攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

前田利家 の検索結果:

攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました

…信愛が取次を担当した前田利家を訪問しています。余談ですが、このときに信愛が残した覚書(「北松斎手扣」「北松斎覚書」)に金沢城に天守が存在したことが書かれています。 一方、大浦為信は中央工作が遅れたものの、小田原攻めの際には信直より早く陣中に入って秀吉を説得、津軽の所領を安堵するという朱印状を受け取り、豊臣系大名としての立場を許されました。なお「なぜ戦国大名は名字を変えたのか」の回では1593年(文禄2年)に伏見城で秀吉と対面したときから津軽と名乗ったらしいと紹介しましたが、そ…

【家康の謎】家康はなぜ石田三成を匿った? 七将襲撃事件は事実なのか?

…そんな中、重鎮である前田利家が亡くなる。押さえを失った武断派諸将のうち七人が兵を率いて石田三成を襲撃するも、三成はあえて徳川家康の屋敷を訪れ、彼に庇護を依頼した。受諾した家康によって武断派七将は押さえ込まれ、一方で三成は謹慎処分となる。これによって家康の動きはさらに活発化した――というのが、いわゆる通説における「七将襲撃」の事件である。 ところで、近年ではこれらの一連の出来事について疑いをもつ意見が出てきているのをご存知であろうか。すなわち「七将による襲撃は根拠史料のない創作…

【家康の謎】家康はなぜ朝鮮出兵に参加しなかったの?

…は中止された。家康や前田利家らが涙ながらに中止を求めたからだという。二人がどうしてそこまでしなければいけなかったかといえば、朝鮮での戦況が芳しくなく、秀吉が赴けば危険だと思われたからだ。 こうして秀吉も自らの出陣を諦め、家康の出陣もセットで中止になった、というわけだ。なお、東国勢の中でも伊達政宗などは結局増援として朝鮮へ渡っているが、家康と利家は渡らなかった。そのため、二人には秀吉が何かしら無謀な行いをしようとした時にそれを押し留める役目が期待されたのかもしれない。 その後、…

【家康の謎】家康はなぜ五大老の筆頭に選ばれたの?

…てみると、徳川家康・前田利家(死後、嫡男の利長に交代)・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景(死後、上杉景勝に交代)となり、このうち前田利家は織田政権時代から生き延びた大名であり、宇喜多秀家は秀吉の中国攻めを支えた宇喜多直家の遺児で豊臣・前田とは縁戚関係にある。この二人は秀吉にとって身内カウントであると言っていいだろう。毛利輝元・小早川隆景・上杉景勝は織田政権にとっては本来敵対者であったが、秀吉が政権を掌握する過程において協力関係を結び、臣従することになった。 そして家康は秀吉に…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…にしていく 閏3月、前田利家死去。家康の影響力が増大(元々は利家が大坂城で秀頼を補佐、家康は伏見城で政を行う役割分担) 石田三成に対する七将襲撃事件。近年は「訴訟事件」とも。三成は蟄居 9月、家康暗殺計画。首謀者は前田利長、共犯は浅野長政、大野治長、土方雄久らが疑われて失脚。家康は西の丸に入り、天守を築く 1600年(慶長5年)、59歳 前田利長は母・芳春院を人質として江戸へ 細川忠興(嫡男・忠隆の正室は利家の娘)も嫌疑をかけられ起請文を提出、翌年に三男(のちの忠利)を江戸へ…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…躍したことから秀吉・前田利家に仕え、その子の氏置(うじおき)が徳川に仕えて旗本に。子孫が赤松を名乗り直し、旗本寄合になる。→赤松の庶流に摂津国の有馬氏がある。秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは東軍について、江戸時代には筑後久留米藩に21万石を持った。有馬からさらに別れた流れが徳川忠長から紀伊藩の徳川頼宣へ仕え、有馬氏倫(うじのり)がその紀伊藩から出た吉宗の側近になって、譜代大名になった。 一色氏 ・一色氏は丹後を本拠地にしていた本流が細川忠興に滅ぼされた。庶流からは家康側近として活…

