攻城団ブログ

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征夷大将軍 の検索結果:

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府4代・徳川家綱――安定期の病弱将軍「左様せい様」 1641年~1680年

優しき将軍・家綱 家綱は家光の長男だが、晩年になってようやく生まれた子でもあった。そのため家光の喜びようはなみなみならず、大喜びで生まれたばかりの産室に飛び込んだ、というほどだ。家綱は優しい性格であったようだ。幼少のころ、流罪の話を聞いて「死刑を免じて流罪にするのに、その先が誰もいない島では、餓えて死んでしまうのではないだろうか」と考えた。これを聞いた家光はその着眼点と優しさを喜び、流罪人に食料を与えさせることに決め、またこのことを家綱の最初の政策とした、という。 将軍になっ…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府3代・徳川家光――江戸幕府を完成させた生来の将軍 1604年~1651年

「生まれながらの将軍」家光 1623年(元和9年)、徳川秀忠は自らの次男・家光に将軍職を譲り渡した。新たな将軍となった弱冠20歳の若者は、広間に居並ぶ諸大名に対して宣言する。すなわち、「祖父家康と父秀忠は、諸大名の力を借りて天下人となったので、同格の礼で応えてきた。だが、私は生まれながらの将軍であり、お前たち諸大名は家臣である。そのように扱うことに不満があるなら、領地に戻って戦う準備をしろ」――このようなことを言ったわけで、これはもう堂々たる王者の言である。 この年には豊臣家…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…5年(慶長10年)に征夷大将軍職を譲られ、以後は大御所である父とともに二元政治を行った。ちなみに、このときに秀忠を助けた大久保忠隣は幕閣における筆頭格まで上り詰めたが、1614年(慶長19年)に謀反の疑いをかけられ、改易処分にされている。これは本多正信・正純親子との権力争いの末、その謀略にはめられたものと考えられている。 一方、その正純は1622年(元和8年)、謀反を企んだ、という理由でやはり改易させられてしまっている。後世の「宇都宮釣天井事件」というのは、この事件に尾ひれが…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府初代・徳川家康――戦国時代を終わらせた偉大なる将軍 1542年~1616年

…たことになる。家康が征夷大将軍の職を得て、江戸幕府を開くのは数年後、1603年(慶長8年)のことである。しかもさらに2年後には、その将軍職を息子・秀忠に与え、自らは隠居地である駿府ヘ移り住んでしまう。しかしこれは政治からの引退を示すものではなく、以後も「大御所」として実権を掌握。実質的に2人の将軍が並び立つような形で政治を行った。このように早い時期で代替わりを行ったのは、「もう下剋上の時代ではなく、以後は徳川家が天下人の座を継承する」という宣言だったのでは、と考えられている。…

【歴代征夷大将軍総覧】徳川将軍――江戸時代

…んだ江戸幕府 家康は征夷大将軍となって江戸幕府を創設し、秀吉が遺した豊臣家を滅ぼして、以後二百数十年にわたって武士による大規模な合戦のない太平の世を作り上げる。戦国時代の終わりであり、江戸時代の到来であった。 江戸幕府は徳川宗家出身の将軍を頂点とし、全国の大名たちをその下に従えるシステムをとった。また、これとは別に直属の家臣団である旗本・御家人がいる。幕府は全国の大名たちにかなり高度な自治を認める代わりに、強大な軍事力や各種の大名統制手段で彼らが謀反に踏み切らないよう、時代が…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府15代・足利義昭――信長に縛られた、最後の将軍 1537年~1597年

… 入京の翌月、義昭は征夷大将軍に任じられた。義昭は信長に感謝の意を示して彼を管領にしようとしたものの、信長はそれを固辞。幕府の再興と畿内の平定という目的は果たしたということで、美濃へと戻っていった。将軍になった義昭は、安芸の毛利元就と豊後の大友宗麟の講和を進め、両者に三好氏の本拠を攻めさせるなど、政治的な動きを活発に見せるようになる。兄の遺志を継いで、将軍の政治的権威を回復させようという意図があったのだろう。 しかし、これらの行動は信長に咎められ、「殿中の掟」という規則を定め…

