攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

明智光秀 の検索結果:

明智光秀と誠仁親王――あるいは「本能寺の変」の当事者

…るだろう。ちなみに、明智光秀も誠仁親王に関わっていることがわかっている。1579年(天正7年)、誠仁親王が信長によって新しく造られた二条御所へ移徙(引越)する時に携わったのが光秀なのだ。光秀が織田政権で朝廷・公家関係担当として活躍したことがわかる事実でもある。 その誠仁親王は、信長と光秀が関わった一番の大事件にも巻き込まれている。1582年(天正10年)の「本能寺の変」である。光秀の軍勢は本能寺で信長を死に追い込んだ後、その後継者である信忠の首を狙った。この時、信忠はどこにい…

明智光秀と荒木村重――あるいは「織田を見限った男」たち?

…てよく知られている。明智光秀とも関係があるため、彼の裏切りが「本能寺の変」に何らかの形で繋がった……と考えることもできるかもしれない。村重はもともと、摂津の大名である池田勝正の家臣だった。織田信長の上洛時、勝正は信長に臣従する道を選んだので、村重もまた信長に従うようになる。 村重にとって運命の分かれ道になったのは、主家である池田氏の内紛だった。その中で村重は池田一族として認められるほどに力を増し、また主君であった勝正も追いやり、信長から摂津一国の支配を認められた大名になりおお…

【戦国時代の境界大名】小笠原氏――名門武家、宿願のために三英傑の元を渡り歩く

…。信長が京の本能寺で明智光秀に殺されてしまったのだ。その結果、信濃は周辺諸大名――上杉、北条、徳川による草刈り場となってしまう。かつての小笠原氏の本拠地である府中深志のあたりは上杉氏の支配地となり、小笠原一族で貞慶の叔父である洞雪が入った。 これに対して旧領奪還を目指す貞慶は、徳川家康の支援を受けて再興活動を開始。洞雪と上杉家臣団が地元の国人たちからの信頼を失っていたこともあり、この年のうちに深志城を奪い取ることに成功した。この時に深志を松本と改名し、深志城も松本城となり、そ…

明智光秀と赤井直正――あるいは光秀の前に立ち塞がった壁

…時の織田軍の司令官が明智光秀である。 このときのいわゆる「第一次丹波攻略」において、直正は光秀をかなり苦しめた。光秀の軍勢が丹波にやってくるや、但馬攻めからすぐに戻って本拠地の黒井城に戻って立て篭もり、ついに翌年まで粘って波多野氏の援軍の力も借り、織田軍を追い返してしまったのである。直正は『甲陽軍鑑』に「名高キ武士」としてその名を記されている(しかも彼に続く形で長宗我部元親、徳川家康、松永久秀と名だたる名将たちの名が上がっている)のだが、それはこの時の奮戦のおかげかもしれない…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…月後、信長が本能寺で明智光秀の謀反により、討たれたのである。全国平定まであと一歩と思われた織田政権は一気に空中分解し、家臣団が信長の後継者の座をめぐって相争うようになった。 そして、信長の死の直前に織田支配下となった甲斐・信濃は空白地域となり、周辺の大大名――上杉・北条・徳川による草刈り場となってしまう。当然ながら真田氏が拠点とする小県郡も例外でなく、以後、真田氏は生き残るために困難な立ち回りを求められるようになっていくのだ。それはまさに本書で紹介している数々の境界大名たちと…

明智光秀と細川忠興――あるいは太平のための裏切り

…は、父とともに義父・明智光秀ではなく羽柴秀吉に味方することを選び、妻も蟄居させてしまった。以後は隠居した父に代わって細川家当主となって秀吉に味方し、またその秀吉の赦しによって、たまを再び手元に戻した。 豊臣家臣としての忠興は加藤清正・福島正則らとともに武断派の主要人物として数々のいくさで活躍し、国内での戦いだけでなく朝鮮出兵にまで参加している。しかしそれゆえにか石田三成ら文治派と対立することになった。結果として忠興たち武断派は徳川家康に味方して「関ヶ原の戦い」で東軍につき、家…

【戦国時代の境界大名】亀井氏――毛利氏との御家再興をめぐる死闘に転機到来!?