【戦国軍師入門】島勝猛(左近)――不死伝説まで生まれた悲劇の名将

…秀吉の死とそれに続く前田利家の死は、再び戦乱の時代が迫っていることを示していた。豊臣政権の最大の敵を家康と見た勝猛は、何度も彼を暗殺するよう三成に提案したという。武断派との仲も悪い三成では、歴戦の名将である家康にはかなわないと判断したのだ。しかし、あくまで官僚であり、大義名分を掲げて戦えばいいと考えていた三成はこれを却下してしまう。 そうこうするうちに、今度は三成の命が危険にさらされる。加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、池田輝政、加藤嘉明(資料によっては蜂須賀家政)、浅…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑩――内部分裂で落ちた城・七尾城

…この城には織田家臣の前田利家が入る。そして、時代の趨勢が泰平に移る中で、山城の例に漏れず廃城となってしまった。 能登畠山氏が滅んだ最大の理由は、当主の発言力が失われて老臣たちが実権を握るようになったことだ。しかも彼らは織田信長派と上杉謙信派に分かれており、中でも専横が目立っていた信長派の長氏(ちょう し)は、他の重臣たちから反感を持たれていた。このような状態の七尾城を狙って、1578年(天正4年)に上杉謙信が越後より侵攻してくる。最初は能登畠山氏との同盟を持ちかけてきたのだが…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台①――女性が支えた城・末森城

…与えられた金沢城主・前田利家が、本能寺の変後に織田家臣団同士が相争うようになると、越中の佐々成政の侵攻に備えるためにこの城を築いたとされる(それ以前、能登畠山氏の時代からあったとも)。1584年(天正12年)、いよいよ成政が来襲する。これに立ち向かうことになったのが末森城とその城主・奥村永福(おくむら ながとみ)である。末森城を落とされると加賀・能登間の連絡が断たれるため、永福らは決死の戦いを挑むことになった。 この戦いの中で、活躍した女性がいた。永福の夫人である。名前は判明…

【10大戦国大名の実力】織田家②――尾張における下剋上と弾正忠織田家の台頭

…い人々(彼らの一部は前田利家など、かつて信長とつるんでいた連中だった)を味方に引き入れ、自身の軍勢として育成。その武力を背景に、清洲城の織田信友、岩倉城の織田信賢、そして二度の反逆を企んだ弟・信勝(一般には信行の名で知られる)といった敵対勢力を次々と倒していく。こうして信秀の死の7年後には、信長は尾張ほぼ一国をその手中に収めた。 その後の活躍についてはあまりにも有名すぎる。当時「最も天下に近い男」とうたわれた今川義元を桶狭間の戦いで破り、隣国美濃の斎藤家を滅ぼすと、松永久秀ら…

【10大戦国大名の実力】佐竹家③――優れたバランス感覚

…急行、自ら三成のいた前田利家の屋敷に赴いて、駕籠に乗せて脱出――と、三成を助けるべく活動している。家康という強大な敵と戦うにあたって、三成も毛利家・上杉家などと合わせて、大大名である佐竹家の力を頼んでいたことであろう。 しかし、その一方で佐竹家の領地は北関東であり、北条家滅亡後の関東一円を支配する徳川家と隣接している。秀吉死後の情勢が徳川有利に傾いていることとも重ね合わせて、表だって西軍に味方するのは危険すぎる、と考えても無理はない。そこで義宣が選んだのは、どちらに味方すると…

【クーデターで読み解く日本史】西軍の有力者が裏切った本当の理由とは?――関ヶ原の戦い

…る五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)に誓詞(せいし=誓約の書類)を提出させ、まだ幼少の息子・秀頼への忠誠を誓わせた。 ところが、秀吉が死ぬと早速、五大老の筆頭で豊臣政権における最大の大名であった徳川家康が独自の行動を始める。誓詞の中で禁止されていた大名間での婚約を進め、勢力拡大に努めたのだ。このルール違反に対して、ほかの五大老と五奉行は家康に追及を行ったが、この時は大事には至らなかった。秀頼…

