攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

織田信長 の検索結果:

【家康の合戦】桶狭間の戦い 家康の大きな転機となった戦い!

…を、尾張の武将である織田信長が打ち破った戦いとして有名です。当然のことながら、織田信長のサクセスストーリーとして描かれることが多い戦いですが、家康(この当時は松平元康)も大きく関わり、そしてターニングポイントになった戦いとしてもよく知られています。ここでは、元康がどのような働きをしながらどのようなターニングポイントを迎えたのかを見てみましょう。 大高城兵糧入れと丸根砦の攻撃 桶狭間の戦い前夜の情勢(国土地理院地図をもとにたかまる。が作成) 1560年(永禄3年)、今川義元は駿…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…えば今川家を見限って織田信長と同盟を結ぶ――いわゆる清洲同盟のことですが、じつはこのとき長尾景虎が関東に侵攻していたため、今川氏真は西三河の家康よりも北条家支援を優先したため、独自の兵力では信長に勝てない家康は和睦・同盟を余儀なくされます。氏真が嫌いとか信長が好きといった「情」ではなく、氏真は頼りにならないので信長方につかざるを得ないという「理」での選択です。こんなふうに「別の選択はそもそも可能だったのか」という観点でも話をしています。 なお番組の最初ではぼくが子供の頃に出版…

【家康の謎】家康はなぜ織田家にいたの?

…にのちの同盟者である織田信長と出会う……というのがエンターテインメントでは定番だ。 さて、以上の通説はどこまで信じていいのであろうか。家康と信長がじつは会っていた、という話は信憑性のある史料では見出すことができない。それどころか、戸田康光の裏切り・誘拐さえも、資料による根拠がないとされているのだ。 近年発見された資料によると、家康が人質として送られた1547年(天文16年)に、松平広忠が尾張の織田信秀(おだ のぶひで)に打ち破られて岡崎城が落ち、広忠は降伏してどうにか許された…

「外戚 なぜ嫁の実家は偉いのか」の動画を公開しました

…まりますが、それでも織田信長の乳兄弟である池田恒興、伊達政宗の乳母・喜多の異父弟にあたる片倉景綱、淀殿の乳母・大蔵卿局の子である大野治長など、乳母の関係を通じて出世した人物は多数います。そして江戸時代でも、おそらくもっとも有名な乳母である春日局がいますよね。こうしてかつての摂関や執権ほどではないにせよ、乳母の立場でも権力は行使できたわけです。 けっきょくのところ権力者の幼少期をともに過ごすというのは強い影響を残すのでしょうね。現代でも「おじいちゃん子(おばあちゃん子)」という…

【家康の城】名古屋城 家康築城術の到達点!

…・物流の中心であり、織田信長・信忠・信雄、豊臣秀次、福島正則らが城主を務めました。清須城は五条川を貫通するように築かれた河川を利用した城でしたが、それと同時に低湿地帯でもあったために洪水などの被害に悩まされていました。さらに1586年(天正14年)には天正地震によって液状化現象が起こり、地形の弱さを露呈していました。先にも述べた通り、家康は関ヶ原の戦い以降に実子を清須城に入城させますが、このような理由により城の移転を模索していたのかもしれません。そこで白羽の矢が立ったのが名古…

【家康の城】二条城 徳川の権威の象徴!

…在します。室町時代に織田信長が将軍足利義昭のために築城したいわゆる「旧二条城」、豊臣秀吉が1583年(天正11年)に京における拠点として築いた「二条第(妙顕寺城)」、そして徳川家康が築城した「二条城」で、これが現在私たちが知っている二条城です。徳川家康が築城したのち三代将軍家光の時に大改修されているため、実際に見ることができるのはこの当時の二条城ということになります。 徳川家康が築城した二条城は、1601年(慶長6年)に西国大名を動員した公儀普請(天下普請)によって築城されま…

