攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

籠城戦 の検索結果:

【プレゼントあり】日帰りで行ける福島の城と城下町めぐり〈CJ Monmo〉

…がらも1ヵ月にわたり籠城戦を耐えたことから〝難攻不落の城〞として知られるが、天守から走長屋、鉄門(くろがねもん)、南走長屋、干飯櫓までが連結された造りからも、その堅牢さが偲ばれる。本丸を中心に整備された「鶴ヶ城城址公園」も、内堀より内側のエリアはほぼ戊辰戦争当時の遺構を残しているため、散策しながら面影を探すのもおもしろい。また、公園内には千利休の子・少庵ゆかりの茶室「麟閣」や、鶴ヶ城をモデルに歌詞が書かれたという唱歌「荒城の月」の歌碑もあり見どころは多い。2023年4月28日…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…で居城を攻められての籠城戦の場合はそのまま滅亡になっているものの、野戦での敗戦――それも本拠地から遠く離れた遠征先での敗戦なら即滅亡にはならない確認はできたかなと。同時に即滅亡していない時点でその当主はけっして暗愚ではなく、むしろ歴代を振り返ってもトップクラスに有能だった可能性があることも正しく認識すべきだと思いました。大内義隆、朝倉義景、今川氏真、武田勝頼など家を滅亡させてしまった当主はどうしても無能で暗愚なイメージで語られがちですが、冷静に見ないといけませんね。(浅井長政…

【戦国軍師入門】大坂の陣――天下の大坂城を裸にした謀略

…臣軍は夏の陣において籠城戦術を使えなかったわけだから、策略・謀略によって合戦の勝敗が分かれた決定的なケースと言える。 ある時は敵軍の力を弱め、またある時は味方の士気を上げ、戦場ではよりよい状況を作って勝機を掴み、時には身を挺して主を守る、それが名軍師というものなのだ。しかし、軍師はあくまで主君を補佐する存在だ。だから、主と仲違いをして進言を受け入れられなかったりすると、どれだけの名軍師であっても力を発揮できないことになるので、名軍師は良い大将があってこそ、ということでもあるの…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話②――秀吉の一夜城(その2)・石垣山城

…た!」ことになった、というわけだ。 とはいえ、いくら短期間で築かれたとはいえ、小田原城側が石垣山城の工事の様子に全く気づかなかったということはないだろう。それでも、このような強固な城がわずかな期間で出現したということ自体に、小田原城側は危機感を覚えたはずで、小田原城落城に少なからぬ影響を与えていただろう。やがて、3ヶ月に及ぶ籠城戦の末に小田原城は開城した。その後、奥州仕置の帰りに秀吉が滞在し、小田原城主となっていた大久保忠世に石垣山城を与えた、と伝わる。 kojodan.jp

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく④――支城を漬され、大名の逃げた城・有岡城

…膠着状態にあったが、籠城戦が始まってから半年以上が経ったある日、事態は動いた。村重が有岡城をこっそりと脱出し、息子の村次が守る尼崎城に逃げ込んだのだ。救援を求めるための脱出だったとも言われているが、村重はそのまま有岡城に戻らなかった。城主がいなくなった有岡城は、織田軍に内応した者の誘導により、一気に惣構えの中にまで攻め込まれた。町を焼きながら織田軍が本城に迫ってくると、城に残っていた老臣たちは信長との交渉にあたった。その結果、尼崎城と花隈城を明け渡し、村重が出頭するのを条件に…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく③――支城を潰され、草木も食い尽くした城・三木城

…した別所方は、以降は籠城戦に徹することになる。これに対し、秀吉軍はまず支城や砦の類を徹底的に潰した上で、多数の付城を築いて三木城を包囲しての兵糧攻めの構えをとった。これに対して別所方は抜け穴などを活用してこっそりと兵糧を運び込もうと画策し、両者の間に裏の掻き合い、騙し合いが発生したようだ。別所方の思惑が次々と潰されたとも、あるいはうまくいって秀吉方が何度も煮え湯を飲まされたともいうが、少なくとも1580年(天正8年)の正月半ばまではもったわけだから、何度かは兵糧の運び込みに成…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく①――「力の差」に圧倒された城・小田原城