【殿様の左遷栄転物語】計算かそれとも私怨の廃嫡か 細川忠隆

… 忠隆の妻は加賀国の前田利家の息女・千世である。まず、このことが問題だったと思われる――前田家は全国でも有数の大藩であり、また関ヶ原の戦い直前に家康から謀反の疑いをかけられ、人質を差し出して危機を切り抜けた、という経緯があった。この前田家とのつながりを持ち続けることは、細川家にとってよくない、と感じたのだろう。そのうえ、忠利は秀忠の養女(しかも実際には家康のひ孫に当たる)と結婚していて、ふたりの間には男子も生まれていた。前田家との関係を切り、徳川家との関係を近づける一挙両得の…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…。長重と戦った利長は前田利家の息子であり、このふたりはそろって旧織田家臣団の重鎮の息子、いわば「ボンボン仲間」で、もともと親交も深かったらしい。この利長が長重について「彼は徳川に歯向かったことを大いに後悔していますが、すでに関ヶ原の戦いが終わってしまったので役に立つ機会もありません。せめて罪を許してやってはくれませんか」と弁護したのである。家康はこれを聞き入れなかったが、「利長がそこまでいうのなら」と命は取らず、改易・所領没収に留めた。 長秀以来の家臣団はただでさえ代替わり直…

【江戸時代のお家騒動】加賀騒動 30年以上にも及ぶ江戸三大お家騒動のひとつ

…に直躬は、藩祖である前田利家の次男・利政の血を引く家系であり、そのためか本家の吉徳にも対抗意識があったようで、ことあるごとに反発していた。1734年(享保19年)頃からは、直躬が本家のシンボルである剣梅鉢紋を正装や道具類などに用いるようになり、このことを吉徳に咎められている。いくら藩祖の血を引くとはいえ、直躬は本家にとって一家臣にすぎない。藩主家と同じ剣梅鉢紋をつけるなど、あまりに出すぎた真似だった。 このようなこともあって吉徳も直躬を警戒していたようだが、彼ら大槻批判派は結…

【江戸時代のお家騒動】蒲生騒動 藩主夭逝が藩内の混乱を招く悪循環

…で秀吉は、徳川家康や前田利家たちを後見人としてつけた。当時の有力者たちが後見人として名を連ねているのは、信長の娘を母に持つ秀隆に対する配慮だったのかもしれない。秀隆は1595年(文禄4年)に家康の娘・振姫と結婚し、徳川家との姻戚関係を築くに至っている。 順風満帆に見える秀隆だったが、この頃からすでに内部に問題を抱えていた。家臣同士の対立抗争である。もともと氏郷の存命中から対立の火種はあったものの、氏郷の統率力によって彼らは束ねられていた。しかし氏郷が亡くなり、まだ若い秀隆のも…

明智光秀と山崎吉家ーーあるいは、越前時代に縁はありやなしや

…彼の嫡子も、ほかの山崎一族も、その多くが同じ戦いで討死している。ところが吉家の弟・吉清の子の長鏡(改名して長徳)は生き延び、光秀の家臣になっているのだ! ただの偶然か、光秀が越前時代のことを懐かしんだのか、それとも吉家との間に何か約束があったのか……そこまではさすがに考えすぎであろうか。ともあれ、長徳は「山崎の戦い」を生き延び、晩年は前田利家に仕えて、最後には1万石を越える重臣にまでなった。彼の子供たちはいくつかに別れた前田家にそれぞれ仕え、長く山崎氏の家名を保ったのである。

初代藩主と藩祖のちがい

…です。利長の父である前田利家は1599年(慶長4年)に死去し、江戸時代を生きてないので加賀藩主とはなっていません。そのため、加賀藩では利家を「藩祖」としています。 同様に福岡藩も初代藩主は黒田長政ですが、藩祖はその父である黒田孝高(官兵衛)となっています。官兵衛は1604年(慶長9年)まで生きていますが、豊臣政権下の1589年(天正17年)の時点で隠居して、長政に家督を相続しています。 藩祖を辞書でひくと「藩を創設した人。藩主の先祖。」(大辞林)、「藩主の先祖。また、藩の最初…