【サイン本プレゼントあり】「将軍の日本史」のご紹介

…中の〈榎本秋の「歴代征夷大将軍総覧」〉をベースにあらたに書き下ろした書籍「将軍の日本史」が6月4日に発売されます! 鎌倉・室町・江戸の武家政権の象徴である歴代48人の「将軍」の生き様を詳しく紹介した本書は人物名鑑であると同時に、彼ら将軍たちを通して鎌倉時代から江戸時代まで約700年の歴史を垣間見る日本史の入門書でもあります。 現在放映中のNHK大河ドラマ「青天を衝け」には江戸幕府15代将軍・徳川慶喜がキーパーソンとして登場していますが、来年の「鎌倉殿の13人」にも源頼朝が、ま…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府14代・足利義栄――一度も京へ入れなかった将軍 1538年~1568年

擁立直後から内紛に巻き込まれる 義栄は11代将軍・足利義澄の孫にあたる。初名は義親。父は義澄の次男・足利義冬(義維)で、足利義輝とは従兄弟の関係である。父がその養父・義稙とその妻・清雲院の不仲にいたたまれなくなり、京都を出ていたため、阿波の平島庄で生まれたとされる。 この義冬という人も苦難の生涯を送った人で、12代将軍・足利義晴の対抗馬として擁立されて激しく争った末、結局は阿波・平島に落ち着き、「平島公方」と呼ばれるようになった。1565年(永禄8年)、畿内を制圧していた三好…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府13代・足利義輝――非業の死を遂げた剣豪将軍 1536年~1565年

京と近江を往復した前半生 12代将軍・足利義晴の子。幼名は菊幢丸、初名は義藤。義輝が将軍に就任したのは1546年(天文15年)、11歳の時だ。義晴が近江に逃亡中だったため、義輝の元服式と将軍就任も近江で行われた。このころの名は義藤。 その後、細川晴元(ほそかわ はるもと)と六角定頼(ろっかく さだより)に擁立されて上洛するが、将軍に就任して3年目には京都を追われることになる。彼と父が、晴元に敵対する細川氏綱(ほそかわ うじつな)や河内衆の遊佐氏一党らと手を組んだことが原因だ。…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府12代・足利義晴――各地を転々とした、名ばかり将軍 1511年~1550年

都合よく呼び戻された将軍 11代将軍である足利義澄の子で、幼名は亀王丸。義晴が生まれたのは、義澄が京都を追われて近江久里備前守の屋敷に滞在していたときのことだ。母親は、この屋敷で義澄の世話をしていた身分の低い女性だと考えられている。 生まれて間もなく、義晴は危険を避けるために父と別れて播磨守護の赤松氏のもとへ預けられることとなった。義晴を播磨に送り出した後、義澄は病没してしまうので、これが今生の別れとなった。義晴は逃げ込んだ先の播磨で養育されることになるが、そこも決して安全と…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府10代・足利義稙――念願叶い将軍職奪還! しかし…… 1466年~1523年

…いやった義尹は、再び征夷大将軍の座に返り咲いた。一生のうちに二度も将軍に就任したのは、義尹が初めてである。義尹は再就任にあたって後援者となった義興を管領代(かんれいだい)に、そして入京に際して大きな力となった高国を管領とし、新たな政治を始めた。ちなみに戦国時代、軍勢を率いて上洛し、将軍を擁立することに成功したのは、このときの義興と、のちの織田信長のふたりきりだ。 結局は京から追われ…… しかし1509年(永正6年)、京都を追われた前将軍・義澄が、義尹を暗殺しようと刺客を送り込…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府11代・足利義澄――管領の傀儡将軍は京を追われ…… 1479年~1511年

細川政元によって擁立される 義澄は堀越公方・足利政知(あしかが まさとも)の子である。政知は8代将軍・義政の弟で、兄の命を受けて関東公方になるべく関東地方へやってきたものの、動乱が続いていたため鎌倉に入れず、伊豆の堀越を拠点とした。それが堀越公方のゆえんで、つまり義澄は義政の甥にあたるわけだ。そんな義澄は8歳のころ、伯父の義政に天龍寺香厳院(こうげんいん)への入室を勧められ、上洛している。義澄の父・政知が以前、香厳院の院主を務めていたためだ。父母と別れて京都を訪れた義澄は、剃…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府10代・足利義材――幕府崩壊劇の主役となった「流れ公方」 1466年~1523年