榎本秋先生の最新刊「超約版 家康名語録」の出版記念ライブを生配信しました

…ゲームの影響もあって織田信長を理想のリーダーにあげる傾向があると感じる)戦後の復興、そして高度経済成長という時代は家康とうまくフィットしたのかもしれません。 というような感じで単に徳川家康の名言を並べただけじゃなく、なぜ家康が神格化されていったのか、そしてこんなに膨大な数の名言が(創作であれ)残されているのかということを考えさせれる一冊です。語られている内容もそれこそ松下幸之助やスティーブ・ジョブズの名言と紹介されても信じてしまいそうな、現代人にもヒントになることが多く、通勤…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…を開始したからだし、織田信長が包囲網を突破できたのも武田信玄や上杉謙信が病死したからですよね。徳川家康が天下人になれたのも運によるところが大きいと思います。「成功する上で重要なのは才能よりも運である」というような発表が今年のイグノーベル賞でされていましたが、歴史がそれを証明していると思います。 あと個人的には榎本先生がおっしゃった姉川の戦いは家康の活躍をアピールするために盛られてる?(じっさいはそこまで大規模合戦ではない?)という指摘が印象的でした。このあたりもいわゆる徳川史…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…思われます。つまり、織田信長との同盟、武田信玄の侵攻、武田勝頼との攻防、織田信長の死、羽柴秀吉との争いなどたくさんの出来事があったからです。これらの出来事のすべてに対してここ浜松城から出陣し、大物武将と激突したのです。詳しいことは別のコラムに譲りますが、三方ヶ原の戦いでは家康人生最大と言われる敗北を喫したり、小牧・長久手の戦いではのちの天下人となる羽柴秀吉と激突したりもしています。それだけではなく、本能寺の変による織田信長の死を受けて、織田家臣団の所領となっていた旧武田領を一…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…ても敵方となっていた織田信長と和睦して清洲同盟を結び、家康の手で三河を平定することに成功したのです。 徳川家康への改名 元康は1566年(永禄9年)に、源氏の一族である新田氏から連なる徳川復姓と従五位下(じゅごいのげ)・三河守(みかわのかみ)叙任が朝廷より許され、「徳川家康」を名乗るようになりました。家康は松平一門には徳川姓の使用を許さず、一族であっても松平は徳川家の家来としました。これは「三備(みつぞなえ)」と呼ばれる当時の家臣団編成にもあらわれており、東三河は酒井忠次、西…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…て畿内が混乱。そこに織田信長がやってきた後は皆さんご存知の通り。・本流である京兆家の人間(晴元の子の昭元(あきもと))は織田家に仕えたものの豊臣秀吉により追放され滅びている。しかし和泉半国守護家の末裔である細川藤孝(ふじたか)が信長に仕え、その子の忠興(ただおき。細川一族のうち、奥州家と呼ばれる血筋に養子に入る)が豊臣・徳川と仕え、長く残ったのはあまりに有名。 斯波氏 ・斯波氏は応仁の乱の時に分裂。大きく分けて宗家・武衛家の本拠地である尾張と、越前の系統に分かれた。尾張は言わ…

歴史ゲーム「太閤立志伝V DX」について榎本先生と語り合いました

…る」と言います)。 織田信長や明智光秀は「本能寺の変」のイベントを起こさないと札がもらえないとか、人物ごとに取得難易度もちがっていたりしていろいろと奥深いです。(なおこのふたりは「本能寺の変」直前のシナリオではじめればけっこう簡単に取れます) 榎本先生は180時間も遊んでるそうで、それだけでもいかにおもしろいゲームかということがよくわかります。もっとも気になる点がないわけじゃなく、たとえば「天下布武」の解釈が古いとか(これは2004年のゲームなのでしょうがないかな)、現在はほ…

徳川将軍家の正室(御台所)の出身を調べる

…、その妻として迎えた織田信長の娘の徳姫の関係が悪化し、そこから「築山殿と信康が宿敵の武田信玄と内通している」という訴えが信長に出される。家康は信長のプレッシャーに抗しきれず、築山殿と信康はどちらも殺されてしまった。築山殿は浜松城に呼び出される途中で殺されたという。 朝日姫 【生年1543年〜没年1590年、結婚1586年】その後、家康は「朝日姫(あさひひめ)」を新たな正室に迎えている。これは豊臣秀吉の妹で、別の男性と結婚していたにもかかわらず、家康を自分の傘下に引き込みたい秀…