…た時のように、今回も籠城戦で対抗する作戦であった。しかし豊臣方の軍勢はあっという間に小田原城を取り囲んだ。持久戦に持ち込まれる中、城内では抗戦と和睦で意見が分かれ、いつまでも終わらない評定に、次第に城内の戦意は失われていき、兵糧も尽きてきた。余談だが、この時の評定の様子から「小田原評定」という、長引いてなかなか結論の出ない会議を意味する熟語ができた。 これで立て籠もり続けることによって情勢の変化が起こればまだよかったのだが、豊臣方にそのような隙はなかった。秀吉にとって経済力と…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑨――徳川本隊を釘付けにした城――上田城(第二次上田合戦)

…の東方に陣を敷くと、籠城戦が始まった。真田側はあらかじめ籠城戦を想定し、鉄砲や領民を城に収容して総力戦にあたる準備を整えていた。徳川軍の部隊は上田城に突撃を仕掛けるものの次々と退けられ、統率がとれていなかったために大きな被害を出してしまう。秀忠は一度退いて態勢を整えようとしたが、そこに家康から兵を引き揚げるよう命令が入った。美濃の方面の戦局が切羽詰っているため、すぐにそちらに向かわせようとしたのである。しかし結果的に秀忠は間に合わず、関ヶ原の戦いに参陣できなかったという大失態…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は⑦――囮としての役割を果たした城・伏見城

…けるとわかって、なお籠城戦に挑んだ戦いもある。関ヶ原の戦いにおいて山城の伏見城(京都市伏見区)をめぐって行われた一幕などは、その典型といえよう。ここからはしばらく、関ヶ原の戦いにまつわる籠城戦をいくつか紹介しよう。 伏見城は豊臣秀吉が1592年(文禄元年)から指月山に工事を始めた城だ。その2年後には城下町の建設も開始され、城下には大名たちの屋敷が築かれていった。ところが、この城自体は4年後に大地震で倒壊してしまう。その後、木幡山に場所を移して再建され、豊臣政権の政治拠点となっ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は④――北九州の防波堤になった城・立花城

…い戦いを繰り広げる。籠城戦から半月が経ち、ついに立花城は落ちた。この戦いでは鉄砲・弓矢・投石といった飛び道具が飛び交い、両軍に多大な死者を出すこととなった。 その後も両者は対陣を続けた。ところが、毛利氏の本拠である中国地方で、大内氏と尼子氏という毛利氏に滅ぼされた元二強の残党が相次いで放棄したため、北九州を攻めているどころではなくなる。こうして毛利氏は引き揚げ、わずかな兵だけが残された立花城は1570年(元亀元年)に開城。幾度にもわたる争奪戦の末、ようやく立花城は大友氏の手に…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は③――落ちなかった支城・長谷堂城

…て城に籠もり、熾烈な籠城戦の末に玉砕している。そして、この次のターゲットになったのが長谷堂城であった。 この城を抜かれれば後はない――城を守る最上方の武将、志村高治(光安)は決死の思いで上杉軍を迎え撃ったことであろう。彼らの奮戦があり、長谷堂城はなかなか落ちなかった。これに対し、上杉方も周囲の畑を刈り取るなどしておびき出しを図ったが、うまくいかない。そうこうしているうちに、東軍方の伊達氏が救援に駆けつけたため、戦いはいよいよ膠着状態に陥ってしまった。 そこに、中央より「関ヶ原…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は②――耐えて状況を動かした城・月山富田城

…損害となってしまった。長期戦のリスクは必ずしも援軍の襲来ばかりではない、という好例といえるだろう。しかし、こうして堅く守った尼子氏も、第二次月山富田城の戦いでは毛利氏の前に敗れた。この戦いに際して毛利方は月山富田城の補給路を断って兵糧攻めの構えを取る。今度は国人たちの裏切りのような事件も起きず、1年半に及ぶ籠城戦の末、兵糧が尽きて自殺する兵まで出たこともあり、降伏することになる。当主の義久は毛利氏に幽閉される生活をすごしたが、その血筋は毛利家臣となった。 kojodan.jp

