攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

桶狭間の戦い の検索結果:

【家康の謎】家康は戦に強かったの?

…いのか。具体的には「桶狭間の戦い」は家康にとって敗北なのか、あるいは大高城への兵糧入れに成功したから勝利なのか。また、戦国時代の合戦は複数の戦いがまとまってひとつの戦いに計算されるものが多い(関ヶ原の戦いなどはまさにそうだ)が、どの戦いは別にし、どの戦いはひとつにまとめる基準はどうするか。そのため細かい数字は人によって変わるだろうが、とりあえず家康がたくさん勝った武将だったことは動かないだろう。ただこれも「そりゃ天下人になるためには負けっぱなしというわけにはいかないだろう」と…

細川玉子さんによる「瀬名様と信康様の軌跡を辿る、岡崎の旅」

…府で過ごしましたが、桶狭間の戦い後に、今川方の鵜殿氏長殿・氏次殿との人質の交換により瀬名様と共に家康様の元に戻り、岡崎へ移ります。この人質交換のお話は、どうする家康でも話題になりましたね。 その後、1567年(永禄10年)に9歳で、信長様の娘で同じ年齢の五徳姫様とご結婚され、岡崎城で共に暮らされます。同年6月には家康様が浜松城へ移られ、岡崎城を譲られることに。この時、瀬名様も嫡子生母として岡崎城に入られたそうです。さらに1570年(元亀元年)、わずか11歳で、岡崎城主となられ…

たかまる。さんの連載「家康の合戦」の最終回を記念して攻城団テレビで生配信しました

…カウントされている「桶狭間の戦い」はあくまでも織田vs今川の合戦であり、家康(当時は松平元康)はそのイチ武将にすぎなかったわけで、しかも大高城の兵糧入れにはいちおう成功していることを踏まえると敗北に数えるのはかわいそうな気もします。 また上田合戦などもそうですね。たしかに徳川軍は負けてるけど、家康自身は参加していません。これは信長にとっての手取川の戦いもそうです。チーム徳川、チーム織田が負けた以上、監督として勝敗の責任を負うのはわかるけど、ちょっともやもやします。一方で秀吉軍…

【家康の謎】家康は何回名前を変えてるの?

…である。この3年前に桶狭間の戦いで今川義元が討死し、嫡男の氏真が跡を継義はしたものの、今川氏内部に少なからず混乱が起きた。その中で家康は今川氏から離反して独立大名の道を進み、ついにこの年、「元」の一字を捨て「家康」と名乗ったのである(「家」の一字は伝説的な源氏武者である八幡太郎こと源義家にルーツがあるともされるが、はっきりしない)。名前にはその人の人生と立場が現れるのだ。 なお、諱の変更について手続きが必要だったかどうかはよくわからない。公家については文書による正式な手続きが…

【家康の謎】家康の旗印にある「厭離穢土欣求浄土」の由来や意味は?

…説だ。それによると、桶狭間の戦いの後、大高城から逃れて岡崎へやってきた家康はこの大樹寺にある松平氏の墓の前で切腹しようとした。しかし登誉は押し留め、「厭離穢土欣求浄土」と書かれた旗を渡し、仏教の教えを説いたのである。家康も武将だから人を殺し、敵を攻撃するのが当然だが、それは一体何のためにするのか。それは最終的には万民のために、人々の苦しみを無くすためなのだ、というのである。家康は大いに感じ入り、以来「厭離穢土欣求浄土」の旗を掲げて戦場へ出るに至った、という。この説が有名なのだ…

【家康の謎】家康は桶狭間の戦いのあと、なぜ駿府に戻らなかったの?

桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、家康は大高城を引き払って故郷の岡崎へ向かった。ところが父の城であった岡崎城には入らず、まず松平氏の菩提寺である大樹寺へ入る。当時の岡崎城には今川方の城代が入っていて、家康がそのまま入ることはできなかったからだ。その城代が駿河の方へ引き上げていく。つまり「捨てた」ということだ。捨て城であるなら拾ってしまっても構わないだろう――そのように理論武装、言い訳を用意した上で、家康は岡崎城に戻った……以上が、いわゆる通説における家康の岡崎城への帰還…

【家康の謎】大高城の兵糧入れってそんなに大変だったの?