【戦国軍師入門】直江兼続――主家存続に生涯を捧げた文武兼備の智将

…めなどがある。これは織田信長の誘いに乗って兵を起こした新発田重家(しばた しげいえ)との戦いだった。この反乱はなんと6年にもわたって続き、景勝自身が兵を率いて出撃しながら敗れたこともあった。しかし、兼続は周囲の出城を次々と落とした末に平城ながら堅城として名高い新発田城を攻め落とし、新発田重家を自刃させることに成功する。 その後も佐渡で起きた反乱の鎮圧や小田原攻めなどで活躍し、景勝を支えた。また、文禄の役では朝鮮征伐にも参加し、この戦いを無益なものと考えた兼続は自軍に略奪の禁止…

【戦国軍師入門】黒田官兵衛――有能ゆえに疎まれた不遇の名軍師

…使は明智光秀の謀反と織田信長の死……「本能寺の変」を告げる。秀吉はこの報告に激しく驚き、ただ泣くことしかできない。しかし、ここで冷静に進言した者がいる。誰あろう、官兵衛だった。 彼は「今こそ天下取りの好機ではないか」と秀吉に告げた。その言葉に我に返った秀吉はすぐに毛利家との講和の手はずを取り、のちに「中国大返し」と呼ばれる神速の速度をもって帰還する。その後の歴史の流れを見るに、まさにこの瞬間こそが織田家家臣の秀吉ではない、天下人・豊臣秀吉の出発だったといえよう。 もちろん官兵…

【戦国軍師入門】蜂須賀正勝――「野盗の親分」、実は外交折衝の達人

…つかの主に仕えた後、織田信長に仕える。「桶狭間の戦い」にも参加し、戦功を上げていた。墨俣一夜城のために秀吉が正勝に会いに行く……というのは後世の創作である。また、同じように少年時代の秀吉(日吉丸)を矢作橋(やはぎばし)で助けたという逸話も、その当時には矢作橋がないために創作であったと考えられる。この頃は橋が架かっておらず、渡し舟によって人々は行き来をしていたのだ。 1567年(永禄10年)の稲葉山城攻めの際に秀吉の配下となり(一説には秀吉摩下となったのは1573年(元亀4年)…

【戦国軍師入門】朝倉教景――犬畜生と蔑まれても勝ちが大事

…朝倉を滅亡させたのは織田信長だが、ある伝承には教景が臨終の床で信長のその後の活躍を予言した、とある。おそらく後に朝倉が織田に滅ぼされたことから創作された話なのだろうが、逆に言えば彼はそのくらい先見の明がある人物と見られていたのだ。 教景について語る上で欠かせないのが、『朝倉宗滴話記(あさくらそうてきわき)』という書物の存在だ。これは家臣の萩原八郎右衛門尉宗俊(はぎわら はちろうえもんのじょう むねとし)という人物が彼の語ったことをまとめたもので、30年以上にわたる主君の補佐と…

【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

…ない。半兵衛は秀吉が織田信長の命で中国地方を攻撃している際に病に倒れており、一方の官兵衛が秀吉の配下に加わったのは、まさにその中国攻めの中でのことだったからだ。 この戦いの中で秀吉は幾つもの強固な名城・堅城を相手取り、見事な策略によってそれらを陥落させている。そのために「城攻めの名人」という異名で呼ばれてもいるのだが、実はそうした策は半兵衛や官兵衛が考えたものだ、という説がある。 そこでここではその説を信じ、2人の名軍師の策略による3つの城攻めを見ていくことにしよう。この3つ…

