攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

織田家 の検索結果:

【家康の謎】家康はなぜ伊賀越えしたのか、他のルートはなかったのか?

…寺の変である。以後、織田家中は主君の仇討ちと実質的後継者の座をめぐる大混乱に巻き込まれていくことになるわけだが、同時期に人生最大のピンチに追い込まれていた人物がいた。誰あろう、徳川家康である。この時の家康のピンチは、後世「三大危機」として三河一向一揆と三方ヶ原の戦いと並べられることになった。 本能寺の変が起きた時、家康は堺にいた。安土城の信長に挨拶をした後、上方を見物していたのである。わずかな供(34人とされるが、大名の正式な行動だから数千人の兵を引き連れていただろうとも)だ…

【家康の謎】本能寺の変での家康黒幕説ってどんな説?

…う。 なお、近年の有力説は光秀の単独行動説であり、背景としては織田政権における光秀の政治的立場が注目される。すなわち「光秀は四国の長宗我部氏との外交交渉を担当していたが、長宗我部氏と対立する三好氏が羽柴秀吉との関係を深めた結果、織田家の外交方針が転換してしまう。これにより立場と面目を失って危機感を覚えた光秀が、たまたま絶好のチャンスを得て実行したもの」とされているようだ。ドラマチックさはないかもしれないが、人間心理的には深みとおもしろさのある説だと思うのだが、いかがだろうか。

中村優希さんによる「〈幻の安土城〉復元プロジェクト・歴史セミナー 安土城復元研究の過去・現在・未来」参加レポート

…に、宣教師と同伴した織田家の家臣も瓦の美麗さを比喩的に「碧瓦」と伝え、宣教師はその言葉をただ直訳して記録した可能性もあると思われます。(他にも灰色の反対色(黄色や金箔など)を同時に見た時の錯視で瓦が青く見えたのか、瓦が青空を反射して青みがかったのか、当時のポルトガルにおける色彩感覚的に瓦の色は青色に含まれたのか、という様々な可能性も考えられます) また、外壁に関して、金や青や朱で塗られていたとされる望楼部以外は総じて白色であると記録されていることから、壁は基本的に白漆喰総塗籠…

細川玉子さんによる「瀬名様と信康様の軌跡を辿る、岡崎の旅」

…考え、この機を使い、織田家の将来にとって危険性のある若い芽を、早々に摘み取っておこうと考えたとのお話もあるそうです。 なお、どうする家康でも描かれておりましたが、服部正成(半蔵)様の介錯にて、信康様は自刃されたとされますが、この際、介錯を頼まれた服部正成(半蔵)様が、その任に耐えられず刀を振り下ろせなかったそうです。そして、検視役だった天方通綱(あまがた みちつな)殿が急遽、介錯されたというお話もございます。 何が実像で、何が虚像なのか……。 ただ、こうして五徳姫様により書か…

「守護代ってなに?」の動画を公開しました

…氏においては朝倉家や織田家など守護代の家系がいわゆる下剋上を果たしているので、あんまり関係ないのかもしれません。 ともあれ守護代という役割にはいろんなパターンがあり、教科書で「守護の代わりとして現地へ赴任した、実効支配の実務責任者」みたいな簡単な説明では不十分というか、現地へ赴任しなかった守護代もいたという点も踏まえて理解しないといけないし、それだけ室町幕府の守護在京原則は徹底されていたのでしょうね。勝手に分国へ帰ると謀反扱いされるくらいだったので。守護が京を離れられないとな…

四百年遠忌記念特別展「大名茶人 織田有楽斎」のプレス内覧会に参加してきました

…逃亡したのではなく、織田家の血筋を残すための決断をしたんじゃないか」とおっしゃっていました。その真偽はわからないのですが、今回の特別展に向けて京都文化博物館で調査された結果、どうやらこの悪評は江戸時代初期に書かれた『義残後覚(ぎざんこうかく)』が初出らしいのです。 加賀中央図書館が所有するものが第1部に展示されています。 「織田家の悪口に満ちている本」と西山学芸員は紹介されていましたが、Wikipediaにも「豊臣秀吉に関しては絶賛に近い形で紹介されるが、織田信長については酷…