…ね)」と改めた彼は、征夷大将軍が武家政権の長・幕府の頂点となってからは唯一、二度将軍になった人物でもある。そのため、本書では義材(よしき)についての紹介をふたつの項目に分けて行う。波瀾万丈の生涯の中で、各地を転々としたことから、「流れ公方」なる異名を奉られている。 9代将軍の足利義尚が病死し、新たな将軍として選ばれたのが義材である。その父は、義尚および日野富子との抗争に敗れて将軍に就任できなかった足利義視(あしかが よしみ)だ。義材は12歳になる頃には父に連れられて土岐成頼(…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府9代・足利義尚――遠征の末に倒れた将軍 1465年~1489年

幼くして将軍職をめぐる争いに巻き込まれる 8代将軍・足利義政と日野富子の間に生まれた子であり、義政の項で紹介したように彼の誕生こそが「応仁の乱」の引き金となった。生まれてから1ヶ月が経ったころ、義尚は重臣の伊勢貞親(いせ さだちか)の家に移された。これは将軍家の慣例であり、将軍となる子は生まれてすぐに伊勢氏に引き取られ、養育されることになっていたからだ。 義尚の養育係となった貞親は、彼を次期将軍とするため義視を殺そうとし、そのために義政をそそのかした。しかしこの謀略は露見し、…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府8代・足利義政――応仁の乱を引き起こした文化人 1436年~1490年

政治への情熱はすぐ失われ…… 6代将軍・足利義教と日野重子の子。兄・足利義勝の夭折により、幼くして家督を継いだ。義勝が死去した時、義政(当時の名は義成)はまだ8歳だったため、しばらくは将軍不在の期間が続き、14歳になったころにようやく将軍宣下が行われた。 義政は、最初のうちは政務に積極的にかかわろうとしていたらしい。当時幕府の主導権を握っていたのは畠山持国や細川勝元、山名持豊といった重臣たちや母・重子であった。結果、義政の命令はしばしば反対に遭い、また義政の許可を得ないまま勝…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府7代・足利義勝――わずか8ヶ月の短命将軍 1434年~1443年

平穏な幼少期から一転、将軍に 義勝(よしかつ)は義教と日野重子(ひの しげこ)の子として生まれた。幼名は千也茶丸(せんやちゃまる)。日野家といえば先にも紹介したとおり、3代将軍の義満以来、将軍の正室を送り出してきた家である。しかし義教は三条尹子(さんじょう ただこ)を正室とし、重子は側室に置いていた。日野家の権力が増大することを憂慮していたのだろう。さらに、重子の兄・日野義資(ひの よしすけ)は義教の癇に障って蟄居を命じられていた。重子が義勝を産んだ時、祝意を述べるために諸将…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府6代・足利義教――偶然で将軍になり、「万人恐怖」と呼ばれる 1394年~1441年

「くじ引き」で選ばれた将軍 後継者の決まらなかった将軍の座に、「くじ引き」で選ばれた。将軍専制を志向して数々の改革を行ったが、行き過ぎて「万人恐怖」と恐れられ、ついには暗殺される。 5代将軍の足利義量が亡くなり、しばらくの将軍不在の期間が続いたのち、次の将軍が決まらないままに1428年(応永35年)、4代将軍の義持も没してしまった。重臣たちは相談し、義持の4人の弟の中から次期将軍を選ぶことに決めた(死の直前の義持から許可を得ていたとも)。その選出方法というのが、なんとくじ引き…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府5代・足利義量――政治を行うことなく、父より先に没す 1407年~1425年

線の細い病弱将軍 4代将軍・義持(よしもち)と、正室・日野栄子(ひの えいし)の間に生まれる。在位わずか2年で病没したために、父の行いからきた祟りだともいわれ、また彼の死でしばらくの将軍空白期間が生まれた。 11歳で元服、右近衛中将正五位下に任じられた義量(よしかず)は、父が早々に将軍職を辞したため、17歳で将軍宣下を受けることになった。義持がまだ働き盛りであるにもかかわらず義量に将軍職を譲ったのには、先に述べたように自由な政治を行うためという理由のほか、義量の若いうちから彼…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府4代・足利義持――父を否定し、政策を転換 1386年~1428年