【戦国軍師入門】稲葉山城乗っ取り――軍師・半兵衛、鮮やかなデビュー

…を攻めては敗れていた織田信長からは、城の代償として美濃の半分を与えるので味方になれ、という誘いまでやってきた。 しかし、半兵衛はそうした申し出をすべて断り、これは一時預かったものに過ぎない、と言い切った。あくまで主君龍興に反省して頂くためにやったことなのだ、と言うのである。そして実際、半年後の8月になると半兵衛は龍興を呼び戻して城を返し、自分はさっさと隠居してしまう。 手口も鮮やかなら引き際も鮮やか、後の名軍師・竹中半兵衛のデビューとして実に鮮烈なものとなった。数年後、彼は木…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話③――「爆発炎上」した城?・信貴山城

…輝の弟・義昭を奉じた織田信長が上洛してくるとあっさり降伏し、以後は信長の配下として重用される。 ――これで終われば話は簡単なのだが、天下の梟雄・松永久秀はそんな人物ではなかった。彼は信長に対して三度も謀反を起こしているのだ。一度目は降伏したので許されたが三度日、1577年(天正5年)に上杉謙信の侵攻に呼応して挙兵した際には、さすがにそうはいかなかった。信貴山城に籠もった久秀は、瞬く間に織田軍に包囲され、追い詰められる。この際、信長からは「秘蔵の茶器・平蜘蛛の茶釜を差し出せば許…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話①――秀吉の一夜城・墨俣城

…れた頃、秀吉が仕える織田信長は、美濃の斎藤氏との戦いを繰り広げていた。そして、その中で懸念となっていたのが、長良川を始めいくつもの川が合流する美濃は墨俣の地に城を築くことであった。ここは交通の要所であり、かつ戦略上の用地でもあったが、それだけに斎藤方も警戒して妨害が激しく、柴田勝家など名だたる重臣が築城に失敗していた。 これに挑んだのが秀吉である。彼は川上交通で活躍する蜂須賀小六(はちすか ころく)ら近隣の野武士たちの協力を受けた上で、奇想天外な作戦に出た。普通ならば木材を現…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台⑤――お市の方が殉じた城・北ノ庄城

…。 本能寺の変による織田信長の死後、勝家は羽柴(豊臣)秀吉との後継者争いを演じることになった。信長の妹を娶ることになったのも、その延長線上のことである。両者とその支持者による争いが激しくなる中、1583年(天正11年)に「賤ヶ岳の戦い」が起こる。この戦いに敗れてしまった勝家は北ノ庄城に引き返したが、そこに追撃の秀吉軍が迫る。北ノ庄城側に援軍のあてはなく、敵から本格的な攻撃が始められ、城に火を放たれると、勝家は自刃を決意。彼はお市の方に逃げるように言うが、彼女はそれを受けれなか…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台④――お市の方が最初の夫と死に別れた城・小谷城

織田信長の妹・お市の方は、戦国史上特に有名な女性である。「絶世の美女」といわれるその美しさと、最初の夫とは死に別れ、二番目の夫とともに自刃したその悲劇的な最期が印象深い。ここからは彼女が夫を亡くした二つの城を紹介したい。 まずひとり目の夫、浅井長政が倒れたのは、浅井氏が三代にわたって居城とした近江の小谷城(滋賀県長浜市)だ。長政の祖父にあたる浅井亮政によって小谷山に築かれた山城で、山の麓には平野が広がり、かつ北陸街道と中山道に容易に出られる位置にあった。そもそもお市の方を娶っ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台②――悲劇の女城主伝説の城・岩村城

…の主人公は景任の妻で織田信長の叔母にあたるおつやの方だ。当時としては当然のことながら政略結婚であり、信長がそれだけ岩村城の価値を評価していた、ということなのだろう。実際、1571年(元亀2年)に景任が死去すると、信長は跡継ぎとして四男(五男説も)の勝長(かつなが)を養子に送りこんでいるほどだ。ただ、彼はまだ8歳と幼い。そこで、しばらくの間はおつやの方が城主ということになった。 2年後、東美濃への進出を企てる武田軍が岩村城に攻め寄せた。この軍を率いるのは秋山信友(あきやま のぶ…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑩――内部分裂で落ちた城・七尾城

