 「接ぐ」というのは接合するという意味です。積石同士の隙間がなくなって登りにくくなりました。文禄年間(1592~1596年)以降に作られた城の石垣のほとんどは打込接です。 金沢城石垣の打込接 切込接(きりこみはぎ) 切込接(きりこみはぎ)は積石を徹底的に加工して隙間がないようにしたものです。 切込接 最初の頃は主に石垣の角の部分に使…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する