【家康の合戦】小牧・長久手の戦い 家康・人生のターニングポイント

…見ていきましょう。 織田家の危機が生んだ戦い 小牧・長久手の戦いは織田信雄の所領である尾張が主戦場となった 小牧・長久手の戦いの話をする前に、そこに至るまでの過程をざっと振り返っておきましょう。情勢に大きな変化をもたらしたのが1582年(天正10年)6月に起こった本能寺の変です。織田信長・信忠が明智光秀により討たれました。中国方面で毛利軍と戦っていた羽柴秀吉はその報せを受けるとすぐさま引き返し、山崎の戦いで光秀を討ち果たします。その後、清須会議で織田家の今後について話し合いが…

細川玉子さんによる神君伊賀越えの紹介

…万3000とも聞く、織田家と同盟国である徳川が狙われないわけがない!一揆の襲撃や、落ち武者狩りもある、これは逃げ切れない! と、京都の知恩院にて自刃も考えられたそうですが、本多忠勝様の説得により家康様は自刃を改め、三河国への帰還を決意されたそうです。(家康様は何度か自刃騒ぎをおこしています) そんな中、家康様たちとは別行動をされた方がおります。穴山梅雪様です。梅雪様は、家康様を脱出させるため二組に分かれ、一行の殿(しんがり)を務めたそうです。一日遅れで、家康様と同じ道筋で帰ろ…

【家康の合戦】高天神城の戦い 武田vs徳川の攻防戦!

…する大名となります。織田家は信長の次男・信雄が尾張・伊賀・伊勢を、池田恒興と息子がそれぞれ大垣城・岐阜城に入って美濃を治め、恒興の娘婿である森長可が美濃金山城に入って東美濃を平定しました。このように情勢が刻一刻と変わっていく中で、羽柴秀吉と織田信雄の関係が悪化していき、家康も参戦することとなる小牧・長久手の戦いへと進んでいきます。次回は、小牧・長久手の戦いについて書いていきます。 まとめ 武田と徳川の間で起こった「高天神城の戦い」は3度起こりました。最後に高天神城を攻め落とし…

【家康の合戦】姉川の戦い 家康の活躍で浅井・朝倉を撃退した戦い!

…然のことと言えます。織田家ではどのように呼んでいたのかは残念ながら明確になっていません。当時の記録が残されていないためです。 では、この1570年(元亀元年)6月28日の戦いを「姉川の戦い」と呼ぶのはなぜでしょうか。実はこの呼び名は徳川家で呼ばれている名前なのです。徳川家康は同年の書状でこの戦いのことを「江州合戦」と記していますが、その後の「賤ケ岳の戦い」や「関ヶ原の戦い」での佐和山城攻撃など、近江を中心とする合戦が多くなっていくと「江州合戦」ではどの戦いを指すのかがわかりに…

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…った竹千代が奪われて織田家の人質になったとか、今川義元が上洛しようとしていたとか、桶狭間の戦いは奇襲だったとか、40年以上前に出た本なので現在では否定されている説が多く採用されています。 番組で使用したスライドを並べておきます。赤字はぼくのメモです。 そのあとあらためて家康の生涯を振り返りつつ、分岐点になったかもしれないポイントをいくつかピックアップして榎本先生とあれこれ話をしました。これも詳しくは動画を見ていただきたいのですが、事前に用意したあんちょこを貼り付けておきますね…

【家康の謎】家康はなぜ織田家にいたの?