…城の兵糧入れ」とは、桶狭間の戦いに関連して家康(当時は元康)がこなしたとされる任務のことだ。これは非常に危険な任務であったとされ、神君・家康の武勲史における輝かしい最初の1ページとして長く親しまれてきた。なお、この出来事は桶狭間の戦いの前年にあたる1559年(永禄2年)であったとする説もあるが、同年であったとするほうが一般的であるようだ。 桶狭間の戦いに先立つ今川義元による一連の尾張圧迫において、大高城は熱田にも近い重要な前線基地と見なされていた。逆に言えば敵(この場合は織田…

【家康の合戦】三方ヶ原の戦い 家康惨敗!信玄にコテンパンにやられた戦い

…としていた今川義元が桶狭間の戦いで敗れて討死します。桶狭間の戦いがあったからといってすぐに今川家が滅亡したわけではなく、義元の跡を継いでいた今川氏真が支配をつづけていました。ここで武田信玄は家康と密約を結び、大井川を境として東の駿河を武田領、西の遠江を徳川領にしようと画策し、攻め取ることにしたのです。 1568年(永禄11年)12月に信玄は駿河に侵攻、家康もすぐさま遠江に侵攻し、約束通り大井川を境として奪い取ることに成功しました。これまでは武田と徳川は協力関係にありましたが、…

【家康の謎】家康のお母さんはどんな人だったの?

…とになった。その後、桶狭間の戦いの頃に家康は母と再会。異父兄弟を家臣として受け入れている。さらにずっと後の1602年(慶長7年)、家康に勧められて上洛し、時の後陽成天皇に謁見した後、間も無く病に倒れて京都で亡くなった。75歳のことである。 なお、水野氏の方はどうなったか。於大の方の兄・水野信元は織田傘下の武将としてとりあえずの安定を得たが、織田との関係は安定したものではなかった。次第に信長が信元を見る目は厳しくなり、ついに重臣・佐久間信盛の進言がきっかけになって、信元は殺され…

【家康の合戦】桶狭間の戦い 家康の大きな転機となった戦い!

桶狭間の戦いは、駿河・遠江・三河を領有し、強大な力を持つ今川義元を、尾張の武将である織田信長が打ち破った戦いとして有名です。当然のことながら、織田信長のサクセスストーリーとして描かれることが多い戦いですが、家康(この当時は松平元康)も大きく関わり、そしてターニングポイントになった戦いとしてもよく知られています。ここでは、元康がどのような働きをしながらどのようなターニングポイントを迎えたのかを見てみましょう。 大高城兵糧入れと丸根砦の攻撃 桶狭間の戦い前夜の情勢(国土地理院地図…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…ようとしていたとか、桶狭間の戦いは奇襲だったとか、40年以上前に出た本なので現在では否定されている説が多く採用されています。 番組で使用したスライドを並べておきます。赤字はぼくのメモです。 そのあとあらためて家康の生涯を振り返りつつ、分岐点になったかもしれないポイントをいくつかピックアップして榎本先生とあれこれ話をしました。これも詳しくは動画を見ていただきたいのですが、事前に用意したあんちょこを貼り付けておきますね。ちょっと長いですがご容赦ください。 どうした家康 進行用の年…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…がありますが、ようは桶狭間の戦いで今川義元は討死したものの今川家は滅亡していないので有名な合戦での大敗は大名家の滅亡と直接は関係していないんじゃないのかという仮説の検証をおこないました。 もちろん例外はあって、蘆名家のように摺上原の戦いで伊達家に敗れるとそのまま滅亡してしまったケースもあるのですが、姉川の戦い(1570年)で敗れた浅井家・朝倉家の滅亡は3年後、長篠の戦い(1575年)で敗れた武田家の滅亡は7年後、上述の今川家にいたっては桶狭間の戦い(1560年)からなんと9年…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…川義元軍の先陣として桶狭間の戦いに出陣します。この戦いによって義元が打ち取られて今川が敗走すると、今川の手に渡っていた岡崎城に入城しました。さらには今川より独立していきます。その後は、今川義元を打ち取った敵であり、元康にとっても敵方となっていた織田信長と和睦して清洲同盟を結び、家康の手で三河を平定することに成功したのです。 徳川家康への改名 元康は1566年(永禄9年)に、源氏の一族である新田氏から連なる徳川復姓と従五位下(じゅごいのげ)・三河守(みかわのかみ)叙任が朝廷より…