…入った茲矩・幸盛らは明智光秀の指揮下に入り、大和国(奈良県)の松永久秀攻めで活躍して大いにその名を上げている。 さて、天正5年の織田氏といえば、浅井・朝倉といった仇敵をすでに打倒し、かつて傀儡とした将軍足利義昭を追放して中央の地ならしを終えて、いよいよ各地方にその触手を伸ばそうという頃合いである。当主である信長は中央に睨みを利かせ、大きな権限を与えられた重臣たちが方面軍を率いて各地方を攻略した。そして、中国地方に送り込まれたのが羽柴(豊臣)秀吉で、天正5年にはすでに播磨(兵庫…

明智光秀と斎藤利三――あるいは運命共同体

…ちで、史料によっては明智光秀の妹あるいは叔母の子であるという。 美濃の生まれで、斎藤義龍に仕え、その後稲葉一鉄の元に移った。一鉄の娘あるいは姪を妻に迎えたというから、かなり重く扱われていたのではないか。信頼できる史料において彼の名前が初めて登場するのは『信長公記』で、1570年(元亀元年)の金ヶ崎撤退戦の直後、一鉄のもとで一揆の鎮圧などに働いたことがわかる。 ところが、利三は一鉄の元を離れ、同じ織田家中の光秀の家臣になった。原因はわからない。何かの方針や待遇で対立したのか、そ…

明智光秀とたま(ガラシャ)――あるいは父譲りの激動の運命

…れた人である。彼女は明智光秀の娘であり、細川忠興の妻であり、そしてキリシタンであった。この三つの要素がガラシャを激動の運命へ投げ込むことになる。 ガラシャは明智光秀の次女(三女とも)で、玉あるいは玉子としてこの世に生まれる。1579年(天正7年)に彼女が光秀の主君である信長の斡旋によって細川藤孝の嫡男・忠興と結婚することになったのは、光秀と藤孝の繋がりを思えば当然のことであったろう。両者はともに元幕臣であり、織田家の同僚としても付き合いが深い。この婚姻は家臣同士の結束を強める…

明智光秀と朝倉景鏡――あるいは誰のための裏切り?

朝倉景鏡は越前の名門、朝倉一族の生まれである。本家当主・義景の従兄弟にあたり、大野郡の郡司を務めるとともに、朝倉軍が畿内へ出兵して織田家らと戦うときにはたびたび大将を任せられた。金ヶ崎の戦いで逃げる織田軍を追撃したのもこの景鏡で、基本的に越前を離れない義景に代わって前線での指揮を行う、一族の中でも重要な立場の人間だったことがわかる。 そんな彼だから、織田軍が義景の本拠地・一乗谷に迫った時、義景に「平泉寺(へいせんじ)に逃げて態勢を整えよう」と進言するのは当然のこと、と周囲の人…

明智光秀と三条西実澄――あるいは文化と権威の意味

三条西実澄(さねずみ、実枝(さねき))は三条家の庶流、正親町三条家の分家の出身である。京で生まれて権大納言にまで登ったが、長い間駿河へ下っていた時期がある。最終的には内大臣にまで出世し、戦国時代末期(織豊時代)の朝廷政治に深く関わった人物のひとりといえよう。 ただ、三条西実澄について語るのであれば、そのような政治家としての顔ばかり見ているわけにはいかない。彼の文化人――歌人としての顔に注目する必要がある。戦国時代後期、三条西家は実隆・公条・そしてこの実澄と立て続けに優れた歌人…

明智光秀と武田信玄――あるいは「信長にとっての脅威」

武田信玄(晴信)。言わずと知れた戦国時代の大スターのひとりである。三英傑やその周辺の人々を主題にした大河ドラマでは必ずと言っていいほど出てきて、恐るべき存在として描写される人物だ。どうしてそうなるかといえば、戦国時代後期において彼の存在がそれだけ大きかったからである。 武田氏は鎌倉時代より続く甲斐源氏の名門だが、戦国時代初期には内紛が激しく、甲斐一国も掌握できていなかった。しかし信玄の父・信虎の代に統一を回復、信濃への進出を画策し出す。その悲願が達成されたのは信玄の代――とい…