「竹千代」と呼ばれた幼き家康が、苦難の日々を過ごしていたことはよく知られている。彼が生まれた松平氏は、祖父・清康(きよやす)の頃には勢力を大いに拡大したものの、清康が暗殺されたせいで衰退し、家康誕生当時は東の今川・西の織田の両勢力によって激しく圧迫されている状況だったからだ。当時、家康の父・松平広忠(まつだいら ひろただ)は基本的に今川寄りの姿勢をとっていたようだ。しかし、織田に味方する勢力が増える中で広忠はこれまで以上の援助を今川氏に求めざるを得ず、その代償として嫡男の家康…

「外戚 なぜ嫁の実家は偉いのか」の動画を公開しました

…ありましたが、濃姫が織田家に嫁ぎ、お市が浅井家に嫁ぐというのは嫁取婚じゃないと無理です。嫁取婚だから人質として意味があったわけで、信長や長政が嫁の実家に通っていたら意味がない。榎本先生と話していると知ってることと知らないことが重なり合って、歴史への理解が深まっていく体験をよくするのですが、今回は過去で一番だったかも。 乳母とは この動画はずいぶん前に収録したもので、確認したら収録日は2022年4月22日(金)でしたが、当時はまだ大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で比企氏の変が描かれ…

それなりの戦国大名家は合戦で負けても滅亡しない(ことが多い)

…た相手が尾張の弾正忠織田家であり、言わずと知れた信長の家だ。また、今川の傘下に取り込まれたのが三河の有力国衆・松平氏の元康、のちの徳川家康である。・1560年の桶狭間の戦いは、過去の通説では「義元が上洛を目指して尾張へ進軍し、その途中の信長と戦った」とされていた。しかし近年はあくまで尾張の支配権をめぐる争いであると考えられるようになっている。そして、桶狭間に陣取っていた義元の本陣を信長の軍勢が攻撃し、義元は討死した。→のちの信長・家康の華々しい活躍もあって、この桶狭間によって…

【家康の城】駿府城 家康初となる石垣づくりの近世城郭!

…もと、本能寺の変後に織田家臣団の中で一気にトップに躍り出た羽柴秀吉と激突したのが「小牧・長久手の戦い」です。この戦いでは、犬山城を奪い取った秀吉方が南方へ押し出して三河付近まで攻め込みました(犬山城の戦い、岩崎城の戦い、長久手の戦いなど)。浜松城から岡崎城を経由して小牧山城に陣を張っていた家康はなんとか秀吉方を押さえることに成功しましたが、勝ちきるところまではいかず終戦となりました。その後、万が一、秀吉が襲来した場合を想定して守りを固めることが必要となったのです。さらには重臣…

【家康の城】浜松城 家康が大いに学ぶ機会となった城!

…田信長の死を受けて、織田家臣団の所領となっていた旧武田領を一気に平定して5か国領有するなど飛躍となるころでもありました。 五か国領有へ(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃) 先にも述べた通り、武田の滅亡により織田家臣団が武田領である甲斐・信濃を押さえるための作戦行動を行っている最中に、日本全土を揺るがす大事件「本能寺の変」が起こりました。織田家臣団は旧武田領から逃げるようにして自国へ引き上げていきましたが、その後に甲斐・信濃を取り込んでいったのが徳川家康です。三河・遠江・駿河に加え…

【家康の城】岡崎城 徳川家康の人生はここから始まった!

…康光が裏切り、尾張の織田家へと送られて2年間人質となります。その後、織田信広と竹千代との人質交換により駿府へ送られて今川の人質となりました。今川家のもとで元服して松平元康となった後、今川義元軍の先陣として桶狭間の戦いに出陣します。この戦いによって義元が打ち取られて今川が敗走すると、今川の手に渡っていた岡崎城に入城しました。さらには今川より独立していきます。その後は、今川義元を打ち取った敵であり、元康にとっても敵方となっていた織田信長と和睦して清洲同盟を結び、家康の手で三河を平…

室町幕府で三管四職をつとめた有力守護家はやっぱりすごかった

…昭元(あきもと))は織田家に仕えたものの豊臣秀吉により追放され滅びている。しかし和泉半国守護家の末裔である細川藤孝(ふじたか)が信長に仕え、その子の忠興(ただおき。細川一族のうち、奥州家と呼ばれる血筋に養子に入る)が豊臣・徳川と仕え、長く残ったのはあまりに有名。 斯波氏 ・斯波氏は応仁の乱の時に分裂。大きく分けて宗家・武衛家の本拠地である尾張と、越前の系統に分かれた。尾張は言わずもがな織田信長の本拠地でもある。信長が一時期本拠にしていた清洲城に斯波氏がいた。もともと家臣のさら…