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の役目は①――理想的な籠城戦で持ちこたえた城・吉田郡山城

…紹介していく。まずは籠城戦として非常に理想的なケースを紹介したい。 安芸の毛利氏が本拠を置いた吉田郡山城(広島県安芸高田市)は、1336年(建武3年)に当主の時親が築城したとされている。当初は小さな山城だったが、築城以来長く毛利氏の居城として使用され、毛利元就が十三代当主となり入城すると郡山全体を要塞化した巨大な城に拡張された。やがて豊臣秀吉による天下泰平の時代が到来し、毛利氏が豊臣政権の重鎮となって大きな発言力を有するようになると、統治には不便な吉田郡山城も実質的に役割を失…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑦――外交交渉で裸にされた城・大坂城

…とで話が固まった。 籠城戦というものは本来援軍のあてがあってやるものではあった。しかし、頑丈に守り続けて幕府軍が攻めあぐねるようなことがあれば、「なんだ、幕府もたいしたことはないな」と判断した諸大名の軍勢がその場で裏切る、あるいは地元で兵を挙げる、ということも起こりうる。まかり間違って時の将軍・徳川秀忠、あるいは実権を握る大御所・徳川家康が倒れるようなことがあれば、いよいよ諸大名の蜂起が相次いでもおかしくない――こんな計算も豊臣方にはあったかもしれない。情勢は幕府側圧倒的有利…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑤――勇ましくも美しき女武将の活躍した城・安濃津城

…、その中には多数の「籠城戦」が含まれているわけだが、特に面白いものとして伊勢安濃津城(三重県津市)の戦いを紹介したい。なにせ、この戦いでは華やかな女武者が見事な活躍を見せているのだから。 戦国時代の合戦で活躍したのは男性ばかりだと思われがちだが、戦いが女性たちの領域である城にまで及んだ際には、自らの命を守り、家を守るために女武者が出陣するケースもあったのだ。さてこの安濃津、のちに津と呼ばれた地は、もともと港町として大変栄えた場所だったが、戦国時代初期に大地震で破壊されてしまっ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ④――後詰決戦と野戦築城で守られた城・長篠城

…城を取り囲んだのだ。籠城戦は1ヶ月半の間続いたものの武田方であった奥平氏の寝返りなどを受け、開城。この功を評価され、奥平信昌が長篠城主となった。 これを黙って見ていられないのが、信玄の後を継いだ勝頼だ。本来の嫡男であった兄が父との確執の末に死に、諏訪氏を継承していたのが急に当主となった勝頼としては重臣たちの間に不和があり、「結果を見せて彼らを納得させなければいけない」という強い強迫観念があったようだ。たびたび遠征を繰り返し、三河・遠江の徳川領が脅かされている。 そんな中、15…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ①――夜襲で決着した「後詰決戦」・ 河越城(川越城)

…しい10の城、10の籠城戦をピックアップして紹介したい。それぞれパターンは違うが、戦国時の城と籠城戦のエッセンスが強く現れた城であることは間違いない。 武蔵の河越城(埼玉県川越市、現在は川越城と呼ばれる)は1457年(長禄元年)に扇谷上杉持朝(おうぎがやつ うえすぎ もちとよ)が家臣の太田資清(おおた すけきよ)に命じて築かせたと伝えられる平城だ。扇谷上杉氏は東国に広く影響力を誇った名門・上杉氏の一門にあたる。本来は分家筋に過ぎないのだが、戦国時代初期には関東地方の動乱に乗じ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城の分類と歴史①――古代の集落から、拠点としての城ヘ

…成の活躍など、数々の籠城戦が現代に伝わっている。とはいえ、これはあくまで動乱の時代のための臨時の城。後述する戦国時代の城のように、ある程度恒久的に使うようにはそもそもできていなかったようだ。 そのため、室町幕府が成立して情勢が安定すると、山城の多くは破棄され、武士たちは平地や小高い丘の館を使用するようになる。しかし平和とは長く続かないもの。有力守護大名家内部の争い、幕府内部の争い、足利将軍家の争いなどが相乗した結果として応仁の乱が起き、将軍と幕府の権威が大きく揺らいだ。さらに…