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

…織田信長に仕える。「桶狭間の戦い」にも参加し、戦功を上げていた。墨俣一夜城のために秀吉が正勝に会いに行く……というのは後世の創作である。また、同じように少年時代の秀吉(日吉丸)を矢作橋(やはぎばし)で助けたという逸話も、その当時には矢作橋がないために創作であったと考えられる。この頃は橋が架かっておらず、渡し舟によって人々は行き来をしていたのだ。 1567年(永禄10年)の稲葉山城攻めの際に秀吉の配下となり(一説には秀吉摩下となったのは1573年(元亀4年)のこととも)、以後大…

【戦国軍師入門】太原雪斎――家康にも影響を与えた、今川家の軍師僧

今川義元といえば「桶狭間の戦い」で信長の奇襲に敗れた人、というイメージしかないかもしれない。だがこの今川義元、実は絶頂期には駿河・遠江・三河から尾張の一部(現在の静岡県、愛知県東部及び愛知県西部の一部)を支配した、当時有数の勢力を持つ戦国大名だった。武田信玄が激しく警戒し、家康の前に「海道一の弓取り(東海道で一番の武将の意味)」と呼ばれ、「天下に最も近い男」とも呼ばれていた男、と言えば彼がどれほどの人物であったのかが伝わるだろうか。その今川義元の師であり、軍師でもあったのが太…

【10大戦国大名の実力】最後に――「家を守る」ために

…を狙っていた今川家は桶狭間の戦いで打倒することができた――なるほど織田家が伸びるわけであり、その他の大名たちが天下に届かなかったわけでず。このような「地方の悲劇」「立ち位置がもたらす幸運」もまた、現代でもよく見られる光景でしょう。 なるほど『織田信長に学ぶ○○』とか『孫子の兵法でひも解く××』といったビジネス書の類が何冊も刊行され、私にもこうした本を書くチャンスが回ってくるわけだ、とひとりで納得してしまったものです。しかも、戦国という時代は私たちの生きる現代と似通った部分がか…

【10大戦国大名の実力】斎藤家③――下剋上から滅亡まで

…幼すぎた。義龍の死は桶狭間の戦いの翌年にあたる。この頃の信長はすでに尾張をほぼ統一し、また強敵・今川義元を倒した後なので、喜んで美濃攻めの兵をあげた。織田軍と斎藤軍は森部で激突し、織田の圧勝に終わった。ところが、勝った方の織田軍も斎藤軍の粘り強い抵抗にあって致命傷を与えるまでのことはできなかった。義龍がきっちり美濃の国人衆をまとめあげていたことが、彼の死後にも生きたのであろう。 こうして再び織田と斎藤がにらみ合う状態になったわけだが、どうやら龍興には祖父や父のような才覚が欠け…

【10大戦国大名の実力】織田家②――尾張における下剋上と弾正忠織田家の台頭

…うたわれた今川義元を桶狭間の戦いで破り、隣国美濃の斎藤家を滅ぼすと、松永久秀らにより京を追われた足利義昭を奉じて上洛。その義昭と対立して、「信長包囲網」と通称される諸大名の連合軍に周囲を包囲される危機に陥るも、各個撃破によってこれを打倒。近畿を中心に強大な勢力を築き上げると各地に遠征軍を派遣し、天下統一まであと一歩と迫ったところで重臣中の重臣だった明智光秀の謀反により、京の本能寺で倒れた。享年49歳、桶狭間の戦いで出陣する前に信長が歌い舞ったことで有名な「敦盛」の「人間(生)…

【戦国時代の境界大名】奥平氏――家運が開いた運命的な活躍の場とは?