明智光秀と明智光慶――あるいは運命をともにした親子

…・細川藤孝に送った「明智光秀覚条々」と呼ばれる手紙の中に彼の名前が出てくるのだ。この手紙の中で光秀は私心による謀反ではないと主張し、状況が落ち着いたら藤孝の子の忠興や我が子・十五郎(光慶)らに立場を譲る(だから自分に協力してくれ)、と訴えているのである。結局藤孝らが光秀に味方することはなかったわけだが、光秀としては息子に期待するところは大きかったのではないか。 さて「本能寺の変」の時、光慶が何をしていたのかは諸説ある。父の行いを嘆くあまりに病死してしまったとか、もともと病の床…

テレビ番組「キャスト」で御城印特集が放送されました

…アップされました! 明智光秀ゆかりの城をめぐる新たな旅の楽しみ方(約15分の動画ですが、YouTubeのサイトでのみ再生できます) これで放送エリア外のみなさんにも見ていただくことができますし、公式動画なので堂々と紹介できるのもありがたいですね。 期せずして、半年以上かけての一大企画に 番組内でもナレーションがありましたが、もともとは4月に取材していました。カレンダーを見返すと4月1日に岐阜の明智城とうちの自宅を撮影、翌2日に福知山城と勝龍寺城にいってますね。 しかし新型コロ…

明智光秀と覚恕法親王――あるいは比叡山焼討ちの真実

覚恕は皇族出身の天台宗僧侶だ。一般に「覚恕法親王」と呼ばれる(法親王は出家した皇族が親王宣下を受けた場合の呼び名)が、史料を調べても親王宣下を受けた痕跡が見つからない。このように呼ぶのは後世の通称であろう。ただ、准三宮、つまり太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に準ずる称号の宣下は受けていて、その省略形である「准后」の名では呼ばれたようだ。 彼の名前は1571年(元亀2年)のある有名な凶事と関係して語られる。すなわち、織田信長による比叡山焼討ちだ――。覚恕の父は後奈良天皇であ…

明智光秀と筒井順慶ーーあるいは日和見は真実か否か

…なったのが誰あろう、明智光秀であった。 順慶が織田についたのは当然、父以来の支配地である大和を取り戻すのが目的であったはずだ。当初、大和守護の座は松永久秀、ついで塙直政(原田直政)に与えられたが、久秀は裏切り、直政は討ち死したので、ようやく順慶が大和の支配を任せられることになった。ただ実際には支配関係は複雑であり、なにより順慶の上には光秀がいたので、単純に彼こそが大和の支配者だ、と見るわけにもいかないようだ。1581年(天正9年)に行われた有名な京都御馬揃え(軍事パレード)に…

明智光秀と浅井長政ーーあるいは「不安」が背中を押したのか?

…るのは我らが主人公・明智光秀、また摂津守護の池田勝正の二人である。同盟者として参陣していた徳川家康もこれに加わったという話が有名だが、実ははっきりしない。 その後、長政は朝倉義景とともに信長包囲網に参加し、信長をたびたび苦しめることになる。織田・徳川連合軍が近江を攻めたときに浅井・朝倉連合軍が迎え撃った「姉川の戦い」で敗れもしたが、数年にわたって信長にとってかなり厄介な存在だったのは事実であろう。しかしついに朝倉氏とともに織田の軍勢に敗れ、居城の小谷城を攻め落とされて死ぬこと…

戦国時代、最大規模の合戦は?

…jp ちなみに秀吉が明智光秀をやぶった「山崎の戦い(山崎合戦)」では羽柴軍4万余騎、明智軍1万6000余騎と両軍あわせて5万6000人、柴田勝家をやぶって信長の後継者闘いに勝利した「賤ヶ岳の戦い(賤ヶ岳合戦)」では羽柴軍5万余騎、柴田軍3万余騎と両軍あわせて8万人とそれほど大規模ではありませんが、これは大名家同士の合戦だからでしょうね。 唯一、秀吉と家康が争った「小牧長久手の戦い(小牧長久手合戦)」は羽柴軍10万余騎、徳川軍3万余騎と両軍あわせて10万人をこえています。 家康…

明智光秀と正親町天皇ーーあるいは信長への恨みはあったのか?