金沢城 武士が統治する証となった城

…て発達した。 金沢御堂は一揆の中心であり、本願寺と対立していた織田信長による一揆の鎮圧が行われた。1575年(天正3年)8月に3万を越える大軍で越前に出陣して総攻撃。その後、柴田勝家に加賀攻めを任せている。勝家は金沢御堂を陥落させ、一向一揆の指導者を討ちとって首級を信長に送っている。こうして100年に及んだ民衆による統治は終わった。その後、金沢城は盛政が統治したが、「賤ヶ岳の戦い」で戦死。1583年(天正11年)に前田利家が入った。江戸の終わりまで前田氏が代々居城としている。

八王子城 戦国の終わりを告げた城

…王子城には上杉景勝、前田利家、真田昌幸らに豊臣秀吉の軍勢、投降した北条方の武将が加わり、5万ほどの大軍が向かった。対する八王子城は氏照家臣、横地吉信、狩野一庵、中山家範、近藤綱秀らを中心に農兵などを含めた3千人ほど。戦う前から結果はわかっているような状況であった。 6月23日の夜明け、前田利家は総攻撃を前に被害を減らすため降伏を呼びかけたが、北条方の意志は固かった。寅の刻(午前4時ごろ)に総攻撃の合図がなされ、豊臣勢が城に攻めかかった。北条方は必死に抵抗したが、数で勝る秀吉方…

2.譜代家臣団の成立

…たのである。 家康は前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景らとともに豊臣政権の中でも特に有力な大名である五大老の1人として豊臣家に仕えた。五大老の中では筆頭格で、秀吉の死後は子の秀頼を補佐した。やがで、家康は豊臣政権の分裂を画策し、豊臣政権の行政をつかさどる五奉行の1人、石田三成と深刻な対立を招くことになる。1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」が起こり、家康率いる東軍は三成の西軍を打倒、天下の覇権を掌握した。1603年(慶長8年)には征夷大将軍に任じられ、晴れて江戸幕…

1.戦国大名の誕生

…った。 一例として、前田利家は参議・権中納言・権大納言といった官位を得てはすぐに辞めてしまった(最短で5日!)。他の大名たちもおおむね似たようなものであったという。それでも彼らが官位・役職を求めたのは、それを持つことで他の武将よりも格が高くなり、朝廷や幕府とも関係が深くなって、ハッタリが利かせやすく、中小の国人たちを従わせやすかったからだろう。「元は同格じゃないか!」という不満に対して、「しかし今は朝廷から○○守に任じられているので格が違う」と反論ができるわけだ。 非常にわか…

「麒麟がくる」第14回に登場した緒川城はどんなお城か

…がおこなわれました。前田利家、佐々成政といった武将もチョイ役で登場し、だんだんと知ってる名前が増えてきましたね。それにしても婿と舅が一度も会うことなく結婚するというのは現代のぼくらから見れば変わった話ですが、この当時の政略結婚ではわりと当たり前だったようです。余談ですが、ふたりの会見後に自宅に戻った光秀が母と嫁にからかわれるシーンがありましたけど、個人的にはああいうアットホームなシーンが好きです。 一度しか会ってない信長を「ああ、気に入った」と、一向に自分を信じようとしない高…

上杉謙信ゆかりの地おすすめ17選

…滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政ら3万の大軍を出兵させます。 越前北ノ庄城に結集した後、七尾城へ向けて越前から加賀へ入って一向一揆勢と交戦しつつ進軍しました。 しかし途中で秀吉が総大将の勝家と意見が合わずに自軍を引き上げてしまうなど足並みの乱れが生じていました。 勝家率いる織田軍は手取川を渡り水島に陣を張ったが、既に七尾城が陥落していることすら知らなかったようです。 織田軍が手取川を越えて加賀へ侵入したことを知ると、謙信はこれを迎え撃つため数万の大軍を率いて一気に南下。…