…0年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」において、奥平氏は松平元康(徳川家康)の麾下に入って、大高城(名古屋市緑区)への兵糧運び入れに参加したり、丸根砦(名古屋市緑区)攻撃に加わったことが『寛政重修諸家譜』に記されている。この戦いで今川義元が討ち死にし、徳川家康が織田氏と結んで今川氏と対立・独立を果たすと、奥平氏ら作手の諸将もまた今川氏を見限って徳川についた。 この頃までにだいたい50年ほどの時が過ぎ、奥平氏の当主も貞昌・貞勝・貞能と代替わりをしていた。貞能(1537―98)は徳川…

【戦国時代の境界大名】水野氏――天下の趨勢を見極めながら動乱を生き抜き、譜代大名の中核に

…きとしては、義元が「桶狭間の戦い」で織田勢に討たれた後、孤立した元康に撤退を働きかけて、その命を救ったことがある。これが次なる展開に続くのだが、その前に信元に命を救われたはずの元康が水野氏の所領に攻撃をかけてきたり、別の今川旧臣によって刈谷城を攻め落とされてしまったりと、「桶狭間の戦い」後もしばらく信元にとって気が休まらぬ時期は続いたようだ。 そして、1561年(永禄4年)、織田信長と松平(徳川)元康が同盟を結んだ。信長に同盟について進言し、直接仲介も務めたのが誰あろう信元で…

【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

…く出陣した今川軍が「桶狭間の戦い」で信長率いる織田軍に一敗地にまみれ、義元が討ち死にしたのだ。 この戦いに井伊氏も加わっており、当主の直盛が戦死している。しかし、すぐにあの直親が立っているので、井伊一族にとって戦の傷そのものはたいしたことがなかったといっていいだろう。最大の問題は、駿河・遠江・三河の三カ国をまとめていた今川氏の支配力が、桶狭間での大敗と義元の死を機に一気に緩んだことだ。義元の後を継いだ氏真に、広大な今川氏勢力範囲を取りまとめる器量はなく、まず最も遠い支配地であ…

戦国時代、最大規模の合戦は?

…ますか? たとえば「桶狭間の戦い(桶狭間合戦)」は、今川軍25000余騎、織田軍2500余騎で、合計すると27500人といったところです。 ちなみにこの数字には諸説ありまして、今川軍45000、織田軍5000、という説もありますが、いずれにせよ両軍あわせて3〜5万人が参加したということになります。 『尾州桶狭間合戦』歌川豊宣画 大規模な合戦としてぱっと浮かぶのが「関ヶ原の戦い(関ヶ原合戦)」ですよね。 これは東軍(徳川軍)75000余騎、西軍(石田軍)80000余騎ということ…

【戦国軍師入門】4.「戦略」と「戦術」の違い

…勢力を誇った今川氏も桶狭間の戦いで当主の義元が討ち死にすると、ほぼ取り込んでいたはずの三河の松平元康(後の徳川家康)が独立を宣言し、これが今川氏の滅亡へとつながっていくわけだ。同じく、精強な騎馬軍団を率いた武田勝頼も、長篠の合戦で父・信玄以来の有力な家臣を多数失い、その後は豪族たちがどんどん離反してあっけなく滅んでしまった。 大名を支えた豪族たちは必ずしも強固な忠誠心を持ってはいなかった。だから、御家騒動や総力戦での敗北といった、勢力が大きく弱体化するような出来事があると、事…

掛川城 今川氏の終焉をむかえた城

…永禄3年)に起きた「桶狭間の戦い」で尾張の織田信長に敗れて討死している。若くして嫡男の氏真が跡を継いだ。が、前途多難であった。1562年(永禄5年)には、それまで今川氏に仕えていた三河の松平元康(徳川家康)が織田氏の力を借りて独立を図った。氏真はこれを阻止しようとしたが失敗に終わっている。やがて三河は松平氏が治めるようになった。 さらに氏真は人心掌握をうまくやれず、家臣たちは今川家を離れ、他の大名に臣従している。この状況を知った武田信玄は氏真の父・義元と結んだ同盟を破棄。15…