…時代であった。義持が征夷大将軍に就任したのは9歳のとき。しかしその実権は義満が握ったままで、義持は全く権力を持っていなかった。義満は京都の北山に別荘を建て、北山第(きたやまだい)と呼ばれるこの場所で政務を執り行っていた。16歳になるころには権大納言にまで昇進していたが、それもすべて父の権威によるものである。 さらに義満は、義持ではなくその弟・義嗣(よしつぐ)を偏愛していた。1408年(応永15年)に後小松天皇が北山第に訪れたとき、義満は義嗣の席を公卿の座の中に設け、天皇の御前…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府3代・足利義満――南北朝の統一を果たし室町幕府の最盛期を築く 1358年~1408年

…利氏の家督を継いだ。征夷大将軍に任じられたのは、その翌年のことだ。 1378年(永和4年)に新邸、いわゆる花の御所を室町に築いて移り住んだため、後世に室町幕府の名が定着した。義満が将軍となった当初は、管領として細川頼之が補佐役についた。頼之はまだ幼い義満に代わり、3年の間は一切の政治を取り仕切っている。さらに、義満の養育も任されていた頼之は、彼の師となる者を慎重に選び、また内法三箇条を作成して家臣らを戒めた。名目上は補佐だったが実際には幕政の実権を握っていた頼之に対して、守護…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府二代・足利義詮――南北朝動乱を生き抜いた生涯 1330年~1367年

わずか4歳の旗印 足利尊氏の次男として生まれたが、正妻・登子の産んだ子だったので嫡子とされた。幼いころに動乱の時代が始まり、その中で反鎌倉幕府の旗印として活用されたり、長じては南北朝の動乱の中で各地を転戦するなど、波瀾万丈の人生を歩んだ。1333年(元弘3年)、父の尊氏が、北条高時に後醍醐天皇の討伐を命じられて西上した際、「二心がないことを誓う」ための人質として、義詮は母とともに鎌倉に留められることになった。尊氏が京への道中で謀反の意を明らかにすると、そのことが鎌倉に伝わる前…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府初代・足利尊氏――新たな幕府を築いた源氏の名門 1305年~1358年

…。当初から求めていた征夷大将軍の職が与えられないどころか、そもそも新政府に役職がなく、人々は「高氏(尊氏)なし」と驚きとともにささやいた、という。この背景には、もともと源氏の名門として声望が高く、討幕での功績も大きい尊氏に対する警戒があったのだろう。さらに彼は、天皇が戻る前から京に奉行所を設置し、天皇方についた武士たちの功績を聞いて恩賞の約束をしていた。これによって多くの武士たちは尊氏をこそ慕い、尊氏派の勢力は非常に拡大していたのである。ただ、急進的な反尊氏派であった護良親王…

【歴代征夷大将軍総覧】足利将軍――室町時代

…新たな天皇を擁立し、征夷大将軍となる。これが足利将軍の始まりであり、室町幕府の始まりであり、さらには2人の天皇が立つ南北朝動乱の始まりでもあった。三代将軍・足利義満の代には南北朝の合一が成り、以後しばらくは全盛期が続く。しかし、やがて将軍の権威が低下して幕府内部での争いが加速していく。10年あまりにわたって争われた「応仁の乱」や、時の将軍・足利義材がクーデターによって失脚させられた「明応の政変」によって将軍と幕府の権威は完全に失墜し、時代は下剋上へ、戦国の動乱へと進んでいくこ…

【歴代征夷大将軍総覧】宗良親王――転戦の苦難から守戦の日々へ 1311年~1385年

…朝の動乱期には南朝の征夷大将軍として各地を転戦した。彼は武の人であったと同時に、文の人――和歌を大変好み、戦い続ける生涯の中でも歌を忘れなかった人であったといわれている。たとえば、後村上天皇や征西大将軍として九州で戦い続けた懐良親王といった弟たちを歌で激励したり、南朝の天皇や家臣たちの歌を集めた『新葉和歌集』を編纂したことなどが知られている。 宗良親王の初期の経歴は、異母兄・護良親王のそれに似ている。早くから仏門に入れられ、尊澄法親王を名乗っていた彼は、兄と同じように天台座主…

【歴代征夷大将軍総覧】成良親王――天皇になるかもしれなかった将軍 1326年~1344年?