“笹の”可児才蔵

…いが、美濃に生まれて前田利家(あるいは斎藤家)に仕えたのを始めとして、7度にもわたって主君を変えたという剛勇の士である。宝蔵院十字槍の達人であり、「槍の才蔵」の異名で知られたという。 さて、この才蔵が最後に仕えた主君が福島正則だ。そして、実は前回紹介した「井伊直政の抜け駆け」において直政を見咎め、止められなかった武将こそが才蔵だったのである。彼にとって、直政の抜け駆けは主君と自らの名誉に泥を塗る行為に他ならなかったはず。さぞや怒り狂ったことであろう。実際、この日の才蔵の働きは…

大ふべん者・前田利太

前回紹介した前田利家も、若いころは主君の織田信長とともに派手な振る舞いを好んで「かぶき者」と呼ばれたが、この点で言えば彼の甥の前田利太(通称の「慶次郎」が有名。諱についても利治、利益など諸説あり)のほうが小説『一夢庵風流記』やこれを原作とした漫画『花の慶次 ―雲のかなたに―』の存在もあって広く認知されているのではないか。 実は、利太と利家の間に血のつながりはなく、利家の兄・利久の養子という関係性になる。利家の実の父は織田重臣の滝川一益とも、その甥の滝川益氏ともいうが、ハッキリ…

前田利家の赦免

前田利家といえば、幼いころから織田信長の傍にいた重臣にして、豊臣秀吉の盟友としてその名を知られ、加賀百万石の礎を築いた戦国の英雄の一人である。槍を取っては大活躍し、通称の又左衛門から「槍の又左」と呼ばれた剛勇の士でもあった。 そんな彼が、実は若いころに織田氏を追放されていたことをご存知だろうか。そのまま追放されたままなら後の活躍も、加賀百万石も存在しなかったわけだが、利家は槍働きによってその窮地を自ら切り開くことに成功したのである。 そもそもなぜ追放されたのかといえば、同僚と…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原前哨戦に隠された真実―上杉征伐と幻の前田征伐

…遺児・秀頼を託された前田利家も亡くなると、後ろ盾を失った石田三成は対立する武断派に命を狙われ、領地へ逃げざるを得なくなってしまった。結果として豊臣政権の主導権を得た家康は、自身と同じく五大老の一員で、会津の大大名の上杉景勝に謀反の疑いをかけた。「領地に戻って軍備を整えているのが怪しい」というわけだ。これに対して景勝の側近である直江兼続が家康を非難する手紙を送ったため、激怒した家康は上杉征伐の軍勢を起こした。そうしてがら空きになった近畿で石田三成が挙兵し、これを知った家康もまた…

【京都】2019年秋に開催される歴史好き向けの特別公開・特別拝観・ライトアップイベントまとめ

…年)に能登を任された前田利家によって屋根の葺き替えがおこなわれ、以後は畠山家に加え前田家の菩提寺ともなっています。本堂、表門、唐門が室町時代創建で禅宗建築の代表作で、重要文化財に指定されています。また「昭和の小堀遠州」と謳われた作庭家・中根金作が復元した桃山風の荘厳な石組みを持つ方丈庭園や、茶室「涵虚亭」も見どころです。 大徳寺 総見院 秋季特別公開 期間:2019年10月12日(土)~11月30日(土)10:00~16:00※11月3日、10日は11:30から公開※11月2…

甲冑と戦国武将のご当地限定ガシャポンが発売されます!

…ちろんいいんだけど、前田利家の金ピカの甲冑がかっこ良すぎる(元が金色なのでシークレットはクリアラメ仕様だそうです)。 また戦国武将フィギュアのシリーズである『武将コレクション 天下統一 赤備篇』が2017年3月下旬に発売されます。 こちらもかなり精巧につくられてますね。それぞれ着色バージョンと銅像バージョンがありますが、銅像版もいいなあ。 ご当地限定ということで、このガチャガチャのカプセル自販機は大阪城、姫路城、彦根城、二条城、岐阜城、小田原城、および、各お城周辺のお土産売り…

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