【10大戦国大名の実力】北条家⑤――小田原評定の行方

…が、それを纏う人間たちの心を弱らせたのではないか。結果、3ヵ月にわたる籠城戦の末、氏直が秀吉に降伏することによって小田原征伐は終わった。秀吉は自決を申し出る氏直を許し、代わって氏政とその弟の氏照、及び重臣数名を自決させた。この直後に東北地方の諸大名も秀吉に頭をたれ、秀吉の天下統一は成ったのである。 氏直は高野山に入り、のちに秀吉に許されて1万石を与えられた。氏直の死後はその一部が叔父にあたる氏規の子・氏盛とその子孫に受け継がれ、河内国狭山の大名として江戸時代に残ることとなる。

【戦国時代の境界大名】奥平氏――家運が開いた運命的な活躍の場とは?

…しかった。寡兵でよく籠城戦を戦い抜き、徳川・織田の連合軍が到着するまで長篠城を守り切ったのだ。この時のこととして、奥平家臣の勇士・鳥居強右衛門(とりいすねえもん)にまつわる逸話がよく知られている。強右衛門は単身敵の包囲を切り破って家康に援軍を要請し、その後、長篠城に舞い戻って援軍来たるの報を知らせようとしたところ、武田勢に捕らえられてしまった。 命と仕官の代わりに「援軍が来ない」と嘘をつけと迫る武田武将に対し、強右衛門は命を捨てて真実を仲間に伝えた。これにより、長篠城は援軍到…

【お城の基礎講座】48. 城の蔵(くら)

…)や武器でした。いつ籠城戦(ろうじょうせん)になるかわからないので、膨大な物資が蓄えられていたのです。櫓も一種の蔵ですが、それ以外にもたくさんの蔵が城内には建てられていました。 米蔵 蔵の多くを占めたのが米を保管しておく米蔵(こめぐら)でした。大勢の物資が数ヶ月間食べられるだけの量を蓄えていました。そのため蔵は長く、そして高い建物が何棟も建てられていたのです。兵糧米は毎年半分が入れ替えられていたそうです。 武器庫 武器や防具を納める蔵もたくさん作られました。足軽たちが扱う鉄砲…

【お城の基礎講座】24.籠城のために

…れる場所です。そんな籠城戦に備える天守の姿を見てみましょう。 籠城戦で 戦が城で行われる場合、最終的には籠城戦になります。その時の最終兵器が天守です。しかし天守が戦いの場になることはごく稀で、大抵の場合はその前に戦いの決着がついてしまいます。 有名な籠城戦 有名な籠城戦が行われた城をいくつか挙げてみると、 備中高松城:織田軍による中国攻めにて 伏見城や大津城:関ヶ原の戦いの前哨戦にて 豊臣大坂城:大阪冬の陣夏の陣にて 会津若松城:戊辰戦争にて などがあります。もっと他にもある…

【お城の基礎講座】11.石落とし

…を見てみましょう。 籠城戦に備えて 天守や櫓が籠城戦となった場合最終的な防御拠点となります。そのため敵が攻め込んできた時の事を考えて、接近してきた敵を迎撃するために、石落としや狭間という防御設備が備えられています。作りとしては、壁の一部を外側に張り出させ。この張り出した部分の床を開いたものです。 石は落とさない 石落としという名前ですので、この床に開いた穴から石を落として敵を攻撃すると思われていますが、実際には石は落としていないようです。ではどのように使われるかと言うと、床に…

明智光秀と柴田勝家ーーあるいは一線を引かれた同僚?