【戦国軍師入門】黒田官兵衛――有能ゆえに疎まれた不遇の名軍師

…との縁ができるのは、織田家が勢力を拡大して中国地方への進出をうかがい始めた頃だ。この頃、中国地方には毛利家が一大勢力を築いており、多くの小大名たちが毛利につくか織田につくかの選択を強いられた。 そんな中、官兵衛は家中の意見をまとめると小寺家の代表として1575年(天正3年)に信長に接触し、播磨への進出にあたって先導役を務めたい、と申し出る。信長は官兵衛の才能を見抜くと大いに喜び、中国方面の指揮をとる秀吉に協力するように命じた。 以後、官兵衛は秀吉に力を貸すことになる。中国地方…

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

…岳の戦い」において旧織田家臣団で一番の実力者だった柴田勝家をやぶり、信長の後継者の地位を確実なものとする。また「小牧・長久手の戦い」では徳川家康相手に苦戦しつつも、その後に家康が旗印としていた織田信雄を懐柔して相手を押さえ込み、さらに朝廷に近づいて関自の座を得る。こうして着々と天下統一の道を進む豊臣秀吉は、ちょうどその頃土佐(現在の高知)の長宗我部元親がほぼ統一したばかりの四国に矛先を向けるのだった。 長宗我部家は以前から秀吉に敵対する動きが目立ち、この時も阿波・讚岐・伊予(…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城むなしく⑩――内部分裂で落ちた城・七尾城

…り追われ、この城には織田家臣の前田利家が入る。そして、時代の趨勢が泰平に移る中で、山城の例に漏れず廃城となってしまった。 能登畠山氏が滅んだ最大の理由は、当主の発言力が失われて老臣たちが実権を握るようになったことだ。しかも彼らは織田信長派と上杉謙信派に分かれており、中でも専横が目立っていた信長派の長氏(ちょう し)は、他の重臣たちから反感を持たれていた。このような状態の七尾城を狙って、1578年(天正4年)に上杉謙信が越後より侵攻してくる。最初は能登畠山氏との同盟を持ちかけて…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台①――女性が支えた城・末森城

…家が、本能寺の変後に織田家臣団同士が相争うようになると、越中の佐々成政の侵攻に備えるためにこの城を築いたとされる(それ以前、能登畠山氏の時代からあったとも)。1584年(天正12年)、いよいよ成政が来襲する。これに立ち向かうことになったのが末森城とその城主・奥村永福(おくむら ながとみ)である。末森城を落とされると加賀・能登間の連絡が断たれるため、永福らは決死の戦いを挑むことになった。 この戦いの中で、活躍した女性がいた。永福の夫人である。名前は判明していないが、「安」だとい…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ③――武将の気迫で持ちこたえた城・長光寺城

…た。 もともと勝家は織田家臣団の中でも武勇で知られた武将であり、「かかれ柴田」などという通称も持っていた。「かかれえ、かかれえ」と攻め立てるのが得意だったからこの名がついたらしく、まさに猛将と呼ぶのが相応しい。このままでは埒が明かない、と見たのだろう。六角氏側は長囲――それも、渇き攻めに出た。この城の水源を断ち、籠城側を水不足に追い込んだのである。どうも、長光寺城は城内に井戸がなく、城外から水路の類を利用して水を引き込んでいたようで、そこを押さえられてしまったらしい。 城とい…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城をめぐる戦いの様相⑥――落城したその後は?

…る。たとえば、秀吉が織田家臣時代の中国侵攻の際から、信長の後継者の座を得てからの紀州攻め、四国攻め、九州攻め、小田原攻めおよびそこから連続した奥州仕置において、それぞれ攻め落とした地域で「いくつかの城を除いての城割」を命じていることが史料に残っている。 残しておけば反乱に使われる可能性があったからだが、これは信長や秀吉がそれまでの戦国大名では考えられないほどに勢力を拡大し、城を再利用することで減少するコストよりも、城を乗っ取った敵をもう一度攻めるコストのほうが高くなる、と判断…