幼い親王が征夷大将軍になった理由 成良親王(なりよししんのう)は後醍醐天皇の第6皇子で、母は阿野廉子(あの れんし)である。1333年(元弘3年)、まだ7歳の成良親王は、鎌倉に派遣され、関東8ヶ国と伊豆・甲斐を治めることになった。もちろん実務が行えるはずもないから、足利尊氏の弟・足利直義が補佐としてつくことになった。 その2年後、鎌倉が「中先代の乱」で北条時行(ほうじょう ときゆき)によって攻め落とされると、直義に連れられて脱出。そのまま京へ送り返された。そして、帰還した京都…

【歴代征夷大将軍総覧】護良親王――尊氏憎しですべてを失った親王 ?~1335年

…だった。しかも尊氏は征夷大将軍の地位を望んでいた。 これが認められれば尊氏が名実ともに「武士のリーダー」になり、朝廷より強大な力を得てしまう――護良親王はこのように考えた。そこで尊氏を封じるため、あえて京には入らないままで「将軍宮」を自称し、自分こそが征夷大将軍として新政府における武士のリーダー、武力の担い手であることを主張。これがうまくいかないと見るや、尊氏を打倒しようと実際に軍を集める動きまで見せた。結局、天皇が彼を征夷大将軍に任命することによって衝突は回避されたが、のち…

【歴代征夷大将軍総覧】後醍醐天皇の皇子たち――建武の新政・南北朝時代の将軍

…彼の新政権においても征夷大将軍は存在し、武家の長として活動している。 幕府を倒した天皇は、早速新たな政治を開始した。「建武の新政」あるいは「建武の中興」と呼ばれるものがそれだ。この新しい政権は天皇を絶対者として置き、その権限を強化した――これが大きな問題を引き起こし、新政の失敗につながった。天皇は「土地の所有権は綸旨(天皇の指令書)のみを根拠とする」としたのである。これを受けて人々は一斉に京、天皇の下に殺到した。なんとしても、自分の土地の権利を保障してもらわなければいけないか…

【歴代征夷大将軍総覧】鎌倉幕府9代・守邦親王――鎌倉幕府とともにこの世を去る 1301年~1333年

将軍はなんのためにいるのか 守邦親王は鎌倉幕府最後の将軍であり、その消滅と同じ年に死んだ将軍でもある。父は先代将軍の久明親王であり、母方の祖父にあたるのが先々代将軍の惟康親王。血筋だけを見れば実に高貴だ。しかし、幕府の実権を持たず、業績自体もほとんど記録に残っていないのは、摂家将軍・親王将軍のほとんどに共通する特徴であり、守邦親王もその例外ではない。 わずかに残されている記録によれば、神社の造営にかかわったり、寺の住持を務めたり、といった文化的な事業に彼の名前が登場する。直接…

【歴代征夷大将軍総覧】鎌倉幕府8代・久明親王――南北朝内乱の予兆を感じさせる将軍 1276年~1328年

…、惟康親王に代わって征夷大将軍となった人物である。先代と同じく、彼も将軍就任時代に特筆すべきエピソードはない。将軍時代の業績としてわかっているのは、寺社への参詣などの儀礼的活動ばかりである。1308年(延慶元年)、将軍職を辞めさせられて京に戻され、仏門に入ってその後の生涯を送った。 京での暮らしについてはよくわからないが、歌道の名門である冷泉家の娘との間に子を儲けていることから、結構のびのびと暮らしていたのではないか、という見方もある。代々の将軍と同じく、久明親王もまた北条得…

【歴代征夷大将軍総覧】鎌倉幕府7代・惟康親王――元寇の時代の傀儡将軍 1264年~1326年

異様な形での「送り返し」 惟康親王は先代将軍である宗尊親王の子として生まれ、1266年(文永3年)に父が追放されたため、わずか3歳で将軍となる。その後、23年間を将軍として過ごし、26歳のときに親王となっている(そのため、彼を「惟康王」と呼ぶ向きもある)。26歳になった1289年(正応2年)、次代の久明親王と交代する形で将軍職を追われる。そのとき、移動手段である網代車は逆さまであった、という。これは明らかに異常なことだ。 この際、人々は「将軍が京へ配流される」と噂した。配流と…

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