…)」と呼ばれたとか、籠城戦で追い詰められた時にあえて水を溜めた甕を割って兵士たちに決死の突撃をさせた「甕破り柴田」のエピソードなどもその印象を強化する。 ところでこの柴田勝家だが、若い頃には信長と敵対していたことを今回の『麒麟が来る』で初めて知ったという人は、意外に多いのではないか。織田家と信長が重要なポジションで登場する大河ドラマでも、あまり頻繁には扱われないエピソードであるから無理もない。そう、織田信秀が死んだ際、織田家の重臣であった勝家は、信長ではなく弟の信勝についたの…

一泊二日で大河ドラマ「麒麟がくる」ゆかりの地をめぐってきました

…田辺戦の戦い(田辺戦籠城戦)」の舞台ですが、細川藤孝が築城したものの、その後の京極高知の時代に拡張され、さらに牧野氏が幕末まで城主をつとめています。 案内してくださった吉岡館長によればここまで大きくなかっただろうとのことでしたが、この大手門の2階が田辺城資料館となっています。 本物の火縄銃や兜、頬当てを自由に試着できるので外国人にも人気だそうです。 田辺城は建物こそ復元ですが、舞鶴公園はかなり広範囲に敷地が残っていますし、江戸時代に田辺藩主となった牧野親成は徳川秀忠の小姓をつ…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原の戦い、鳥居元忠の伏見城篭城

…鳥居元忠による伏見城籠城戦だ。 元忠は家康が今川義元の人質になったときから仕えており、家康の三河統一などの戦いで活躍している。家康が関東に移封する際には下総国に4万石が与えられた。先鋒として情報収集を行ったりもしており、頼れる家臣だったようだ。 そんな元忠は関ヶ原の戦いの際、伏見城に置かれた。伏見城は豊臣秀吉が隠居する際に築いた城で、彼が亡くなった場所でもある。その後は豊臣政権の権力を握る家康の手に渡っていた。 家康は三成を戦いの舞台におびき寄せる作戦として、会津征伐を実行す…

【戦国合戦こぼれ話】柴田勝家の“瓶割”

…いが、南近江長光寺城籠城戦だ。 1570年(元亀6年)、六角氏が信長の上洛戦によって奪われていた長光寺城を奪い返そうと奮起した。長光寺城には勝家が入っており、六角氏は城を落とすべく、水源を断つ作戦に出ることに。南近江は元々が六角氏の所領だったのだから、城の周辺住民は六角氏と旧知の間柄であり、水源の場所を教えてくれた。こうして長光寺城内は水不足になってしまったのだ。 不利な状況に追いやられてしまった勝家だったが、諦めることはなかった。六角勢の軍師が「城を開けるように」と通告に訪…

【受験にご利益あり?】全国にある「落ちない城」一覧

…の攻撃を受けながらも籠城戦で何度も撃退したお城もあるんです。もっとも有名なのは二度にわたる合戦で徳川軍を撤退させた上田城でしょうか。こうしたお城では一度も落城しなかったことから「落ちない城」としてとくに受験生向けにアピールしています。最近は「合格祈願絵馬」を販売したり、「御城印」を受験のお守り代わりにするケースも増えているようです。 そこで、国内にどのくらい「落ちない城」でPRしているお城があるのかを調べてみました。 城址が神社なのでお守りは本物 上田城 まずは冒頭で紹介した…

築城の名手(2)加藤清正が築いた城

…てしまうほどの激しい籠城戦を経験したことから、城内には地下水をくみ上げられる井戸を数多く掘り(およそ120ヶ所)、非常時の食糧としてレンコンが栽培され、梅、銀杏が植えられていました。 熊本城は別名「銀杏城」と呼ばれていますが、それは本丸にあるこの大銀杏(おおいちょう)に由来します。 ちなみにこの大銀杏は雄の木で、残念ながら実はつけません(よって食料としては使えませんでした)。 また楠木は根から油が採取できることを考えて植樹したといわれています。 さらに畳には芋茎(ずいき)を入…

【京の冬の旅】妙心寺天球院で狩野山楽・山雪の「竹虎図」等を見てきた

…鳥居元忠らが討死した籠城戦ですね。足で踏む床板として使っては供養にならないからと、天井に上げています。 京都のいくつかのお寺にはこうした伏見城の床板が天井に貼られてるそうです。もしかしたらここは写真撮影オッケーだったかもしれません。確認するのを忘れてました。庭はオッケーといわれたんですけどね。 kojodan.jp 金碧障壁画がデザインされた御朱印帳とクリアファイルが買えます もし天球院を訪問されるなら、おみやげにぜひオススメしたいのが3つの金碧障壁画がデザインされた御朱印帳…

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