…ことだ。しかも彼らは織田信長派と上杉謙信派に分かれており、中でも専横が目立っていた信長派の長氏(ちょう し)は、他の重臣たちから反感を持たれていた。このような状態の七尾城を狙って、1578年(天正4年)に上杉謙信が越後より侵攻してくる。最初は能登畠山氏との同盟を持ちかけてきたのだが、長氏がこれを拒否したことから、城は上杉軍に包囲されることになった。 上杉軍は七尾城の南方に本陣を置いて七尾城を囲んだが、4ヶ月包囲し続けても城は落ちず、謙信は一旦軍をひく。翌年、上杉軍は再び七尾城…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑧――わずかな兵に乗っ取られた城・稲葉山城

…城、というのもある。織田信長が安土城に移るまでの間居城とし、「天下布武」を進めるための拠とした美濃の岐阜城(岐阜県岐阜市)は、金華山という山に答え立つ山城である。もともとは稲葉山城という名前で、斎藤氏の城だった。築城されたのは1201年(建仁元年)と古く、鎌倉幕府の吏僚であった二階堂行政(にかいどう ゆきまさ)が築城主である。これが美濃守護代の斎藤氏の居城となり、その家臣である長井氏の城となって、長井氏・斎藤氏を下剋上で滅ぼした斎藤道三の居城となる、という経緯をたどった。 と…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑦――支城を失い、戦意を失った城・観音寺城

…り、後に隣の安土山に織田信長が安土城を築いたのも納得の重要拠点といえる。 繖山は南北朝時代からも山砦として使われてはいたが、本格的に城が築かれたのは戦国時代になってからで、全盛期とされる六角定頼(ろっかく さだより)とその子・義賢(よしかた=承禎)の時代に改築されて壮大な石垣(当時普及を始めていた新兵器・鉄砲に対抗するためだったらしい)による補強がなされ、城下町も形成された。しかし、六角氏がこの城を放棄するとともに廃城になっている。 六角氏がこの城を捨てなければいけなかったの…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑥――水に沈んだ城――備中高松城

…って後に見事な切腹を遂げたという。 こうして高松城は開城し、城兵らの命は助けられたのだが、実はこの交渉の裏にはひとつの事件があった。京の本能寺で織田信長が謀反によって倒れていたのだ。秀吉は一刻も早く中央へ戻り、謀反人を倒さなければならなかったのである。そのことを毛利方に知らせないで和睦を成立させた秀吉は、すぐさま取って返して京へ向かった。大規模工事によって損害なく城を落としたことといい、見事な交渉といい、秀吉という男の抜け目のなさが目立った戦いといえる。 kojodan.jp

榎本先生の最新刊「ナンバー2の日本史」について対談しました

…三好三人衆(二十四)織田信長不安定な時代のナンバー2 間章 戦国大名とナンバー2戦国大名とナンバー2(一)武田信繁(二)豊臣秀長(三)朝倉宗滴(四)島津四兄弟幼少から共に過ごした側近(五)片倉景綱(六)島左近(七)直江兼続(八)鍋島直茂大名のブレーンといえば僧侶(九)太原雪斎天下人にナンバー2はいたか(十)明智光秀(十一)石田三成(十二)徳川家康 第五章 巨大官僚組織・江戸幕府の舵を取った幕閣江戸時代の始まり〈一〉本多正純と土井利勝〈二〉酒井忠勝〈三〉松平信綱〈四〉徳川光圀〈…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく③――支城を潰され、草木も食い尽くした城・三木城

…応するべきと判断した織田信長は、秀吉を三木城攻めに向かわせる。この際、尼子氏の残党が籠もっていた上月城が別所氏に連動して攻めて来た毛利氏に包囲されていたのだが、見捨てられる形になって、そのまま滅亡している。秀吉は三木城の東北に位置する平井山の本陣に入り、本格的に包囲戦を始めた。やがて摂津の荒木村重もまた謀反して毛利方に転じると、それに呼応して別所方は城から出撃し、平井山に攻め上がってきた。だが、秀吉の弟・秀長の部隊がこれを撃破。さらに別所軍の退路を絶ったために、多くの兵が崖を…

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