正親町天皇は室町時代末期から織豊時代、つまり織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑の時代の天皇である。 武家政権の成立からすでに400年あまり、この時期の朝廷は政治の実権など既になく、それどころかうち続く戦国乱世のせいで象徴・権威としての役目さえ覚束なくなっていた。正親町天皇からして、践祚(皇位を継承すること)はしたが即位(践祚を公表する儀式)ができず難儀した。資金がなかったからだ。結果、践祚の三年後に中国の雄・毛利元就の援助をうけてようやく即位が実行される始末である。このよう…

明智光秀と摂津晴門ーーあるいは能吏同士

片岡鶴太郎さん演じるなんとも得体の知れない人物として『麒麟が来る』に登場したのが摂津晴門。鎌倉時代以来の能吏(優れた役人のこと)の一族に生まれた男である。室町幕府において摂津氏は将軍宣下の奏者を代々務めていたというから、要職と言っていいだろう。今回のドラマではこのような点から「幕府の黒幕」的な掘り下げをしていくのではないか。 晴門はいつ生まれて死んだのか、正確なところがよくわからない。摂津氏の当主、摂津元造の嫡男であることは間違いない。1500年(明応9年)から1510年(永…

明智光秀と三好三人衆ーーあるいは畿内混乱の原因?

…将軍を襲った。しかし明智光秀ら幕臣たちの守りは固く、そこに援軍も駆けつけて、三人衆の軍勢は敗れて京を落ち延びることになったのだった。 それでも三人衆は反信長の旗を下ろさず、また信長と義昭および浅井朝倉両家の対立が始まると義昭に味方し、信長包囲網の一翼を担った。しかし、そのように三好三人衆が活躍できたのも数年のうちのことであった。やがて三人衆のうち友通は一度信長に降参するも、義昭に味方してその挙兵に参加、敗れて討ち死している。政勝についてはいつ死んだかわからないとも、1569年…

明智光秀と今井宗久ーーあるいは畿内の実力者たち

今井宗久は戦国時代末期の豪商であり、またこの時期を代表する茶人・文化人のひとりでもあった。もとは近江の土豪に生まれたが、若くして堺へ出て商人になる道を選んだ。この頃の堺は流通・商業の要地として発展しており、周辺から独立した自治都市になっていた。その活気が彼を引き付けたのであろうか。やがて納屋衆(倉庫の貸し付け業)として頭角を表す一方で、茶人としてもその名を知られていくことになる。 堺は商人たちがトップに立つ自治都市であったが、むしろ自治都市であるからこそ、堺の商人たちは政治と…

細川藤孝と麝香のなれそめについて調べたら足利将軍が出てきた

…というか黒田官兵衛、明智光秀といい、側室を持たないとされる武将はけっこういるので、そう珍しくもないのかも) 主君の命により家臣の子ども同士が結婚することも当時は珍しくない話で、じっさい藤孝の嫡男である忠興は明智光秀の娘・たま(のちのガラシャ)と結婚するわけですが、この間を取り持ったのも両者の主君である織田信長でした。 冒頭の肖像画は藤孝と麝香のものですが、一般に没後描かれた肖像画(=遺像 ゆいぞう)は左向きで、存命中に描いた肖像画(=寿像 じゅぞう)は右向きとされるのですが、…

明智光秀と足利義栄ーーあるいは「ライバル未満の存在」であっても

…う人である。もちろん明智光秀との関係性など特別なものがあろうはずがない。彼が奉じた義昭のライバル未満の存在……そんなところだろう。そんな彼にも人生があり、理想があり、目的があったはずだ(例えば「麒麟が来る」で義昭が将軍になって人々を救う道を探しているように)。歴史学の研究ではおそらく明らかにならないようなそんなことを、ドラマを見ながら想像してみるのも歴史の楽しみの一つであろう。なお、阿波公方(館の在地から平島公方とも)の血筋は、義栄の死で絶えたわけではなかった。義栄の弟の義助…