斎藤道三と高政の親子がギスギスしていた頃、関東では北条家が圧倒的優位に立っていた

…竹氏のような強敵もいたが、北条氏の優勢は変わらないように見えた。 また、1554年(天文23年)には別の大きな出来事も発生している。甲斐の武田、駿河の今川、そして北条の三家が同盟を結んだのだ。この結果、今川氏は北と東を警戒しなくていいようになり、西に向かって勢力を拡大する。そう、三河と尾張である。第20回と21回で描かれた1560年(永禄3年)の今川氏による尾張進攻とそのあっけない終わりーーすなわち「桶狭間の戦い」は、このような政治的な動きと連動して起きた事件とも言えるのだ。

2.譜代家臣団の成立

…0年(永禄3年)、「桶狭間の戦い」で今川義元が織田信長に敗れると、家康は今川家のもとを離れ、岡崎城に戻って自立する。さらに信長と同盟関係を築き、この頃から家康と名乗るようになった。 1566年(永禄9年)、家康は朝廷から勅許(許可)を受け、姓を徳川とした。これには源氏の末裔が三河に流れ着いて松平家の先祖になったというエピソードがバックボーンになっているが、真偽は怪しく、家康の外交戦略の一環であるとされる。その後、今川家の領地だった遠江国を平定し、居城を浜松に移した。それからも…

1.戦国大名の誕生

…的な決着がついたのは桶狭間の戦いよりさらに後、斎藤龍興と美濃を巡って争う中でのこと!)ことを考えれば、同じ一族であっても気を許すことはできなかったといえる。 「大義名分」は大名の命綱 このような事情から、戦国大名たちは自らの政治権力を強化・安定させるために様々な手を打っていった。 たとえば、戦国大名たちの多くは「大義名分」を重視し、自らの権威を増大させようと苦心した。一例として、戦国武将はしばしば朝廷や幕府に働きかけて官位や役職などを得る、あるいは勝手に自称したりした。実際に…

「麒麟がくる」第14回に登場した緒川城はどんなお城か

…再開します。のちの「桶狭間の戦い」にも通じるのですが、この時期に信長と今川義元の間では尾張と三河の境界に位置する城主の調略(と威圧)が本格化し、寝返りによって敵味方の勢力図と境界線が刻々と変化しています。 緒川城を守る水野信元は織田方についていましたが、今川方の侵攻により城は孤立し、すぐそばに村木砦を築かれたため落城は免れないということで信長に救援を求めています。信長と信元は村木砦を背後から攻撃して、撃退に成功しました。 緒川城――正確には「緒川古城」―― じつは緒川城はふた…

明智光秀と今川義元――あるいは貶められたイメージ

…元最後の戦いとなる「桶狭間の戦い」も、実はこの争いの延長線上にあった。後世しばしば「義元が上洛して天下を取るための戦いであった」と語られるが、実際には尾張獲得が目的であったようだ。だが、この戦いこそが名将の命取りになる――。 これほどの大名の評価がここまで低いのはなぜだろう。ひとえに、織田信長の立身出世物語において敵役として必ず登場する、そのポジションが原因であろう。物語としてのわかりやすさ、信長との対比から、滑稽なキャラクター性が付与されたものと考えられる。そんなところは、…

明智光秀と徳川家康ーーあるいは本能寺の引き金

…めに戦ったが、義元が桶狭間の戦いで信長の前に倒れるや、旗幟を変えた。今川の支配下から独立して信長と同盟を結び、以後織田家にとって最も重要な同盟者(実質的には傘下の大名と見る向きもある)として信長の活動を支えることとなったのだ。 この時代の家康について、光秀と深く関わるエピソードがいくつかある。一つは、金ヶ崎撤退戦の時のことだ。越前・朝倉家攻めの最中に妹婿である浅井長政の裏切りにあった信長は、しんがり(撤退の最後尾で敵の攻撃を受けながら引き下がる役目)として幾人かの武将を残し、…

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