【10大戦国大名の実力】最後に――「家を守る」ために

…ほぼ制すことができた織田家は、東海地方から勢力を伸ばしたわけですが、尾張は津島・熱田といった商業都市をもち、近畿ともほどよく近い絶妙の位置にありました。そのうえ、周辺の強力な大名はそれぞれ牽制しあい、尾張を狙っていた今川家は桶狭間の戦いで打倒することができた――なるほど織田家が伸びるわけであり、その他の大名たちが天下に届かなかったわけでず。このような「地方の悲劇」「立ち位置がもたらす幸運」もまた、現代でもよく見られる光景でしょう。 なるほど『織田信長に学ぶ○○』とか『孫子の兵…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家③――九死に一生を得るものの

…。当初、長宗我部家と織田家の関係は良好であった。元親の妻の兄・斎藤利三が明智光秀の重臣であったことから、このルートを使って元親は信長に接近。信長に嫡男の烏帽子親を務めてもらい、さらに「信」の一字をもらって信親と命名するなど、深い関係を築いていた。 その一方で信長側の元親に対する評価はけっして高いものではなかったようだ。いわく、「鳥なき島の蝙蝠(こうもり)」――強い鳥がいないからこそ蝙蝠が威張っていられるのだという意味の「鳥なき里の蝙蝠」という言葉にひっかけて、長宗我部家自体の…

【10大戦国大名の実力】毛利家④――元就の死後

…る。 当初、毛利家と織田家の関係は緊張感をはらみつつも中立的なものであったようだ。実質的に元就一代で地方の覇者にまで急成長を遂げた毛利家には、まず地盤固めが必要であり、信長と喧嘩をしている暇などなかったのだ。しかし、織田家との緩衝地域になっていた但馬・播磨・備前の諸勢力が織田側に傾きつつあったこと、織田の支援によって尼子残党の活動が再び活発化したことが毛利氏の立場を抜き差しならないものにした。 当時の史料によると、毛利内部では最後まで信長との対決回避の方策やその場合の対応が考…

【10大戦国大名の実力】斎藤家②――父殺しの義龍

…、道三と隣国・尾張の織田家との関係に目を移そう。道三に追われた頼芸が尾張へ逃れたことからもわかるように、この両者の関係は友好的とは言えないものだった。そもそも、道三と織田信秀(信長の父)は同時期に驚異的な躍進を遂げたという意味では共通しているが、主君を倒した道三と、清洲・岩倉の織田本家筋やさらにその主君にあたる斯波氏とほとんど対立せず、下克上をしなかった信秀――という視点で見ると、対極にある人物ともいえる。 1544年(天文13年)、「土岐氏支援」の大義名分を掲げた信秀は、越…

【10大戦国大名の実力】織田家⑥――天下人の資質とセルフプロデュース

…る。裏切った大名は皆織田家の勢力拡大後に従ったものばかりで、信長は裏切った者たちをすべて倒し、状況を安定化させている。光秀(彼も外様である)のケースだけが例外だったわけだ。 これを実現させたのは、信長が持つ恐怖のイメージだったのではないだろうか。織田家臣は等しく信長を畏怖していた。それはそうだ、裏切ったら一族もろとも皆殺し、などと言い出しそうな主君に軽々しく背けるはずがない。 となると、信長のエキセントリックな振る舞いもある程度は計算ずくだったのかもしれない。若き日の信長は「…

【10大戦国大名の実力】織田家⑤――衰退する織田家

秀吉の織田家乗っ取り完成ヘ 秀吉と組んで信孝を倒した信雄も、あまり時をおかず秀吉が自身を傀儡としているだけに過ぎないことに気づく。そこで父信長の同盟者だった徳川家康と組み、小牧・長久手の戦いを起こすも、秀吉の勢力に圧倒されて講和の道を選び、秀吉の支配下となる。その後、秀吉による国替えに反対したことを理由に追放され、以後は頭を剃って「常真(じょうしん)」を名乗り各地を転々とした末、秀吉の相伴衆(しょうばんしゅう)となる。 ところで、一度は織田家当主となった幼児、三法師はどうなっ…

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