明智光秀と足利義昭――あるいは選ばなかった主君

…三・織田信長と並んで明智光秀に大きな影響を与えたと思われる歴史上の人物。それが足利義昭である。のちの「本能寺の変」の黒幕のひとりという説も根強い義昭は、光秀にとってある時期の主君でもあった。義昭は足利義輝の弟で、将軍(義晴)の子として誕生した。幼いうちから興福寺に預けられて僧侶・覚慶となった。しかし兄が三好三人衆らにより殺害されると興福寺で監禁状態に追い込まれた中で、兄の後を継いで将軍になる決意をする。細川藤孝らに救出された彼は近江、若狭と各地を転々とし、越前へ逃れた。この過…

明智光秀と斎藤龍興ーーあるいは越前でニアミス?

斎藤龍興(竜興)は「麒麟がくる」前半の主要キャラクターとして大活躍した斎藤義龍(義竜、作中では高政と呼ばれることが多かった)の息子だ。彼が大名となったのはわずか15歳のときだった。父の義龍が突然病死してしまったからである。それから数年で斎藤家に従っていた家臣たちが次々と離反し、以前から美濃を伺っていた織田信長も侵攻を開始。龍興は美濃を追われ、戦国大名斎藤家は三代で滅亡となってしまった。 彼は後世様々な物語でその凡庸さを指摘されるが、幼くして一国の大名とならざるを得なかったこと…

「光秀と信長―天下布武の道―」参加レポート

…寺 5 本能寺 4 明智光秀邸 2 清水寺 1 東寺 1 知恩院 1 不明 3 合計 49 配布資料に記載の表には明智光秀邸の2回が記載されてなかったのですが、同時に掲載された年表にはあったので、合計が49になるようにぼくが追加しました。 信長は足利義昭を奉じて入京してから「本能寺の変」で討たれるまでの15年間において、49回の上洛が記録されています。平均で年3回以上とすごく多いのですが、それは京都に拠点(居城)を築かなかった、信長と京との心理的距離感を表してもいるとのことで…

「細川幽斎『古今伝授』と『天下統一』」参加レポート

…長で直接のやり取りは明智光秀がおこなったとされていますが、藤孝自身も美濃に足を運んでいた記録があります。おそらく光秀は藤孝の同僚または部下として動いていたと考えられます。 結果として信長・義昭の連合政権は数年で瓦解(義昭の入京は1568年、追放されたのは1573年)、藤孝は信長につくことを選ぶ。このとき勝龍寺城を任されたことが大名としての細川家のスタート。 摂津、河内、大坂で一向一揆(百姓と武士の武力対立)と戦う中、古今伝授を受ける。 この頃の織田家はいわゆる包囲網状態にあり…

明智光秀と山崎吉家ーーあるいは、越前時代に縁はありやなしや

…である。 この吉家と明智光秀の間に、何か関係があったのか。史料としては痕跡を見つけられなかった。ただ、朝倉家の外交に大きな責任を持つ吉家が、光秀と何の接触も持たなかった、というのはちょっと考えられない。なにがしかの関係はあったのではないか。しかもこの辺、私たちの想像を逞しくさせてくれる手がかりが存在する。すでに紹介した通り、吉家は主君・朝倉義景と運命を共にした。彼の嫡子も、ほかの山崎一族も、その多くが同じ戦いで討死している。ところが吉家の弟・吉清の子の長鏡(改名して長徳)は生…

明智光秀と近衛前久――あるいは「本能寺の変朝廷陰謀説」?

いよいよ放送再開した「麒麟が来る」にあわせて、本連載も再開する。その第一弾はすでに劇中にも登場している公家、近衛前久である。なるほど、戦国時代第一の主役は武士であるかもしれない。彼らの武力こそがこの動乱の時代を動かし、そしてやがて収束へ向かわせていったからだ。だが、百姓、商人、僧侶、そして公家といった人々もそれぞれにこの時代を生き、時に武士以上の活躍をすることもあったのは事実だ。近衛前久はまさに、並の武士以上に戦国時代を動かしたうちのひとりである。 彼が生まれた近衛家は藤原一…

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